夕礼拝

神か富か

「神か富か」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:申命記 第6章10-13節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章24節
・ 讃美歌: 17、522

 「だれも、二人の主人に仕えることはできない。」わたしたちの主人はだれでしょうか。わたしたちは、たいてい、自分が自分の主人でありたいと思っています。わたしたちは独立するということが、人として大切なことだと考えています。自立して生きることが、人生にとってとても大事なことだとして生きています。わたしたちは、誰にも支配されないで生き、自主独立して生きることが大切であると思ってはいないでしょうか。
 大人になって、自分で働いて、お金を得て、親の経済的な援助をもらわないようになったら、自分で自立して、自分が一人前になったかのような、気になっています。しかしそのように独立しているはずなのに、自分の力で生活しているのに、自分の心は、いつでも動揺し、不安があり、疲れている。自分が今、仕事を失えば、生きていけないのではないか。一度仕事を失って、キャリアにブランクができれば、社会から、使えない者として思われるのはないか。社会から他人から評価されなくなれば、自分の立場も危うくなるのではないか。社会や他者から不必要という判子を押されれば、自分はもはや生きていけないのではないか。わたしたちはそのように、社会の目、他人の目に簡単に揺れ動かされます。自分の将来を見つめると不安になるので、今の自分の生活を良くするために、維持するために、必死に働く。このような自分は、本当の意味で、自由でしょうか。本当の意味で、独立しているでしょうか。「ありのままの自分で生きることが」あんなに世で受けているのは、世に生きるわたしたちが、自分の思うままに、誰にも影響されないで生きることなどできないからではないでしょうか。その点を考えると、わたしたちは自分を、自分の力で完璧独立させてあげることのできないものであるということがわかります。言葉を換えれば、自分が自分を支配している一番良き主人であると思っていても、その主人である自分は、他人の意見や社会の目などを気にし、経済的な事柄についても完璧には保証することのできない、頼りのない主人であるといえるでしょう。そのようにわたしたちは、自分の力では自立できないとわかったとき、わたしたちを自立させてくれる本当の主人を、探しはじめます。
 イエス様は今日、そのようなわたしたちに、二人の主人を提示されています。それは、父なる神様と富です。マタイによる福音書6章24節で使われている「仕える」という言葉は、召し使いがその主人に仕える時に使われる言葉です。イエス様の生きた時代には、奴隷がおりました。奴隷は、自分の意志で主人を選ぶというよりは、買われて、買ったその人が自動的に主人になるということです。わたしたちは主人を探しているといいましたが、普通は、僕のほうから主人を選ぶことはありませんから、わたしたちも、神様か富にあえて今から主人になっていただくということではありません。
 イエス様が24節で神様と富とに仕えることはできないとおっしゃられているということは、既にその二人が主人であるということを示しています。確かに、神様は、イエス様の命を犠牲にされて、わたしたちを罪の奴隷状態であるわたしたちを、罪から買い取り、ご自分のものとしてくださった。そして、神様がわたしたちの主人となってくださったということが、聖書に書かれています。わたしたちが、神様を選んだのではなく、神様がわたしたちを選んでくださりました。神様は「わたしたちの主人となる」ことを決心してくださって、そのようにしてくださったのです。一方、富はどうでしょうか。富が罪の奴隷状態から解放してくれたということは、聖書には書かれていません。しかし、富はある程度の解放してくれる存在であることは確かです。ある程度の富があれば、経済的な不安から解き放たれて、自由に生きることができるとわたしたちは考えます。莫大な富があれば、働くということから解放される。そして、そうであるならば、自分の好きなことを、ありのままにすることができるとわたしたちは考えています。富が自分を苦しみから解放してくれるものだとして、その富に頼りきった時富はわたしたちの主人となっています。富がわたしたちを選ぶということはありません。富は人格的な存在ではないからです。話もしませんし、情もありませんし、愛もありません。富が主人となっていたとすれば、それはわたしたちが富を主人として認めて、勝手に仕え始める時でしょう。突然、大きなお金が入ってきたら、お金に感謝する人もいます。お金でなにかを成し遂げたら、そのお金に感謝する人がいます。「お金持ちになる方法」という類の本には、お金に感謝することが大事であると書いています。そうすれば、お金が、感謝に応えて自分のもとまた戻ってくるということだそうです。それらの真偽はどうでもいいのですが、お金自体が感謝の対象となっているということはお金のことを「人格を持っているもの」あるいは、自分に恵みを与えてくれる「素晴らしきもの」して扱っているということです。そのように実は、富とは、自分が主人に仕立てあげた「もの」です。ですから、イエス様が二人の主人を提示されましたが、富という主人が元々いたのではなく、富は人が勝手に作り上げた主人であるとわたしたちは考えてほうがよいでしょう。

