夕礼拝

平和を実現する者よ

「平和を実現する者よ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第122編1-9節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章9節  
・ 讃美歌:352、536

 平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。?」と今、イエス様はわたしたちに向かって宣言されました。

 「平和を実現する人々は、幸いである」とイエス様がわたしたちに宣言されておりますが、このわたしたちに向けられたイエス様の言葉は、とても希望に満ちた言葉に聞こえるように思えますが、実はとても重く厳しい言葉です。わたしたちは、この言葉をなんとなしに聞く時は、「平和を好む者は幸いであるとか」「争いを好まない者は幸いである」とか、平和であることを望むものは幸いであるというふうに受け取っていることが多いのではないでしょう。争いを嫌い、平和を好む者とイエス様が言ってくださったとしたら、わたしたちは両手を上げて、「それは私です」ということができるでしょう。また、「平安な心を持つ者は幸いである」、「平和を楽しんでいる者は幸いである」のならば、わたしたちはそのような者になりたいと思うと思います。争いなく平和であることは、素晴らしいことだから、平和を味わい、楽しんで、平和を愛する者は幸せに違いにないと考えることができると思います。

 しかし、イエス様がおっしゃっている幸いな者というのは、「平和を好む者」でも「争いを嫌う者」でも、「平和を味わい楽しむ者」ではありません。イエス様は、「平和を実現する者」とはっきりおっしゃっています。「平和を実現する」という言葉は、口語訳聖書では、「平和を作り出す者」と訳されております。「平和を実現し、平和を作り出す者」が幸いであるとイエス様は言われているのです。平和を好み、争いを嫌うことと、平和を実現し作り出すということとは、違います。平和を好み、争いを嫌うということは、心の中でそう思うことができれば、何もせずその場にいても動かなくても、できることです。争いの場面を避けて、自分が平和であれば、何も問題ない。しかし、平和を実現することと、言うのは、実際に争いと向き合わなければ、できないことです。平和を好むだけの、争いを嫌うだけの者は、自らは争いを避けることを望むものであるでしょう。わたしたちは、どちらかと言うと、前者の「平和を好むだけの者」ではないでしょうか。わたしたちは誰も争いは好まないし、争いはできるだけ避けたい。安全で平和な道を選びたいと思っています。もしイエス様が、「平和を好む者は幸いである」といってくだされば、わたしたちは安心した思いになるでしょう。しかし、イエス様はそうは言ってくださりません。イエス様は、争いを避けて通る人ではなく、「争いの中で、平和を実現し作り出す人こそ幸いである」と言われるのです。
