「悲しむ者よ」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:哀歌 第3章19-33節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章4節
・ 讃美歌:352、532
イエス様はわたしたちをご自身の傍らに呼んでおられます。わたしたちが悲し みに暮れる時、わたしたちを傍らに呼び、ご自身のもとへ引き寄せ、わたしたち のそばにいて、その悲しみを理解してくださり、その悲しみを共に背負われ、そ の悲しみを受け止める力と心を与えてくださり、また最後にその悲しみが悲しみ のまま終わらず、喜びに変えられるという希望を与えてくださる方が、ここにお られます。その方が、今日わたしたちをこの礼拝堂に集めてくださいました。今 この方が、この礼拝堂でわたしたちに向かって宣言されます。
「悲しむ人々は幸いである。その人たちは、慰められる。」と。
イエス様は、おおよそ2000年前に、この言葉を弟子たちと群集たちの目の前 で、宣言されました。それが、今日共に聞きましたマタイによる福音書5章の場面 です。このイエス様の前に、イエス様に従って歩むと決心をした弟子たち、またイ エス様の評判を聞いて集まって来ていた群集たちがおりました。この山の上の状況 というのは、ただいま行われている礼拝の状況とそっくりであります。イエス様と の出会いが与えられてイエス様を信じて生きたいと思い決心をしてイエス様と今共 に歩んでいるクリスチャンたち、またキリスト教に関心がある、イエス様のことを 知りたい、ここには何かがあると思って集まっている方々。その両者がつまりわた したちが、まさにこの弟子たち群衆たちとして重なりあっています。ですから、今 ここに書かれていること、イエス様が宣言されたことは、まさに、今イエス様がわ たしたちに宣言されたいお言葉なのであります。
イエス様がこの山の上で語られた最初の事は、「9つの幸い」についてであり ました。前回、ここで語られている「9つの幸いの教え」は、巷で語られている 「幸せになるための、9つのポイント」のような、「このようにすれば、幸せにな れる」という、ハウトゥーを教える教えではないと申し上げました。前回は3節の 「心の貧しいものは幸いである」ということでしたが、これは「心を謙遜すれば幸 いになれる」という教えではなく、真に心に何も頼りにするものもなく、物乞いを しなければならないほどに心になにもない、自分の自信になる実績や功績、誇りが ない、むしろその自信や誇りを手にするために、隣人を下に押しやって、時には傷 つけてでも「それらの自信や誇り」を手に入れようとするほどに、心の狭いもので あるものが、幸いなのであること。そのような心の貧しいものたちに、イエス様が 近づいてきて下さること。そして、自分を頼りにできないその者たちは、目の前に いるイエス様を頼りにする。そのように、イエス様の支えを頼りにして、イエス様 に信じて歩むことができる故に、幸いである。ということでした。
今日、イエス様が宣言された「悲しむ人々は幸いである。」という宣言も、わた したちが、なにかに悲しめば、幸いになれるということではありません。「心の貧しいものは幸いである」という教えは強引に解釈して、「謙遜なものは幸いになれ る」と無理やり、考えてしまえる余地がありました。しかし、今回の「悲しむ人 は、幸いである」という教えは、そのように、無理やりハウトゥーの形にする余地 もありません。「悲しむ人」というのは、どう考えても、悲しむ人です。では、そ のまま、「悲しむ人は、幸いである」と言葉通り、わたしたちが受け止めようとし ても、素直には受け止めることができません。「どうして、悲しんでいるのに、そ れが幸いになるのか」、またそれは「悲しい出来事が幸いな出来事に変えられると いうことなのか」とわたしたちは考えたくなります。そうすると、イエス様が「悲 しむ人は、幸いである」といっておられるということは、イエス様がなにか不思議 な力で、悲しみの出来事を幸せの出来事に変えてくださるのかな、イエス様を信じ ていればそのようなご利益に預かれるのかなと、考えることが自然であると思いま す。もし「悲しむ人々は幸いである。」とだけイエス様が宣言されておられたの ならば、わたしたちはそう受け取っても良かったでしょう。