主日礼拝

主なるメシア

「主なるメシア」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第110編1-7節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第12章35-37節  
・ 讃美歌:321、145、448

学者との議論  
 本日ご一緒に読むマルコによる福音書第12章35節以下には、エルサレム神殿の境内で人々を教えておられた主イエスが、律法学者たちの「メシアはダビデの子だ」という発言について批判的なことを語られたことが記されています。マルコによる福音書第12章には、ご生涯の最後にエルサレムに来られた主イエスが、祭司長、律法学者、長老たちといくつかのことについて論争をなさったことが語られています。その論争の一つのテーマがこの「メシアはダビデの子か」という問題だったのです。これまでの所では、誰かが主イエスを批判するために問いかけて来ることが多かったのですが、ここでは主イエスの方から問いを投げかけておられます。主イエスが人々に、「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と突然問うことはかなり唐突な感じがします。ひょっとしたら、これが語られる前に既に主イエスと律法学者たちの間にこのことをめぐる議論があったのかもしれません。その議論における律法学者たちの主張を取り上げて主イエスはこのように語られたのかもしれません。いずれにせよ、主イエスはここで、「メシアはダビデの子だ」という律法学者たちの主張への反論を語っておられるのです。

メシアとキリスト  
 「メシア」と訳されている言葉は、新約聖書の原文のギリシャ語においては「クリストス」つまり「キリスト」です。以前の口語訳聖書ではここは「律法学者たちは、どうしてキリストをダビデの子だと言うのか」となっていました。その「キリスト」という言葉は、旧約聖書のヘブライ語における「メシア」という言葉がギリシャ語に訳されたものです。この言葉の意味は、「油注がれた者」です。旧約聖書には、神様によって王や祭司の務めに任命されることの印として油が注がれたことが語られています。ですからメシア、キリストは神によって立てられ、任命された者ということですが、次第にそれは神様が遣わして下さる救い主を意味する言葉となっていきました。主イエスの時代、メシア、キリストと言えばそれは「救い主」という意味だったのです。ですから「イエス・キリスト」という呼び方は、「イエスこそキリスト、つまり救い主である」という意味であり、それ自体が一つの信仰告白です。イエスはキリストであると信じることがキリスト教信仰の基本なのです。それにしても新共同訳聖書は、「キリスト」という言葉を元のヘブライ語の「メシア」と訳したわけで、それって翻訳とは言えません。せっかくここに「キリスト」という言葉があるのに、それを見えなくしてしまっているのです。

キリストはダビデの子
 そういう翻訳への文句はさておき、キリスト、救い主はダビデの子である、と律法学者たちは言っていました。ダビデはイスラエル王国の土台を築いた最も偉大な王です。イスラエルの王の位は、このダビデの子孫に代々受け継がれてきたのです。救い主キリストはこのダビデの子であるというのは、ダビデ王の子孫として生まれるということです。律法学者たちはそのように言っていたのです。そしてそれは彼らが根拠なしに勝手に言っていたことではありません。旧約聖書の多くの箇所に、救い主メシアはダビデの子として生まれる、ということが預言されています。その代表的な箇所を読んでおきたいと多います。イザヤ書第11章1?10節です。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで/その根からひとつの若枝が育ちその上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊/思慮と勇気の霊/主を知り、畏れ敬う霊。彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。目に見えるところによって裁きを行わず/耳にするところによって弁護することはない。弱い人のために正当な裁きを行い/この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち/唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし/真実をその身に帯びる。狼は小羊と共に宿り/豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち/小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ/その子らは共に伏し/獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ/幼子は蝮の巣に手を入れる。わたしの聖なる山においては/何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように/大地は主を知る知識で満たされる。その日が来れば/エッサイの根は/すべての民の旗印として立てられ/国々はそれを求めて集う。そのとどまるところは栄光に輝く」。ここには、平和の王としての救い主の到来が予告されていますが、その救い主がエッサイの株から生え出ると語られています。エッサイはダビデ王のお父さんの名前です。ですからこれは、ダビデの家系から、ダビデ王に匹敵する平和の王、救い主が現れて、人々に全き平和を与えて下さるという預言なのです。そういう箇所が他にも沢山あります。ダビデ王の子孫として救い主キリストが生まれることは、旧約聖書に親しんでいる人々にとっては常識だったのです。

