「赦してください 赦します」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:詩編第103編10-13節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第6章12節
・ 讃美歌: 218、445
「わたしたちの負い目を赦してください、わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」
これが今日、イエス様がわたしたちに祈りなさいと勧められている言葉です。これは主の祈りの第五番目の祈りであります。この第五の祈りは、わたしたちが祈る、主の祈りの言葉では「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という言葉になっています。まず、最初に共にわたしたちが考えていきたいことは、イエス様が、「わたしたちの負い目を赦してください」と祈りなさいと言われているが、負い目とはいったいなんなのか、またわたしたちはいったい誰に対して負い目を抱いているのだろうということです。負い目という言葉の意味を、わたしたちは誰かになにか申し訳ないことをしてしまった時の感情であると考えていると思います。しかし、この負い目という言葉は、もっと具体的な意味を持っています。この負い目という言葉は、負債という言葉です。つまり借金です。わたしたちは、イエス様に、「借金を赦してください」と祈りなさいと勧められているのです。「はて誰に借金をしている」のだろう、わたしたちは思います。イエス様は、この主の祈りを、父なる神様に祈りなさいと言われていました。だから、イエス様は、父なる神様に対してわたしたちは、借金を負っている、いや借金というとお金のことだけのイメージになってしまうので、なんらかの負債を負っているということを、前提として考えておられるということです。では、わたしたちは神様になんの負債をおっているのでしょうか。この負債ということは、わたしたちが祈っている主の祈りの言葉を見てみるとわかります。それは、「われらの罪をも赦したまえ」と祈っているように、負債というのは、罪を言い換えた言葉です。わたしたちは神様に罪という負債を負っているのです。「では罪ってなんだろうか。神様にわたしたちはどんな罪を犯しているのだろうか」ということが、わたしたちの次になる疑問でありましょう。
・わたしたちが神様に負っている負債
わたしたちが神様に対して負っている罪というのは、なにか法律を破るとか、道徳的に悪い行いをしたというような、ある状態のことではありません。ある神学者は、罪というものは状態ではなくて関係であると言っています。これは罪というものを理解する上で大変役に立つと思います。わたしたちが罪というと自分の状態を考えます。自分が何かをしてしまった、してしまっている、またはしてしまう状態にあるかということ、これを罪だと考えます。けれども、罪というのはそういうわたしたちの状態というよりも関係であると言っています。関係というと、じゃ誰と誰の関係なのかと疑問を持ちます。その答えは、神様とわたしたちとの関係です。神様とわたしたちとの関係が切れていればそれは罪なのです。わたしたちが神様を信じないこと。わたしたちが神さまをいないとすること。それらは神様とわたしたちの関係が切れている。その切れている関係が罪なのです。もちろん、うそついたり盗みをしたりすることも罪ですけれども、それはいわば罪の結果です。そういう盗んだりうそをついたり人を殺したり、そんなことはしなくても、わたしたちは神様から離れてしまい、神様から離れて生活をしてしまう。それが罪です。その神様との関係が切れてしまっているということが、罪という言葉が負債となっていることからわかるように、わたしたちには、神様に対しての負債になっているのです。
・神様との関係を修復するための対価
ここからわかることは、神様との関係を修復するためには、この負債を返済しないといけないということです。この負債はいったいどれくらいのものなのかというと、「それは、何円です」と、はっきり言えないものです。わかるのは、人がどんなことをしても、その罪を償うことは出来ないくらいに負債の額は大きいということです。つまり、どんなに神様のために熱心に奉仕するとか、隣人のために生きるとか、そのような良い行いをどれだけしても、その罪という負債は返済することができない、つまりわたしたちがどんな償いをしても神様との関係を修復することはできないということです。はっきりとした額にすることはできないと言いましたが、イエス様が、マタイによる福音書の18章で用いられているある譬えの中で、人の罪の負債の大きさを、1万タラントンと表現していることがあります。一タラントンとは、6000デナリオンつまり、6000日分働いた賃金のことです。それの一万倍ということは、6千万日分の賃金、これを年に換算すると、約16万4千年分の賃金ということです。これは、人生が何度あっても返しきれない額だということです。つまり、何をしても返しきることのできないほどの負債であるということです。
