夕礼拝

病気や苦しみに悩む者

「病気や苦しみに悩む者」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:列王記下 第5章9-14節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第4章23-25節  
・ 讃美歌:218、529

本日共に読みましたマタイによる福音書の御言を、簡単に要約すれば、大勢の群衆がイエス様のもとに来て、イエス様に従い、信じる者になったということです。さて、ではどのようにして、群衆はイエス様に従ったのでしょうか。本日の箇所でわたしたちの目を引くのは、イエス様がありとあらゆる病気を癒やされたことです。病だけでなく悪霊に取り憑かれたものを癒やしたとも書いてあります。ここでわたしたちは簡単にこう想像すると思います。「あぁ、イエス様の癒しの奇跡を実際に経験するか、その奇跡を目の当たりにして、イエス様を信じるようになって、イエス様に従う者になったんだな」とこうわたしたちは考えます。確かに、従っていった大勢の群衆というのは、イエス様の癒しの奇跡を目の当たりにした人々であったでしょう。しかしどうでしょうか、もしわたしたちが奇跡を通して「病気を癒やされるということ」を経験したとしましょう。絶対治らない病気を持っているわたしが、ある人の元にいったら癒してもらえるかもしれないという噂を聞く、そして、その人の元にいったら、本当に病気が癒やされた。とても嬉しいし、喜びがそこにはあるでしょう。しかし、どうでしょうか。わたしたちは病気が癒やされたからといって、その癒やした人に従って人生を歩んでいこうと思うでしょうか。尊敬したり、素晴らしい人だなと思うかもしれません。しかし、その人と共に、人生を歩もう、その人の言う事にすべて従って人生を歩もうと思うでしょうか。25節で「大勢の群衆が来てイエスに従った」と書かれているところの「従う」という言葉は、前回共に読みました、イエス様の弟子になる漁師たちが、仕事や親を捨て、自分の今までの生き方を捨て、「従った」という時に使われている、「従う」という言葉とまったく同じ言葉が使われています。ですから、ここでイエス様に従った群衆たちは、ただイエス様の後についていくと、ご利益があるから、自分にとって得になることがあるから、ただ着いていったのではなく、今までのなにかしらの自分を捨てて、イエス様に着いていっているのです。病気が癒やされることだけで、わたしたちは、すべてを捨てて、従うということをするでしょうか。もし、わたしたちの難病が、STAP細胞を使った再生医療の発展により、癒やされたとします。そこで、わたしたちは小保方さんに従うために、すべてを捨てて共に生きていきたい、そして小保方さんの言っていることをすべて信じて、従いたいと思うでしょうか。感謝はすると思います。尊敬をすることもあるでしょう。しかし、人生をかけてその人に従うということは、わたしたちにはできないと思います。  では、なぜこの群衆は、イエス様に従うことができたのでしょうか。その答えは、23節24節で語られているイエス様の評判と関係しています。24節を先にみると、イエス様の評判が、シリア中に広まったと書いてあります。おそらく、人々は、この評判を聞いて、イエス様の所にやって来たのでしょう。では、その評判とはなんだったのかというと、それは、23節に書かれています。イエス様は、民衆のありとあらゆる病気や患いを癒やされたとあります、これが評判となることの一つ目です。ここで、注目したい言葉があります。それはここで書かれています「患い」という言葉です。この「患い」という言葉は、新約聖書の中で一度しか出てきていない言葉で、「患い」と訳していますが、それは意訳でありまして、原語に近く訳すと「弱さ」という言葉になります。ですから、ここでイエス様の評判というのは、ただ病気を癒やすすごい人というのではなく、あらゆる弱さをも癒やす人であるとして評判でした。  あらゆる弱さとは、いったいなんでしょうか。聖書はその弱さのことを詳細には語っていません。