主日礼拝

平和の主

「平和の主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ゼカリヤ書 第9章9-10節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第11章1-11節  
・ 讃美歌:130、307、358

受難週の歩みの始まり
  今私たちが礼拝において読み進めているマルコによる福音書は全部 で16章から成っており、四つの福音書の中で最も短いものです。そ のマルコ福音書の第11章に今日から入るわけですが、この11章か ら最後の16章にかけての所に語られているのは、主イエス・キリス トのご生涯の最後の一週間のことです。本日の箇所には主イエスがエ ルサレムにお入りになったことが語られていますが、それは週の初め の日、日曜日のことだと考えられています。その日から始まる一週間 の内に、主イエスは捕えられ、死刑の判決を受け、金曜日に十字架に つけられて殺されるのです。そのことが15章まで語られており、最 後の16章は、次の日曜日の朝の復活のことです。エルサレムに入る ことから始まり、逮捕、裁判、十字架の死、そして埋葬に至るこの最 後の一週間のことを「受難週」と呼びます。11章はその受難週の歩 みの始まりであり、マルコ福音書は、この一週間のことを語るのに全 体の三分の一以上の分量を用いているのです。それゆえにある学者は マルコ福音書のことを「詳細な序文つきの受難物語」と呼びました。 マルコがこの福音書において語ろうとしていることの中心は主イエス のエルサレムにおける受難の物語であり、これまで読んできた10章 までの所、主イエスの教えやみ業を語ってきた部分は、本日の箇所か ら語られていく受難のことを語るための序文だった、ということで す。つまり私たちは本日から、マルコ福音書の最も大切な中心部分に 入って行くのです。   ところで今年は、今週の水曜日、3月5日が教会の暦で「灰の水曜 日」と呼ばれている日で、この日からレント(受難節)に入ります。 主イエス・キリストの苦しみと死とを特に覚えるための期間です。そ のレントの期間に入る直前の本日の主の日から、主イエスの受難週の 歩みを語っている箇所を読み始めることになったわけで、これは意味 深い、主の導きであると思います。ちなみに今年は4月13日からの 週が受難週で、4月20日が主の復活の記念日、イースターとなりま す。

エルサレムに入る
  さて本日の箇所に語られているのは、主イエスがエルサレムに到着 し、その町に入られた、ということです。ガリラヤ地方で伝道を開始 してからおよそ三年が経っていたと思われますが、主イエスはいよい よ、ユダヤ人たちの信仰の中心地であるエルサレムに来られたので す。主イエスがエルサレムに到着なさったというのは、他のどこかの 町に着いたのとは根本的に意味の違う、特別な出来事です。マルコも これを特別なこととして語っています。他の町に入った時にはいつ も、主イエスはご自分の足で歩いて入られました。しかしここでは、 子ろばに乗っておられます。そして8節には、「多くの人々が自分の 服を道に敷き、また野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた」 とあります。子ろばに乗った主イエスは、人々が敷いた服や枝の上を 歩いていかれたのです。そして人々は「ホサナ。主の名によって来ら れる方に、祝福があるように。我らの父ダビデの来るべき国に、祝福 があるように。いと高きところにホサナ」と歓呼の叫びをあげまし た。人々のその叫び声の中で主イエスはエルサレムにお入りになった のです。これまでの、どちらかと言えばつつましい、目立たない歩み とは打って変わったお姿がここに描かれています。しかもこれは、主 イエスご自身はそんなことを望んでいなかったのだが、人々が勝手に そうした、というのではありません。子ろばを用意してそれに乗ろう とされたのは主イエスご自身です。また人々の歓迎の叫びを主は止め ようとはしておられず、むしろそれを受け入れておられるのです。つ まりこのような形でエルサレムに入ることは、主ご自身が意志された ことだったのです。