・この負債を神様が御自身が返済された
この自分の努力や力では返すことの出来ない負債を赦してくださいと、祈りなさいとイエス様はわたしたちに言われています。それは、言い換えるならば、神様との正しい関係を再び持たせてくださいと祈るということです。しかし、神様との関係を新たに結ぶためには、この負債を返済しなければならない。だが、わたしたちにはそれを返済する可能性がまったくない。わたしたちが、罪という負債を返済する可能性はまったくないのですが、唯一、債権者である神様だけが、わたしたちの罪の負債を赦してくださることができます。神様が人の罪を赦すというのは、その借金を帳消しにするということです。しかし、ここで注意しなければいけません。わたしたちは借金を帳消しにされると考える時、借金がなくなった良かったということの、その面しか考えない傾向にあります。しかし、借金を帳消しにするということは、お金を貸した人にとっては、マイナスであり、それは痛みなのです。それを、踏まえると、神様が人をお赦しになるということは、神様にとっては、本来マイナスのことであり、痛みを負うということです。その痛みというのは、人一人につき16万4千年分の労苦と変わらぬもので、それが×全世界の人の数なのです。ものすごい、マイナスであり、ものすごい痛みなのです。そのわたしたちの負債という、マイナスを、痛みを肩代わりして下さったのが、イエス様です。父なる神様は、その負債を御自身で負うことを決意され、その支払いとして、イエス様の命を差し出されたのです。ヨハネの手紙一2章2節で 「この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。」と語られています。この方とは、イエス様のことです。「罪を償ういけにえ」というのは、わたしたちがもっている罪によって破れた神様との関係を、もう一度結ぶために、買い戻すための代価となるもの、それが「罪を償ういけにえ」です。イエス様は、神様との関係が破れてしまった、わたしたちのための「罪を償ういけにえ」となったのです。イエス様が十字架の上で血を流し、命を捨てることによって、わたしたちの罪が赦されました。そこで、わたしたちは、神様との関係が回復され、神様との交わりを持つことができるようになったのです。
ここまで聞いてある疑問を持った方がおられると思います。それは「イエス様が十字架に掛かってわたしたちの罪の負債を返済して下さったのなら、もはや罪を赦してくださいと祈る必要ないのではないか」という疑問であると思います。わたしたちはイエス様の十字架によって、罪を赦されて、もう、全部、罪は赦されているから、もう罪はないんだ。そういうふうに思いがちです。負債がなくなったから、債権者と債務者の関係でなくなった。だから、もういいじゃない。万事が解決したから、もうこの話はしない。そのことについて祈らなくていいと思ってしまうかもしれません。しかし、そうではないのです。イエス様によって罪が赦されたということは、わたしたちが神様と無関係になったということではありません。むしろ逆に、いつでも神様のお側に近づくことのできる者、神様との交わりを赦された者になった、ということです。従って、罪赦された者は、罪という負債が赦されているということに感謝して神様と共に生き、またわたしたちが自分勝手をするのではなくて、わたしを赦してくださった神様の御心に従って生きていく、そういう者とされています。ところが、実際は、毎日の生活で、神様の御心に従うよりも、自分の思いで生きていくことが多い。ですから、神様の前へ出まして、御心に背いたということを、あらためて思わされ「どうか、お赦しください」という祈りをせざるを得ないのです。この「罪をお赦しください」という第五の祈りは、罪赦されて神様と共に生きるわたしたちのための祈りであるとも言えます。わたしたちは、罪赦されてもなお、わたしたちの内にある罪がなくなったというわけではありません。洗礼を受け、イエス様の救いを信じ、神様と共に歩むものになっても、罪は残っています。しかし、もはや罪に支配されて、神様を完全に忘れてしまうような古い姿ではなくなりました。また信仰者は、新しい神様との関係を大事にして歩むことのできるものへと変えられては行きます。しかし、その変化の過程において、わたしたちは神様を忘れて、自分勝手に生きてしまう罪を犯します。だから、イエス様の十字架の死とまた復活の恵みに与った者も、「われらの罪をも赦し給え」と今も祈らねばならないのです。しかし、その罪もまた、イエス様の十字架の死というとてつもない価値のある犠牲によって支払われ、赦され続けているのです。
・罪をゆるすから、ゆるされるということではない。