しかし、イエス様のもとに来たのは、病気のことで悩み苦しむ者、悪霊に取り憑かれて悩み苦しむ者、中風で悩み苦しむ者であったので、おそらく、その病気や自分の身に不幸が起こった時に感じる、自分の弱さのことであったのではないかと思います。わたしたち普通、重い病気になって、なかなか治らないと、これは何か神様に罪を犯してその罰として、このような病気になったのではないかなと考えることがあると思います。旧約聖書に、ヨブという人の話が出てきます。この人は大変恵まれた生活をしていた人でした。お金はあり余るほどあるし、子供たちはたくさんいて、家畜や土地の財産はたくさんあり、体も元気で何も言うことがなかった。それがあっと言う間に、子供たちは殺され、財産はなくなり、そして自分は大変重い病気にかかって、夜も苦しくて眠れなくなります。そういう状態の時に昔から親しい付き合いをしていた三人の友達がそれを聞いてやって来ました。初めのうちは、ヨブがあんまりひどい状態なので、何にも言葉もかけることができないで、ヨブのそばに黙って座っていました。けれどもそのうちにヨブが自分の人生を呪いだしました。それで、そこから友達がそれをたしなめようとして、問答が始まります。そういう話がヨブ記に書いてあります。その時に友達が言ったことは何だったかというと、ヨブが、普通の人ならばめったに味わうことのない不幸な目に会っている、重い病気になっているのは、きっとヨブが神様に大きな罪を犯しているからに違いない、そのためだ、だから神様にお詫びして早くゆるしていただかなければ、ということを言いだします。ヨブは、そんな罪を犯した覚えはないと言って、大論争になるんですが、これはヨブ一人のことではないと思うのです。わたしたちも重い病にかかって、なかなか治らない。そうすると、それをめぐっていろいろなことが起こってきます。先祖の祀り方が悪いから祟られている、善い行いを全然していないから、過去にしたあなたの罪深い行いのせいだ、といろんなことを言いだす人が周りにでてきます。そうするとわたしたちは何か罪を犯しただろうかと考えはじめます。そうすると、そう言われて考えてみると、自分の昔やってきた悪いことを思い出します。しかし、考えても何が原因で病気になったのかはわからない。そのように考えて、病気の理由がわからないためか、イライラしてくる、腹が立つ、他人のことが気に入らない、そういうふうにして病気になったために起こってくるいろんな誤った考えや、乱れた感情などが起こってきます。そうすると、腹が立ってきて、隣にいる人に喚き散らしたりしてしまいます。しかし、そこで、一旦落ち着いてと考えると、自分は罪深いなあ、あんなにみんなに世話してもらっているんだから、感謝をして穏やかに暮らしていかないだめだなぁと反省する。でも、やっぱり腹が立つ、イライラする。そして自分がこんなになった自分の人生を呪いはじめる。そしてそんな自分に愛想がつきるというようなことが起こると思います。 このイエス様のもとに来た病気の群衆たちも、長いこと病気であったり、悪霊に苦しめられたりして、不自由な生活をしていました。そこで、彼らもまた、自分の弱さや自分の罪ことで、いろいろ悩んでいたのではないかなと思います。そこで、どんな病気でも癒して下さる人がいる、そして弱さもまた癒して下さる人がいるという、評判を聞いて、イエス様のもとに駆けつけたのだと思います。その時、必ずしも、これとこれが私の弱さだ、これをイエス様に癒していただこうというような、はっきりしたものを持ってきたわけではないと思います。彼らは、自分の病気や、不幸、罪というものが錯綜して、まるで蜘蛛の巣に引っかかったような、どうしていいか分からないような、そういう状態で日々を暮らしていたのではないかなと思います。そしてそれは、大なり小なり私たちの人生でも同じようなことがあると思います。私の問題はこれだ、不幸の原因はこれだ、病気の理由はこれだというように、焦点がはっきりしている、そんな人はめったにいません。大抵はなにかわからないけど、ごじゃごじゃと入り交じって、自分の問題をどこから、どう手をつけていいか分からないような、そんな感じをしながら、人生を歩むということがたくさんあると思います。そういう時こそ、実は、イエス様の前へ行きたいと思う時です。