主日礼拝

返すべきもの

「返すべきもの」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第24章1―10節 
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第12章13―17節  
・ 讃美歌:311、122、361

ファリサイ派とヘロデ派
 本日は「棕櫚の主日」と呼ばれている日で、今週は受難週です。主イエス・キリストが捕えられ、死刑の判決を受け、十字架にかけられて殺された、その最後の一週間を覚えつつ私たちは今週を歩みます。既に本日から早朝祈祷会が始まっており、一週間毎日行なわれます。また水曜、木曜、金曜には受難週祈祷会も行なわれます。ぜひ多くの方に参加していただき、主の御苦しみと死を覚えつつ歩みたいと思います。今私たちは礼拝においてマルコによる福音書第12章を読み進めていますが、ここに語られているのはまさに主イエスの最後の一週間、受難週における出来事です。主イエスを殺してしまおうと思っている人々が、その言葉尻を捕えて陥れ、訴える口実を得ようとしていろいろなことを語りかけてきました。13節に「さて、人々は、イエスの言葉じりをとらえて陥れようとして、ファリサイ派やヘロデ派の人を数人イエスのところに遣わした」とあります。ファリサイ派とヘロデ派の人々が遣わされて来たわけですが、この二つの党派は本来は対立関係にあります。ファリサイ派は、旧約聖書の律法を厳格に守ることによって神の民イスラエルとしての誇りを守って生きており、そのように人々を指導していました。彼らは、神の民イスラエルが今、異邦人であるローマ帝国の支配下にあり、民族としての自立性を失っていることを非常に苦々しく思っているのです。他方ヘロデ派というのは、当時のガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスの取り巻きです。ヘロデの領主としての地位はローマ帝国の権威によって支えられていました。そのヘロデの権力によって利益を得ていた彼らは、宗教的な理想に生きるのではなく、長いものには巻かれろという政治的現実路線を取り、ローマの支配を受け入れてその中でうまくやろうとしているのです。ですからファリサイ派とヘロデ派は本来は互いに反目し合う関係です。その両派がしかしここでは共に行動しています。彼らは何によって一致しているのか。それは主イエスを陥れ、亡き者としようという思いによってです。主イエスへの敵対において、本来対立し合っている人々が一致しているのです。

神に敵対することにおける一致
 これは興味深いことです。主イエス・キリストを前にする時、対立している人間どうしの一致が生じるのです。様々な対立を超えた人間の共通性が明らかになるのです。それは、主イエスに、そして主イエスをお遣わしになった父なる神様に敵対するという共通性です。言い換えれば、神を自分の主として受け入れ従うのでなく、自分が主人となり、自分の思いによって生きようとしている、という共通性です。ファリサイ派は、自分たちは神の律法を守って神に従って生きていると思っていますが、そこに主イエスが現れ、律法の根本は、心を尽くし精神を尽くし思いを尽くして主なる神を愛すること、また隣人を自分のように愛することだとおっしゃると、彼らはその主イエスを受け入れようとしません。それは主イエスのみ言葉が、「あなたがたは本当に神を愛しているのか、あなたがたが愛しているのはむしろ、律法を守って立派に生きている自分ではないのか」という問いかけだったからです。ファリサイ派が主イエスを抹殺しようとしているのは、それが図星であり、彼らが本当は神ではなく自分を愛し、自分が主人となって生きようとしていたからです。ヘロデ派も、ヘロデの権力に寄生して甘い汁を吸っている所に主イエスが来て、神の国、つまり神様のご支配を宣べ伝えているのを困ったことだと思っています。自分たちの権力、支配を守ろうとしている彼らには、神のご支配は邪魔なのです。このように主イエス・キリストの福音は、自分を愛し、自分が主人となり権力を握って生きようとしている者に対する神からの挑戦です。その挑戦の前で人間は、様々な不和や対立を超えて一致していきます。人間の間でいろいろな違いがあり対立していても、神ではなく自分を愛し、自分が主人となって生きようとしていることにおいては皆同じなのです。主イエスを抹殺しようとすることにおいて、普段敵対している人間が共同戦線を張るのです。