 では、争いと向き合い、争いの中で、平和を実現するというのは、どういうことでしょうか。争いを避けていることは、平和を実現することにはならないということをわたしたちは聞きました。そうすると、わたしたちは反対の事を考え、「では争いと向き合うために、争いに参加して、力づくでその争いを治めて、平和を作るのかな」と考えると思います。わたしたちが持っている経験と、この世の流れを見ると、今平和を実現するために、力によって平和を実現させようとしていることがわかると思います。イエス様が生きていた時代、そして、その時の人々の考えも、現代の世の中と似ていて、最大の権力を持つものが、平和を作り出すことができると考えられていました。力があって、人を支配できる立場の者が、仲裁に入り、争いを終わらすことができる。すべてをしっかり裁き、公平な世の中にする。そのような者が平和を作り出すことができるとわたしたちも、イエス様の時代の人々と同様に、すんなりと理解できると思います。現代でも、数多くの暴力と暴力がぶつかり、争いが生まれ、民衆が苦しむ、しかしそこに力あるヒーローが現れ、すべてを丸く治め、平和が訪れる。というそのような場面は、今の映画の世界でも、漫画でも、テレビでもよく登場し、採用されています。そのような圧倒的な力による支配で持って平和を作り上げるという答えしか、わたしたちは持っていないように思えます。
 では、イエス様は「平和を実現する者は幸いだ」ということを、わたしたちに向けられて語られているということは、争いの中に入り、戦い、相手を力でねじ伏せて、平和を実現しなさいと言われているのかと言えば、そうではないでしょう。もしイエス様が、そのようにおっしゃっているのであるならば、イエス様はこの言葉を、時の権力者や支配者、力ある者にお語りになるでしょう。しかし、どうでしょうか。今この言葉を向けられているわたしたちは、権力者でもなく、支配者でもありません。聖書に書かれていますように、この言葉が山の上で語られた時に、その場にいた者たちは、力あるものでも、支配者でもありませんでした。この時、イエス様の前にいたのは、つい最近までガリラヤで漁師をしていた弟子たちとイエス様に病を直して頂きたく集まった病人やこの世から見捨てられた者たちでした。その者たちは、イエス様に従って着いてきた貧しい民衆たちでした。弟子たちも民衆たちも、この山上の説教の幸いの教えの中に出てきた、「貧しい者たち」でした。貧しい者とは、自分を頼ることができず、この世界を頼ることもできず、何も頼ることもできない、「物乞いをしなくてはならないほど」自分には頼ることも、誇ることも、支えになるもの持っていない者たちのことです。彼らには、権力も、お金も、何の力もありません。力あるものではなく、全く力のないものたちです。当時彼らが考えていた、「平和を実現する力ある者」とは、程遠い存在だったのです。ですが、イエス様は、その者たちに向かって「平和を実現する者よ」と呼びかけているのです。「力ない、貧しい者たち」に向かって、イエス様は「平和を実現できる」と言われるのです。そして、あなたは「神様の子ども」であるとも、イエス様は宣言されるのです。この言葉を聞いていた彼らにとっては、衝撃的だったでしょう。実は、力あるものこそ、すべてを支配できる、だから力ある者こそ「神の子」としてふさわしいと、当時のユダヤ人たちは思っていましたし、彼らは力ある者しか、平和は実現できないと考えていましたから、驚いたに違いありません。   