この主の祈りの第五の祈りには「わたしたちの負い目を赦してください」罪を赦してくださいというだけでなくて、その後に「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように」という言葉がついています。この言葉を、わたしは誤魔化しながら祈ることが多いような気がします。わたしも、罪の自覚がありますから、「わたしの罪を赦してください」ということははっきりと祈るのですが、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、」という言葉は、心がこもってないというか、置き去りにしてしまうことが多いです。わたしたちが祈る主の祈りでは、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦し給え」となっていますが、聖書では「わたしたちの負い目を赦してください」という言葉が先に来ています。「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦し給え」この語順のまま聖書の言葉にして言い換えると、「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように、わたしたちの負い目を赦してください」となります。これを聞くと、わたしたちが隣人の罪をゆるすことが、自分が神様から赦されるということの条件に聞こえますが、これはそのような条件を語っているのではありません。自分が隣人を赦したという行いによって、神様から自分の罪を赦されるということではありません。神様は無条件に赦してくださいました。それは、先ほどのイエス様の死という、わたしたちが願う前から、むしろ生まれる前から、成し遂げて下さった恵みによって無条件に、赦されているということからわかります。隣人を赦すことというのは、自分が赦される条件というわけでなく、この祈りが示しているのは、この二つは切り離せない不可分の関係にあるということです。そのことを、言い換えるならば、わたしたちが本当に神様の前に「自分の罪を赦してください」と悔い改める心と祈りがあるのならば、自分に対して罪を犯した人を赦すということなしには、それはあり得ないということです。
この神様に赦していただくことと、わたしたちが隣人を赦すこととの関係について、わかりやすく語られる別の聖書の箇所があります。それは、先ほど紹介しましたマタイによる福音書18章にあります。18章の21節以下です。この18章におけるイエス様の教えと、そこで語られた一つの喩え話を、説明を加えながら見てまいりたいと思います。
まずペトロがイエス様のところに来まして、「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」という質問をしました。イエス様はそれに対して「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われました。「七の七十倍までも赦しなさい。」とイエス様が言われたのは、490回までは赦さなければならないが491回目からはもう赦さないでいい、ということではありません。イエス様は「限りなくゆるしなさい」ということをペトロに伝えたかったのです。イエス様は、この言葉だけでは、ペトロが「ゆるす」ということを理解出来ないと思われたのか、その後に一つの譬え話をなさいました。
この譬え話の最初は、一万タラントンの負債を王様に対して借金している人が呼び出され、王様から返済を迫られたが、王様がその人を憐れに思い借金を帳消しにしてもらい、ゆるしてもらったというところから始まります。ところがその借金を帳消しにしてもらった人が100デナリオンを貸してある仲間から借金を厳しく取り立てた、という話です。ここにデナリオンとか、タラントンとかいう昔のお金の単位が出てきます。これを前にも申し上げましたが、1デナリオンというのは普通の労働者が一日働いて貰う賃金と言われています。それに対して1タラントンというのはその6000倍、6000デナリオンとされています。1デナリオンを一万円とすると、100デナリオンというのは、100万円です。わたしたちの感じからすれば100万円もお金貸していたとしたら、それは返してもらわないと困ると思います。それを、ゆるすわけにいかないと思います。ところがこの人が王様に対して持っていた負債はいくらかというと、それは一万タラントンです。一タラントンではありません。一万タラントンです。計算をしますと、六千億円になります。六千億円というよりも、最初ほうで語りました約16万4千年分の労働の対価といったほうがいいでしょう。100日分の働きと、約16万4千年分の労働の対価では比べ物になりません。その約16万4千年分の労働の対価を、この人は無条件でゆるして貰いました。どんなにまあ、ほっとしたことでしょう。とても一生かかけても返せない額を、それを一円も払わないでゆるしてもらいましたから、命が救われたと同じ思いを感じたでしょう。ところが道で100万円貸してある、仲間に会った。100万円ですからこれは是非返して貰わないと思って、『「返せ、返せ」と言って「返さないと返す牢屋に入れるぞ」』と言い、そして実際に牢屋にいれたのです。ところがこれを聞いた王様が、こう言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を全部帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。』」
