夕礼拝

心の清い者よ

「心の清い者よ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:詩編 第24編1-10節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章8節  
・ 讃美歌:353、504

 「心の清い人々は幸いである、その人たちは神を見る」。

 神様を見たものは、心の清い者です。神様に出会い、神様を信じたものは、清いと認められ、清い心を造られていきます。

 イエス様は今日わたしたちに「心の清い人々は幸いである。」と言葉を投げかけてくださっています。なぜ心の清い人は幸いなのでしょうか。その理由はイエス様がお答えになっています。「心の清い者は神様を見るから幸いなのである」とイエス様はおっしゃっています。

 まず心の清いというのはどういうことなのかを考える前に、なぜ神様を見ることが幸いなのか考えていきましょう。神様を見ることができることが幸せだと言われても、実際に父なる神様を見たこのある人にわたしたちは出会ったことが無いですし、神様を見たということを想像することも困難ですから、どうのように幸せなのか検討がつきません。ですから、聖書の中で、神様に出会ったことのある者の反応を見て行きたいと思います。実は、旧約聖書の中で、神様を見たという者のことが書かれてあります。それは、預言者イザヤです。そのことは、イザヤ書6章にかかれています。6章5節でイザヤは万軍の主を自分の目で見たとイザヤは告白しています。その神様を見たイザヤは、幸いに満ち溢れたかと言えば、実はそうではなかったのです。イザヤは主なる神様を見た時に、「災いだ。わたしは滅ぼされる。わたしは汚れた唇の者。汚れた唇の民の中に住む者。」を言いました。イザヤは、神様を見た時に、これは災いだと思ったのです。それは、自分が汚れた者であるから、滅ぼされると思ったからでした。このイザヤの反応を見てみるとわかることがわたしたちにあります。それは、清くない汚れたものが、神様を見ると、そのものは、滅ぼされるだろうという恐怖を覚えるということです。また、神様を前にした時に、感じるのは自分の汚さ、今日の御言葉にそって言えば、自分の心の汚さを知ってしまうということでしょう。

 そうすると反対の視点から考えると、安心して神様を見るためには、人の内側にある心が清くなくてはいけないということがわかります。では心が清いとは、いったいなんなのでしょうか。それを共に考えていきたいと思います。一般的に「心が清い人」ということを考える時、そこで考えられているのは、道徳的な事柄であって、悪い行いをしない、素直な真っ直ぐな心を持っている人というのを考えるのではないかと思います。しかし、そのような、「心の清さ」というのは、一時的といいますか、断片的といいますか、一面的といいますか、心が清い時もあるけれども、なにか不幸な自体に陥ると、その心の清さは保てなくなるような、変化するものであると、わたしたちは考えていると思います。聖書が語る、「清い」という言葉は、「混じりけのない」とか、「水増していない」とか、「純粋な」という意味を持っています。従って、イエス様のお考えになっている「心が清い」ということは、ある時は心が清くないけど、ある時は清いというように、変化するものではないでしょう。イエス様のおっしゃる「清い心」というのは、どの時でも、常に、いつまでも清い心のことです。従って、ある程度清いとか、誰かと比べると自分は清いものだというように、比べられるものではないでしょう。イエス様のおっしゃる心が清いということは、「完全に心が清い」といっても過言ではありません。

 それらを踏まえ、わたしたちは自分自身のことを思い返してみると、そのような完全な清い心でいつでも真っ直ぐで、純粋であるとは言えないし、悪いことを行うだけでなく、心の中で悪い事を思い浮かべないように努力したって、どうしても、汚れた思いを抱いてしまうことがあります。そのことを知ると、わたしたちは、この「心の清い人々は幸いである」とイエス様に言われた時に、自分のこころを見つめ、その汚さに絶望を抱き、不幸であると思ってしまいます。まさにイザヤが神様を見たときと同じような気持ちでしょう。自分は汚れていて、救いようがないと思ってしまうのです。私たちは今、礼拝の場にいます。今わたしたちは神様のみ前に出て、礼拝をささげています。その神様は、その時々だけの清さや清い行いをしているということを求められておられるのではなくて、内側にある心の清さを求めておられます。人には見えない、わからない、隠しておくことができる、その心の中において、あなたは清い者であるか、と問われる時に、私たちは、自分がとても神様のみ前に出ることのできない、汚れた心を持つものであることを覚えずにはおられません。

 そこで、わたしたちは自分の心の汚さを知り、どうにかして、その心の汚れを無くしたいと考えると思います。しかし、心というのは、やっかいです。体についた汚れならば、ぱっぱとはらうことができますが、心は自分の力や努力では、清くできません。体であれば、砂やホコリがついて汚れてしまってもお風呂で洗い流せば、綺麗になります。しかし、心の汚れはお風呂に入ろうが、滝に打たれようが、川に入って身を沈めようが、清くなるわけではありません。心の汚れというものは、人のあらゆる業や、儀式的であったり呪術的であったりする業を通そうが拭い去れるものではありません。キリスト教の洗礼を受けてもそうです。洗礼の水でわたしたちの心の中が洗い流されて、完全に清くなるのかと言えばそうではありません。