 今、わたしたちにも、イエス様は言葉を向けられています。力なきわたしたちに向かって「平和を実現する者よ」と言われております。イエス様は権力者や王様に語りかけたのではありませんでした。ではイエス様は、力ないものに「平和を実現せよ」とわたしたちに無理難題を出され、わたしたちに絶望を味あわせようとされたのでしょうか。そうではないでしょう。そのことを考える上で大切なのは、平和を実現するとはどういうことなのかということです。ある説教者は、争っている人々の中に入っていき、平和を作り出すこと、その両者を和解させることこそが平和を実現することだと言っています。その人はイエス様が神様とわたしたち人間とを和解させてくださり、平和を実現してくださったことに基づいてそのことを言っています。そのことによって、神様と同じようなことをしているから神様に似てくる、だから神の子と呼ばれるようになるとも言っています。これはそうなのかとも、思えますが、どこか、ひっかかる点があると思います。それは、この説明の中の、平和を実現する人は、争いの中にいるが、争いの当事者ではないということです。争い会っている者たちの一人ではなく、第三者として、その争いの中に入り、仲裁をすること、それが平和を実現することだと言えるでしょうか。例えてみるならば、その人は裁判官のような人だと言えるでしょう。争っている両者に、一つの答えをだして、決着を付けさせる者です。しかし、どうでしょうか。世の裁判でも、裁きがくだされ、刑罰がくだされるが、恨みや怒りが消え去ることなく、表面上は決着がつくが、心の中でその、怒りや恨みの始末がつかないということもあります。死刑判決がくだされても、遺族の恨みは消えることがないことがあります。またその判決に不服であるとして、控訴して、上に訴えるということ事態は多々あります。法治国家であり、裁判制度があることは、大切なことです。しかし、それがあれば完全な平和が実現しているとはいえないということを、わたしたちは理解できると思います。わたしたち一人一人が、裁判官のようになれば、争いがなくなるわけでないことはわたしたちにはわかります。
 神の子であるイエス様は、神様と人との両者の仲裁に入ったのではありません。まず神様とわたしたちとの間に争いがあるといっていますが、神様がわたしたちに対して、なにか争いを起こすということもなければ、嫌なことをするということもありません。そうではなくて、人が好き勝手に生きて、一方的に神様を嫌い、神様に敵対し、神様に向かって争いを起こしていたのです。それは、わたしたちが根本的に持っている罪のためです。わたしたちは元々、神様よりも上になり、神様をも従わせたいという心を起こさせる罪を持っています。その罪のため、わたしたちは、神様のみならず、どの人々よりも上に成りたいと思い、どんな人々をも自分の下に置きたい、従わせたいと思う心も生まれています。その罪のために、わたしたち人は、自分が主人になり神様を下僕のようにしたいと考えています。つまり、自分が王様であって、神様を下僕にしたいと思ってしまうのです。しかし、そこに、真に力ある主であり王様であられる人が現れた時に、人は自分の地位を守るために、自分が一番になり続けられる、中心になり続けられる、支配し続けることのできるその地位を守るために、その真の王と争いをしたのです。つまり、自分が王様でありたいために、中心でありたいために、神様と敵対し、争いをおこしたのです。神様との間に争いを引き起こしていたのはわたしたちです。これは一方的な攻撃です。神様は、人と戦われませんでした。戦われるどころか、愛する独り子を、その一方的な攻撃の中に、つまり神様に対する人の攻撃が巻き起こる戦火に送られたのです。なんのためか、それは、その人の持っている敵意を受け止めて、赦すためでした。神様は、イエス様にすべてを屈服させ、支配する力を与えることもできたでしょう。しかし、神様は、神の子であられるイエス様にそれらの力を与えずに、人と同じ弱い死ぬ肉体をもたせ、力なき者とならせ、この世に送られました。それはなぜか。それは、人の敵意と、その敵意を産み出す罪を受け止めるためです。力で相手の敵意や恨みを押さえつけるのではなく、敵意をその身に受け止めるために、あえて力なき者になられました。その罪から生まれた敵意は、イエス様の受難に現れています。イエス様が十字架につけられるまでに味わわれた、イエス様に対する侮辱の言葉、吐きかけられたつば、裸にさせ鞭で体を傷めつけたこと、刺のある茨の冠をかぶせたこと、「殺せ、十字架にかけて、殺せ」と言ったこと、そして実際に十字架にかけてイエス様を殺したこと、そのすべてにわたしたちの敵意が現れています。そのすべての敵意を背負うために、その敵意を産み出す罪を受け止めるために、イエス様は忍耐されました。どのような敵意も攻撃にも、イエス様は忍耐されました。それは我慢とは違います。実際は力在る方なのに、その力を行使せず、力なき者と同じようになり、忍耐されたのです。そして、人が犯したすべての罪もその罪の行いをも背負い、忍耐され、赦されたのです。
 神様がイエス様を通して、わたしたちの敵意と罪を御自分で引受け、赦して下さったことによって、わたしたちと神様との間に和解が成立し、平和が実現したのです。パウロはローマの信徒への手紙5章で「わたしたちは…わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得て」いると言っているのはそのことです。わたしたちがその罪に気付き、そのことに驚き、「神様に対してなんてことをしてしまっていたのか」と気づく時、罪の悔い改めが起こり、イエス様の忍耐と、赦しの業への感謝が生まれます。そして、同時にイエス様こそが、わたしたちの大小様々なすべての争いの間に入ってくださっており、その争いの中にある敵意を御自分で引き受けて下さり、敵意という隔ての壁を壊してくださり、再びその争う両者を和解させ結びつけてくださるということを知るのです。