主は、わたしの主にお告げになった  
 ところが主イエスはその常識を覆すようなことをここで言っておられます。36、7節「ダビデ自身が聖霊を受けて言っている。『主は、わたしの主にお告げになった。「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を/あなたの足もとに屈服させるときまで」と。』このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか」。主イエスがここで引用しておられるのは、先程共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第110編の1節です。この110編は、詩編の中に多くある、ダビデの手によると言われている詩の一つです。実際にはダビデよりもずっと後の人が書いたものと思われますが、当時の人々はこれをダビデの作と信じていました。主イエスもその当時の常識に基づいて語っておられるのです。この詩の1節は、主なる神様が救い主に対して、「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」と宣言しておられること、つまり救い主の勝利とそのご支配の確立を主なる神様ご自身が告げておられることを語っています。マルコにおいてはそのお告げのことが「主は、わたしの主にお告げになった」、詩編の方では「わが主に賜った主の御言葉」と表現されているのです。いずれにも「主」という言葉が二度使われています。マルコ福音書の原文においては両者は同じ言葉なのですが、詩編の原文においては、この二つは全く別の言葉です。「主の御言葉」の方の「主」は「ヤーウェ」あるいは「ヤハウェ」と読まれる、イスラエルの神様のみ名を指す固有名詞です。文語訳聖書ではこれは「エホバ」と訳されていましたが、口語訳から「主」と訳されるようになったのです。それに対して「わたしの主にお告げになった」の方の「主」は、「主人」という意味の普通名詞です。ですから元の詩編においてここは、「イスラエルの神ヤーウェが、私のご主人様にこうお告げになった」ということになるのです。ちなみに文語訳聖書において詩編110編のこの部分は「エホバわが主にのたまふ」でした。この詩を歌ったのがダビデ自身だとすれば、ダビデ自身が、来るべき救い主のことを「わたしの主、ご主人様」と呼んだということになります。主イエスはそのことを指摘しておられるのです。このようにダビデが救い主キリストを「わたしの主」と呼んでいるなら、キリストはダビデの子ではなくむしろダビデの主であるはずではないか、ということです。

主イエスはなぜこんなことを?
 主イエスは何のためにこのようなことをおっしゃったのでしょうか。キリストである私はダビデの子ではない、と言うためでしょうか。しかし主イエスがダビデの子孫としてお生まれになったことは、新約聖書が一貫して語っていることです。マタイによる福音書の冒頭、新約聖書の第一ページには「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあり、アブラハムからダビデを経て主イエスに至る系図が記されています。ルカによる福音書も、主イエスがダビデ家の子孫であるヨセフの子供として、ダビデの町であるベツレヘムでお生まれになったことを語っています。またこのマルコによる福音書でも、10章46節以下で、盲人の物乞いバルティマイが、主イエスに向かって「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と叫び、主イエスによって癒されたことが語られていました。救い主キリストはダビデの子であるということは、マルコ福音書においても当然の前提なのです。主イエスはなぜ、それを否定するようなことをおっしゃったのでしょうか。

律法学者たちの思い
 そのことを知るためには、律法学者たちがどういう意味で「キリストはダビデの子だ」と言っていたのかを考えてみる必要があります。先程も申しましたように、このことをめぐっては既に律法学者たちと主イエスの間に論争があったのかもしれません。そこにおいて律法学者たちが語っていたと考えられるのは、「キリストはダビデの子なのだから、イエスはキリストではあり得ない」ということです。つまり彼らは主イエスがダビデの子、ダビデの子孫であることを認めず、だからイエスは救い主キリストではないと言っていたと思われるのです。マタイ福音書の冒頭にあるあの系図は、アブラハムからダビデを経て主イエスの父ヨセフに至るものです。ルカによる福音書の第3章にも、それとは少し違う系図がありますが、それもやはりヨセフから遡っていくものです。しかしマタイもルカも、主イエスが厳密な意味ではヨセフの子ではないこと、ヨセフのいいなずけであったマリアが、聖霊によってみごもって主イエスを生んだことを語っています。しかし聖霊による妊娠ということは多くの人は信じようとしないわけで、イエスはマリアの不義密通による子だ、ということが当時から言われていたようです。主イエスのことが「マリアの子」と呼ばれている箇所があることがそれを示しています。普通は父親の名を取って「ヨセフの子」と言うのです。「マリアの子」という呼び方は、イエスは父親の分からない子だという軽蔑の言葉ではないかと思われます。律法学者たちもそういう噂をたてにとって、イエスはダビデ家の子孫などではない、どこの馬の骨か分からないイエスが、神からの救い主キリストであるはずはない、と言っていたのではないか。「キリストはダビデの子だ」ということが、主イエスはキリストではないことの理由とされていたのです。そういう批判に対して主イエスはこのように反論なさったのではないかと思われるのです。

