夕礼拝

必需品

「必需品」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:出エジプト記第16章13-16節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第6章11節
・ 讃美歌: 214、151

 この夕礼拝では、イエス様が「このように祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」を共に聞いています。本日はその第四の祈り、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」、です。この祈りから、主の祈りは後半に入ります。主の祈りは六つの祈り求めから成っています。最初の三つは「御名があがめられますように、御国が来ますように、御心が行われますように」という、神様の御名、御国、御心を祈る、祈りであったのに対して、この第四の祈りから始まる後半の三つは、「わたしたちの糧」「わたしたちの負い目」「わたしたちを誘惑にあわせず」とあるように、祈りの中で「わたしたち」のことを祈るように勧められています。後半の祈りは、わたしたちということが注目されていますが、決して前半の3つの祈りも、わたしたちと人と関係のない祈りではありませんでした。神様の御名が崇められることも、神様の支配が起こることも、この地上において神様のみ心やご意志がなることにも、すべてわたしたちと関係していました。それらが、起こることにおいて、わたしたちは大きな恵みが受けること、またそれらが起こるために、既にイエス様が犠牲となってくださっていたことも確認いたしました。今日から共に聞く後半の3つの祈りは、「わたしたち」の生きる歩みにおいてとても大切なお祈りです。日々の糧のこと、生きているわたしたちの犯す罪のこと、また神様から引き離そうとするあらゆる誘惑に関して、これらは、わたしたちの生きる生活とわかりやすく直結している問題です。しかし、これらの問題をただ解決してくださいということを祈るのでなく、祈る対象である神様との関係を意識して祈ること、また前半の3つを前提にしながら祈ることなしには、意味のない祈りになってしまいます。神様がこの世をそのみ手によって支配されていないのならば、わたしたちが今日共に聞く日々の糧を求める祈りを祈ることはできません。神様がこの世界を治めてくださっていることを信じることなければ、わたしたちの糧が、この世で本当に与えられるということも信じることができないでしょう。神様が、人をお造りなり、そして今も養おうとされています。神様はこの世界の食料となる植物や動物についてまったく関心がなく、人に任せきっているというわけではありません。米もパンを作るための小麦粉そうですが、栽培している時に、天気が崩れたり、気温があがったり、下がったりするならば、食料をまともに得ることはできません。その天候や気象を人は操ることはできません。それらにおいて、責任をもっておられるのが、神様です。神様は、世界を支配されており、このわたしたちの世の食糧事情にまで関与してくださるのです。ですから、そのように、神様がこの世界を支配してくださっていること、導こうとされていることを信じないところでは、まったく無意味な祈りになるでしょう。この後半の祈りも、神様がわたしたちの父であられ、そして今も守り、導き、養おうとされているという信頼が前提にある祈りです。決して、わたしたちの不足を埋めてくれる、便利なご利益のある神様に祈るということではありません。わたしたちは、神様が、わたしたちを愛する子として認めてくださっていること、その子たちのために、必要なものを与えようとされている方であること、またそのように与えることができるほどに富んでいる豊かな方であることを、まずその信頼をもって祈ることが、今日の「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」ということにおいても最も重要なことです。

 この第四の祈りの、「糧」という言葉は文字通りには「パン」です。主イエスの生きておられた地域においては、パンが主食でした。だからパンという言葉が使われたのです。わたしたちの生活で言えばそれは「お米」「ご飯」に当ると言えます。ここで言う「糧」は、食事の中心、それによってこそ生きていくことができ、元気が与えられ、生活を維持していくために必ず必要なものです。それを「与えてください」と神様に祈るのです。しかしわたしたちは、毎日の食べ物については、あまり悩むことがありません。しかし、イエス様の時代では、毎日の糧のために、必死に食べ物を育てたり、また必死に働いてお金を得てそのお金をやっと食べ物と交換することで、それらを得ていた人が多かったのです。その中で、今日の糧を神様に祈り求める、そしてようやく食事にありつくことができたなら、神様の恵みを感謝するというのが実感だったのでしょう。この祈りは、そのような状況の中で教えられたのです。

