夕礼拝

王を求める民

「王を求める民」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:サムエル記上 第8章1-22節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第21章1-11節
・ 讃美歌:157、358

王国への転換期
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書サムエル記上からみ言葉に聞いています。毎回お話ししていることですが、サムエル記は、イスラエルの歴史における一つの大きな転換期を描いています。それは、緩やかな部族連合体から、一人の王をいただく中央集権的な王国へという転換期です。その大きな転換が、サムエルという人の下で起ったのです。サムエルは、それ以前の時代の「士師」と呼ばれる指導者たちの最後に位置する人、最後の士師です。サムエル以後には士師は立てられませんでした。それはイスラエルが王国になったからです。士師たちが担っていた役割を王が代って担うようになったのです。本日ご一緒に読む第8章は、士師の時代から王国への転換がどのようにして起ったのか、そのことの持つ意味は何なのか、ということが語られている、サムエル記の中でも大事な箇所なのです。
 イスラエルにどのようにして王が生まれたのでしょうか。普通は、ある人がその国において次第に勢力を強めていき、他の者たちに打ち勝って国全体を従えるようになって王となるのでしょう。戦国時代の群雄割拠の中から、最終的に徳川家康が勝利して江戸幕府を開いたのも、もっと古くは大和朝廷の成立もそのように説明されます。しかしイスラエルが王国となった事情はそれとは全く違っていました。誰かが勝利して王になったのではなくて、人々がサムエルに王を立ててくれるように求めたのです。自分たちを治めてくれる王が欲しいという民の求めによって王が立てられたのです。

王を求める民
 人々は何故王を求めたのでしょうか。それは国の安定のためです。それまでのイスラエルでは、国が危機に陥るとその都度神が士師を遣わして下さり、その人が、軍勢を率いてかあるいは一人で敵と戦って国を救ったのです。しかし士師はいつもいるわけではありません。ある士師が死んだら、次の士師がいつ立てられるのかは誰にも分かりません。しかしこの時代のイスラエルは、ペリシテ人の脅威に常にさらされていました。いつ攻め込まれるか分からないという不安が人々の中にあったのです。ですから、国を一つにまとめていて、敵が攻めて来たらすぐに軍勢を率いて国を守ってくれる王がいてくれたら、という思いが大きくなっていたのです。士師サムエルが元気なうちはそういうことを言い出す者はいませんでしたが、8章1節にあるようにサムエルが次第に年老いて弱っていくと、そういう声が表面化してきたのです。それには、サムエルの息子たちの問題も絡んでいました。サムエルは息子たちを、自分の後を継いでイスラエルのために裁きを行う者として任命しましたが、この息子たちは「不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げた」と3節にあります。サムエルは、信仰においても力量においても卓越した士師でしたが、息子たちはその後を継げる者ではなかったのです。人々が、これからこの国はどうなってしまうのか、と不安に思ったのも当然です。

世襲によってではなく
 ところでこのサムエルの息子たちのことを読むと私たちは、あのサムエルでさえ子育てには失敗したのかと思って、ある意味ほっとしたりします。確かにそういうことなのですが、聖書がここで語ろうとしているのは、イスラエルを治める士師の働きは、世襲によって受け継がれるものではない、ということでしょう。同じことは士師記に出てきたギデオンについても語られていました。偉大な士師だったギデオンの息子アビメレクは、自らの悪事のゆえに悲劇的な最後を遂げました。また、サムエルが幼い時に預けられ、育てられたシロの聖所の祭司エリもそうでした。エリはサムエルが主なる神と出会うことの手引きをしてくれた人でしたが、その息子たちは祭司の地位を利用して私腹を肥やしていたために神の怒りによって滅びました。このように士師にしても祭司にしても、その地位を子どもに受け継がせようとするとうまく行かずに堕落が起ったのです。それは子育ての失敗と言うよりも、神の民イスラエルを指導し治めるこれらの務めは、神ご自身がお立てになり、お遣わしになった人にしか務まらない、ということです。士師の働きは世襲によっては受け継がれ得ないのです。

