2026年8月30日
説教題「恵みによって救われる」
アモス書 第9章11~12節
使徒言行録 第15章1~21節
使徒言行録の転換点
しばらく時間が空きましたが、私が夕礼拝の説教を担当するときには、使徒言行録を読み進めています。前回、7月最後の主の日の夕礼拝では、14章を読み終えました。本日から15章に入ります。この15章は、使徒言行録という書物のほぼ真ん中に位置し、15章によって使徒言行録は前半と後半に分けられると言えます。それは単に分量の面だけではありません。内容的にもこの15章を一つの大きな転換点として、使徒言行録は大きく前半と後半に分けられるのです。そのことを最も分かりやすく示しているのは、使徒言行録における使徒ペトロの登場がこの15章をもって終わることでしょう。これまで使徒言行録は、基本的にペトロを中心として、エルサレムに誕生した最初の教会の歩みを語ってきました。しかし16章以降では、登場人物としてはもっぱらパウロが中心となります。伝道の対象も、ユダヤ人から異邦人へと、その中心が移っていきます。そしてそれは、使徒言行録の物語の舞台が地理的に広がっていくこととも関係しています。16章以降、ユダヤから小アジアへ、そしてヨーロッパへと、物語の舞台は広がっていきます。そこには当然、多くの異邦人が暮らしています。使徒言行録は16章以降、主にそれらの地域で伝道がなされ、異邦人キリスト者を中心とした教会が建てられていくことを語っていくのです。
使徒会議
もっともすでに見てきたようにパウロは7章から登場していましたし、11章では異邦人キリスト者を中心としたシリアのアンティオキア教会の誕生が語られていました。そして13、14章では、そのアンティオキア教会がパウロとバルナバを小アジアへの伝道へと派遣したことが語られていました。このいわゆる「パウロの第一次伝道旅行」を通して、小アジアに異邦人キリスト者を中心とした教会が幾つも誕生したのです。その意味で、すでにパウロたちによる小アジアにおける異邦人伝道は始まっています。しかしキリスト教会の伝道がより広い世界へと進展し、より本格的に異邦人へと広がっていくためには、なおこの15章における出来事を経る必要がありました。その出来事とは、小見出しにもあるように「エルサレムの使徒会議」、あるいは単に「使徒会議」と呼ばれる出来事です。この「使徒会議」を経て、使徒言行録は、小アジア、さらにはヨーロッパにおける異邦人伝道へと集中していくことになります。それだけではありません。この「使徒会議」は、ユダヤ教の中から誕生したキリスト教会が、ユダヤ人だけでなく異邦人をも受け入れていく教会として歩むことを明確にするものでもありました。このように「使徒会議」は、キリスト教会の歩みを大きく方向づけた、まことに重要な出来事であったのです。本日と次回、この「使徒会議」において何が、どのように決められたのか、そしてそこにどのような意味があったのかを見ていきたいと思います。
イエスをキリストと信じるだけで
さて、どのような経緯を経て、この「使徒会議」は開催されたのでしょうか。冒頭1節にこのようにあります。「ある人々がユダヤから下って来て、『モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない』と兄弟たちに教えていた」。14章の終わりで、第一次伝道旅行から、パウロとバルナバがアンティオキア教会へ帰還したことが語られていました。彼らは、アンティオキア教会においても、第一次伝道旅行においても、イエスをキリストと信じることによって、つまりイエスを救い主として信じることによって救われる、と異邦人に宣べ伝えてきました。主イエス・キリストの十字架と復活によって実現した罪の赦しを告げ知らせ、それを信じ、受け入れることによって救われる、と宣べ伝えてきたのです。それが、パウロとバルナバが宣べ伝えてきた福音、キリストの十字架と復活による救いの良い知らせでした。異邦人が救われるためには、イエスをキリストと信じるだけで良いのであって、実際、多くの異邦人がイエスをキリストと信じ、洗礼を受けて、教会のメンバーとなったのです。
信仰プラス・アルファが必要なのか
しかし、このことを受け入れられない人たちの一部が、ユダヤからアンティオキア教会へとやって来たのです。ユダヤ地方の教会は、エルサレム教会を筆頭として、ユダヤ人からキリスト者となった人たちを中心とした教会でした。ですからアンティオキア教会へやって来たのも、ユダヤ人キリスト者であったはずです。この人たちが、異邦人が救われるためには「割礼」を受ける必要がある、と教えたのです。勘違いしてはいけないのは、アンティオキア教会へやって来た人たちはキリスト者、クリスチャンである、ということです。つまり彼らは、イエスをキリストと信じることを否定したのではありません。彼ら自身、もともとはユダヤ教の信者でしたが、イエスをキリストと信じてキリスト者となったのです。しかし彼らは、異邦人が救われるためには、イエスをキリストと信じるだけでは十分ではない、それに加えて割礼を受ける必要がある、と主張しました。けれどもそれは、パウロやバルナバが宣べ伝えてきた福音とは異なるものでした。それで2節にあるように、「パウロやバルナバとその人たちとの間に、激しい対立と論争が生じた」のです。