しかし、「悲しむ人 々は、幸いである」という教えの後に、イエス様は語られておられます。そしてそ の幸いである理由を述べられておられます。それは「その人たちは、慰められる」 からであるということでした。この理由を聞いても、わたしたちは「え!?」とな り、納得出来ないと思います。「え!?悲しみが慰められるとなんで幸いになる の?」「えっ?慰められても、その悲しみの原因となっている出来事が、そのまま だったら、全然幸せにはならないんじゃないの?」と、そのような疑問が浮かび、 全然納得ができなくなります。わたしたちは、この教えが「悲しむ人々は、幸いで ある。主はその悲しみを取り去られる。」とか「主は悲しみをすぐに解消して下さ る」とか、欲を出して考えると「主は悲しみを、ただちに喜びに変えてくださる」 とかであれば、納得できると思いますし、それならばとてもいいなぁ~と感じま す。しかし、そのようには、イエス様は宣言されておられません。ただ「悲しむも のたちは、慰められるからだ」としかいっておられません。納得はいかないが受け 入れなくてはいけないとわたしたちが諦める前に、もう一度、見直すことのできる ことがあります。それは、「悲しむ人」のその「悲しみ」とは一体どのようなもの なのかということと、イエス様が言われておられる「慰め」ということは、わたし たちの考えるようなものなのか、そうではないのか、では「慰めた」とは一体どう いうことなのかということを突き詰めることです。
まず、「悲しみ」を考えていきましょう。わたしたちは悲しむことがありますし、 またわたしたちのまわりにも、たくさんの悲しみが存在しています。わたしたち は、どのような時に悲しむでしょうか。わたしたちは、「ある」ものが「ない」と なった時に、悲しみをおぼえると思います。持っていた財産(貯蓄、家、土地)が なくなった時、仕事を失った時、あるべき「職」がないとき、重い病になり健康を 損ねた時、まわりにいたはずの友人がいなくなった時、友情で結ばれていたその関係がなにかをきっかけになくなった時、愛する人との関係がなくなった時、家族や 愛する人を失った時、わたしたちは悲しみを覚えます。わたしたちのまわりには、 大小様々な悲しみが存在しています。小さな喪失であれば、わたしたちは、なくな ったものを、「ある」状態に自分の力で戻すことができます。わたしが、今よりも もっと太り、今の姿を失ってしまっても、ダイエットすることで、今の体型を取り 戻すことができます。わたしが、太ってしまった自分の姿を見て悲しみを覚える。 ダイエットをして、もとの体型に戻れば、その悲しみの原因はなくなる。そして、 悲しくなくなる。これは事実でしょう。ですが、わたしたちのまわりには、自分の 力ではどうにもできない、ふたたび「ある」状態にできないような、大きな喪失が 存在します。その中でも、一番大きなものは、死です。友人の、家族の、愛する人 の死によって、そのものを失った時、わたしたちは自分の力ではどうしても、「あ る」の状態にはできません。そこには、わたしたちの自分の力では癒やすことので きない、とても大きな悲しみが存在しています。この悲しみは、誰もが免れること のできない悲しみです。このような深くて大きな喪失を経験している人の前で、わ たしたちは無力です。またこの経験をしたわたしたちの前、どのような人が現れて も、この現実を覆し、死んだ人を目の前で、再び甦らすことのできる人間はいませ ん。
わたしたちが悲しみを考える上で前提となっていることは、なくなった状態が、 「ある」状態にならなければ、悲しみは癒えないと考えていることです。そうしな ければ、悲しみは解消されないと、誰もが納得できるでしょう。今日イエス様は 「悲しむ人々は幸いである」というのは、この悲しみや悲しみの原因を解消され、 ただちに悲しみがなくなるから幸いであると言われているのではありません。