王としての入城
  このような仕方でエルサレムにお入りになったことは、主イエスが 王としてこの町に来られたことを意味しています。歩いてではなくろ ばに乗ってというのは、王様がその乗り物に乗って来られる姿を表し ています。人々が服や葉の付いた枝を道に敷いたというのは、偉い人 が来る道に赤い絨毯が敷かれるのと同じことです。人々は自分の服や 木の枝を道に敷いて、主イエスを王としてお迎えしたのです。そして 人々の歓呼の声にも、主イエスを王として迎える思いが表されていま す。「我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように」という言 葉がそれを示しています。ダビデは、エルサレムをイスラエルの王の 都として定め、築いた、王の中の王です。ダビデ以降、歴代の王たち はこのエルサレムで国を治めてきました。そのダビデの来るべき国、 と言われています。それは、ダビデ王の子孫にイスラエルのまことの 王である救い主が現れ、その王国が実現する時、イスラエルの民の救 いが実現する、という旧約聖書の預言の成就を期待してのことです。 メシアと呼ばれるまことの王、救い主が来て、ダビデの王国を再現し て下さる、そういう救いをイスラエルの人々は待ち望んでいたので す。人々が主イエスを王としてエルサレムに迎えたのは、主イエスこ そ待ち望んでいた救い主、ダビデの王国を再現するまことの王ではな いか、という期待によってなのです。
  このことは、先週読んだ10章の終りのところにも語られていまし た。主イエスがエリコの町からエルサレムへ向けて出発なさった時、 バルティマイという盲人の物乞いが「ダビデの子よ、わたしを憐れん でください」と叫んで、主イエスによる救いを求めたのです。彼が主 イエスに「ダビデの子よ」と呼びかけたことが重要であると先週申し ました。それは主イエスこそダビデの子孫としてお生まれになるまこ との王、救い主であられる、という信仰の表明なのです。あのバルテ ィマイの叫びは、本日の箇所における人々の歓呼の声を先取りしてい たと言えるのです。
  主イエスがオリーブ山を通ってエルサレムに入られたことも、この 関連で意味深いことです。先ほどは旧約聖書ゼカリヤ書の9章の言葉 が朗読されましたが、同じゼカリヤ書の14章4節の前半に、「その 日、主は御足をもってエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれ る」とあります。主なる神がイスラエルの救いを実現なさる時、オリ ーブ山の上に立たれるのです。11章の1節にオリーブ山のことが語 られているのは、単に主イエスの歩まれた道順を語っているのではな くて、このゼカリヤ書の預言を意識していると思われます。ここに も、主イエスが神様から遣わされた救い主としてエルサレムに来られ たことが暗示されているのです。
  人々は主イエスを迎えて「ホサナ」と叫びました。これは「今救 ってください」という意味の言葉です。つまりこれは「万歳」という ような無内容なかけ声ではなくて、救い主であられるまことの王のご 支配と、それによる救いを求める祈りの言葉なのです。主イエスはそ ういう声に迎えられて、主の名によって来られる方、父ダビデの国を 再建する救い主として、ダビデ王の都であるエルサレムに入られたの です。

主イエスご自身の意志によって
  そしてここで大事なのは、先ほども申しましたように、このような 仕方でエルサレムに入ることを主イエスご自身が望まれた、というこ とです。主ご自身が一頭の子ろばを引いて来るようにお命じになった のです。その子ろばを見出し、引いて来るための細かい指示を与え て、二人の弟子を使いに出されました。二人が行ってみると、全ては 主のお言葉通りになったのです。ここに、主イエスの奇跡的な力、予 知能力のようなものを読み取る必要はないでしょう。前もってこのろ ばの所有者と話をつけてあった、と考えても一向に差し支えないので す。大事なことはそういうことではなくて、主イエスご自身が、エル サレムに入るに当って、「まだだれも乗ったことのない子ろば」をお 求めになり、それにお乗りになったということです。それは「まだだ れも乗ったことのない」ろばでなければなりませんでした。神の子で あり、救い主であり、まことの王であられる主イエスが乗るろばは、 人間がまだ乗ったことのない初物でなければならない、という思いが ここにはあります。主イエスご自身がそのように考えておられるので す。また、使いに出た弟子たちがこのろばをほどいて連れて行こうと した時に、「なぜそんなことをするのか」と問う人がいたなら、「主 がお入り用なのです。すぐにここにお返しになります」と答えなさ い、と主イエスはおっしゃいました。「主がお入り用なのです」と言 いなさいということは、主イエスが弟子たちにご自分のことを「主」 と呼ばせておられるということです。それはこの福音書においてここ だけのことです。マルコ福音書において主イエスは「私は主だ」とは 言っておられませんし、弟子たちも通常「主」とは呼んでいません。 「主」というのは「主人」という意味ですが、主イエスはこれまで、 人々を支配する主人として歩んで来られたのではなく、むしろ人々に 仕える僕として歩んで来られたのです。しかしここでは、ご自分のこ とを「主」と言い、そのように呼ぶことを弟子たちに求めておられる のです。