キリストに対する姿勢の間違い
 けれどもそこで勘違いをしてはなりません。主イエスは「お前はダビデの子ではないからキリストではない」と批判されて、それに対して「ダビデ自身がキリストを『私の主』と呼んでいるのだから、キリストはダビデの子でなくてもよいのだ」と開き直ったのではないのです。そうではなくて、主イエスはここで、律法学者たちがキリストについて抱いている根本的な思い、姿勢の間違いを指摘しておられるのです。彼らは、「キリストはダビデの子孫として生まれる」という旧約聖書の預言を、自分たちがこの人は救い主であるか否かの判定をするための基準としています。彼らは「キリストはダビデの子だ」という基準によって主イエスのことを判定して、「あなたはキリストとしての基準を満たしていないからキリストではない」と言っているのです。主イエスはそういう律法学者たちに対して、「神様が遣わして下さる救い主は、そのように人間がある基準によって判定して、救い主として認めるようなものなのか、それでは、あなたがたがキリストの主人であり、あなたがたのめがねに適わない者はキリストとして認められないということになるではないか。あなたがたは何時からキリストに合格とか不合格という判定を下す者になったのか。それは神がお遣わしになる救い主キリストに対するあなたがたの姿勢が根本的に間違っているということだ。あなたがたがメシアを判定する基準として持ち出しているダビデその人が、キリストのことをどのように語っているかを見なさい。彼は自分の子孫として生まれるキリストを、『わたしの主』と呼んでいるではないか。ダビデのこの姿勢こそが、神様から遣わされる救い主キリストに対する人間の正しい姿勢なのだ」。主イエスはそのように言っておられるのです。つまりここでの主イエスのお言葉は、キリストはダビデの子ではないとか、ダビデの子でなくてもよいのだ、ということではなくて、「キリストはダビデの権威に従属するものではない。キリストは何らかの人間の権威によって認められて初めてキリストと名乗ることができるのではなくて、自らの内に、救い主としての権威を持っているのだ。そのキリストの前に膝まずき、自分の主として迎え、聞き従うことこそが、救い主キリストを信じ、その救いにあずかるためには必要なのだ」、という意味なのです。

私たちがキリストを判定するのでなく
 このことは私たちの信仰においてもとても大事なことです。主イエスがダビデの子孫であるかどうかということは、ユダヤ人でない私たちにとってはあまり身近な問題ではないかもしれません。しかし、自分の思いや考え、あるいは願いや期待を基準として、主イエスのことを、本当に信ずるに足る、依り頼むに足る、従うに足る救い主だろうか、と判定していくことは、私たちもいつもしているのではないでしょうか。私たちは下手をすれば、主イエスのことを判定し続けて生きていくことになりかねません。主イエスが自分にとってどれくらい役に立つか、どれくらい平安や慰めを与えてくれるか、そういう基準によっていつも主イエスのことを判定している。それによってある時は熱心に信じてみたり、ある時は信仰など何の役にも立たないと放り出したりするのです。そういう判定の基準は全て私たちの思いや願いです。自分の思いや願いや期待に適っているかどうかで主イエスの価値を量っているのです。それは律法学者たちがしているのと同じことです。そこには、神様が遣わして下さる救い主を「わたしの主、ご主人様」と呼んだダビデの姿勢は失われています。その姿勢が失われている所には、救い主キリストとの出会いは起らないのです。本日の箇所はそのことを私たちに警告しています。私たちがここからしっかりと聞くべきことは、救い主キリストであられる主イエスは、私たちが自分の思いによって合格とか不合格などと判定できるような、私たちに従属する者ではなくて、私たちこそそのみ前に膝まずき、従うべき主であられるのだということです。信仰をもって生きるとは、主なるキリストに私たちが従っていくということなのです。

