主日礼拝

新しい言葉

「新しい言葉」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第31章31-34節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第16章9-20節
・ 讃美歌: 297、145、402

マルコ福音書の結び
主日礼拝においてマルコによる福音書を読み進めてきましたが、い よいよ本日をもって終えることになりました。本日の16章9節以下 には、「結び一」という小見出しがつけられています。「一」がある からには「結び二」があるわけで、それは98頁の下の段に、節の数 字なしに、短い結びとして記されています。この「結び二」は、以前 の口語訳聖書にはなかったもので、新共同訳が出たことによって初め てこれを目にした人が多いでしょう。マルコによる福音書にはこのよ うに二種類の結びが伝えられているのです。そしてそのどちらも、括 弧の中に入れられています。口語訳でもそうでした。この括弧は、も ともとはなかったと思われる、という印です。つまりこれは後から書 き加えられた部分だろうと思われるのです。より古い写本にこの部分 がないものが多いからです。そしてこの9-20節とは違う結びを持 っている写本もある、それが「結び二」です。いずれの結びも、もと もとはなかったもので、後からつけ加えられたらしいのです。どうし てそのように「結び」がつけ加えられたのでしょうか。それは、先週 読んだ所の最後の8節をもってマルコ福音書が閉じられたのでは、何 とも尻切れとんぼだからです。16章1-8節には、主イエスの十字 架の死から三日目の日曜日の朝、三人の女性たちが墓に行ってみる と、墓は空になっており、そこにいた天使が「あの方は復活なさ って、ここにはおられない」と告げたことが語られています。その最 後の8節は「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失 っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからで ある」となっています。これでこの福音書が終りではいかにもおかし い。他の福音書や使徒言行録には、復活なさった主イエスが弟子たち にご自身を現されたことが語られています。マルコ福音書にもそうい う続きがあったのだが何らかの事情でそれが失われてしまったとか、 あるいは著者が何かの事情でここから先を書けなくなってしまったの だろう、などと想像されています。とにかく、8節で突然終わってい るマルコ福音書に、後の人が、と言っても何百年も後ではなくておそ らく紀元百年ごろだと思われますが、復活した主イエスがご自身を現 された話を他の福音書からいくつか持って来て、このような結びを書 き加えたのだと思われるのです。ですからこの部分は、この福音書の 本来の著者の手によるものではありません。しかしだからといってこ の結びに価値がないということはありません。主イエスの復活を信じ るとはどういうことであるのかについての大事なことがここにも語ら れています。それを読み取っていきたいと思います。

寄せ集めによる結び
9節には、復活なさった主イエスが先ずマグダラのマリアにご 自身を現されたことが語られています。そのことはヨハネによる 福音書に語られています。そのマグダラのマリアが、以前主イエス に七つの悪霊を追い出していただいた婦人であることがここに 紹介されていますが、それはルカによる福音書の8章2節から取 られたものと思われます。また12節には、二人の人が田舎の方 へ歩いて行く途中に、主イエスが「別の姿」で御自身を現さ れたことが語られています。これはルカ福音書24章13節以下 の、いわゆる「エマオ途上」の話のことだと思われます。「別の 姿で」というのは、あの話で、主イエスが近づいて来て共に歩 き、語り合いさえしたのに、二人の人たちはそれが主イエスであ ると気づかなかったことを言っているのでしょう。また14節以 下の、十一人の弟子たちが食事をしているところに主イエスが 現れたという話も、ルカ福音書とヨハネ福音書が語っています。 このように、いくつかの福音書の記事を寄せ集めてこの部分は 成り立っているのです。

信じない人々
しかしこれらの記事はただ寄せ集めて並べられているのでは ありません。それらを貫いているキーワード、何度も繰り返し出 て来る言葉があります。それは「信じなかった」あるいは「不信 仰」という言葉です。マグダラのマリアが、復活した主イエスと の出会いを「イエスと一緒にいた人々」に知らせたと10節に ありますが、11節には「しかし彼らは、イエスが生きておられ ること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じ なかった」とあります。また、田舎の方へ歩いて行った人たち も、主イエスに出会ったことを残りの人たちに知らせたが、「彼 らは二人の言うことも信じなかった」と13節にあります。こ の13節までのところには、復活なさった主イエスと出会った人 々の言葉を受け入れず、信じない人々の姿が描かれているの です。そしてそれは、マルコの筆による最後の文章である8節を 受けてのことであるように思われます。8節には、天使から主イ エスの復活を告げられ、主はあなたがたより先にガリラヤへ行 かれる、そこで会うことができると弟子たちとペトロとに伝えな さいと言われたマグダラのマリアたちが、震え上がり、正気を失 っていて、恐ろしさの余り誰にも何も言わなかった、と語られ ています。彼女たちは、主イエスの墓が空であることを見て、天 使から主イエスの復活を告げられたけれども、それを喜ばしい 知らせとして受け止めることができずに、むしろ恐れて震え上 がったのです。ここにも、主イエスの復活の知らせを聞いても信 じない不信仰が語られています。「結び一」はこの8節としっかり つながっているのです。