 わたしたちは、生きている間に完全に心が清らかになるということはないでしょう。しかし、わたしたちは今、神様の前に立ち、礼拝の場に立っていることができ、また神様の言葉を聞くことができています。本来はありえないことです。心が汚れているものが、神様の前に立って、神様と共に過ごしているというのは、矛盾しています。心が汚れているものは、神様の前に立つことができないのになぜ、今わたしたちがこの場にいることができるのか。それは、神様がこの場に招いて下さり、ここまで導いて下さり、心も体も存在も清くないのに、清いもののように認めてくださっているからです。「では、なんで清い心持っていない人が清い心を持っていると認められるのか?」「なんでわたしたちは今神様の前に立っているのに滅ぼされないのか?」とわたしたちは疑問に思います。その答えは、イエス様がわたしたちの罪と汚れをすべてを背負って、わたしたちの代わりに死んで下さったからです。わたしたちが、負うべき滅びをイエス様がすべて背負ってくださったから、今礼拝で神様の前に立つこと、神様と出会うことがゆるされているのです。

 神様が清いものと認めてくださるというのは、人が永遠に清くなることができないから、諦めて神様が我慢してくださっているということではありません。神様は人を清い者、清い心を持つ者として、造り替えて下さります。ですから、今は完全には清くないけれども、後に清くなる者として、暫定的に清い者、暫定的に清い心を持つ者として神様はわたしたちを見てくださっているのです。神様は人の清くすることを諦められてはおられません。神様は人に清い心を与えようとしてくださっています。では、どのようにしたら神様から、清い心を頂けるかということが気になってきます。どのようにしたら手に入るという、そのようなマニュアルのような手順ありません。しかし、まずは自分の内側には悪い思いを生み出し、また時に悪い行いを起こさせる心があるということを認めること。また自分ではその心をどうしても制御できないし、捨てることもできないということを認めること。そして、ただその心を捨てさせ、清い心を新たに作って下さる神様を信じる神様に委ねること。実際に心を新たに造り替えて下さる聖霊なる神様の働きを信じること。それが大事でありましょう。それらのことを実際に行った人が聖書に登場しています。それは旧約聖書に出てくるダビデ王です。詩編51編に、ダビデの悔い改めの祈りが書かれてあります。ダビデが、自分の部下であるウリヤの妻バト・シェバに心を傾け、その妻を我が物とするために、ウリヤをわざと戦場の危険な所に配置し、ウリヤを戦死させ、その妻を娶った。そのことを神様はしっかりと見ておられ、預言者ナタンを通して、神様はダビデに言葉をかけ、ダビデの罪を明らかにさせました。その時、ダビデは自分には罪があり、また隣人の妻を貪ることを求める汚い心が自分にあるということを知りました。そして、ダビデはこう祈ったのです。「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように」、とこのように自分の罪を拭い去ってくださいと祈り、また「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」とも祈りました。ダビデは、預言者ナタンを通しての神様の御言葉によって自分の罪と汚れに気付き、それを認めました。そして、ダビデは自分では、この心も罪もどうすることもできないと知ったので、神様にすがって、神様により頼んで、罪をゆるし、清い心与えてくださいと祈りました。これが悔い改めです。悔い改めて、神様を信じること。神様の憐れみに寄りすがること。その神様の憐れみによってのみ、人は清い心を与えられるのです。わたしたちは、自分には、罪と汚れがあり、それが巣食っており、悪いことを生み出し、続けているということを本当に知った時に、自分の魂は砕かれるのです。そして、ダビデのようにひれ伏して、神様にただ「ゆるしてください」と懇願し、「清い心を与えてください」と願うのです。この愚直な、よく言えば純粋な祈りこそが、清い心のはじまりではないかと思います。その時、その者が見つめているのは、ただ神様のみです。その時、そのものは神を見ているのです。

 悔い改めるとは、ただ後悔して心を入れ替えるということではなく、神様の方向に自分が向き変えることです。いままでわたしたちは、自分ばかりを見つめていました。自分の誇れることや、または自分の恥の部分であるとか、自分の家族であったり、自分の所有しているものであったり、また人と比べてみて、自分を評価してみたりして、自分の目は、自分しか見ていませんでした。その目を神様の方に向けること、それが悔い改めです。ダビデは、神様の言葉によって、自分がすべて崩れ去りました。そして目を神様に向けました。その時彼は、祈り求める前に、願い求めたものが与えられて、神様を真っ直ぐみる、清い純真な心を与えられていました。