主イエスを拒むエルサレム
  このように主イエスは、王としてエルサレムに入られたのです。エ ルサレムは、神様の民であるイスラエルの王の都です。本来神様こそ が王として支配するべき所です。そこに、神様の独り子である主イエ スが、父なる神様によって遣わされて、まことの王として来られたの です。しかし今、このエルサレムで権力を握り、支配しているのは、 ローマ帝国の総督ポンティオ・ピラトです。本来神様こそが支配して いるべき町に、神の子である主イエスが本来の王として来られたの に、そこを今人間が支配しているのです。そしてその人間たちによ って、王として来られたはずの主イエスは捕えられ、裁かれて十字架 につけられて殺されていくのです。
  またこのエルサレムには神殿があります。つまりエルサレムはイス ラエルの民の政治の中心地であるだけでなく、信仰の、そして礼拝の 中心地です。この町でこそ、神様へのまことの礼拝がささげられてい るはずなのです。エルサレムに入られた主イエスは、先ずその神殿に 行かれました。そのことが本日の箇所の最後の11節にこう語られて います。「こうして、イエスはエルサレムに付いて、神殿の境内に入 り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を 連れてベタニアへ出て行かれた」。エルサレムに入った主イエスは先 ず神殿の境内の様子を見て回ったのです。それは観光客の見物とは違 います。主イエスこそ、この神殿の本来の主なのです。礼拝の場であ る神殿は、主イエスのためにこそあるはずなのです。主イエスを迎え て、そのみ前にひれ伏して拝むという礼拝こそが、ここでなされるべ きなのです。しかし今この神殿を支配している祭司たちは、主イエス を歓迎するどころか、迎えてすらいません。むしろこの神殿の祭司長 たちが、主イエスを捕え、ローマの総督ピラトに引き渡し、十字架に 付けていくのです。このように、エルサレムは、主イエスこそが王と して支配すべき所であり、主イエスへの礼拝がささげられるべき所で ありながら、人間が王となって支配しており、主イエスを神として礼 拝することを拒んでいるのです。

主イエスを拒む私たち
  このようなエルサレムの姿は、生まれつきの私たちの心の姿、生 活の姿なのではないでしょうか。私たちはもともと、自分が王とな って、自分の思いによって生きようとしています。主イエスを王とし て迎えようとせず、主イエスの前に跪いて礼拝することも拒んでいる エルサレムの町と全く同じなのです。そのエルサレムに、主イエスは まことの王として、神殿の本来の主として来られました。同じように 主イエスは、自分が王となって主イエスを拒んでいる私たちの心と生 活の中に入って来られるのです。そして主イエスは、「私はあなたの まことの王として、あなたによって礼拝されるべき主として来た」と 宣言なさるのです。つまり私たちに、自分が座っている王座を主イエ スに明け渡し、主イエスのみ前に跪いて礼拝する者となることをお求 めになるのです。私たちの心と生活における王権の交替を、私たちの 人生の方向転換を、つまり悔い改めをお求めになるのです。主イエス がエルサレムに来られたというのはそういう出来事です。このことを 通して主イエスは私たち一人一人に、悔い改めて主イエスを王として 迎える者となることを求めておられるのです。

主イエスを迎えたのは誰か
  主イエスを王としてお迎えする者となる、それは、例えば天皇や皇 太子が道を通っていく時に、沿道に立って日の丸を振って迎える者 の一人になるようなことではありません。本日の箇所に出て来る人 々は、そのように沿道に立って主イエスを迎えているのではないので す。9節に「前を行く者も後に従う者も叫んだ」とあります。「ホサ ナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように」と叫んで主イ エスを迎えた人々は、実は主イエスの前を行き、後に従っているので す。つまり主イエスの歩まれる道を共に歩んでいるのです。その中に は、ガリラヤからずっと主イエスに従って来たペトロを初めとする弟 子たちがいるし、先週読んだ10章の終りのところで、主によって目 を開かれ、見えるようになって、なお道を歩まれる主イエスに従って 来たバルティマイもいます。つまり以前から従っている者もいれば、 つい最近従って来るようになった人もいるわけですが、いずれにせよ 彼らは、主イエスと共に、主イエスの歩まれる道を、主イエスに従 って歩みつつ、主イエスをほめたたえているのです。主イエスを王と してお迎えするというのはそういうことです。沿道で見物しながら旗 を振っているだけでは、主イエスを王としてお迎えすることにはなら ないのです。