主イエスを追いつめる問い
 ファリサイ派とヘロデ派の人々がここで主イエスの言葉尻をとらえて陥れるために問うたのは、ローマ皇帝に税金を納めることが律法に適っているかどうか、でした。ユダヤ人たちが当時最も苦痛に感じていたのは、ローマ帝国が課している人頭税でした。それは自分たちがローマに征服され、支配されていることを思い知らされる屈辱的な税金だったのです。ですからユダヤ人たちの間には、いつか神様からの救い主、メシアが現れてローマの支配を打ち砕き、この税金から解放してくれることへの期待が高まっていました。皇帝に税金を納めるかどうかは、神の民であるイスラエルに対するローマ帝国の支配や権力を認めるか否か、という問題となっていたのです。このことを問うことによって彼らは主イエスを追い詰めようとしています。もしも主イエスが、皇帝に税金を納めなくてよいと答えたなら、そこはヘロデ派の出番です。彼らがそのことをローマの総督に訴え出れば、イエスはローマへの反逆者として捕えられるでしょう。もしも逆に主イエスが、皇帝に税金を納めなさいと答え、ローマの支配を認めたなら、今度はファリサイ派の出番です。イエスは神の民イスラエルの魂をローマに売り渡し、その支配に加担していると人々に語ることによって、主イエスこそメシアではないかと期待している人々が失望して去っていくでしょう。このように、どう答えても主イエスが窮地に陥らざるを得ない状況を彼らは作り出したのです。しかも彼らは、お茶を濁して答えないという仕方で逃げることができないようにしています。それが14節前半の彼らの言葉です。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てせず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです」。こう言ってから「ところで」と質問をしているのです。彼らは主イエスを褒めそやしています。誰をもはばからずに勇気をもって語るべきことを語っている、また人を分け隔てしない、これは文字通りに訳すと「人の顔を見ない」となります。「人の顔色をうかがって言を左右しない」ということです。そのような褒め言葉によって、問いに答えざるを得ない状況に主イエスを追い込んでいるのです。

見事な答え
 そういう陰険な問いに対して主イエスはどうお答えになったでしょうか。15節にあるように、主イエスは彼らの下心を見抜いて、デナリオン銀貨を持って来させました。デナリオン銀貨はローマ帝国が発行している銀貨です。ユダヤにおいてもそれが日常的に使われており、税金もそれによって納められているのです。主イエスはその銀貨を皆に示しながら「これは、だれの肖像と銘か」と問われました。デナリオン銀貨にはローマ皇帝、当時はティベリウスの肖像が彫られ、その名が記されています。それを問われれば彼らも、「皇帝のものです」と答えざるを得ません。すると主イエスは「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」とおっしゃったのです。「皇帝のものは皇帝に返しなさい」とは、皇帝に税金を納めなさいということです。当時の感覚では、貨幣はそれを発行した支配者のものでした。皇帝の肖像と銘のある銀貨は皇帝のものなのです。皇帝のものであるお金を皇帝に返すのだから、税金は当然納めるべきものだ、と主イエスがおっしゃったことによって、皇帝への反逆のかどで主イエスを訴えようとしたヘロデ派の思惑は外れたのです。しかし同時に主イエスは、「神のものは神に返しなさい」とおっしゃいました。そこには、神の民としての生き方がはっきりと教えられています。イエスは神の律法を無視して地上の権力に迎合していると人々に訴えようとしたファリサイ派の人々の思惑も外れたのです。このようにして主イエスは、どちらの罠にも陥ることなく上手にこの危機を切り抜けたのです。その見事な答えに彼らは驚き入りました。しかし私たちはただ驚き入っているだけではすみません。主イエスのこのお言葉は様々な問いを生みます。その本当の意味を捉えることはそう簡単ではないのです。

信仰の生活と世俗の生活?
 「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」というお言葉から先ず生じる問いは、主イエスは、この世には皇帝のものという領域と神のものという領域があるから、それを区別して生きなさいとおっしゃったのだろうか、ということです。「皇帝のもの」は「国家のもの」と言い換えることができます。税金などはこの「国家のもの」なのだから、そこに神の事柄、信仰の事柄を持ち込むのは正しくない。逆に信仰の事柄、教会の事柄は「神のもの」なのだから、そこに国家の事柄、世俗的な事柄が持ち込まれてはならない、両者はそれぞれの分の中に留まっているべきだ、つまりいわゆる「政教分離」ということをイエスは教えたのだ、このお言葉はそのように理解されることが多いと思います。しかしこのお言葉をそのように理解することによって、私たちの生活は二つに分裂した二重生活になります。その二つを、信仰の生活と世俗の生活と言うこともできるし、教会における生活と社会における生活と言うこともできます。生活をそのように二つに分けて、それを時によって使い分けていくことが起こるのです。今は社会における生活の時だから、皇帝のものを皇帝に返して生きる、しかし日曜日に教会に行って礼拝を守るのは信仰の生活の時だから、そこでは神のものを神に返して生きる、ということになるのです。しかしそういうことが主イエスのこのみ言葉の意図なのでしょうか。主イエスは私たちの生活をそのように二つに分裂させようとしておられるのでしょうか。