国の安定を求めて
 しかしまさにそこに、この体制の不安定さの要因もありました。人々はそこに不安を感じたのです。サムエルは年をとり、息子たちはあのていたらくだ。今後誰が我々を治め、守ってくれるのか。多くの民がそういう不安を抱いていたために、民の長老たち全員がサムエルのところに来て言ったのです。5節です。「あなたは既に年を取られ、息子たちはあなたの道を歩んでいません。今こそ、ほかのすべての国々のように、我々のために裁きを行う王を立ててください」。「ほかのすべての国々のように」という言葉が重要です。同じことを20節で民も言っています。「我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです」。イスラエルの周囲の国々は皆、王が支配する王国です。王が民を裁き、軍隊を率いて戦い、国を守っているのです。そしてその王の地位は世襲によって継承されています。次に誰が王になるか分からない、ということはないのです。そういう外国のあり方を見たイスラエルの人々は、「うらやましい。あれなら国が安定する。先が見えるし、急な事態にも対応できる。今の我々の国のあり方では、外敵に攻められた時の安全保障が不十分だ。我々も、自分の国をちゃんと守れる『普通の国』にならなければ」と思ったのです。

思いがけない答え
 王を立てることを求める長老たちの言葉をサムエルはどう聞いたのでしょうか。6節に「裁きを行う王を与えよとの彼らの言い分は、サムエルの目には悪と映った。そこでサムエルは主に祈った」とあります。サムエルは長老たちの願いを悪だと思ったのです。それで主なる神に、「長老たちがこんなことを言っています。けしからんと思いませんか」と祈ったのです。この祈りに対して主から返って来た答えは、彼には思いがけないものでした。主は7-9節でこうおっしゃったのです。「民があなたに言うままに、彼らの声に従うがよい。彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼等のすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった。あなたに対しても同じことをしているのだ。今は彼らの声に従いなさい。ただし、彼らにはっきり警告し、彼らの上に君臨する王の権能を教えておきなさい」。この主のお言葉から、サムエルが長老たちの言葉の何を悪と思ったのかが分かります。彼は、息子たちが自分の跡継ぎになって裁きを行うことに長老たちが反対したので腹を立てたのではありません。指導者が不正なことをして私腹を肥やすなら、神がお怒りになってその者を取り除かれるということを、サムエルは師匠だったエリとその息子たちのことを見てよく知っているのです。だから彼は息子たちを跡継ぎとして指名しつつも、彼らが士師となることは不可能であることは分かっていたと思います。長老たちの言葉が彼の目に悪と映ったのは、息子たちのことではなくて彼自身のことです。自分は、主なる神によってイスラエルの民を裁き、治める士師として立てられ、その務めをこれまで果たしてきた、王を立てることを求めている長老たちはその自分を退けようとしている、それは主なる神のみ心に逆らうけしからんことだ、と彼は感じたのです。

王である主を拒む
 しかし主なる神はこのお言葉によって、民が王を求めていることの本当の意味は何なのかを教えておられます。それは「彼らが退けたのはあなたではない。彼らの上にわたしが王として君臨することを退けているのだ」ということです。サムエルは、神がお立てになった士師である自分が退けられていることを感じて、それはみ心に逆らうことだと思っていましたが、主なる神は今起っていることの意味をもっと深く見つめておられるのです。これまでは、主なる神がその都度士師を遣わしてイスラエルの民を敵から救い出し、民を治めてこられました。それは、主なる神ご自身がイスラエルの王であられることを意味していたのです。士師たちは、王である主が任命する、ある時は将軍でありある時は裁判官でした。イスラエルはこれまで、主が王である国として歩んで来たのです。イスラエルの体制が周囲の国々と違っていたのは、それらの国々が人間の王をいただき、人間の王に支配されているのに対して、イスラエルは主なる神が王であられ、主なる神が支配する国だったということなのです。そのイスラエルを他の国々と同じように王国にしようとするのは、それまで王であられた主から王位を奪って、それを人間の王に与えようとすることなのです。