 わたしたちの中で、今争いの中にいないという人はいるでしょうか。そして、今争いの中に入り、平和を実現していますということができる人はこの中に、どれだけいらっしゃるでしょうか。わたしもこの言葉の前に立たされて、とても苦しさをおぼえます。わたしたちのレベルでの争いは、この世界にある大きな争いことではなくて、身近な争いのことです。特に自分の近くにある争いです。自分が関係している争いです。自分が関係しているちょっとした喧嘩から、修復不可能になってしまうほどの争いまですべてです。わたしたちは、自分の力では和解も、平和も実現は難しい。無理かもしれません。むしろわたしたちは、その争いの中で、平和を実現するどころか、逆にその争いの相手に対して怒ったり、恨んだり、攻撃したりしてしまいます。わたしたちが、嫌っている者に対して、憤りや怒り、恨みをぶつけたとしたら、それは、実はその間にいてくださるイエス様がその身にそれらを受けてくださっているということです。なぜならば、イエス様がその争いの間に入り、敵意を受け止めくださっているからです。わたしたちは隣人を傷つけると同時に、イエス様をも傷つけています。その痛みを負ったイエス様はわたしたちに向かって、「兄弟姉妹を愛し、赦しなさい」と言われています。その言葉の底にあるのは「兄弟姉妹を傷つけるのであれば、その思いをすべてわたしにぶつけなさい」と言われているのです。「そのあなたの恨みや怒り、人を傷つけてしまう罪のためにわたしは十字架にかかり死んだのだ。そして、それでもわたしはあなたを恨まず、怒らず、あなたをゆるす。そしてあなたを愛す」とイエス様は言われるのです。それを知った、わたしたちは、簡単に隣人を傷つけることはできません。そして、隣人を傷つけることも、イエス様を傷つけることもしたくないと思うようになるのです。イエス様がわたしとあの人の間にたってくださっていると知った者は、さらにイエス様がその両者の関係を修復してくださると信じ、それを望む者となります。
 わたしたちは今日、家に帰ります。明日から職場に戻ります。学校に戻ります。家庭に戻ります。わたしたちは争いが絶えぬ場所へと戻って行きます。しかし、わたしたちの関係の中にある、争い、破壊、破れを、主であられるイエス様が、平和を実現してくださる主イエス様が、争いを治め、破壊を止め、破れを修復してくださり、平和を実現してくださいます。さらにこの主であられるイエス様は、わたしたちをこの平和実現のために、用いようとされています。それぞれの持場で用いようとされています。わたしと、あの人と争いの間にイエス様が立ってくださいます。わたしとあの人との間の争いをイエス様がその間に入り止めてくださいます。わたしとあの人との破れを、イエス様が間に立って修復してくださいます。だからわたしたちは、あの人が、わたしに対して争いを起こした時、攻撃をしてきた時に、忍耐を持って、祈り、ゆるすのです。もはやわたしたちの方から、争いを起こすことはしません。しかし、自分が争いをやめても、忍耐しても、ゆるしても、相手が攻撃をやめなければ、平和は訪れません。わたしにとっての、あの人が変わらねば、攻撃を止めねば、真の平和は訪れません。あの人の攻撃を止めさせるのも、あの人を根本から変えてくださるのも、イエス様です。わたしたちに罪を気づかせて下さり、根本から変え、争う者からゆるす者に変えてくださったイエス様のみが、あの人を変えることがおできになるからです。ですから、わたしたちが、平和は実現するために成さねばならぬことは、争いの中で忍耐し、イエス様があの人を変えてくださることを祈り求め続けて行くことです。イエス様が争い止め、あの人を変えて下さった時、そこで平和が実現するのです。その時、忍耐をし待ち続けたわたしたちのその業を、イエス様は、御自分のなさった平和実現の業の一部として受け止めくださるのです。力も誇りも功績も、自分を支えるものも、何ももっていないわたしたちが、イエス様を信じ、イエス様に支えられ、争いの中で、忍耐した時に、そのわたしたちの忍耐の業をイエス様は、御自分の業の一部と認めてくださるのです。本来は平和を実現することのできないわたしたちが、イエス様に頼り、イエス様の支えを得て争いの中で忍耐し祈る時、平和実現の業の担い手の一人として、神様がわたしたちを認めてくださるのです。真に平和を実現されるのはイエス様です。しかし、わたしたちが、争いの中で、イエス様と共に、イエス様に委ねて、忍耐し、祈るだけなのに、その小さな業を、平和実現の大きな業として認めくださるのです。平和実現の業の担い手の一人と認められた時わたしたちは、神様の子どもの一人として、認められるのです。それが幸いでないはずがありません。わたしたちを救い出し、平和を実現する小さな祈る忍耐者としてくださった主に感謝して。お祈りいたしましょう。

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