「神のもの」とは何か
 そこで、この言葉から生ずるもう一つの問いを考えたいと思います。それは、神に返すべき「神のもの」とはいったい何だろうか、という問いです。「神のものは神に返しなさい」と主イエスはおっしゃった、それでは私たちは何を神様に返さなければならないのでしょうか。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編第24編がそれについてのヒントを与えてくれます。その冒頭の1、2節にこうあります。「地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むものは、主のもの。主は、大海の上に地の基を置き、潮の流れの上に世界を築かれた」。ここに、「神のもの」とは何かが語られています。地とそこに満ちるもの、世界とそこに住むもの、つまり神がお創りになったこの世界の全ては神のものなのです。だとすれば私たちが神に返すべきものとは、私たちの生活の中の限られたある部分ではなくて、むしろその全てなのです。地上にあるもので、神のものでないものなどありません。「神のものは神に返しなさい」というみ言葉は、この世において、あるいは私たちの人生において、「神のもの」である領域を限定して、そこにおいてのみ神に従いなさいと言っているのではありません。この世の全ては神のものなのですから、全てを神様にお返しすることによってこそ、神のものを神に返して生きることができるのです。
 「神のもの」とは何か、という問いにはもう一つの答えがあります。この話において、皇帝の肖像が刻まれたデナリオン銀貨は「皇帝のもの」と言われています。その「肖像」という言葉は、「似姿」とも訳すことができます。その言葉は、旧約聖書創世記第1章27節の、「神はご自分にかたどって人を創造された」というみ言葉を連想させます。人間は神にかたどって、神の似姿を刻まれて創造されたと創世記は語っているのです。皇帝の肖像、似姿を刻まれたデナリオン銀貨が「皇帝のもの」であるなら、「神のもの」とは、神の似姿を刻まれて創造された私たち人間です。神は私たち人間にご自身の肖像を、似姿を刻みつけて、「あなたは私のものだ」と言っておられるのです。私たちは神様の似姿を刻まれた神のものとして生きているのです。詩編24編から考えるなら、「神のもの」とはこの世界の全てですが、今のことからすれば、私たちの命や人生、つまり私たち自身こそ、神に返されるべき「神のもの」なのです。

神のものを神に返す
 「神のものは神に返しなさい」という主イエスのお言葉の深い意味がこれらのことから見えてきます。主イエスはこのお言葉によって私たちに、この世界の全てのものは神がお創りになった神のものであり、また私たち一人一人の命や人生も神が創り与えて下さった神のものであることを認めなさいと言っておられるのです。それらを「神に返す」とは、それらが自分のものではなくて神のものであることを認めるということです。この世の全てが自分たち人間のものではなく神のものであり、また自分の命や人生の主人は自分ではなくて神であることを認めること、「神のものは神に返しなさい」というみ言葉によって主イエスはそういうことを求めておられるのです。この点においてこの話は、先週読んだ12章1節以下のたとえ話とつながっています。主人が作り整備したぶどう園を預けられた農夫たちが、主人に正当な取り分を渡そうとせず、僕たちを殺し、愛する息子までも殺してぶどう園を自分たちのものにしようとする、それは神のものを神に返そうとしない人間の姿です。神様がそこで求めておられるのは、彼らが生きているぶどう園、つまり彼らの人生が神によって与えられ、支えられている「神のもの」であり、本当の主人は神なのだということを認めて、主人である神様の下で、神様と良い関係を持って生きることです。それこそが、「神のものは神に返しなさい」というお言葉において主イエスが求めておられることでもあるのです。

主イエスの問いと招き
 あのたとえ話における農夫たちとは、主イエスを拒み、殺そうとしている祭司長、律法学者、長老たちのことでした。本日の箇所でファリサイ派とヘロデ派の人々を遣わしたのも彼らです。主イエスの言葉尻をとらえて陥れようとしている彼らは、神ではなく自分を愛し、自分が主人となって生きようとしていると最初の方で申しました。彼らは自分の命や人生が神によって与えられた神のものであり、本当の主人は神なのだということを、本心においては認め受け入れていないのです。つまり神のものを神に返さずにいるのです。それこそが私たち自身の姿ではないか、と先週も申しました。神のものを神のものと認めず、それを神に返そうとせず、自分が主人となって生きており、神こそが主人であることを受け入れようとしない、それが私たちの根本的な罪なのです。そういう思いによって私たちは主イエスに、そして父なる神様に敵対し、信じて生きることを拒んでいるのです。「神のものは神に返しなさい」というお言葉は、そのような私たちに対する主イエスからの問いかけであり、信仰への招きなのです。つまり、信仰をもって生きるとは、神のものを神のものと認め、それを神に返して生きる者となることなのです。