イエス様は、「悲しむものは慰められる」と言われております。わたしたちは、 「慰められる」ということと「幸いになる」ということを、セットで考える時に、 この「慰められる」ということを、先ほどのように、大きな喪失からの回復、ない 状態からある状態されることに違いないと思い込んでしまっています。実は、この 「慰められる」ということは、あらゆる悲しみ、あらゆる喪失を解消することでは なく、あらゆる悲しみをしっかりと受け止め、背負っていく力を与えられるという ことです。愛する人を失ってしまったという耐えることのできない大きな喪失を前 にしても、それを受け止め、背負っていく力を与えられるということです。死とい う大きな恐怖の前でも、また、どんどん自分の持っているもの(健康であったり、 能力、家族、友人)を失って悲しみに押しつぶされそうになっても、耐えることの できるようになる。それが、イエス様の与えて下さる慰めです。なぜ、そのよう に、あらゆる喪失、悲しみを受け止めることができるようになるのか、それは、こ の「慰め」という言葉に内に示されています。「慰め」は「パラクレートス」とい う言葉です。動詞では「パレクレオー」という言葉です。この「パラクレオー」は、たくさんの意味を持っています。その一つとして、「傍らに呼ぶ」という意味 があります。ですから、悲しみに暮れる者は、「慰められる」具体的には「傍ら に呼ばれる」のです。誰の傍らに呼ばれるのか。それは、イエス様です。イエス様 は、わたしたちを傍らに呼び、まずわたしたちのその悲しみを理解してくださいま す。どうして、わたしたちはそれぞれの悲しみをイエス様は理解することができる のか。それはイエス様が、もっとも大きな喪失、もっとも厳しい喪失を味わった経 験を持っておられるからです。イエス様は、この世を歩まれていた時に、愛する弟 子たちとの関係を、ある弟子から裏切られることで、またある弟子から知らないと 言われ見捨てられることで、失ってしまった経験を持たれております。何よりもイ エス様は、あらゆる人々から見捨てられ、捕らわれて自由を奪われ、着ている服す ら奪い取られ、なんの罪も犯していないのに、十字架の刑に処され、御自分の命を 失われました。命を失った時、あらゆるものとの関係が切れました。すべてを喪失 されたのです。その最大喪失、恐怖、苦しみ、悲しみをイエス様はすべて理解され ておられます。その方が、なにかを失った人を自らの近くに呼ばれ、近くにいて下 さるのです。イエス様は、喪失を経験するわたしたちの気持ちを誰よりも理解して くださる方です。自分以上に、その悲しみを知っておられるはずです。イエス様 の傍らに呼ばれて、「イエス様が自分の悲しみを知っておられる」ということを知 ったときわたしたちは、少し安心することができます。
さらにイエス様がわたしたちを「傍らに呼ばれる」ということが指し示してい ることがあります。イエス様は悲しむわたしたちを「傍らに呼ばれ」、悲しみを 共有して下さるということだけではありません。イエス様はわたしたちを御自分 の近く呼び、わたしたちの喪失という悲しみの重荷を、共に背負ってくださいま す。イエス様は誰よりも重い悲しみ喪失を背負われていました。それは、十字架 を背負ってゴルゴダの丘に向かう歩みに象徴されています。愛する自分の民、救 いを与えようとしている民に、罵られ、傷つけられ、見捨てられるということ が、あの十字架の歩みに表わされています。その悲しみの象徴である十字架を背 負いきってイエス様はゴルゴダの丘まで歩まれました。イエス様は悲しみを背負 いきって、丘まで行きその後に死なれました。あの時の十字架の死と苦しみはな んのためだったのか。それは、わたしたちの罪のためです。わたしたちは、ただ 自分自身を一番大切にしてしまう罪の本性があり、そのためにわたしたちに命を 与えてくださっている神様を忘れ、忘れるだけでなく、時に神様を利用できる 時だけは利用する。大きな苦しみや悲しみの出来事が起こると、神様を恨み、 怒り、こんな悲しみを与える神様なんて、神様じゃない。神様なら自分たちを 救ってみろと自分が神様よりも上の立ち場になって神様を僕のように、見る心が ある。それが、罪です。わたしたちは生まれながらにして、誰一人として例外な く、この罪を持っています。その罪のために、わたしたちは色々なものを失っていくのです。自分が上になることに必死なり、隣人を大切することができず、傷 つけてしまうことで、隣人との関係がこじれ、やがてその関係が切れてしまい関 係が失われるのです。罪故に喪失を経験します。隣人との関係だけでなく、わた したちはそれと同様に、自分たちのせいで、神様との関係が切れてしまいまし た。