そこでアンティオキア教会は、この問題について、エルサレム教会の「使徒や長老たちと協議するために、パウロとバルナバ、そのほか数名の者」を、エルサレム教会へと派遣しました。4節にあるように、パウロたちはエルサレム教会に到着すると、「神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告し」ました。それは、「第一次伝道旅行」において、神が彼らと共にいて、彼らを用いて、小アジアに異邦人キリスト者を中心とした教会をいくつも誕生させてくださったことを報告した、ということです。ところがこの伝道報告を聞いて、喜ぶよりも反発した人たちがいました。5節にこのようにあります。「ところが、ファリサイ派から信者になった人が数名立って、『異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ』と言った」。念のために申し上げれば、「ファリサイ派から信者になった人」というのは、ユダヤ教のファリサイ派の人ではなく、ファリサイ派からキリスト者となった人、つまりクリスチャンです。この人たちが主張したことは、アンティオキア教会へやって来た人たちが主張したことと基本的に同じです。彼らは、異邦人が救われるためには、イエスをキリストと信じる信仰に加えて、割礼を受けて律法を守らなければならない、と主張したのです。救いは、イエス・キリストを信じる「信仰のみ」によるのではなく、信仰に加えて、割礼を受けて律法を守ることによる、ということです。それは、言い換えるならば、信仰プラス・アルファが必要だ、ということにほかなりません。ユダヤ人キリスト者を中心とするエルサレム教会において、異邦人が救われるのは、「信仰のみ」なのか、それとも信仰プラス・アルファが必要なのか、という対立と論争はさらに深刻なものとなったのです。
避けてはならない対立や論争
私たちは出来るだけ教会で対立や論争が生じないほうが良いと思います。特に、大したことでもないのに教会のメンバーが言い争ってばかりいたら、教会に初めて来られた方々は、二度とこの教会には来たくない、と思われるでしょう。しかしその一方で、教会において、避けることのできない、あるいは避けてはならない対立や論争もあります。それは、私たちの信仰の根幹に、私たちの救いの根幹に関わる対立や論争です。パウロやバルナバにとって、異邦人が救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰のみなのか、それとも信仰プラス・アルファが必要なのかは、救いの根幹に関わることでした。だから「激しい対立と論争が生じ」ざるを得なかったのです。同じように私たちも信仰や救いの根幹に関わることに関しては、対立や論争を避けてはならないことがあります。対立や論争を避けることによって、逆に教会が揺らいでしまうことがあるのです。私たちは自分たちが何を信じているのかを曖昧にしてはなりません。対立や論争を経てでも、私たちが信じていることを明確にする必要があるのです。
教会会議
とはいえ、対立や論争を避けてはならないとしても、教会は何かを決めるとき、どのようにして決めればよいのでしょうか。使徒言行録15章は、教会が会議を開いたことを語っています。信仰や救いの根幹に関わる対立や論争を解決するために、「教会会議」を開催したことを語っているのです。6節には「そこで、使徒たちと長老たちは、この問題について協議するために集まった」とあります。ここに「エルサレムの使徒会議」が開催されました。この会議で、異邦人が救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰のみなのか、それとも信仰に加えて割礼を受けて律法を守ることが必要なのかが協議されたのです。6節以下で、この「使徒会議」の様子が語られています。初めにお話ししたように「使徒会議」は、キリスト教会の歩みを大きく方向づけた重要な出来事でした。しかしそれだけでなく私たちは、この「使徒会議」から、教会の会議がどのようになされるべきなのかを知ることができます。その意味でも使徒言行録15章は大切な箇所です。私たちの教会においても様々な会議が行われています。長老会、執事会、長老執事協議会はもとより、各委員会、教会学校教師会、あるいは各会でも話し合いがなされます。それらの教会の会議において、私たちが大切にすべきことは何であるのか。そのこともこの箇所は、私たちに教えているのです。
大切にしてきたものを手放せない
