2026年9月6日
説教題「偽善者の災い」
イザヤ書 第66章1~2節
マタイによる福音書 第23章13~24節
偽善の本質
本日の説教の題を「偽善者の災い」としました。本日の箇所であるマタイ福音書第23章13節以下で、主イエス・キリストは、律法学者たちとファリサイ派の人々に、「あなたがた偽善者に災いあれ」と言っておられます。主イエスが彼らをそのように批判したことは、先々週読んだ12節までのところに既に語られていました。そこには「偽善者」という言葉は出てきていませんが、内容的には、主イエスは律法学者たちとファリサイ派の人々の偽善を批判なさったのです。先々週の説教でそのことをお話ししましたが、その鍵となった言葉は5節の、「そのすることは、すべて人に見せるためである」でした。律法学者やファリサイ派の人々は、神から与えられた律法を熱心に守り、人々にもそのように教えていましたが、それは全て「人に見せるため」、つまり自分が神の律法を熱心に守っている立派な、信仰深い者であることを人に見せようとしているのだ。そこに彼らの偽善がある、と主イエスはおっしゃったのです。偽善という言葉は、善い者を偽ると書きます。実際はそうでないのに、人の前で自分が善い者であるように偽って見せるわけですから、「人に見せるため」ということこそまさに偽善の本質なのです。
偽善者の姿?
けれども、本日の13節以下で、主イエスが繰り返し、「あなたがた偽善者に災いあれ」と言っておられる律法学者やファリサイ派の人々の姿は、「人に見せるために善いことをする」というのとは違うようにも思われます。13節には、「あなたがたは、人々の前で天の国を閉ざしている。自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」とあります。15節には「あなたがたは、改宗者を一人つくろうとして、海や陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪いゲヘナの子にしてしまう」とあります。16節には「あなたがたは、『神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない』と言う」とあります。あるいは23節には「あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実をないがしろにしている」とあります。これらのことは、「人に見せるために善いことをする」というのとは違うのではないでしょうか。「人に見せるため」という偽善と、本日の箇所に並べられている彼らの姿はどう結びつくのか。主イエスが律法学者やファリサイ派の人々に、「あなたがた偽善者に災いあれ」とおっしゃったことの意味を知るための鍵がそこにあるのです。
天の国を閉ざす
先ず13節について考えたいと思います。律法学者やファリサイ派の人々は、天の国を閉ざしており、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない、と主イエスは言っておられます。天の国とは、神のご支配ということです。人が神のご支配の下に生きる、それが天の国です。そういう意味では私たちは地上を生きるこの人生の中で、天の国を生き始めることができるのです。また、死んだら自動的に天の国に行く、というわけではありません。その天の国を閉ざし、自分も入らないし人も入らせないというのは、神のご支配の下で自分自身が生きようとしていないし、人がそのように生きることをも妨げている、ということです。律法学者やファリサイ派の人々はそういうことをしている、と主イエスは言っておられるのです。しかし彼らは、神の律法を熱心に学び、それに従って生きています。つまり神のご命令に従って、そのご支配の下で生きようとしているのだし、人々が律法を守って神のご支配の下で生きるために教えを語っているのです。ですから彼らこそ真っ先に天の国に入ることができるし、彼らの教えを受けることによって自分たちも天の国に入ることができる、と当時の人々は思っていました。その彼らが天の国を閉ざしているとはどういうことなのでしょうか。
神の目と人の目