目に見える拠り所を求める
 イスラエルの人々が王を求めたのは、先程申しましたように国の安定を願ってのことでした。王の下に統一されることによって国がまとまり、危機に対して迅速に対応できるようになるし、世代が代っても動揺しない体制が整う、それによって安全が保障されると思ったのです。それはある意味で尤もな求めだと私たちは思います。しかしそのように安定、安心を求めることの中で、まことの王であられる主なる神を見失い、退けてしまうということが起るのです。士師の時代には主なる神が王であられました。しかし主なる神は目に見えません。見えるのは神がその都度遣わされる士師たちだけです。それを心もとないこと、安心できないことと感じ、目に見える指導者、王を求めていく。それは主なる神が王として民を守り、導いて下さっていることに信頼することができない、ということです。王を求めることは、主なる神よりも目に見える人間の王の方が信頼できると感じるという不信仰の現れなのです。それは今に始まったことではない、と8節で主は言っておられます。「彼らをエジプトから導き上った日から今日に至るまで、彼等のすることといえば、わたしを捨てて他の神々に仕えることだった」。イスラエルの民はこれまでにも繰り返し、主なる神を捨てて他の神々に仕えようとしてきました。目に見えない主を捨てて、目に見える偶像の神々、人間の願うご利益を与えてくれる神々に心引かれていったのです。人間の王を求める思いもそれと同じです。目に見えない神は頼りにならないと感じ、目に見える、もっと確かな拠り所を求めようとする思いがそれをもたらしているのです。

まことの信仰とは
 ここから私たちは、主なる神を信じるまことの信仰とはどのようなものかを教えられます。それは主なる神を王としていただき、主の守り導きに信頼して生きることです。しかし主なる神は目に見えません。それゆえに信仰をもって生きることには常にある不確かさ、心もとなさ、不安が伴うのです。その不安の中で私たちも、目に見える拠り所を求めたくなります。しかしそれは主なる神を信頼せず、主以外の王を求めることです。目に見えない神の下で生きることの不確かさ、不安の中に踏み留まって、そこで神に信頼し続けることこそがまことの信仰なのです。

人間の王の支配とは
 イスラエルの民はこのまことの信仰に立ち続けることができずに、人間の王を求めました。それはまさに不信仰による求めでしたが、主は彼らのその求めを退けるのではなくて、彼らの声に従いなさい、とサムエルにおっしゃったのです。ただしその前に、人間の王とはどのようなもので、その王に治められることによってどういうことが起るのかを人々にはっきり言って聞かせるようにと主はおっしゃいました。それが10節以下です。そこにいろいろと語られていることは、一言で言えば17節後半の「こうして、あなたたちは王の奴隷となる」ということに尽きます。人間の王の下での中央集権的な体制は、確かに外敵から国を守るには有効かもしれません。しかしそのような強力な権力の下で、民の命は将棋の駒のように軽んじられ、あるいは家畜のようにこき使われていくのです。軍隊を維持するためには徴兵が行われ、働き盛りの若者たちが兵隊に取られます。また王国を維持するためにかかるお金は民から税金や年貢として取り立てられます。そのようにして民は王の奴隷となっていくのです。自分たちのために立てたはずの王に、自分たちがこき使われて苦しむことになるのです。人間の王の支配とは常にそういうものです。主なる神のご支配と、人間の王の支配とではまさに天と地ほどの違いがあるのです。そのことを前もって民にしっかり警告しておくように、と主はサムエルにおっしゃったのです。
 しかし民はそれを聞いてもなお、人間の王を求めました。19、20節です。「民はサムエルの声に聞き従おうとせず、言い張った。『いいえ。我々にはどうしても王が必要なのです。我々もまた、他のすべての国民と同じようになり、王が裁きを行い、王が陣頭に立って進み、我々の戦いをたたかうのです』」。このように民が言い張ったその求めを主が聞き入れて下さって、イスラエルに王が立てられることになりました。18節のサムエルの言葉は、「そんなに言うならその通りにしてやるが、それによって起る結果は自分たちの責任として負いなさい」ということです。イスラエルはこうして王国となっていったのです。