「使徒会議」の様子を見ていく前に、もう一つ考えておきたいことがあります。ファリサイ派からキリスト者になった人たちは、異邦人が救われるためには、イエスをキリストと信じる信仰に加えて、割礼を受けて律法を守ることが必要だ、と主張しました。私たちはこの人たちの主張に対して、保守的で、なんて頭の固い人たちなのだろうと思うかもしれません。しかしこの人たちの気持ちを考えるとき、私たちは彼らを批判してばかりはいられないのではないでしょうか。彼らはユダヤ人でキリスト者となった人たちであり、これまでずっと唯一の神を信じ、その神の民として、割礼と律法を重んじて生きてきました。その彼らが、自分たちの信じてきた神が、その独り子を救い主として送ってくださったことを知らされ、イエスを救い主と信じてキリスト者となりました。しかしそれは、あくまでも、割礼を受け、律法を重んじてきたユダヤ人が、イエスを救い主と信じてキリスト者となったということでした。割礼も受けておらず、律法を守ってもいない異邦人が、イエスを救い主と信じる信仰のみによって救われるというのは、彼らにとって受け入れがたいことであったのです。これまで自分たちが重んじてきたことを蔑ろにされたように思えたからです。だから、異邦人も割礼を受けて律法を守らなければ救われない、と主張したのです。私たちがもしファリサイ派からキリスト者となった人たちであれば、同じように主張したかもしれません。自分がこれまで重んじてきたこと、大切にしてきたことを蔑ろにされるとき、私たちは激しく抵抗するものです。ですから私たちは彼らを批判してばかりはいられません。自分たちが大切にしてきたものを手放せない彼らの姿は、私たちの姿でもあります。そのような私たちの抵抗や反発、頭の固さを乗り越えながら、教会がどのように歩むべきなのかを共に考え、決めていくためにも、教会は会議を行うのです。もちろん、これは単純に保守的な考えは間違っていて、新しい考えが正しい、というようなことではありません。そのことを弁えつつ、使徒会議がどのように進んで行ったかを見ていきたいのです。
神ご自身が証明してくださった
「使徒会議」では、まず使徒たちと長老たちが議論を重ねました。その後で、ペトロが立ち上がって語り始めます。7節の後半から11節までペトロの発言が記されています。まず7節後半から、「ずっと以前に、神は、あなたがたの間で私をお選びになりました。それは、異邦人が私の口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです」とあります。原文を直訳すれば、「あなたがたの中で、神は、私の口を通して異邦人が福音の言葉を聞いて信じることを選ばれました」となります。つまりここでは、神がペトロを選ばれたことを強調しているというより、異邦人がペトロの語る福音を聞くことを通して、その福音を信じるようになることが、神の御心であったことを強調しているのです。続けてペトロはこのように語りました。「人の心をお見通しになる神は、私たちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らを受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした」。このように語りながら、ペトロは10章で語られていた、百人隊長コルネリウスに起こった出来事を思い起こしていたと思います。ペトロ自身、当初、異邦人であるコルネリウスを訪ねることを拒んでいました。律法によればユダヤ人が異邦人を訪ねることは許されていない、と考えられていたからです。しかし聖霊なる神の導きによってコルネリウスを訪ねたペトロは、「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分か」ったのです(10章34節)。だからペトロはこの使徒会議においても、神は「私たちと彼らとの間に何の差別もなさいませんでした」と、つまり神はユダヤ人と異邦人との間に何の差別もなさらなかったと語りました。そしてそれは、単にペトロが自分の考えを語ったということではありません。彼は、「神は、私たちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らを受け入れられたことを証明なさった」と語っています。この言葉の背景には、ペトロがコルネリウスたちにみ言葉を語っていたときに、聖霊が降ったことがあります。つまり神は、ご自身が異邦人に聖霊を与えることによって、異邦人を受け入れたことを証明してくださり、異邦人がイエス・キリストを信じる信仰によって清められ、罪を赦され、救われることを証明してくださったのです。ペトロ自身は、もともとはユダヤ人と異邦人との間には区別があると考えていました。ですから自分たちが重んじてきたことを手放すことができないファリサイ派からキリスト者となった人たちの気持ちもよく分かったでしょう。しかしペトロは言います。すでに神ご自身が異邦人を受け入れることを証明してくださったではないか。だからあのとき、コルネリウスたちの上に聖霊が降ったではないか。神ご自身が、イエス・キリストを信じる信仰によって救われると証明してくださったのに、なぜ自分たちの考えに固執しようとするのか。そう言うのです。そして10節で、「それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖も私たちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのですか」と問いかけます。「軛」とは、ここでは割礼を受け律法を守ることです。しかし救われるために、割礼と律法という軛を異邦人に負わせることは、すでに神ご自身が証明してくださったことに逆らうことになります。神ご自身は、イエス・キリストを信じる信仰のみによって異邦人を受け入れ、聖霊を与えてくださったからです。それでもなお救われるために割礼と律法を彼らに負わせるならば、それは神ご自身が証明してくださったことに逆らい、神を試みることになるのです。この「使徒会議」でペトロが語ったことの中心は、イエス・キリストを信じる信仰のみによって救われるのであって、それに加えて割礼を受ける必要はないことを、神ご自身がすでに証明してくださっていた、ということであり、そのことにこそ目を向ける必要がある、ということなのです。私たちが救われるのは、イエス・キリストを信じる信仰のみによるのであって、決して信仰プラス・アルファが必要なのではない。このことを神ご自身が証明してくださったのです。