主イエスと共に歩むことによってこそ
  さてこのように主イエスはまことの王としてエルサレムに入られま した。しかしそのお姿は、人間の王、支配者の姿とは全くかけ離れた ものだったということも、ここに語られています。主イエスはろばの 子にお乗りになりました。ろばは、本来は王の乗るものではありませ ん。王の乗り物は馬か、馬に引かせた戦車か、あるいは奴隷たちに担 がせる輿のようなものです。ろばに乗る王というのは聞いたことがあ りません。しかもこのろばは、まだだれも乗ったことのない子ろばで す。それは先ほど申しましたように、人間の手垢が付いていない初 物、ということですが、それは同時に、人を乗せるための訓練が全く 出来ていない、ということでもあります。だからこのろばは主イエス を乗せて、よたよたぎくしゃくしながら歩んだのだと思います。つま りこれは、王らしい堂々とした歩みではなくて、むしろ弱々しい、あ るいは滑稽な姿だったのです。また人々が自分の服や野原から切って きた葉の付いた枝を道に敷いたというのも、立派なレッドカーペット が敷かれるのとは違う、貧しい、また雑然とした姿です。つまり主イ エスのエルサレム入りは、傍目にはとてもまことの王の到着などとは 言えないようなみすぼらしいものだったのです。またそれはそんなに 人目を引くようなことでもなかったと思われます。イスラエルのまこ との王、救い主がエルサレムに入り、神殿に来られるというのは、本 来ならエルサレム中が大騒ぎ、大混乱になるようなことですが、そん な騒ぎにはなっていないし、11節の記事においても、多くの人々は 主イエスが神殿に来ても全く意識していなかったようです。つまり主 イエスのエルサレム入りは、特に人目を引くような出来事ではなか ったのです。そこに、もう一つの大事なことが示されています。それ は、まことの王、救い主であられる主イエスが来られても、誰でもが そうとはっきり分かるわけではない、ということです。それが分かる のは、「前を行く者と後に従う者」、つまり主イエスと共に歩み、従 って行く者たちなのです。つまり、主イエスがまことの王、救い主と して来て下さったことは、主イエスによって召され、招かれて、主イ エスと共に歩み、従っていく信仰に生きていく中でこそ分かっていく のです。

高ぶることなく
  しかしさらに大事なもう一つのことがあります。それは、主イエス がろばの子に乗ってエルサレムに入られたのは、本日共に読まれた 旧約聖書の箇所であるゼカリヤ書第9章9、10節の預言の成就だ った、ということです。その箇所をもう一度読んでみます。「娘シオ ンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あな たの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることな く、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエ フライムから戦車を/エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ /諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ/大河から地 の果てにまで及ぶ」。ここには、イスラエルの王が、エルサレムに、 ろばの子に乗って来られることが告げられています。主イエスのエル サレム入りはまさにこの預言の成就でした。なぜ「ろば」なのか、そ れがここに語られています。それは「高ぶることなく」ということの 印です。「高ぶる」において見つめられているのは、力によって敵に 勝利して支配することです。神様から遣わされるまことの王は、力に よって王となるのではないのです。軍馬とは対照的なろばに乗って来 て、自分の力によってではなく神様が与えて下さる勝利によって王と なるのです。そのご支配の下で、戦車や軍馬や弓は絶たれ、平和が告 げられるのです。主イエスはまさにこのゼカリヤの預言の通りにエル サレムに来られました。主イエスは確かにまことの王としてエルサレ ムに来られたのです。しかし主イエスは、ローマ帝国の総督ピラトに 対抗してエルサレムの支配権を獲得しようとはなさいませんでした。 神殿を支配している祭司たちを追い出して神殿の主となろうとしたの でもありませんでした。力によって敵を打ち破って王となるのではな くて、むしろ全ての者の罪をご自分の身に背負って苦しみを受け、十 字架にかかって死んで下さったのです。ろばの子に乗ってのエルサレ ム入りは、この十字架の苦しみと死へと向かう受難週の歩みの始まり でした。その十字架への道を歩まれた主イエスに、父なる神様が復活 という勝利を与えて下さり、主イエスを神の民のまことの王として立 てて下さり、平和の主イエスのもとに新しい神の民である教会を結集 して下さったのです。

平和の主の下を生きる
  私たちは本日から、主イエスのエルサレムにおける最後の一週間の 歩みを礼拝においてたどっていきます。そういう礼拝を重ねつつ、イ ースターに向けて、主イエスの私たちのための苦しみと死を覚えてい きます。そのようにして私たちも、十字架への道を歩んで下さった主 イエスと共に、主イエスに従って歩んでいくのです。洗礼を受けて信 仰者となるというのは、沿道で見ていた者が、この歩みに加わり、主 イエスの前を行き、後に従いつつ、主をほめたたえる者となることで す。そして主イエスは、洗礼を受け、信仰者となって生きる私たち に、十字架にかかって肉を裂き、血を流して救いを与えて下さったご 自分が確かに共にいて下さることを味わわせるために、本日共にあず かる聖餐を備えて下さったのです。洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ 主イエスと共に歩んでいく時に、私たちの人生は、ろばの子に乗って おいでにかった平和の主のご支配の下に置かれていくのです。

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