 今を生きるわたしたちは、お金があれば簡単にいつでもどこでも食べ物を得ることできますが、実はその食べ物も全部自分の力で得ているわけではありません。どの食べ物にも、生産者がいて、それらが集められ、自分たちの手元に来ているに過ぎません。もとのもとをたどれば、それらの植物も動物も神様が命を与え造ったものです。その神様のものを、人が管理する中で、収穫されたり、加工されたりして、わたしたちの手元に送られてくるのです。食糧の根本を見つめると、わたしたちは、神様がお造りになったものを得ることで、わたしたちの体は養われていることがわかります。植物を実らすも、枯らせるのもそれは、神様の主権によって行われます。その権限をもっておられる神様が、わたしたちに食物を今もあたえてくださることを御心としてくださっているので、わたしたちは今、日々の食糧に与ることできているのです。わたしたちが、切実にそれを祈る前から、神様はわたしたちに、本当に必要な体を養う食べ物という恵みを与えてくださっていたのです。ではわたしたちは、それらの食べ物が与えられていて、食べることができているから、もはや神様に「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈らなくていいのかと言えばそうではありません。

 「わたしたちに必要な糧」と言っている、その必要な糧というのは、これは食べ物のことだけを言っているのではありません。体を養う食べ物も、大切な一つの要素ですが、わたしたちが生きるために、必要なものは食べ物だけではありません。わたしたちは、寒さに耐えるための着るものも必要になります。また雨風を避ける寝床も必要です。この祈りは、食べ物だけではなく、衣食住が与えられることも、主に祈っています。人は、衣食住が揃っていれば、すべての人が元気に生きていけるかと言えば、そうではありません。衣食住が完璧に揃っているのに、心が渇き、生きている実感がなく、空虚になってしまい、元気がなくなる人は、大勢います。わたしたちは、この肉体を養う食べ物、それらを守るための着るものや寝床だけでなく、心を養う、魂の糧を得ることなしには、元気に生きていくことはできません。今を生きるわたしたちは、この魂の糧のことに、目を向けることを忘れがちになっています。第四の祈りが求めている、「わたしたちに必要な糧」の中には、この魂の糧のことも含まれています。その魂の糧を、天の父なる神様に祈り求めるようにとイエス様は教えて下さりました。この魂の糧となるのは、率直に申し上げますと、神様の御言葉です。イエス様は荒野で悪魔に石をパンにかえて食べたらどうかと誘惑された時に「人はパンだけで生きるものではない。神の口からでる一つ一つの言葉で生きる」と言われました。わたしたちの命は、神様の語られる言葉によって活かされるとイエス様はおっしゃっています。またイザヤ書の55章2節後半に「わたしに聞き従えば、良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」とあります。「わたしに聞き従う」、つまり神様のみ言葉を聞き、それに従っていくことが、本当の糧を得られ、本当に良いもので養われ、豊かさに生きる道を歩むことができる。これは神様のみ言葉こそ、本当に必要な糧だというのです。

 神様は、わたしたちを愛する子として、愛する民として養おうとされています。神様は人を、ご自分の子とするために、イエス様を手放され、十字架にかけ、血を流され、そこにおいて新しい契約を、わたしたちと結ぶためのすべてを整えてくださいました。新しい契約を結ぶことで、わたしたちは神様の子となります。神様がわたしたちと契約を結んで下さいます。それは神様がわたしたちと特別の交わりを持って下さるということであり、わたしたちを神様の民として、神様のもとで、その恵みと慈しみによって養い生かして下さるということです。神様が、神様の方から、わたしたちとそういう関係を、その恵みの契約を結ぼうとして手を差し伸べていて下さる、そのことをみ言葉は語るのです。ですからそれに聞き従うというのは、神様が差し伸べていて下さるこの手を取って、わたしたちもその交わりに生きる者となるということです。神様の恵みと慈しみによって養われて生きる者にしていただくことです。伸ばされた神様の手をわたしたちが握るということを、具体的に表すものが洗礼です。わたしたちの魂を養う糧は、この神様との関係が結ばれて、そして神様と共に、神様のみ言葉に従って歩むことを通して、与えられるのです。

 「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」という祈りをイエス様から祈ることを許されたということは、とても幸いなことです。なぜならば、神様がわたしたちの日々の生活に関するあらゆる苦しみ悩みに目を向けてくださっているということを知ることできること、またそれらの重苦しい悩みや不安を祈りの対象にしていいと許してくださっているということを知ることできるからです。わたしたちは第四の祈りを祈る時に、心の苦しみが神様への信頼にかえられていきます。父なる神様が、あらゆるわたしたちに必要なもの、あらゆる糧を所有しておられることを知ることがゆるされ、そのことに信頼をおくことのできる人は幸いです。神様は豊かな方です。世界中の人が糧のことを祈っても、神様の糧が尽きることはありません。みなが祈りすぎて、与えすぎて、蓄えがなくなり、閉店ガラガラとは決してなりません。神様の恵みがつきないことは、旧約聖書にも、イエス様にも表わされています。出エジプトをしている民が、荒野でマナというウェハースに似た食べ物が毎日毎日尽きることなく与えられました。またイエス様は5つのパンと2匹の魚しかなかったのにそれを裂いて、増やされ、五千人を満腹されるほどに養われました。ここには、神様の恵みや糧が尽きることがないことが示されています。「尽きることがないほどに持っておられる方に、自分は養われているのだ」という、この信頼こそが、わたしたちに平安を与えるのです。神様がそのように、与えたいと思っておられ、養い、守ろうとされるご意志をもっておられるということ、これこそがわたしたちの恵みです。