み言葉に示されている神の御心
このペトロの発言の他に、使徒言行録15章が「使徒会議」における発言として記しているのは、13節以下のヤコブの発言だけです。ヤコブとは、主の兄弟ヤコブのことですが、この時にはエルサレム教会の中心的な指導者となっていました。その彼が、14節でこのように発言しています。「神が初めに心を配られ、異邦人の中からご自分の名を信じる民を選び出された次第については、シメオンが話してくれました」。シメオンとはペトロのことです。ペトロの発言を受けてヤコブは、神がまず心を配ってくださり、その御心によって、異邦人の中から神の民を選び出してくださった、その神のみ業をペトロが話してくれた、と語ったのです。そしてその上でヤコブは、ペトロが話したことは、聖書が語っていることと一致する、と話しました。この場合の聖書とは旧約聖書のことです。ヤコブは、「預言者たちの言ったことも、これと一致しています」と言って、16~18節で共に読まれたアモス書9章11~12節を引用しています。み言葉を引用して、ヤコブは、今、ペトロが話した、異邦人が神に受け入れられ、神の民に加えられるという出来事は、聖書がすでに語っていたことと一致している、と言ったのです。それは、引用したみ言葉の後半にある、「私の名で呼ばれるすべての異邦人が 主を求めるようになる」という預言が、主イエス・キリストによって実現し、その主イエス・キリストを信じる信仰によって異邦人も救われた、ということにほかなりません。主の兄弟ヤコブはエルサレム教会の中心的指導者でありました。ということはユダヤ人キリスト者たちの指導者であり、彼自身の思いとしても割礼や律法を重んじたかったと思います。しかしヤコブは、自分自身の思いよりも、み言葉に従いました。み言葉に示されている神の御心を求め、その御心に従ったのです。
神の御心を求める
このように「使徒会議」におけるペトロとヤコブの発言は、どちらも自分の思いや考えを主張したのではなく、神の御心を求めたものであったと言えます。ペトロは神ご自身が証明してくださったことに目を向けるよう発言し、ヤコブは聖書のみ言葉に示されている神の御心に目を向けるよう発言しました。教会における会議は、何よりも神の御心を求めるために行われます。神ご自身が証明してくださったことを、神の御心を求めることを通してこそ、私たちの信仰や救いの根幹に関わることを明確にしていくことができるのです。私たちは自分たちの思いや考えや経験に頼るのではなく神の御心をこそ求めます。そのことによってこそ、私たちは、自分たちが大切にしてきたものを手放せない頑なさや、頭の固さを乗り越えて、教会がどのように歩むべきなのかを共に考え、決めていくことができるのです。私たちの教会は、神ご自身が証明してくださったことや、神が聖書において示してくださった御心に目を向けることによって、自分の思いや伝統を絶対化することから自由になり、神の御心を求め、その御心に従う教会として歩むことができるのです。
恵みによって救われる
「使徒会議」によって、私たちの救いはイエス・キリストを信じる信仰のみによるのであり、信仰プラス・アルファが必要ないことが明確にされました。ここに私たちの教会が大切にしている、「信仰のみによる救い」が明確になったのです。そのことによってキリスト教会は、使徒言行録が16章以降で語っているように、益々異邦人への伝道を進めて行くことになります。そしてキリストの福音は、より広い世界へと広がり、長い時間をかけて日本にも届きました。「使徒会議」は、このキリスト教の歩みを決定づけるものであり、「使徒会議」がなければ、日本に福音が届くことはなかったかもしれません。
けれどもこの「信仰のみによる救い」を、私たちが自分の信仰によって救いを獲得できると考えるならば、それは間違っています。ペトロは11節でこのように言っています。「私たちは、主イエスの恵みによって救われると信じていますが、これは、彼ら異邦人も同じことです」。ユダヤ人も異邦人も、そして私たちも、主イエスの恵みによって、その十字架と復活によって救われたのです。この主イエスの恵みによる救い、主イエスの十字架と復活による救いを、ほかならぬ自分のための救いであると信じ、受け入れることが、私たちの信仰です。イエスをキリストと信じるとは、十字架で死なれ復活されたイエスを、自分の救い主として受け入れ、信じることなのです。「信仰のみ」によって救われるとは、自分の信仰によって救いを獲得することではなく、主イエスの恵みによって実現した救いを、信仰によって受け取ることです。このことこそ「使徒会議」で、キリスト教会の信仰として、それゆえに私たちの教会の信仰として明確にされたことなのです。