夕礼拝

迫害される者よ

「迫害される者よ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第119編161-168節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章10-11節  
・ 讃美歌:355、530

 義のために迫害される人々は幸いである、天の国はその人たちのものである」とイエス様は今日わたしたちに語られました。  

 本日で山上の説教の8つの幸いについての話しが終わります。本日がその最後にあたる「義のために迫害される人々は幸いである」というイエス様の宣言です。今日イエス様によって語られた、「義のために迫害される人々は幸いである」というこの最後の教えも、今まで語られて来た幸いの教えと同様に、この場にいるわたしたちに語られた言葉です。この「義のために迫害される人々よ」とイエス様にその言葉を投げかけられても、「それはわたしである」と簡単に応えられる人は、そういないと思います。しかし、この8つの教えのどれか一つにでも、自分が該当していると思ったのならば、例えば「自分は心の貧しいものだ」「義しさに飢え渇いていた者だ」とか、どれかに共感していたのならば、その人は、この義のために迫害される者にも該当しているといえるでしょう。心の貧しい者は、本当に自分自身にも、この世界にも頼るものがなく、それ故に神様を頼り、そこでイエス様と出会い、神様を信じ、神様のものとなる故に幸いでありました。そして、義に飢え渇く者、つまりただしさに飢え渇く者も、自分自身のただしさを追い求めている時は、どんどん自分が飢え渇いていくが、そのただしさを求めて行く時に真のただしさを持っておられる方イエス様と出会い、イエス様に委ねることで、その真のただしさを持たれているイエス様に支配していただき、自分がその真のただしさあずかりながら、神の子の一人、神の民の一人として、そのイエス様のただしさに満たされて変えられて行く、故に幸いでありました。  

 どの幸いにも、共通していることは、イエス様との出会いによって、神様を信じるものとなり、そこにおいて、慰めであったり、憐れみであったり、義に満たされるであったり、神の子とされるであったり、それらが与えられる故に幸いでありました。最後の幸いは、そのようにイエス様と共に歩み、神様の子に変えられて行く者が必ず、味わうことと関係しています。そうであるので、今までの7つの教えに該当する人は、この最後の教えと「わたしは関係がない」と言えないのです。神の子、神の民となったものが味わうことというのはなにかと言えば、それは「迫害される」ということです。イエス様はその迫害される者のことを、「義のために迫害される者」とおしゃっています。義のためにというのは、「ただしさのために」ということです。ではこれは、なにのただしさであるか。その正しさというのは、自分の理想ということではなくて、この世の中がただしいと思っている一般的な正しさということではないでしょう。それはつまり、前に義に飢え者よの時に話された「良き夫」であったり、「良き妻」であったりというようなわたしたちの考える「ただしさ」ではないということです。ここでいう「ただしさ」とは、イエス様に委ね、神の民、神の子として、義しく造り替られていく、そのような神の民としての「義しさ」のことです。わたしたちは、イエス様を信じ、神様に対する信仰を持ちながら、イエス様と共に歩んでいく中で、古い自分から新しい者へと変えられて行きます。それは、イエス様の持つ真のただしさによってです。そのように、イエス様によって、神様の子、神様の民に造り替られていくことが幸いであり、またその恵みによって、神様の民へと変えられていく中で、どんどん実感することは、それは幸いであります。  