そこで見つめなければならないのが、あの5節の「そのすることは、すべて人に見せるためである」というみ言葉です。このお言葉によって主イエスは、律法を熱心に守っている彼らの心の中にどういう思いが隠されているのかを明るみに出しているのです。「人に見せるため」というのは、人から評価され、褒めてもらうことを求めている、ということです。そこには、神に評価されることよりも、人に評価されることの方を求める、という思いが隠されています。神が見ていて下さり、評価し、喜んで下さる、ということだけでは満足できないのです。神は目に見えない方ですから、神の評価も目に見えません。神が喜んで下さり、よくやったと褒めて下さるとしても、そのことは、誰の目にもはっきり見える仕方で現れてはこないのです。それでは不満だ、という思いが私たちの中にも起って来るのではないでしょうか。そこに、人からの評価、人に褒めてもらうことを求める思いが生まれます。人の評価、賞賛は目に見える仕方で現れ、確かめることができるのです。そういう人からの目に見える評価を求めていく時に、私たちは、神のまなざし、神が自分をどう見ておられるかよりも、人の目、人が自分をどう見ており、どう評価しているか、ということばかりを気にして生きるようになります。神のまなざしよりも、人の目を気にして生きる、それが「人に見せるため」ということであり、そこに偽善が生まれるのです。偽善とは、神の前で、神からの評価を求めるのではなくて、人の前で、人の評価を第一にして生きることです。それは、神のご支配の下で生きようとしていない、神を主人としていない、つまり天の国に生きていない、ということです。天の国、神のご支配の下で生きるのではなくて、人間の支配、人間の評価の下で生きているのです。彼らは、神の掟である律法を守ることに熱心であり、神に従い仕えているように見えますが、彼らが求めているのは、実は、神に従い仕えていると人から評価されることなのです。その彼らの教えを受けた人々も、それに倣っていきます。神のまなざしの前で、神が喜んで下さることを求めて生きるよりも、神の掟をきちんと守っていると人に見られ、人から評価され、誉められることを求めていくような生き方がそこには生まれていくのです。そのようにして彼らは、天の国を閉ざし、自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも妨げているのです。
ゲヘナの子
15節の、「改宗者を一人つくろうとして、海と陸を巡り歩くが、改宗者ができると、自分より倍も悪いゲヘナの子にしてしまう」というみ言葉もそれと同じことを言っています。改宗者というのは、主なる神を信じて、律法を守る者となることによって、神の民であるイスラエルに加えられた異邦人のことです。律法学者やファリサイ派の人々はそういう改宗者を作り出すために熱心に伝道しているのです。しかしその伝道によって改宗した人々が彼らから学ぶことは、真実に神の前で生きることではなくて、律法を守って神の民に相応しい生活をしていることを人に見せて、人に評価されることです。彼らはそういう人々を生み出している。それは、天の国の子ではなく、ゲヘナつまり地獄の子の再生産だと主イエスは言っておられるのです。
神殿と黄金、祭壇と供え物
16節には、彼らが、「神殿にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、神殿の黄金にかけて誓ったら、それを果たさねばならない」と教えているとあります。18節にも「祭壇にかけて誓っても、それに縛られることはない。だが、その上の供え物にかけて誓ったら、それは果たさねばならない」と教えているとあります。こういう教えがおかしいことは誰でも分かります。いくらなんでも、律法学者やファリサイ派の人々がこの通りに教えていたわけではないでしょう。しかし主イエスが言っておられるのは、彼らの偽善の姿は結局こういうことを言っているのと同じだ、ということです。この二つのことにおいて問われているのは、神殿と神殿の黄金、祭壇とその上の供え物とではどちらがより尊いのか、ということです。だから17節では「黄金と、黄金を聖別する神殿と、どちらが尊いか」、19節では「供え物と、供え物を聖別する祭壇と、どちらが尊いか」と言われています。エルサレムの神殿は、黄金に覆われて光輝いていたようです。しかしその黄金が本当に尊いのは、それが神を礼拝する場である神殿に用いられているからです。供え物と祭壇の関係も同じです。供え物の牛や羊は、それだけなら一頭の家畜です。しかしそれが犠牲として祭壇にささげられることによって、それは神のものとなり、人間の罪の贖いのしるしとなり、神への礼拝を成り立たせるものとなるのです。このように、神殿とその黄金、祭壇と供え物とでは、前者の方がより尊いことは明らかです。ところが彼らは、神殿にかけて誓うよりも、その黄金にかけて誓う方が重い、祭壇にかけて誓うよりも、供え物にかけて誓う方が重いと言っている、それは、先ほど申しましたように、彼らが実際にそう教えているということではありません。