イスラエルにおける王の意味
 サムエル記上第8章のこの話は、イスラエルにおいて王がどのような意味を持っているのかを語っています。第一に言えることは、王は民の不信仰の産物だということです。イスラエルの本当の王は主なる神なのに、民が目に見えない神に信頼せず、目に見える王を求めた、その不信仰によって王は立てられたのです。しかしこの話はもう一つのことをも示し語っています。それは、イスラエルの王は民の不信仰の罪から生まれたものだが、同時にそれは主なる神がサムエルに命じて立てさせたものでもある、ということです。イスラエルの王は、敵対する人々に勝利して王を名乗ったのではありません。民が勝手に誰かを王として立てたのでもありません。民は、自分たちを治める王を立ててくれるように、神がお立てになった士師であるサムエルに、ということは主なる神に願い求めたのです。その民の願いに応えて主が、次の9章以下でサウルをイスラエルの最初の王としてお立てになったのです。つまりイスラエルの王は主なる神によって立てられたものだ、ということをもこの話は語っているのです。この後サムエル記は、サウル王の、そしてサウルに代ってこれも主が選び、お立てになったダビデ王の下で、イスラエルが王国としての体制を整え、発展し、黄金時代を迎えることを描いていきます。王を求めた罪のゆえにイスラエルは神の怒りと呪いの下に置かれた、というわけではありません。そして主はこの後サムエル記下の第7章で、ダビデ王との間に契約を結んで下さいます。ダビデの家を堅く立て、その王国を揺るぎないものとする、神の民イスラエルは、ダビデ王とその子孫によって治められることによって揺るぎないものとなる、という契約です。つまりイスラエルが王国となり、ダビデが王として立てられることによって、神の救いの歴史は新しく進展していったのです。救いの歴史の新たな展開の最初の一歩がこの第8章です。主なる神が王であられることに満足せず、人間の王を求めた民の罪、不信仰を、主はこのように用いて、救いの歴史の新しい局面を開いて下さったのです。

まことの王、主イエス・キリスト
 この新しい展開は、新約聖書の語る主イエス・キリストによる救いへと繋がっていきます。後の預言者たちは、イスラエルの最も偉大な王であるダビデの子孫として救い主がお生まれになる、という神の言葉を語りました。それは、救い主は神の民イスラエルのまことの王としてお生まれになる、ということです。この預言が、主イエス・キリストにおいて成就したのです。主がダビデ王との間に結んで下さった契約は、ダビデの子であり、神の民イスラエルのまことの王であられる主イエスによって実現したのです。民の不信仰な願いを受け入れて主がサムエルに命じてイスラエルに王をお立てになった、そのことは、主イエス・キリストというまことの王であり救い主である方が立てられることへの備えとなったのです。
 本日共に読んだ新約聖書の箇所、マタイによる福音書第21章1節以下は、主イエスがそのご生涯の最後にエルサレムに入られた時のことを語っています。主イエスはろばの子の背に乗ってエルサレムに入られました。それは旧約聖書の預言の成就だとマタイは語っています。その預言とは、5節の「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」という預言です。主イエスはイスラエルの王として、ダビデ王の都であるエルサレムに入城したのです。そのご支配は、人間の王のように、民を自分の奴隷にするような支配ではありません。このまことの王は柔和な方であり、そのご支配は、ご自身が民の罪を背負って十字架にかかって死んで下さることによる恵みのご支配です。主イエスの十字架の死と復活による神の恵みのご支配の下に、まことの神の王国は築かれていくのです。
 目に見えない神が王であられることの不確かさに耐えられずに、目に見える王を求めた罪深いイスラエルに、主なる神は王を与えて下さいました。それは、後に独り子主イエス・キリストをまことの王として送って下さるための準備でした。今やこの主イエスのもとに私たちは集められ、神の恵みによって治められ、導かれ、守られる神の王国の国民とされています。私たちも、まことの王である主イエス・キリストをこの目で見ることは世の終わりの再臨の時までできませんが、そのことによる不確かさや心もとなさの中に敢えて止まって、主イエスの十字架の死と復活によって与えられている罪の赦しと復活の希望に信頼を置いて歩みたいのです。それによってこそ私たちは、人を奴隷にしていく人間の支配から解放されて、本当に自由な者として生きることができるのです。

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