 しかし神様の民、言い換えると信仰者になっていく中で、必ずこの世との摩擦が生まれるという事が起こりまいります。イエス様のただしさに委ねながら、神様の民となっていくことで、この世の流れの中で歩んでいる人とは、違いが出てまいります。それ故に、そこで摩擦が生まれ、時に迫害が起こるのです。これは例えれば、日本ではない他国籍の人、または日本文化の中で生きていなかった人が、日本で生きていく場面と似ているといえると思います。寿司屋さんにいって、お寿司の上に乗っかっているネタだけを取って食べ、下のご飯の部分であるシャリを後で食べる人をわたしたちが目撃しましたら、わたしたちは、この人は日本人ではないかもと思うか、変な人だなーと思うか、または「この人は常識を知らない人なのか」と考えると思います。そのように、ある事柄に対する、理解の違い、常識の違いでわたしたちはその人を、変な人だなとか、常識の無い人だなと考えることがあります。その寿司の上の、ネタだけ食べた人の容姿が、アジア系の容姿でなかったのならば、「この人は外国の人だ」とわたしたちは理解でき、なんとかそのような常識から外れた出来事や行いを許容できると思います。しかし、神様の民は、ある意味、とても大変なのです。日本人であって、日本の文化で生きていても、容姿もアジア系の顔でも、神様の民、つまりクリスチャンは、ある世の常識から外れた考えを持ち、そのようにして生きるために、世の人々から見れば、シャリだけを後に食べる人を見ているかのように、奇異なものを見ているかのように見られるのです。

 クリスチャンの国籍は天にあると聖書は語っています。それは、神様を信じ生きるものは、神の国の民となるから、国籍は神様のおられる天にあるのだということです。クリスチャンはどの国に住んでいても、異国人です。ここにいる信仰者であるわたしも、日本に住み続けている異国人です。そして異国人であるが故に生まれる世との「違い」によって、わたしたちが迫害されるのです。それが顕著に現れるのは、わたしたちの死に対する捉え方の違いということが言えると思います。わたしたちは信仰者どうしの間で、死のこともある意味で平気で話題にします。悪い意味でなく、ある信仰者は、「早く死にたいわぁ」「神様のお迎えを楽しみに待っています!」ということもあります。パウロも「はやく神様にお会いしたい」と、聖書の中でいっていることです。そう語ることができるのは、わたしたちが、わたしたちのために十字架にかかって死んで下さり、そして復活して下さったイエス様を信じていて、わたしたちもその復活に与ることができると信じているからです。しかし、そういう復活の命に対する信仰の土台を持たない人は、死などということは話題にするだけで縁起が悪いと考え、そのようなことを話すのはタブーであるとします。そのような人が、クリスチャンと出会い、この話を聞くと、とんでもない非常識な話に聞いてしまった、ということになるのです。そういうことが私たちに対する悪口、批判となって出てくるということもあるのです。確かに、「早く死にたいわぁ」とか「早く神様に会いたい」とか言っていれば、「この人は大丈夫だろうか、人生に絶望しているのだろうか。しかし、明るい顔でいっているし。わけがわからない」ということになるでしょう。そこで時に、そのようなわけがわからなさから、「気味が悪いと」悪口を言われることもあります。このような類のことは、わたしたちイエス様を信じる者がその信仰のゆえにどうしたって受けるののしりであり、身に覚えのない悪口であるのです。これは一つの例ですが、それに類すること、信仰によるものの考え方や価値観を周囲の人に理解してもらえないこと、というのは、わたしたちの周りに沢山あります。イエス様はそのことを意識して、10節で、「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を浴びせられる」と言われております。ここで気になるのが、このようなわたしたちが受ける悪口や小さな迫害が「わたしのため」と言われていることです。この「わたしのため」という言葉は、いろいろな訳の可能性のある言葉です。ひとつは「わたしが原因で」と訳することができます。そう訳すとするならば、ここでイエス様は、神の民と変れられているあなたがたが、世とずれ摩擦を起こしいくのは、わたしが原因であると言われているといえるでしょう。つまり、あなたが、元々変人であったから、悪口を言われているのではなく、それはわたしがただしい者に造り替えていっているから、そのように悪口を言われているのだということです。これはわたしたちにとって、ひとつの慰めとなるでしょう。わたしたちは、身に覚えのないことで悪口を言われたとするならば、その時、その原因を自分の中だけに探すと思います。あの人に、嫌なこと言われた、怖い目つきで見られたという時に、それは「わたしが何か悪いことをしてしまったから」とか「わたしの性格や容姿を嫌っているのではないか」とか、原因をわたしの中に探してしまいます。特に、見におぼえのないことであれば、わたしたちの不安は止むことがありません。わたしたちが原因で身に覚えのあることならば、それをわたしたちは修正すれば良いのです。しかし、身に覚えのないことは、それは「わたしが原因だ」とイエス様は言ってくださっているのです。その時、わたしたちは、原因が分からない不安に襲われることはなくなるでしょう。  

