夕礼拝

祝福の到来

2003年6月1日、横浜指路教会・夕礼拝説教
サムエル記上第1章1-20節
ルカによる福音書第1章39-45節

「祝福の到来」

序 現代において「家族」のあり方が深く問い直されてきています。二世代、三世代にわたる家族が一つの家に住むというような大家族は少なくなり、両親と一人か二人の子供で構成される核家族が増えてきました。女性が社会の中で活躍する場が増えてきた一方で、両親が子供と接する時間は少なくなってきたと言われます。育児に悩む親も増えてきており、時には破局的な事件に至って社会的な関心を呼ぶことすら多くなってきました。今NHKの朝の連続テレビ小説では、「こころ」という番組が放送されています。スチュワーデスを職業とするヒロインが離婚暦のある医者の男性のところに嫁ぎ、さまざまな困難に直面しながらもたくましく生きていく姿を描いたものです。このような番組が放送されているのも、現代社会において家族とはいったい何なのか、夫であるとは、妻であるとはどういうことなのか、子供とは何なのか、教育とは何なのか、職業を持つとはどういうことなのか、そういったことが深く問われるようになった時代状況を反映しているのでしょう。
 神はこのような悩み多きわたしたちの世界に何を語りかけておられるのでしょうか。今日の「聖なる家族」の物語は、聖霊によって神の御旨を知るようになった家族が、いかに幸いな歩みの中へと招きいれられていくか、そのことをわたしたちに教えてくれています。

1 ユダヤの王、ヘロデの時代に祭司であったザカリアは神殿で香をたく奉仕に当たっていた時、主の天使を通じて、神の言葉を与えられます、「恐れることはない。ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた。あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい。その子はあなたにとって喜びとなり、楽しみとなる。多くの人もその誕生を喜ぶ」(14節)。すぐにこの神の御旨を受け入れることができなかったザカリアは口を利けなくなるという形で神のしるしを与えられます。その末に妻エリサベトは子供を授かり、こう叫んだのです、「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間からわたしの恥を取り去ってくださいました」(25節)。
 さらにマリアのところにも天使が遣わされ、告げます、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない」(37節)。
 エリサベトもマリアも、聖霊によって心の目を開かれ、人知をはるかに越えた仕方で、神が今働いておられることを知ったのでした。今神はわたしたちには測り知られない形でご自分の意志しておられることを成し遂げようとされている。しかもわたしたちを用いて成し遂げようとしておられる。どのように用いられ、どのような結果がもたらされるのか、それは本人たちにも全く分かりません。けれども彼らはそのようにして自分たちを用いて御業を成し遂げようとされている主の御旨にすべてを委ね、神に用い尽くされようとする思いを与えられたのです。
 このことを知ったマリアは神の祝福に与った親戚エリサベトを放っておくわけにはいきませんでした。彼女は出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行ったと言います。不妊の女と言われたエリサベトが身ごもっていると聞いて、本当かどうか確かめに行ってやろうと思って行ったのではありません。ともに神の祝福に与った女性とその恵みを分かち合うために行ったのです。神の恵みを知るようになった者は、それを独り占めして自分だけでほくそえんでいるということはしません。同じ祝福に与っている兄弟姉妹たちとその喜びを分かち合う歩みへと導かれるのです。マリアはエリサベトと挨拶を交わしたと言われていますが、この「挨拶をする」という言葉にはまた、喜ばしい訪れを迎え、その喜びを表現するという意味があります。神に選ばれた恵みを知った者はまさにいてもたってもいられなくなり、到来した祝福の喜びをともに分かち合わずにはおれなくなるのです。人間による狭い判断基準から解放されて、神の自由なる主権、恵みの支配を受け入れた者は、その喜びを分かち合い、神の恵みをほめたたえる者へと変えられるのです。
 この神の恵みの根拠はどこにあるのでしょうか。エリサベトやマリアには取り立てて特別な賜物や才能があったのでしょうか。神に選ばれて当然の素質や素養があったのでしょうか。決してそうではありません。神の恵みの根拠はわたしたち人間の中にはないのです。恵みの根拠は神の自由なる選びの中にあります。わたしたちが神を愛したのではなく、神がまず第一に、まっさきにわたしたちを愛して、ご自分のものとしてくださったのです。ここに神の愛があるのです。わたしたちの側で選ばれる理由はまったくないのに、神がよしとしてくださったがゆえに、わたしたちは恵みの中に招きいれられているのです。だからこそ「恵み」なのです。