自分で自分の人生をちゃんと整理をして、これはこうだということが、分かる時はなかなか「イエス様に会いたい!」とはなかなかなりません。けれども糸が絡まっているように、何が自分の本当の問題なのかわからない。行き詰まりを感じて、困り果てた、そういう状態の時こそ「イエス様、どうか私を憐れんでください」と言って助けを求めたくなる。この群衆たちは、このような状態であったのではないかなと思います。はっきりと病気を治していただこうというふうに、一つの目的をちゃんと持って、これさえ解決したら自分は幸せになれるというような、そんな整理した気持ちじゃないと思うのです。あるいは、自分はこういう罪を犯したから、イエス様にゆるしていただこうというようなものでもない。何だか知らないけれども、イエス様の所へ行って、イエス様の顔を見て、イエス様の御言葉を聞いたら慰められるんじゃないか、そんな思いで来たんだと思います。そうするとこの群衆というのは、まさに私たちの分身と言いますか、わたしたちの代表といえると思います。私たちの人生もそうです。そんなにすっきり割り切れているわけではないです。病気の人でも、病気だけが問題であって、後は何も問題はないなんてことはありません。病気を中心にして、いろんな問題が複雑に絡み合っています。その問題の原因がわからないために、イライラして、人に当たる。反省するけど、イライラする。そのような、病気をきっかけに現れてきた自分の弱さを抱えて、その弱さの癒しをも求めて、彼らはイエス様のもとにやって来ました。 彼らのその病気をきっかけに現れた弱さは、病気の人だけが持っている弱さではありません。すべての人がもっている弱さです。それは、治らない病気という理不尽な目に、あわなければ出てこない「弱さ」ではありません。わたしたちは、人生において、病気以外にも、理由がわからない理不尽な目に会うことがあります。そのような時に、自分が悪かったのか、はたまた、自分を取り巻く環境が悪かったのかと、悩みます。そのような時に、自分が悪いためだと思って、自分にいらだちを覚えるか、自分の回りにいる人が悪いためだ思い、その人を恨むであるかと思います。その理不尽、不条理から生まれる怒りによって、わたしたちは自分を傷つけたり、他者を傷つけたりしてしまいます。これが、わたしたちの持っている弱さです。その弱さは、理不尽な事、病気などをきっかけにして現れますが、もともと、病気ではない時からも、理不尽な事が起こる前にも存在している自分の内側に秘められている弱さです。 わたしたちもまた、その自分の内にある弱さを持って、今、イエス様の前に訪れた者たちです。では、わたしたちはその弱さはどのように、癒やされるのかといえば、それは、イエス様の福音を聞き、悔い改めて神様の方を向いて生きていくことによってです。イエス様は、わたしたちのその弱さを、魔法のように、呪文を唱えて、パッと癒してくださるのではありません。23節の最初の所でイエス様はガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えておられました。「御国」と訳されている言葉は文字通りには「国」という言葉です。それは「支配、王国」という意味です。この御国の福音とはなんであったのかというと、それは、4章17節で、イエス様の伝道の初めに言われた言葉と関係しています。イエス様は、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始められました。天の国、つまり神様の王国、神様のご支配が今や実現しようとしている、ということです。それが「御国の福音」です。「福音」とは「喜ばしい知らせ」です。神様が、その恵みをもって今や私たちを支配し、ご自分の王国を確立させようとしていて下さる、その喜ばしい知らせを主イエスはガリラヤ中の諸会堂でお教えになりました。イエス様は、御国の福音を語り伝えられる時に、わたしたち人間の応答を求め、それを引き起こそうとなさります。それはすでに17節の伝道開始の言葉からしてそうでした。「天の国は近づいた」という宣言には、「悔い改めよ」という「求め」、「命令」が結びついていました。