主のみ言葉を聞く幸い
 ダビデに倣ってキリストを「わたしの主」と呼び、そのみ前に膝まずいて従っていく時にこそ、私たちもダビデと共に、神様がキリストにお告げになったみ言葉を聞くことができます。詩編110編の言葉を用いるなら、「わが主に賜った主の御言葉」を聞くことができるのです。それは「わたしの右の座に就くがよい。わたしはあなたの敵をあなたの足台としよう」というみ言葉です。天地を造り支配しておられる神様が、救い主キリストをご自分の右の座に就けて下さり、全ての敵を打ち破ってそのご支配を確立させて下さることを告げるみ言葉です。そのことは主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、父なる神様の力によってその死から復活し、天に昇り、父なる神の右の座に就かれたことによって実現しました。独り子である主イエスをこの世に遣わして下さった父なる神様は、主イエスをそのようにご自分のもとに高く引き上げ、あらゆる敵を打ち破り、キリストのご支配を確立して下さったのです。その敵とは、私たちを神様に背かせようとする罪の力であり、その罪によってもたらされる様々な苦しみや悲しみであり、私たちを神様の恵みから引き離して絶望させようとする死の力です。それらの敵を全て神様は主イエスにおいて打ち破って下さいました。主イエスが十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちはもはや罪人として裁かれ滅ぼされることがなくなりました。主イエスが復活なさったことによって、肉体の死を越えた新しい命が示され、死はもはや私たちを絶望させるものではなくなりました。そして復活した主イエスが天に昇り、父なる神の右の座に就いて下さったことによって、今や私たちはこの世の全てを支配する神様の恵みの下に置かれているのです。自分の思いで主イエスを判定することをやめ、主イエスこそ「わたしの主」であられることを受け入れ、主イエスのみ前に膝まずく時に私たちは、キリストである主イエスによって神様が実現して下さったこの救いを告げるみ言葉を聞くことができるのです。

神の右に立っておられるキリストを見る
 初代の教会における最初の殉教者となったステファノは、人々の激しい憎しみと殺意によって石で打ち殺されようとしている中で、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と語りました。使徒言行録の7章56節です。彼は迫害によって自分が殺されようとしている中で、救い主キリストである主イエスが、父なる神様の右の座に就いておられ、この世の全ての力に勝利し、支配しておられるお姿を見ることができたのです。しかも彼は人の子主イエスが神の右に立っておられるのを見ました。それは主イエスが父なる神の右の座から立ち上がり、今まさに彼をみもとに迎えようとしておられるお姿であると言われます。あらゆる罪や苦しみ悲しみや、死の力をすらも足下に屈服させ、支配しておられる主イエスが、命を奪われようとしている自分のために立ち上がり、歩み寄って手を差し伸べていて下さることを彼は見ることができたのです。その主イエス・キリストのお姿を見つめていたので、彼は安らかに眠りにつくことができたのです。彼が死の苦しみの中でこのように救い主キリストのお姿を見ることができたのは、彼がキリストを自分の主人として信じ、そのみ前にひれ伏す信仰に生きていたからです。主なるメシア、キリストのみ前に膝まずくことを知っていたからです。自分の思いや願いによってキリストを判定している間は、罪や苦しみや死に勝利する救い主キリストに出会うことは決してできません。人間の思いや願いという基準によって判定されるキリストは、人間の限界を超えることはできないのです。私たちがどんなに努力してもなおまつわりついてくる罪、自分の力ではどうすることもできない苦しみや悲しみ、そして私たちから全ての望みを奪い、絶望へと引きずり込もうとする死の力、これらに打ち勝つことのできる救い主キリストは、私たちが何らかの基準によって判定できるような方ではないのです。主イエス・キリストについてあれこれ考え、判定するのでなくて、そのみ前に膝まずいて礼拝をすることによってこそ、父なる神様が主イエスにお告げになった「わたしの右の座に就きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」というみ言葉を、私たちもはっきりと聞くことができます。このみ言葉を聞いた教会は、使徒信条において、主イエス・キリストが「三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」と告白してきたのです。この告白に生きる私たちは、苦しみや悲しみの中でも、死の床に伏しても、それらの全ての敵に勝利して下さっている主イエス・キリストが、父なる神の右の座から立ち上がって親しくみ手を差し伸べて下さっていることを見つめることができるのです。

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