 神様はこの祈りによって、わたしたちの生活の不安や心配事を取り除こうとしておられます。しかし、わたしたちは、神様に立ち返ろうとしないものです。悔い改めることはせず、父なる神様を信頼しようとしません。むしろ、父なる神様から遠く離れて、自分の力で生きようとしてしまいます。その結果、満たされることも、安心もなく、その代わりに欠乏と飢えを感じるのです。この飢えと欠乏から来る不安は、さらなる不幸をもたらします。3.11の震災の直後、都内のあらゆるスーパーやコンビニの食料品はなくなりました。都内は被災地に比べれば、物流も直ぐによくなったのに、しばらくの間、食料品は不足の状態になりました。震災の直後人々は、自分の明日の食糧が確保できないのではないかと、不安になり、不安に支配され、食べ物を買いに走り、またそれを見た人が、自分の分がなくなってしまうと思い、不安に支配され買いだめする。不安に駆られ隣人を信頼することはなくなり、自分のみを信頼する。その時、ある人は、ふだん必要な分の2倍買い込み、またある人は3倍、4倍と買い込みました。その結果、すべての人に充分に行き渡らなくなってしまったのです。わたしたちは、不安にかられると、自分に必要ない分まで蓄えてしまいます。わたしたちは不安にかられると、愚かしいほどに貪欲になってしまいます。その不安の結果、どこかで欠乏が生まれ、またそこから不安や妬みが生まれ、それが元になって争いが生まれます。このようなわたしたちに対して、神様は、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈れとお命じになっておられます。わたしたちはこのように祈ること許されているだけでなく、あなたにとってこう祈ることが本当必要だから、祈らなくてはならないといわれているのです。神様が必ず、糧を与えてくださるということを本当に信頼しているのならば、不安は起こりません。神様が必ず、ひとりひとりに必要な分を与えてくださると信頼しているところでは、貪欲は生まれません。

 わたしたちが第四の祈りを祈るということは、いつでも糧のために感謝することができることを意味します。糧を求める祈りはわたしたちを感謝へと導きます。すべてを所有されておられる方が、わたしに命の糧を今日も与え養ってくださっているということを知る時、わたしたちは感謝せずにはおられません。わたしたちは、自分が持っていると思っているものは、すべては神様が本来所有されているもので、貸し与えられているものです。住む家も、食べ物も、着るものも、この命もです。自分で手に入れたと誇るときは、感謝は生まれません。それらすべてが神様から与えられていると知った時、わたしたちは神様に感謝することができます。さらに言えば、このように感謝に生き自分の持っているものがすべて与えられているものだとわかったものは、本当にわかちあうことのできるものとなります。

 この第四の祈りを祈ることで、わたしたちはますます神様との関係が明らかになり、また祈りを持って神様との交わりが深められるのです。それを神様は望んでおられます。わたしたちの日常の事柄に、魂の事柄にも、神様は関わってくださっています。そのために、独り子イエス様を十字架にかけられました。その血によって、わたしたちと新しい契約を結ぼうとされています。この祈りは、この神様との契約に基いています。神様が「わたしたちを救う、ご自分の子とする、そして守り養う」という特別な関係になってくださるというこの契約が前提なのです。今日、この説教の後に聖餐があります。この聖餐は、与っているものには、この新しい契約が結ばれているというしるしであり、また神様が今もわたしたちの体も魂も生活も、そのすべてを養っていてくださることを表すしるしでもあります。わたしたちを死から命へと、移す究極的な救いから、わたしたちの日常の小さな苦しみからの救いも神様はこの聖餐によって保証してくださっていることを示してくださっています。ですから、感謝していただきましょう。そしてまだこの聖餐にあずかれない方。その方々に、父なる神様は、「新しい契約を結ぼう」と手を伸ばされています。待っておられます。共にこの聖餐にあずかることを主は待っておられます。「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りながら、すべてを与えてくださる父なる神様に信頼と感謝をもって、歩んでまいりたいと思います。

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