 その二人の主人に、同時に仕えることはできないとイエス様は24節で語っています。二人に仕えるのならば、一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじることになると書かれています。富を主人とするならば、富を愛し、神様を憎むようになり、富には親しめば、神様を軽んじるようになるということです。ここでいわれている「軽んじる」は「頼らない」という意味である言っている人もいます。そうすると、富を主人にすると、富に頼りきって、神様には頼らなくなるということです。愛するという言葉も、ある人は、これは「心にかける」ということである言っています。そうすると、富に心をかければ、神様には心をかけなくなる。逆を言えば、神様に心をかければ、富には心をかけない。神様に頼る時は、富には頼らないということになります。イエス様の言葉の裏を取ると、神様も富にも、おなじように心かけるということと、神様にも富にも二つに頼るということはできないということです。
 確かに、神様にも、富にも心から両者に仕えることはできません。なぜなら、仕えるということは、完全にその主人の支配の下にたち、完全に頼りきり、そのおかげによってだけ生きようとすることだからです。神様と富との二人に頼り切るということはできません。もし、二人の主人が異なったことを言えば、どちらかの意見に従わねばならず、どちらかの意見を切り捨てねばならないので、そうするとどちらかの主人にしか従えないのです。「富こそが自分をすべてから解放してくれるものだ、幸せにするものだ、だから富が増えることに力注ごう」と富こそがすべて、富こそが主人となっている人は、神様のことを見てはいないでしょう。その時、人は富を増やすことに頭も心もいっぱいになっており、神様のみ心を考えるということはありえないでしょう。富を増やすこと蓄えることが大事となっているのならば、富を貧しい人に施しなさいと言われる、つまり富を手放しなさいと言われる神様など、信頼出来ないとなるでしょう。
 マタイによる福音書の19章16節以下には、たくさんの財産をもっていて、善い行いもしっかりしていた神様を信じる青年がでてくる話があります。その青年がイエス様に対して永遠の命を得るためにはどうすればいいかを尋ね、そしてイエス様が「もし完全になりたいのなら、持っているものすべて売って、貧しい人に施しなさい。そしてわたしに従いなさい。」と言われます。イエス様にそのように言われた青年は、悲しみながらイエス様のもとを離れて行きました。聖書には、青年はたくさんの財産を持っていたから、悲しみながら立ち去ったと書いています。この青年は、自分の財産を手放すことができませんでした。たくさんの富を地上に持っていたのです。青年は富を手放すことができず、手放さないだけでなく、イエス様に従って歩むこと、つまり神様に従って歩むことも同時に拒否してしまいました。ここに、本日の6章24節の二人の主人に仕えることはできないということの具体的な姿が表わされています。この時、この青年は、この財産を全部失ってしまえば、いままでの自分の努力、名声だけでなく、自分自身が生きることができなくなってしまうという不安をおぼえたのでしょう。その恐れを感じることは当たり前です。わたしも、今持っているものをすべて手放した時のことを想像すると怖くなります。しかし、その恐れをよくよく見つめた時に、わたしたちが、忘れてしまっていた大事なことに気付かされます。それは、その富をお与え下さったのは、神様であるということです。富がなくなってしまえば、自分の名誉、誇りだけでなく、命も危ないとわたしたちじゃ考えます。その思考の前提として、富がわたしたちの命を左右する、富じゃわかりにくいので、お金にしましょう、お金がなくなると命が危ないと考える前提には、お金が自分を支えているという意識がわたしたちにはあるのです。富が自分たちの生活を支えていることは現実としてあるでしょう。しかし、そのお金も、お金だけではなく、食べ物、住む所、衣服などを与え、それらがわたしたちを支えるものとして、また価値あるものにしてくださっているのは神様です。極端なことを言えば、神様がこの世界を守っておられなければ、お金があっても意味がないと言えるでしょう。もし、ノアの洪水の時のように、全世界が一瞬で、世界で一番高い山をも覆う海になってしまえば、お金があったってどうにもならないし、お金自体に価値はなくなります。お金は、世界が存在し守られており、また国家が秩序をもって安定していることが前提となります。地上の富自体が、神様の守りと秩序の内に整えられていなければ、なんの価値もないのです。富が自分の命を左右するのではなく、本当は神様がわたしたちの命を握っていると言っても過言ではないのです。つまり、神様は富をも支配されておられる方なのです。
 このたくさんの財産を持っていた青年は、富を主人にしていますと公言しているような人ではありません。そうではなくて、父なる神様の言葉を大切にして生きようとしていた青年でした。しかし、この青年は、富を失う恐怖に敗けてしまいました。また富を手放しても、神様が助けてくださる、また与えてくださるという信頼を持つことができなかったのです。富こそが自分を支えていると公言していなくても、心の底では富に頼りきっていたのです。イエス様は自分の富に頼るのではなく、神様に頼りなさいとわたしたちに言われています。それを通して、イエス様は「あなたの手元にある富はすべて神様が与えてくださったものである」ということを、わたしたちに伝えたいのです。イエス様は、その二点を指摘することで、わたしたちの本当の主人である方を指し示してくださっているのです。わたしたちの本当の主人は神様です。
 わたしたちが富を主人としないということは、「富を一切放棄する」ということではありません。わたしたちは、富をある程度は持ちます。それは、わたしたちがこの世で生きるためです。そのために必要な分を神様から与えられているのです。富を持つことと、富に仕えることは違います。イエス様は富をすべて放棄しなさいと言われているのではなく、富に頼りきって、富に命を預け生きることを止めなさないと言われているのです。