神様のご支配、その恵みの確立という福音、喜びの知らせは、それに対応する人間の悔い改めを求めます。そして悔い改めるというのは、心の向き、自分の全存在の向きを神様の方に向き直ることです。それは、今まではこういう考え方、生き方をしてきたけれども、これからは別の考え方や生き方をしよう、ということではありません。私たちがいくら考え方や生き方を変えたところで、それは神様の方に向き直ったことにはなりません。神様の方に向き直るというのは、神様が遣わして下さった独り子、救い主であられるイエス様を信じ従うことです。 悔い改めが起こり、イエス様に従って歩めば、わたしたちの弱さや病気が、必ず目に見えて癒やされるということがあるのかといえば、そうではありません。「では、なにのためにイエス様はわたしたちを癒やされるのか」とわたしたちイエス様に問いたくなると思います。それは、なんのためか、それはわたしたちのためではありません。病気や弱さを癒やされるのは、神様の恵みの力、神様のご支配が現れるためです。イエス様に従って歩む時、わたしたちの病気やわたしたちの弱さは、神様の恵みと支配を示すために、神様の御業が行われているということを示すために用いられます。今日の御言葉の箇所で、書かれている群衆たちのあらゆる病気が癒やされたのも、この神様の恵みと支配を、その周りにいた者たちに、そして今この御言葉を読むわたしたちに示すためです。  イエス様に従っても、病気や弱さが癒やされないとしても、イエス様はその病気の苦しみや悩みをそのままにはしておかれません。イエス様は、わたしたちの病気や弱さの苦しさをご存知です。病気が生み出す焦りや苦しみ、絶望ということをイエス様は、ご存知です。そのような絶望や苦しみや焦りを、イエス様はご存知です。イエス様、自分が十字架にかかって死ぬという避けられる出来事を前に、焦り、涙を流し苦しまれました。苦しまれながら、ゲツセマネの園で、祈られておりました。そのような、免れることのできない神様の決定に対して、イエス様は、苦しみながら、従われておりました。ですから、病気で苦しむ者、不幸で苦しむ者、そのようなわたしたちの苦しみをイエス様は一番に理解しておられます。ですから、イエス様は十字架にお架かりになって、死なれ、三日目に復活され、死の先にある復活の希望をわたしたちに与えてくださいました。神様を信じて、苦しみながらも従った先に復活の希望があることを、その身をもってイエス様はわたしたちに示してくださっています。イエス様はわたしたちに復活の希望を与えて下さり、今の苦しみに耐えることのできる忍耐を、与えてくださりました。わたしたちの病気や弱さは、死の先の復活の時に、残っているということはありません。病気や弱さは、死と共に終わります。しかし、死で人生が終わりであるならば、わたしたちは人生の最後まで病気と一緒でなければないということになります。ですが、イエス様を信じる者たちには、死の先が与えられています。イエス様を信じて、洗礼を受けて、イエス様に従って、イエス様と共に歩む者には、イエス様は復活の命、永遠の命を与えると約束してくださっています。その復活と永遠の命が、わたしたちの希望です。その希望が、病気や弱さを耐えるための忍耐を生む根源的な力なのです。その時、わたしたちは、今まで、拒絶していた病気や弱さ、また病気や弱さを抱える自分を受け入れることができはじめるでしょう。その病気を受け入れられた時点で、目に見えて治るということがなくても、わたしたちは、病気がもはや人生で最大の問題ではなくなっているでしょう。受け入れることのできる希望とそれに伴う忍耐が与えられるというのは、目に見える形ではないイエス様の病気や弱さに対する癒しであるといえるでしょう。  病気や苦しみに悩む者、自分の弱さ不甲斐なさに悩む者、そしてここにいるわたしたち全員に、今イエス様が「わたしを信じてついてきなさい」とおっしゃっています。群集たちは、この福音を聞いて、イエス様に従いました。今心を開いて、悔い改めて、イエス様に従って歩む人生を歩き始めたいと思います。

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