このことも、神の前で、そのまなざしの下に生きることと、人の前で、人の目を気にして生きることの対比として語られているのです。黄金に輝く神殿は、目に見える、人の目を引くものです。そして供え物は、あの人はこんな立派な供え物をした、と比較することができるものです。つまり黄金や供え物は、人の目の前でなされる、人に見せるための信仰の行為や善い業を象徴していると言うことができます。それに対して神殿や祭壇は、黄金や供え物を聖別する神ご自身を象徴しています。黄金は、神への礼拝の場においてこそ聖なるものとなるのだし、供え物は祭壇において神に捧げられることによってこそ、そのものの本来の価値をはるかに超えた聖なるものとなるのです。そのように人間の善い業も、神の前で、神のまなざしの下で、神への奉仕としてなされる時にこそ、聖なるものとなり、本当に意味あるものとなるのです。ところが彼らは、神の前で、神への奉仕としてよりも、人の前で、人に見せようとして善い業をしている。神に喜んでいただくよりも、人に褒めてもらうことを喜びとしている、それは、神殿よりも神殿の黄金を、祭壇よりもその上の供え物を尊いものとしているのと同じではないか、と主イエスは言っておられるのです。
偽善は人を生かさない
このことは、神への奉仕としてなされるのでない業、信仰によって行われるのでない善い業は無意味だ、ということではありません。どんな思いでなされようと、善い業は善い業であって、それなりに意味も価値もあります。けれども、神の前で、神のまなざしの下でなされるのでない善い業は、人に見せるためのものになっていくのです。するとそこには、自分の業を誇り、人の業と自分の業とを見比べて優越感を覚えたり劣等感に苦しんだりするようなことが起るのです。元々は信仰によってなされていたはずの善い業、愛の業が、いつのまにか、神の前で、神のまなざしの下でなされるのでなく、人に見てもらって、人から評価されることを求めるものとなってしまう時に、それは偽善になるのです。そして偽善に陥ると、その善い業は隣人を本当に生かすものではなくなってしまうのです。そのことが23節において見つめられています。
23節には、「あなたがたは、ミント、ディル、クミンの十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な公正、慈悲、誠実をないがしろにしている」とあります。ミント、ディル、クミンはどれも香辛料です。収入の十分の一を神に捧げなさい、という律法に従って、彼らは、それらのものの十分の一を捧げているのです。しかし、そういうことをしながら、「公正、慈悲、誠実」はないがしろにしている。「公正」とは、正しい裁きを行なうという意味です。そして慈悲、誠実、これらは全て、隣人との関係におけることであり、一言で言えば、隣人を真実に愛することだと言えるでしょう。それが、「律法の中で最も重要な」掟だと主イエスは言っておられるのです。このことは22章34節以下で主イエスがお語りになった、律法の中で最も重要な掟は、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」ということと、「隣人を自分のように愛しなさい」ということの二つだという教えとも重なります。いろいろなものの十分の一を献げることよりも、このことの方がはるかに大切なのです。ところがそれがないがしろにされている。それは彼らが、「人に見せようとして」善い行いをしているからです。つまり彼らがしている善い行いは人のためではなくて、自分のためなのです。自分のためにしている善い行いは人を本当に愛し、生かす業にはなりません。たとえば施しをする、という人のための業も、その根本的な動機が「自分のため」であり、「人に評価され、褒められること」であるなら、それは人を真実に生かすものにはならないのです。
偽善者とは私たちのこと
このように、ここに並べられている律法学者、ファリサイ派の人々の姿と偽善は一見関係ないように見えますが、全てが「人に見せるため」であることにおいてそれは偽善なのです。神の前で、神のまなざしの下で生きるのではなく、人の前で、人からの評価を求めて生きるところに、このような偽善が生まれます。そしてそれは、彼ら律法学者、ファリサイ派の人々だけの特別なことではありません。私たちも日々、このような偽善に生きているのではないでしょうか。私たちも、天の国、神のご支配の下で自分も生きようとせず、人がそのように生きることをも妨げながら、人の目、人の評価ばかりを気にして右往左往しながら生きているのではないでしょうか。私たちも、目に見えない神ご自身よりも目に見える黄金の美しさに心を奪われ、目に見える供え物を人と比べ合って一喜一憂しているのではないでしょうか。また私たちも、人に見えるところでばかり愛の業を行い、隣人を愛しているのではなくて実は自分自身ばかりを愛している、そのようにして神が本当に求めておられる隣人への愛をないがしろにしているのではないでしょうか。「あなたがた偽善者に災いあれ」と主イエスはおっしゃった、その偽善者とはまさに私たちのことなのではないでしょうか。