この王様が言っている言葉の意味は何でしょうか。これは一万タラントンという負債をゆるしてもらった人に対する言葉です。なんの関係もない人に対して倫理を語っているのではありません。普通の常識から言えば、100万円の借金はどうしても返してもらわないといけないから取り立てる、というのは常識であり、それをやったからと言って、間違ったことをしたというわけではありません。咎められることはないはずです。どうして王様はそれを咎めたか、それはこの人が一万タラントン、六千億円というお金をゆるしてもらっている人だ。そういうことが前提にあるからです。
イエス様が「兄弟の罪をゆるしなさい。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と言われたのは、ただ、人の罪をゆるすこと、人を寛大に扱うことが大事だからそうしなさい。というそういう一般的な教訓を語っておられるのではありません。あの仲間をゆるさなかった人が、もし本当に自分の受けた恵みというものを本当に自覚していたら、こういうことはしなかっただろうと、言えると思います。確かに一万タラントンをゆるして貰った。うれしい。うれしかったに違いない。しかし、本当にこの王様の痛みや、憐みというものを彼は理解していたでしょうか。「わたしがあわれんでやったように、あの仲間をあわれんでやるべきではなかったか」と王様は言っていました。『「わたしはこんなに大きな憐みを受けた、こんな大きなゆるしを受けた」ということを、本当にあなたが理解していたら、とても兄弟に対してそういうことは出来ないだろう。』これが、イエス様がペトロに伝えたかったことです。
わたしたちは、この譬え話の家来と同様に、「人の罪を赦すことはできない」という問題を抱えています。そのような現実があります。わたしたちは、自分に不利なことがあったり、嫌なことをされたり、不当に扱われたりした時には、相手をゆるすというどころか、相手に非を認めさせることに躍起になったり、相手が反省すべきだと、それを認めるまではゆるさないという姿勢をとってしまいます。その時、わたしたちは自分が赦されたものであるということを忘れてしまっています。わたしたちは、隣人がなにか問題を起こした時、そして自分がその問題の被害者になるような時には、自分が赦されたものであるということなど忘れて、その人と向かい合うことが多いのではないでしょうか。そのようなわたしたちに対して、イエス様は、この第五の祈りを通して、赦されたものとして、隣人を赦しなさいと求められているのです。なぜイエス様が、ここまでして、隣人を赦すことを求められるのか。それは、今イエス様がわたしたちを、神様の子ども、としてふさわしいものへとかえてくださろうとなさっているからです。信仰者は、洗礼を受け信仰を告白し、神様から、神様の子どもとして受け止められています。その神様のこどもたちは、イエス様に似たものになるということが、聖書にかかれています。イエス様は、この主の祈りを通しても、わたしたちをご自分に近づけようと、似たものにされようとなさっているのです。
そのイエス様は、本当に敵対するものを愛し、赦されました。イエス様は、何の罪も誤りも犯していないのに、恨まれる筋合いがないのに恨まれ、侮辱され、傷めつけられ、殺されました。それは、わたしたちのためです。わたしたちと神様との切れてしまった関係を結び直してくださるために、本当はわたしたちが被るべき罪の負債、それに付随する苦しみや痛みや死を、イエス様がわたしたちの代わりに、父なる神様と和解を実現するために、負って下さいました。その罪を負うために、反感を持たれる所以などないイエス様が反感をもたれ、訴えられるような罪を犯していないのに訴えられたのです。そして、イエス様は反感を受けながらも、訴えられながらも、十字架にかけられながらも、忍耐され、イエス様はただわたしたちと神様との関係の回復を願い、十字架上で、「父よ、彼らを赦して下さい。」と祈られたのです。
イエス様は、わたしたちを赦すために苦しみ、不当に傷つけられ、最後には命まで、わたしたちのために差し出されました。そのような、忍耐と痛み、そしてそこまでして、わたしたちを赦そうとされる、憐れみと愛とをわたしたちは受けているのです。これは、「罪赦されてよかった」程度のものではないはずです。あの一万タラントンの借金の返済の裏には、これほどまでの憐れみと愛、痛みと忍耐があったのです。その赦しを頂いているわたしたちは、感謝をもって、隣人を赦すのです。しかし、赦せない現実、また神様を忘れてしまう現実も、わたしたちにはあります。しかし、この主の祈りは、その現実から、再び神様との生きたつながりがあったこと、また憐れみと愛とに生かされていうという真実に引き戻してくれます。祈りこそ、神様との生きた繋がりを示すものです。この、とても重要な第五の祈りを今日イエス様がわたしたちに教えてくださいました。
わたしたちは、今一度、神様の愛と、イエス様の十字架の死の犠牲という真実を胸に刻み、祈りながら、歩んで参りたいと思います。