皇帝のものは皇帝に
 そしてこのことと並んで主イエスは、「皇帝のものは皇帝に」とおっしゃいました。それは先程申しましたように、この世の中に、皇帝のものであって神のものではない何物かがあるということではありません。主イエスはこのみ言葉によって、全ては神のものであるこの世の中に、あるいは私たちの人生に、皇帝のもの、皇帝に返すべきものの存在を認めておられるのです。つまり、国家や権力の存在を否定するのでなく認めておられるのです。分かりやすく言い直せばこうなります。神様こそがこの世界をお創りになり支配しておられることを信じ、自分自身が神様のものであることを信じて、神様にこそ従って生きるのが「神のものを神に返す」私たちの信仰です。しかしその信仰に生きる私たちは、だからもう神様以外の支配を一切認めない、皇帝や国家には従わない、国の法律など守らない、税金も納めない…、ということにはならないし、そうであってはならないのです。皇帝のものは皇帝に、神のものは神に、というみ言葉は、神様のものを神様に返しつつ生きる信仰の生活の中に、皇帝のものを皇帝に返して生きる生活、国家の権力によって維持される秩序や、社会の様々な制度、その中である役割を負って責任を果していく生活を必要なものとして位置づけているのです。つまりこのみ言葉は、私たちの生活を信仰生活と社会生活の二つに分けて二重生活にしようとしているのではなくて、その二つを一つとしようとしているのです。神の民、信仰者として、神様に対する責任を果していくことの中で、同時に国家の秩序を守り、人間が築く社会のしくみの中で責任を負って生きていく生活を私たちに与えようとしているのです。

主イエスの苦しみの歩みに従って
 それは決して簡単なことではありません。困難と苦しみを伴うことです。例えば当時のユダヤ人たちにとって、ローマ皇帝の権力は、自分たちを征服し、搾取し、苦しめるものでした。その権力を認め、皇帝に税金を納めることは苦しみ以外の何物でもなかったのです。主イエスはそのような状況の中で、神の民が神を信じ神に従って歩みつつ、皇帝の権力と支配を認め、税金を払うこと、つまりそれによる苦しみを背負うことをお勧めになったのです。今日の私たちにおいても、神のものを神に返しつつ、皇帝のものを皇帝に返して生きるところには様々な葛藤が生じます。両者が相入れないことを感じて判断に迷うことがあります。またその判断は人によって違っていて、絶対的に正しい結論などはありません。そのような中で私たちは、信仰による苦しみを背負っていくのです。主イエスご自身がまさにそのように歩まれました。主イエスのご生涯は、神のものを徹底的に神に返す、つまり父なる神様に徹頭徹尾従う歩みでしたが、それは同時に、皇帝の権力の下で苦しみを受け、十字架につけられて殺されることへの歩みでした。皇帝のものを皇帝に返した主イエスは、皇帝の権力によって十字架につけられて殺されたのです。しかしまさにその主イエスの十字架の死によって、私たちの罪を赦して下さる神様の救いのみ業が実現しました。そして主イエスの復活によって、神様の恵みの力が、皇帝の権力や支配を超えるものであることが示されたのです。教会が誕生してからも、ローマ帝国は三百年にわたってこれを迫害し、撲滅しようとしました。しかしその中で教会はむしろ発展し続け、ついにはローマの国教にまでなったのです。それは教会が、主イエスに従って、神のものを神に返すことによって生じる苦しみをしっかり背負ってきたことによってでした。しかしそのようにキリスト教に基づく国となったローマ帝国もやがて滅び、その後も様々な国、支配者、政治体制が興っては滅びていきました。歴史の流れの中で、「皇帝のもの」はその都度変わっていったのです。しかしそういう人間の支配の栄枯盛衰を越えて、キリストの教会は今日まで存在し続けています。それは、この世界の全体が、また私たち人間も、神がお創りになった神のものであり、神こそが支配しておられるからです。神はご自分のものであるこの世界の中に、人間の支配や国家の秩序の存在を許し、認めて下さっています。神のものを神に返すことと皇帝のものを皇帝に返すこととの間には様々な軋轢が生じますけれども、神様に選ばれ、招かれて神の民とされている私たちは、その軋轢の中で、主イエスご自身がお受けになった、神のものを神に返すことによって生じる苦しみを背負って行くのです。主イエスの十字架の苦しみと死を覚えて受難週を歩むとはそういうことです。その先にこそ、主イエスの復活における神様の恵みの勝利が示されていくのです。

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