主イエスは生きておられる
弟子たちが主イエスの復活を信じなかったことを11節は、 「イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見た ことを聞いても、信じなかった」と言い表しています。ここに、 主イエスの復活を信じるとはどのようなことなのかが示されてい ます。それは「イエスが生きておられる」と信じることです。主 イエスの復活を信じるとは、およそ二千年前にイエスという人 が十字架につけられて死んだけれども三日目に復活した、とい う奇跡が起ったことを信じることではありません。聖書が私た ちに語っているのは、主イエスは生きておられる、ということなの です。主イエスは今も生きて、私たちに語りかけ、働きかけてお られる、そのことを聖書は語っており、私たちはそれを信じるか、 と問われているのです。

悲しみの中で心を閉ざす
彼らが「イエスは生きておられる」という知らせを信じなか ったのは何故でしょうか。死んだ者が復活するなどということは 科学的にあり得ないと思ったのでしょうか。現代の私たちなら そう思うかもしれませんが、当時の人々にはそんな感覚はありま せん。彼らが復活を信じることを妨げていたのは、科学的知識で はないのです。では何故信じなかったのか。10節には「イエスと 一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ」マグダラのマリ アが行って、主イエスの復活を伝えたとあります。彼らは主イエ スの十字架の死を泣き悲しんでいたのです。彼らは「イエスと一 緒にいた人々」、つまり弟子たちを中心として、ガリラヤから主イ エスに従ってきた人々です。その彼らが主イエスの逮捕と十 字架の死を嘆き悲しんでいるのは当然です。しかし彼らは、た だ主イエスの身に起ったことを悲しんでいたのではなかったでし ょう。彼らはむしろ自分たちのことを嘆き悲しんで泣いていた のではないでしょうか。彼らは、主イエスこそ預言されていた救 い主であり、自分たちの苦しみ悲しみを取り除き、イスラエル に神の民としての栄光を回復して下さる方であると信じて従 って来たのです。そのように信じていた主イエスがなすすべもな く捕えられ、あえなく処刑されてしまったことによって、彼らのこ れまでの歩み、主イエスを信じて従って来た信仰は無に帰し てしまいました。自分たちの歩みは無駄だった。無駄どころか、 自分たちも捕えられ殺されてしまうのではないかという恐怖の中 で、前途に何の希望も見えず、これからどうしたらよいのか皆目 見当がつかないでいる。そういう自分たちの惨めな姿を彼らは 泣き悲しんでいたのです。その悲しみ、絶望によって彼らの心は、 喜びの知らせに対して閉ざされてしまっていたのです。
彼らのこの悲しみと絶望は、主イエスに従ってきたからこそ 生じたものです。故郷のガリラヤで普通に生活していればこんな ことにはならなかったのに、イエスの弟子となり、従ってきたばっか りにこんな苦しみに陥った、彼らはそのように自分の運命を呪 っていたのかもしれません。つまり彼らの苦しみ悲しみは、主 イエスに従う信仰のゆえの苦しみ悲しみなのです。その苦しみ 悲しみの中で彼らの心は閉ざされ、「主イエスは生きておられ る。復活なさった」という救いを告げる言葉を受け止めること ができなくなっているのです。そういうことは私たちにもしばしば 起ります。私たちも、苦しみ悲しみに捕えられている時に、ま してそれが信仰のゆえの苦しみ悲しみである時に、神の言葉に よる慰めや支えに対して心を閉ざしてしまうことがあります。 「主イエスは生きておられる」と信じることを妨げているのは、 科学的知識よりも、苦しみの中で、神の恵みのみ言葉に対して 閉ざされてしまう私たちの心なのです。