 さらにこの「わたしのために」という言葉は、「わたしの利益のために」というふうに訳すこともできる言葉です。そのように訳すとするならば、わたしたちが受ける身に覚えのないこと悪口や「この人変だな、常識はずれだなー」と誰かに思われることは、「イエス様のために」なっていると解釈できるでしょう。なぜわたしたちが迫害されることが、「イエス様のために」なるのでしょうか。それは、ひとつは、そのように迫害されている時に、イエス様のただしさが世に示されるからだと言えるでしょう。わたしたちが、イエス様を信じ、神の民としての生き方を生きる時に、隣人はそれは変だなーと思いながらも、その時その隣人は、わたしたちを用いてイエス様がお示しになりたい、イエス様の義しさに触れることになっています。そのただしさに触れることで、最初は迫害していいた者が、回心し、神の民にされるということが起きることがあります。それは、使徒言行録に書いてある、あのパウロのように、迫害していた者が、イエス様に出会い、回心し、信仰者となったようにであります。そのように、神様がお救いになりたい人を救うための手段として、わたしたちが用いられることがあります。その手段の一つとして、わたしたちが迫害されるということがあります。ですので、わたしたちが迫害されることが、「イエス様のため」になるといえるでしょう。わたしたちが迫害されるということが「イエス様のためである」というもう一つの理由は、本当に自分たちが神様の民とされているということが、迫害されている時に目に見える形になっているということと関係しています。わたしたちはイエス様のただしさに与って生きているからこそ、この世において、異国人と成っていて、迫害をうけます。つまり、迫害を受けているということはちゃんと、神様の民とされていることなのです。わたしたちがちゃんと神様の民となっているということは、イエス様にとっても、父なる神様にとっても、聖霊なる神様にとっても、「喜び」なのです。決してイエス様はわたしたちが身に覚えのないことでの悪口や、迫害を受けていることを、喜んではいないでしょう。愛する人が傷ついているのを見て、イエス様は喜ばれることはないでしょう。しかしイエス様はその時遠くで見ていて悲しんでいるだけではなくて、イエス様はわたしたちと共にその迫害や悪口を共に受けていてくださっています。パウロが、クリスチャンを迫害していた時に、イエス様は、パウロに「なぜわたしを迫害するのか」と言われています。イエス様は「なぜわたしの愛する子たちを迫害するのか」ではなくて、「わたしを迫害するのか」と言っておられます。ここに表わされていることは、クリスチャンの受けている迫害をイエス様は共にされて、共に傷を負われ、共に苦しまれているということです。ですからわたしたちが、身に覚えのないことで悪口言われている時も、クリスチャンであるということで嫌なことを言われている時も、イエス様は共にその迫害を受けてくださっているということがいえるでしょう。  