 もう一度、最後に神様と富のことを考えてみたいと思います。
 「富は自分をあらゆる労苦から解放してくれるものだ。富は自分を経済的な不安から解放してくれるものだ。」とわたしたちが考えていました。確かに富にそのような力があるでしょう。時にわたしたちは、そのような富の力を見て、富があらゆるものから解放してくれると勘違いすることがあります。しかし、その富は、あらゆるものから自分を解放してくれるわけではありません。富は、死の問題を解決できません。自分が死ぬという問題、自分を死から解放するということに、富はなにも答えてくれません。いくら経済的な不安がなくなっても、死という不安は消えません。突然自分の命が奪われるかもしれないということに関して富は、なにも解決することができないのです。ルカによる福音書12章15節で、イエス様は「有り余るほど物をもっていても、人の命は財産によってどうすることもできない」と言われています。その時に、イエス様が語られた譬え話はこのようなものでした。
 「ある金持ちの畑が豊作だった。 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』 「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。」
 この譬えにでてきる人は、倉を造らねば入らないほどの莫大な富を得ました。そして好きなだけ休み、好きなだけ飲んだり食べたり楽しんだりできるほどになりました。これが、わたしたちの考える、経済的な不安から解き放たれている状態、そして労働から解き放たれた状態でしょう。しかし、ここでイエス様が指摘されているのは、この人の命に関することです。この財産を蓄えた人は、自分の命に関することはまったく考えていませんでした。イエス様はこの譬え通して「あなたがどれほど富を蓄えても、命に関することはどうにもできない。むしろ、命の問題を前にして、富がいくらあるかということはなんの意味もない」ということを教えてくださっています。この譬えを聞くと、わたしたちの地上の財産というのはいかに虚しい物であるかを痛感させられます。明日命を失うのならば、わたしたちの持っている富はただのお荷物にしかなりません。食べ物がたくさんあっても、お金がたくさんあっても、意味がありません。ですから、わたしたちの本当に見つめるべき問題は死の問題なのです。死がわたしたちのすべてを支配していると言っても過言ではないでしょう。わたしたちの富も、死の前では無意味です。だから、わたしたちが最も恐れるべきことは、富を失うことや、職を失うことではなく、自分の命を失うことであるはずです。その死に対して、富という主人はなにもしてくれません。「してくれない」というよりは、「なにもできない」というほうがただしいでしょう。むしろ、富という主人は、命の問題、死の問題のことから目をそむけさせる力を持っています。わたしたちは、地上に富がたくさんある時、「今富によって開放され、満たされている」「だからなにも問題ない」、「問題となるのはこの富がなくなる時だ」「だからなくならないように気をつけよう」と思います。そのように富がある時、わたしたちは「命のこと」「死のこと」など考えなくなります。富という主人は、人に、富による労苦からの解放という旨味を与え満足させ、一方でその富を維持していくことに集中させ、命の問題から目を逸らさせるのです。
 わたしたちが逃れることのできない死の問題を解決してくださるのは、神様です。神様という主人です。神様はイエス様の復活という出来事を通して、「死に対してわたしは勝利できる」ということを示してくださいました。そして、神様は、イエス様を復活させたように、わたしたちの死にも勝利され、わたしたちをも復活させてくださるということも約束してくださっています。そして復活させた命は、永遠の命であるということも、イエス様において示されました。その復活と永遠の命を、与えてくださると神様はわたしたちに言われています。そこに区別はなく、どのような人にも、その復活と永遠の命は差し出されています。しかし、それらの復活と永遠の命を受け取るものは、神様と向き合わねばなりません。神様にそっぽ向きながら、それらを受け取ることはできないのです。神様と向き合うということは、神様を見つめるということです、それは、神様を主人として見つめるということです。死ぬしかなかったわたしを助けてくださる主人、死から解放してくださる頼るべき主人として、見つめなければなりません。復活と永遠の命は、神様と向き合って、神様を主人として生きるものに与えられるのです。神様は、わたしたちを選んで、既に神様のものとして買い取ってくださっています。今日イエス様は、「一人の主人にしか従って行くことはできない」と言われています。つまり、神様か富かどちらかしか主人にはできないと言われています。今わたしたちに富を与え生活を支えてくださっている方、わたしたちの究極的な問題である死を解決してくださる方は、神様です。神様か富か。イエス様が見つめておられるのは、神様です。

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