命を守って、活かしてくださる神様との、関係が失われたためにわたした ちは、死ぬ者となったのです。人が死んで、目の前からいなくなってしまう原 因であり根源は、この罪のためです。わたしたちの悲しみの根源はここにありま す。その悲しみの原因を取り去るために、あらゆる人に「罪の赦し」を与えるた めに、イエス様はお一人でその罪を苦しまれながら背負われました。今、大きな 喪失を経験している人の悲しみの原因を、イエス様は今背負ってくださっていま す。愛する人の別れの原因である罪のためにイエス様は十字架にかかってくださ ったのです。イエス様は、喪失を共感してくださるだけでなく、喪失することに なった原因を、イエス様は背負ってくださっています。愛する人を失った人であ れば、その愛する人の死をイエス様は今背負ってくださっています。悲しみに暮 れるわたしたちは、なんらかの喪失を抱えています。大きな喪失は死です。わた したちは、家族や愛する人が、今突然失われたら、それを一人で背負っていくこ とは、できそうにありませんし、なんともつらいです。そこでイエス様が共にそ の悲しみを背負ってくださっているということはありがたいことです。
しかし、それでも、わたしたちは、その愛する人の死という現実は、イ エス様と共に、背負って頂いていると聞いても、あまりに重すぎて、耐えられそ うにないなと想像できると思います。イエス様は、「死という喪失」がわたした ちにとって、背負いきれないほどの「とても重いもの」であるということをご存 知です。ですから、イエス様はその悲しみを背負うことのできる力、忍耐するこ とのできる力を、わたしたちに与えてくださろうとしております。その力は、復 活の希望と、永遠の命が与えられるという希望に支えられています。イエス様 は、十字架にお架かりになり死なれ、すべてを失われました。そこで、終わりな らば、わたしたちはイエス様をどうしても最後までは頼ることはできないと思い ます。なぜならば、罪のゆるしのために死んで下さったことはわかった、悲しみ を味わってくださったこともわかったけれども、ただイエス様が死んでくださ っただけならば、結局は喪失は喪失のまま、悲しみは悲しみのまま、失われた関 係はそのまま、愛する人との別れもそのままだからです。そうであるならば、と ても苦しいです。苦しみをいくら共有されても、共に担ってくださっていると言 われても、未来永劫その状況が変わらないのであれば、わたしたちは忍耐できな くなるでしょう。イエス様は、十字架の上で死なれ墓に葬られましたが、それで 終わりではありませんでした。イエス様、父なる神様によって三日目に復活させ られました。ここにわたしたちの、希望があります。死んでいたものが甦るのです。死は、人と人、人とすべてとのものとを別ちます。しかし、イエス様は死に 勝ち、死を超えることを示してくださいました。イエス様の傍らに呼ばれ、その 呼びかけに答え、イエス様を信じ、イエス様に従って生きるものに、この復活が 与えらます。ただ肉体が復活して、また死ぬというのではなく、もはや死という ものに勝った、新しい命、永遠の命が、イエス様を信じるものに与えられます。 この復活と永遠の命が、終わりの時、イエス様が再びこの世に来られる時に与え られるという希望。これが、わたしたちが悲しみに耐えることできる、慰めの真 の力です。イエス様は悲しんでいる者たちを、御自分の近くに、傍らに呼ばれ、 悲しみを共有してくださり、悲しみを共に担って下さり、やがてこの悲しみが喜 びに変わる、失ったものや失われたものが再び与えられる、死が命変わる、とい う希望を与えてくださって、そのようにして、悲しんでいるものたちを慰められ るのです。この悲しんでいる者たちは、イエス様の傍らに呼ばれ、イエス様と出 会うことができ、イエス様のなさって下さったことを信じることができ、罪赦さ れ、悲しみを忍耐しながら、希望に生きることができる。故に「悲しむ人々は幸 い」なのです。
イエス様は、今わたしたちをも、傍らに呼んでくださっています。かつて悲し んだもの、今悲しんでいる者、やがて悲しみに直面するものが、今ここにおりま す。イエス様は、その悲しむわたしを知り、背負い、救い、希望を与え慰めてく ださいます。イエス様の呼びかけに答えて、イエス様に近づきましょう。信じましょう。