2 この神のくださる大いなる恵み、到来する祝福を知った者には感謝が生まれます。讃美が生まれます。神をあがめ、ほめたたえるということが起こるのです。そうせずにはおれなくなるのです。自然と讃美の歌が口をついて出てくるのです。それゆえにマリアは歓喜に満ちて歌ったのでした、わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人もわたしを幸いな者と言うでしょう、力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」(47―49節)。マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子ヨハネがおどったのも、エリサベトが聖霊に満たされて、声高らかに歌うのも、「わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう」と声を上げるのも、神の祝福が到来した時、人間の中には驚きと讃美、感謝と喜びが満ち溢れるからにほかならないのです。しかもこのお方は代々の預言者が指し示してきたお方、世界の民が意識するとせざるとに関わらず待ち続けてきたお方です。まだ母エリサベトの胎内にいたバプテスマのヨハネは、マリアの挨拶を聞いた時、まさに待ちに待った救い主が到来したことを悟り、お腹の中で躍り上がったのです。自らが将来指し示すことになるお方がついにこの世に来られたことを知ったのです。もはやわたしたちの人生が徒労に終わったり、無意味なままで過ぎ去っていくということはありえない。神の支配に信頼し、その恵みの導きに身をゆだねる者は、真に充実した、祝福された歩みを与えられる、それがマリアとエリサベトに明らかにされたことです。そして今、わたしたちにも約束されていることなのです。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」、こう言って「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸い」(45節)なことであるか、そのことをわたしたちも味わい知る者とされているのです。
 あのサムエルの母親となったハンナも、子供が与えられない悩みと嘆きに長年苦しめられた「深い悩みを持った女」(Ⅰサム1:15)でした。「訴えたいこと、苦しいことが多くある」(同16節)女性でした。しかしついにその願いが聞き届けられ、子供を授かった時、ハンナは単に夫エルカナと喜び合って終わったのではなかったのです。まず主に願って得た子供なので名前を「サムエル」(その名は神)としました。そして乳離れするのを待ってから、祭司エリの下に連れて行き、「わたしは、この子を主にゆだねます。この子は生涯、主にゆだねられた者です」(28節)と言い、そこで人々とともに主を礼拝するのです。
 ここでは子供との血のつながりが先にあるのではありません。まして現代においてしばしば用いられる子供を「作る」といった表現で現されるような意識はありません。子供は神の祝福のしるしとして与えられるものであり、神から託される贈り物なのです。それゆえに親の願望をおしつけたり、親の所有物のように扱ってはならないものなのです。そうではなく、ともどもに神の約束の地、神の国へと招かれている神の民の一員なのです。そして親の務めは、子供がこの神の大いなる約束を知り、その導きの中へと入っていくための手助けをしていくことにあるのです。たとえ願いがありながらもさまざまな事情ゆえに子供が与えられない場合でも、このメシアの誕生以来、わたしたちは皆、この大いなる神の民の群れを養育する交わりに、教会を通じて連なっているのです。なぜなら幼子主イエスはわたしたちすべてのために与えられた幼子であり、キリスト者の家庭に生まれる子供はみなこの日にお生まれになったメシアを指し示す幼子であり、メシアの民に加わるように招かれている存在だからです。わたしたちはみな神の民という一つの群れとして、血のつながりがあるなしに関わらず、この幼子たちを導き育む営みに連なっているのです。

結 メシアはマリアにとってもエリサベトにとってもまさに驚くべき「祝福の到来」でした。ヨセフとマリア、そして主イエスという聖なる家族は、神の民の家族がいつも立ち返り、自らを見つめなおし、神から与えられている恵みひとつひとつを数え、歩みを整えていく時のモデルです。この聖なる家族があるゆえに、現代を生きるわたしたち人類の歩みからも、その家族の歩みからも、希望が失われることはありません。この聖なる家族を通じて、わたしたちもまた神の大いなる約束の土地へと招かれているからです。今わたしたちもまた、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる」恵みに与っている者として、この大いなるメシアの民に加えられている喜びを声高らかに歌いたいと思います。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、聖霊が降り、あなたがわたしたちの心の目を開かせてくださる時、わたしたちはメシアの到来を知り、感謝と讃美で満たされます。どうかこの大いなる祝福の到来を拒むことなく、心からの喜びをもってお迎えし、ともどもに招かれているメシアの民の歩みへとわたしたちを導きいれてください。家族の危機が叫ばれているこの時代にこそ、神の家族として歩むことこそが、人間の本来的な、祝福に満ちた歩みであるということがさやかに示されますように。また教会の歩みが、わたしたちキリスト者の家族の歩みが、その指し示しに仕えることを得させてください。
 わたしたちをメシアの民の歩みへと招いてくださる主、イエス・キリストの御名によって祈り願います、アーメン。

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