不信仰とかたくなな心をとがめる主イエス
そのように心の扉が重く閉ざされてしまっている十一人の弟 子たちのところに、主イエスが現れて下さったことを14節が 語っています。復活なさった主イエスが彼らの前に立ち、「その 不信仰とかたくなな心をおとがめになった」のです。弟子たちは主 イエスからとがめられました。それは当然のことだと言えます。彼 らは主イエスが捕えられた時に、その場から逃げ去ってしま いました。そして主イエスが裁かれ、死刑の判決を受けて十字 架につけられていく間、共にいてその苦しみを慰め支えるよう なことを全くしませんでした。主イエスの遺体の埋葬に手を貸 すこともしなかったのです。それらのことは、復活なさった主イエ スからとがめられても仕方のないことです。しかし、主イエスが彼 らをおとがめになったのはそのことではありませんでした。「私のあ の苦しみの時、お前たちは何をしていたのか」とおっしゃったの ではなくて、主イエスがとがめたのは、彼らの「不信仰とかたくな な心」であり、それは「復活されたイエスを見た人々の言うこと を、信じなかったからである」と語られています。復活した主イ エスと出会った人々の「主イエスは生きておられる」という証言 を信じなったこと、苦しみと絶望の中で、喜びと救いを告げる 言葉に心を閉ざしてしまったことを、主はとがめておられるのです。 つまり主イエスがとがめておられるのは、彼らの犯した罪ではあ りません。そうではなくて、彼らが悲しみと絶望の中で、主イエ スによる救いを、そこに与えられる慰めと希望を受け入れず 心を閉ざしていることを主イエスはとがめ、彼らのかたくなな心 の扉を鋭くたたいて開かせようとしておられるのです。復活して 生きておられる主イエスが今私たちに対してしておれるのもまさ にこのことです。私たちも「不信仰とかたくなな心」によって、救 いを告げるみ言葉を拒み、自分の悲しみと絶望の内に閉じこ もってしまう者です。復活して生きておられる主イエスは、その 私たちに語りかけ、私たちのかたくなさをとがめることによって、 私たちの心の扉を打ちたたいておられるのです。

福音を宣べ伝える中でこそ
彼らのかたくなさをとがめた主イエスはそれに続いて大きな使 命を彼らにお与えになりました。「全世界に行って、すべての造 られたものに福音を宣べ伝えなさい」。不信仰とかたくなな心に よって主イエスの復活を信じなかった弟子たちに、このように 大きな使命が与えられたのです。それは私たちに与えられてい る使命でもあります。主イエス・キリストによる救いにあずかり、 キリストの体である教会に召し集められた私たちは、キリスト による救いの知らせ、福音を宣べ伝える使命を与えられて、こ の世へと遣わされているのです。この使命は弟子たちにとって、 また私たちにとっても、重過ぎる、とても担うことができない重 大な使命であると感じられます。主イエスの復活による救いの 恵みをなかなか受け入れることができない不信仰でかたくなな心 によって、悲しみや絶望の内に閉じこもってしまう自分が、どう して全世界に福音を宣べ伝えることなどできるだろうか、と思 うのです。弟子たちもきっとそう思ったでしょう。しかし、主イエ スがここで、彼らの不信仰とかたくなな心をとがめると共に、直 ちにこの使命をお与えになったことには大きな意味があるのだと 思います。それは、彼ら弟子たちも、そして私たちも、この使 命を与えられ、それを果していくことの中でこそ、主イエスが生 きて働いておられること、つまり主イエスが復活なさったことを、 本当に分かっていくのだということです。不信仰でかたくなな私 たちの心は、福音を宣べ伝えるという使命を果していくことの 中でこそ打ち砕かれていくのです。
「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさ い」と言われています。全ての人に、ではなくて、全ての造られたも のに、と主が言われたのは何故でしょうか。それは、人間にだけでな く動物や植物、自然界の全てのものに向かって福音を語れということ ではなくて、人間は勿論この世界の全てのものは主なる神によって造 られ、支配されている被造物なのだということを私たちに弁えさせる ためでしょう。そのことによって主は、この世界に起る全てのこと が、私たちにはなかなかそうは見えなかったり、分からなかったりす るけれども、実は主なる神のご支配の下にあるのだ、ということを弁 えさせようとしておられるのです。そしてそのことは、私たちが主イ エス・キリストによる神の救いの恵み、即ち福音を宣べ伝えていくこ との中でこそはっきりと見えて来るし、分かっていくのです。17、 18節に語られているのはそういうことです。「信じる者には次のよ うなしるしが伴う」と言われており、「彼らはわたしの名によって悪 霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲ん でも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」とあります。これら のことは、使徒として遣わされた弟子たちがこの後行なっていった数 々の働きの予告です。使徒言行録にそれらの働きが記されています。 弟子たちは、主イエスによって遣わされて福音を宣べ伝えていく中 で、これらのことを体験していったのです。それは彼ら自身の能力や 資質によることではありません。20節にこうあります。「一方、弟 子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働 き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによって はっきりとお示しになった」。彼らがしていった数々の働きは、天に 昇り、父なる神の右の座に着かれた主イエスが、彼らと共に働いて、 彼らの言葉に伴わせて下さったしるしだったのです。つまり主イエス ご自身が、ご自分が本当に復活して生きて働いておられ、共にいて下 さることを示して下さり、この世界の全てが、主イエスの父である神 によって造られ、そのみ手によって支配されていることを示して下さ ったのです。弟子たちは、福音を宣べ伝えるという使命を果していく 中で、このことを体験させられていったのです。