 イエス様はわたしたちの迫害における苦しみを半分負ってくださるというのではなく、わたしたちの迫害を、すべて受けてくださっています。そして、イエス様だけが受けた迫害もあります。それは史上最大のこの世における迫害です。その史上最大の迫害とは、十字架の死であります。罪をなにもおかしてないのに、罪人として死刑を受けられ本当に死なれるという最大の迫害を受けたのがイエス様です。その死刑にあわれる前に、イエス様は、愛する群集に裏切られ、愛する弟子に裏切られ、身に覚えのないこと悪口を浴びせられ、唾もかけられ、鞭を撃たれ、飲み物も食べ物も与えられず、十字架にかけられたのです。ここに最大の迫害が表わされています。わたしたちが受ける小さな迫害は、そのイエス様の最大の迫害とは比べ物にならないし、まったく異なったものであるけれども、イエス様はわたしたちが悪口を言われるような、小さなことまでも、「わたしのための迫害である」といってくださっています。それは、わたしたちの苦しみを御自分の苦しみとしてくださっているということです。つまり、イエス様はわたしたちが迫害されている時に、遠くでそれを見て喜んでいるのでなく、遠くでただ悲しんでおられるのでもなく、イエス様は迫害を受けるわたしと共にいてくださり、ひとつとなって、その迫害を受けてくださっているのです。その時、イエス様は、わたしたちと、本当にひとつとなっているということを実感される故に、苦しみながら、喜ばれるのです。そのひとつになっているという喜びは、わたしたちにとっても同じです。わたしたちも、迫害されている時に、本当にイエス様と一つになっているということを実感できるのです。イエス様がわたしたちの苦しみを共に負ってくださっていることも、わたしたちの苦しみをイエス様が自分のものにしてくださっていることも、迫害されている時に、本当に実感するのです。そのひとつになっているということこそ、神様の民となっているということです。ですから、イエス様は、12節で「喜びなさい。大いに喜びなさい」とわたしたちに言われるのです。  

 12節には続きがあります。わたしたちが、迫害されることで、天に大きな報いがあるとイエス様は言われています。天に大きな報いがある。わたしたちは、この世を普通にいきて、この世で嫌なことがあったら、この世を生きている間に報い、つまり嫌なことの分おなじくらい良いことが起きなければ、不幸であると考えます。しかし、神様の子となったわたしたちは、この世での苦しみが多くあり、そして死ぬ間際まで、嫌なこと、苦しみ、迫害の中にあったとしても、神様がおられる天において、そのことが報われるということを確信してこの世を歩むことが出来ます。ではその天の報いとはなにか。天に報いがあるというのは、この世でこれくらい我慢したから、天ではそれ相応の対価、つまり我慢した分だけのお金や、人によってはご馳走あるかもしれませんが、そういう自分の心を喜ばすものが与えられるということではないのでは無いかと思います。天における報いとは、一番は「神様が喜んでくださっている」ということでしょう。わたしたちが神の子となっていることを、神様が喜んでくださる。わたしたちが苦しんでいることで、しっかりとイエス様につながってことを知って、父なる神様は「この子はちゃんと、わたしの子となっている」と喜んで下さる。その神様の喜びがわたしたちの報いでしょう。この報いがいらないと誰が言えるでしょうか。さらに、神様は、この神様の喜びをもって天における祝宴を開かれ、その席にわたしたちを座らせて下さいます。これがわたしたちのさらなる天での報いでしょう。それは、まさに放蕩息子が父親の元に帰ってきた時に開かれたあの祝宴です。神様は、「ちゃんと、わたしのもとに、わたしの愛する子が帰ってきたのだ」と喜ばれ、そこで帰宅した子のために祝宴を用意する。それがわたしたちの天での報いです。この父なる神様の喜びの伴った報いこそが、わたしたちへの最上の幸いなのです。  

 わたしたちが身に覚えのないことで迫害されているということは、わたしたちがしっかりとイエス様とつながっており、神様の子となっているということがわかる故に幸いです。また、神様がそのように、しっかりと神様の子と変えられているわたしたちを見て喜んでくださっているということも幸いです。そして、その苦しんでいる神の子どもたちために、父なる神様は天でわたしたちが神様の国に帰ってきたことを喜ぶ祝宴を用意されています。それも幸いであります。それらがわたしたちの最大の幸いであります。今にも、喜びがあり、死を超えた終わりの時にも、わたしたちには幸いが用意されています。迫害には忍耐と祈りをもって立ち向かいましょう。そしてその迫害にも、幸いが隠されていることを知ったわたしたちは、迫害をも喜びとすることができます。これが、わたしたちに与えられた驚くべき幸いです。

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