主イエスの深い嘆きと悲しみ
「あなたがた偽善者に災いあれ」というみ言葉を読むと、主イエスが偽善者である私たちに災いが下るように願い、私たちのことを呪っておられるように感じてしまいます。しかしこれはそういう言葉ではありません。同じ言葉は既にこの福音書の11章21節において、数々の奇跡が行われたのに悔い改めようとしないガリラヤの町々に対して語られていました。その時にも申しましたが、この「災いあれ」という言葉は、原文においては、「ああ」とか「おお」という嘆き悲しみの言葉です。「災いがあるように」という呪いの言葉ではありません。その点においては、以前の新共同訳聖書の方がよい訳だったと思います。新共同訳においては「あなたたち偽善者は不幸だ」と訳されていました。この訳の方がこの言葉に込められた主イエスの嘆き悲しみの思いを表しています。主イエスは、彼らが偽善に陥り、神の前で、神のまなざしの下で生きるのでなく、人の前で、人の目を気にしつつ生きているのを見て、「ああ、おお」と深く悲しみ、彼らのために嘆いておられるのです。私たちに対しても同じです。私たちも、目に見えない神からの評価だけでは満足できずに、人の評価を求め、人に褒められることを願い、それが得られれば有頂天になり、逆に人が認めてくれないとぺしゃんこになったりすることを繰り返しています。「人に見せるため」という偽善に陥ってしまう私たちは、そのような不幸な生き方をしているのです。そのような私たちのことを、主イエス・キリストは、「災いあれ」と呪っておられるのではなくて、深い憐れみと同情をもって、悲しみ嘆きつつ見つめておられるのです。見つめておられるだけでなく、主イエスはその憐れみと同情によって、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。繰り返し偽善に陥っていく私たちを見つめておられる主イエスのまなざしは、決して、「おまえたち偽善者は呪われて滅び去れ」という断罪のまなざしではありません。主イエスは深い嘆きと悲しみをもって、そして憐れみと同情をもって、私たちのことをいつも見つめて下さっているのです。
偽善からの解放
この主イエスのまなざしの下で生きることが信仰です。この主イエスのまなざしの下で生きる時にこそ私たちは、人の目、人の評価を気にして生きる偽善から解放されるのです。人の目を気にする偽善からの解放は、人の目を気にすることなどもうやめよう、人がどう言おうともう気にしない、私は神さまの評価のみを求めていくのだ、神さまが見ていて下さればそれでよいのだ、と私たちが決意することによって実現することはありません。その神さまが、どういうまなざしで自分を見ておられるのかがわからなければ、私たちはやはり不安なのです。どうしても人の評価が欲しくなるのです。だから偽善に陥っていくのです。ですから、自分の決意によって偽善から解放されることはありません。神がこの自分をどのような目で見ておられるのかをはっきり知ることが必要なのです。神は私たちをどのようなまなざしで見つめておられるのか、そのことを私たちにはっきりと示して下さっているのが、主イエス・キリストです。主イエスは、私たちの救いのために、十字架にかかって死んで下さいました。神が、その独り子を、罪と偽善にまみれた私たちのためにこの世に遣わし、その十字架の死によって私たちを赦し、新しく生かして下さっている、それが私たちを見つめておられる神のまなざしであることを、主イエス・キリストが示して下さっているのです。そして私たちがこの神のまなざしの中で生きていくために、本日は、主イエスの体と血とにあずかる聖餐の食卓に招いて下さっているのです。主イエスによる恵みのまなざしをもって私たちを見つめ、受け入れて下さっている神のご支配こそが天の国です。私たちは、主イエスによるこの神の恵みのまなざしの中でこそ、天の国を生き始めることができます。人に見せようとして、いつも人との比較の中で自分の居場所を探しているような地獄の子から、神の恵みのまなざしの中で、神を愛し、隣人を愛して生きる天の国の子へと新しくされていくことができるのです。