主が示して下さるしるし
私たちも、弟子たちと同じように、主イエスによる救いの恵み にあずかり、その福音を宣べ伝え、伝道する群れとしてこの世 に遣わされています。私たちがその使命を果して伝道していく ことの中で、主イエスが共に働いて下さり、ご自分が生きて おられることを見せて下さるのです。そのしるしとして主が私 たちに示して下さることは、弟子たちの時代のものとは違うも のでしょう。ここに語られているような直接的な奇跡は、今日で は超能力やオカルトの世界のこととしか受け取られません。今 私たちと共に働いて下さる主イエスは、これらとは別の仕方で、 主イエスが生きておられ、主イエスによる救いを告げる私たち の言葉が真実であることを示すしるしを行って下さるのです。 私たちのつたない伝道、まことに貧しい言葉や行いを通して、一 人の人が主イエス・キリストと出会い、主イエスを信じる信仰 を与えられ、洗礼を受けてキリストの体である教会の枝とされ ていく、そのこと自体が大きな奇跡です。主イエスの父である神 がこの世界を造り、支配しておられることが、そこにこそ示され ているのです。

信じて洗礼を受ける者は救われる
主イエスは16節で「信じて洗礼を受ける者は救われるが、 信じない者は滅びの宣告を受ける」とおっしゃっています。こ れを、後の教会が付け加えた言葉として無視してしまってはな りません。主イエスはマタイによる福音書の最後の所でも、「あ なたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼ら に父と子と聖霊の名によって洗礼を授け」なさいとお命じに なりました。主イエスの十字架の死と復活とによって私たちの 罪が赦され、永遠の命が与えられる、その救いにあずかること の印として、主イエスご自身によって洗礼が定められたのです。 主イエス・キリストによる救いを信じてそれにあずかり、キリス トが頭である教会に連なる者とされることの目に見えるしるし として洗礼が与えられているのであって、洗礼を受けた者が救 われるのです。それは洗礼という儀式に魔術的な力があるとい うことではありません。主イエスによる救いを信じ、主イエスを 自らの主として従っていく者は、その救いが神によって与え られていることのしるしとしての洗礼にあずかるのです。16節の 後半には「信じない者は滅びの宣告を受ける」とあります。こ れを読むとドキッとするかもしれませんが、しかしこれは「信じて 洗礼を受ける者は救われる」の裏返しに過ぎません。主イエス ・キリストの十字架と復活による救いはそれを信じる者にこそ 与えられるのであって、それを信じない、つまりそれを救いと思 わず、求めない者がそれにあずからないのは当然なのです。

新しい言葉を語る
ただ私たちはこの言葉を、よく正月の初詣の人ごみの中で、 「死後、裁きにあう」などと書かれたプラカードを持って立って いる人たちの言葉と混同しないようにしなければなりません。彼 らは、人を脅かして、怖がらせて信じさせようとしています。し かし主イエスに遣わされて福音を宣べ伝えていった人々は、 そのような伝道はしませんでした。彼らは、17節の終りにあるよ うに「新しい言葉」を語っていったのです。それは、主イエスに よって新しくされた者の言葉です。自分たちが不信仰とかたく なな心によって福音に心を閉ざしていたのに、復活なさった主 イエスが心の扉をたたいて下さったことによって、今も生きて 働いておられる主イエスを信じ、主イエスと共に生きる者と なることができた、その恵みによって生かされている者が語る 言葉です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるエレミヤ書 第31章31節以下には、主なる神がイスラエルの民との間に「新 しい契約」を結んで下さることが語られています。それは34節 後半にあるように「わたしは彼らの悪を赦し、再び彼らの罪に 心を留めることはない」という、罪の赦しの契約です。その新 しい契約が、主イエス・キリストの十字架と復活によって実現 したのです。この、主イエスによる新しい契約に即した新しい言 葉を語ることによって、彼らは福音を宣べ伝えていったのです。 私たちも、この新しい言葉によってキリストの福音を、つまり 主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかか って死んで下さったことによって、神が私たちの罪を赦し、主 イエスの復活の命にあずからせて神の子として新しく生かして 下さるという救いの恵みを宣べ伝えていくのです。そこに、主 イエスが共に働いて下さり、この福音が真実であることを、様 々なしるしによって示していって下さいます。そのようにして、 信じて洗礼を受け、救われる人々が興されていくのだというこ とを、マルコ福音書のこの結びは語っているのです。だとすると 私たちは今、私たちの歩みにおいて、私たちの語る新しい言葉に よって、マルコ福音書にこの結びを加えた教会の人に続いて、 この福音書の結びを書き続けているのです。

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