 神様の声のする場所、神様がおられるということが分かる場所、それは教会の礼拝です。この時、ここに神様はいらっしゃいます。いつでも神様はわたしたちと共にいてくださいますが、このように、神様が説教を通して言葉を語ってくださるのはこの礼拝の場のみです。その時、わたしたちは神様が「おられる」ということを知ります。姿や、神様のお顔はみることができません。もし見てしまったら、完全な清い心を持っていないわたしたちは、滅びるでしょう。それでも、神様は、わたしたちに出会いわたしたちと交わりを持ちたいと願われておられるので、姿を隠されながら、実際にこの礼拝を通して、言葉を通して、御自分の存在を知らされておられるのです。「おられるということをわかっている」ということは、見ているということと似ています。パウロは、コリントの信徒への手紙一で「神様を鏡におぼろに写っているようにみている」と表現しました。当時の鏡は精巧な造りではなかったので、写ったものは霞んでいたようです。例えると、これは視力の悪い人にしかわからないかもしれませんが、メガネやコンタクトを取った時に、人を見ているような感じです。ぼやけていて輪郭だけはなんとなくわかる。そして、その人がいることはわかるけれども、どんな表情をしているかなどはわからない。声は聞こえるけど、顔はわからないという感じです。わたしたちは礼拝では、神様がおられることしかわかないのです。顔と姿はわからないけれどもおられることはわかるというのは、おぼろに見ているといえるでしょう。

 わたしたちは終わりの日、つまり復活して自分自身も完成させられる時に、神様と本当に顔と顔とを合わせて、しっかりと見ることができます。そして、その終わりの日に、神様のお顔をみることが赦され約束されています。今は、まだ暫定的に清いものですから、おぼろにしか神様を知ることはできません。しかし、神様がいて下さることをわたしたちは、はっきりとわかります。

 イエス様は「わたしを見た者は、父を見たのである」とヨハネによる福音書で語っておられます。つまり「父を見るのであれば、わたしを見なさい」とイエス様はいっておられます。しかし、わたしたちは、今この目では、2000年前に天に昇られたイエス様の姿を見ることができません。ですが、わたしたちは、聖書を通して、この礼拝を通して、福音の説教を通して、イエス様を知ることができます。それは知識としてではありません。人格を持っている生きた御方から、言葉を投げかけられます。そして、讃美と祈りを持って言葉を返す。そこにイエス様とわたしたちの交わりがあり、それを通して、わたしたちはイエス様を知っていきます。それを通して、イエス様が自分の救い主であり王であることを知ります。わたしたちはその時から、見ないで信じるものになります。姿は見ることができないけれども、救ってくださった方が今も生きて働いておられるということをだけは、わかる。そして今も守り導いて下さる方が今もおられるということがわかる。その時、わたしたちはイエス様をおぼろにみているといえるでしょう。おぼろだけれどもイエス様を見て知る時、わたしたちはおぼろだけれども父なる神様を見、知ることが出来るのです。

 わたしたちは神様との出会いの中で、自分の罪と弱さ、愚かさ、汚さに気付かされます。今日だってそうです。この礼拝を通して、自分の弱さと愚かと心の汚さに気付かされました。それは神様が今この礼拝で言葉を語りかけ出会ってくださっているからです。そのような弱くて愚かで汚れた心を持つわたしたちを、イエス様が、十字架の犠牲の恵みによって清いものと認めて下さり、それだけでなくここに招いて下さり、神様をまっすぐに見つめさせ、「罪人の私を憐れんでください」と祈る清い心を造り出し、与えて下さりました。そのように神様をまっすぐ見つめたものは、本当に自分の救い主、守護者、導き手がおられるということを知り、恐れや不安、妬み、恨み、自己嫌悪、罪から解き放たれるのです。そこにこそ平安と慰め、幸いがあるのです。ですから神様を見たもの幸いなのです。

 終わりの日に、神様の御顔をおぼろではなくはっきりと見る時が来ます。おぼろに神様を見ている時は、わたしたちは、神様がおぼろにしか見えないためか、時に苦しいことや理不尽なこと、不幸なことが起こった時には、神様はいないのではないかと思ってしまいます。メガネを外している時のように輪郭がぼやけてしか見えてないから、本当にこの方が神様なのかと疑いを持ってしまうこともあります。そのような弱さがあるために、神様の方からこの礼拝でわたしたちと出会って下さり、「この声がわたしである」と「この声があなたの神である」と毎週語り聞かせてくださる奉仕をしてくださっているのです。今日は聖餐もあります。聖餐もまさに、おぼろにしか見ることのできないわたしたちが、本当にイエス様とつながって一つとなっているということを示すものです。この聖餐を用いて、「あなたの救い主であり神である、わたしが今あなたと共にいる」ということを示してくださるものです。だから、わたしたちは、生きている間おぼろにしか神様が見えなくても大丈夫なのです。この礼拝で神様が声をかけ続けてくださっているからです。

 しかし、終わりの日には、神様の御顔をはっきりとみることができます。その時わたしたちはもはや、神様を見失うことも、神様を疑うこともないのです。そこではっきりと顔を見て、神様だと知ることできるからです。そして、神様と顔と顔を合わせることができるということは、わたしたちはその時、完全に心も体も清められているのです。神様はそのことをわたしたちに約束してくださっています。

 その終わりの日を楽しみに待ちながら、神様の言葉をしっかり聞きイエス様を見ながら、喜んで歩んでまいりましょう。

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