説 教 「主イエスの権威」 牧師 藤掛順一
旧 約 詩編第130編1-8節
新 約 マタイによる福音書第21章23-27節
主イエスの到来を待つ
マタイ福音書の第21章には、主イエスがそのご生涯の最後にエルサレムに来られたこと、そこで、主イエスを迎えた人々との間に起ったことが語られています。これはおよそ二千年前の出来事ですが、ただの昔話ではありません。この時エルサレムに来られた主イエスは、十字架にかかって死に、そして復活なさいました。そして天に昇り、今は父なる神のもとにおられます。そして将来、この世の終わりにもう一度来られるのです。その時私たちは、それ以前に死んでしまっていようと、その時生きていようと、全ての者が、もう一度来られる主イエスをお迎えすることになるのです。この主イエスの再臨に備えていくのが私たちの信仰です。その私たちにとって、この21章は特別な意味を持っていると言うことができます。前回読んだ18節以下には、主イエスがいちじくの木に実を探したけれども実はなかった、それでその木は主イエスの一言でたちまち枯れてしまったことが語られていました。この不可解な出来事は、主イエスが来られた時、エルサレムの人々が、主イエスを迎える準備ができていなかったことを表しています。それは私たちに対する警告です。主イエスがもう一度来られる時、私たちは主イエスから、実を実らせていることを求められるのです。つまり私たちも、主イエスを迎える準備が出来ているのかを問われているのです。主イエスからのこの問いを意識して、自らの歩みを整え、主イエスの再臨に備えていく、それが私たちの信仰なのです。
祭司長、長老たちの問い
本日の23節以下には、エルサレムの神殿に来られた主イエスに、「祭司長たちや民の長老たち」つまりイスラエルの民の宗教的指導者たちが、厳しい口調で一つの問いを突きつけたことが語られています。彼らは、「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」と問うたのです。「このようなこと」というのは、直接には、12節以下に語られていたこと、つまり主イエスが神殿の境内で、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆したことを指しているのでしょう。このことは主イエスによる「宮潔め」と呼ばれていますが、彼らにすればそれは、自分たちが管理している神殿の秩序を乱す行為でした。「突然やってきて神殿の秩序を乱すとは何事か。何の権利があってそんなことをするのか」と彼らは文句を言ったのです。しかしマタイ福音書がここで見つめているのはこの「宮潔め」だけではないようです。23節に「イエスが神殿の境内に入って教えておられると」とあります。マルコ福音書の同じ箇所は「イエスが神殿の境内を歩いておられると」でした。マタイはマルコを下敷きにしていますが、「歩いておられると」を「教えておられると」に変えたのです。そこにマタイの思いが反映していると言えるでしょう。マタイは、祭司長や長老たちの反発が「宮潔め」に対してだけではなく、主イエスの教えの全体に対して向けられていた、と捉えているのです。
主イエスに問う者
このようにここには、エルサレムに来られた主イエスに対して、「何の権威でこのようなことをするのか」と厳しく問うている人々の姿が描かれています。しかし先ほど申しましたように、そしてあのいちじくの木の話が語っていたように、主イエスが来られる時には、本来私たちが主イエスから問われるのです。ところが祭司長や長老たちは主イエスに厳しく問い、答えを迫っています。それでは立場が逆です。でもそれは、私たちがいつもしていることなのではないでしょうか。私たちは、主イエスからの、神からの問いかけを受けて、それによって自らを省みるよりも、主イエスに対して、神に対して、あるいは聖書や教会に対して、問いを発する、いやむしろ詰問するようなことをしているのではないでしょうか。神のこと、イエス・キリストのこと、救いのことがよく分からない、もっとはっきり分かるように、納得できるようにして欲しい、信じさせたいならまずちゃんと納得させてくれ、という思いを私たちは誰でも持っています。あるいは私たちは、聖書の内容や教会の教えに対して、ここが分からない、あそこがおかしい、という疑問を抱きます。教会のあり方や信仰者の生き方についても、これでいいのか、教会はもっとこうであるべきではないのか、信仰者であると言うからにはこういう生活をすべきではないのか、という批判を持ちます。そういう疑問や批判への答えが得られなければ信じられない、と思うのです。これらの思いに共通していることは、自分は問う者であり、神や主イエスや教会や信仰者はその問いに答えるべきだということです。自分は答えを要求する者であり、その答えを判定して「これならいいだろう」と思えばそれを受け入れる。つまりそこでは私たちは、神に対しても教会に対しても信仰者に対しても、合格か不合格を採点して決める教師のような意識でいるのです。この祭司長や長老たちはまさにそのような思いで、主イエスに問うています。しかしその主イエスは、神から遣わされた独り子なる神、まことの救い主です。だから主イエスに向かってこのような態度をとることはまことに不遜なことであり、けしからんと言うよりもむしろこっけいなことだと言わなければなりません。そのような不遜でこっけいなことを、まさに私たち自身がいつもしているのではないでしょうか。
権威を問う
彼らが問うたのは主イエスの権威です。主イエスは本当に権威ある者なのか、ということを彼らは問うたのです。私たちが問うているのもつまるところはそのことなのではないでしょうか。ある国語辞典で「権威」という言葉をひいてみたら、「他を追随させるに足る、その方面でのずば抜けた知識・判断力・実力」とありました。要するに、主イエス・キリストは、本当に信じて従っていくのに相応しい力ある救い主なのか、ということです。それが私たちにとって最大の関心事です。それがはっきりすれば、その他の細かいいろいろな疑問は吹き飛んでしまうか、あるいは自然に答えが得られていくのです。ですから、「何の権威でこのようなことをするのか。誰がその権威を与えたのか」という彼らの問いは、私たちにとっても根本的で切実な問いだと言えます。
主イエスからの問い
このように問うてきた彼らに、主イエスは逆に一つの問いをもってお答えになりました。ここに、先ほどから見ている大事なことが示されています。つまり、私たちは主イエスにいろいろなことを問うていくけれども、根本的には主イエスから問われているのだということです。主イエスと私たちの関係は、私たちが教師で、主イエスが私たちの問いに答えなければならない生徒なのではありません。それは逆です。主イエスこそ、私たちに問いかけてこられる方なのです。答えなければならないのは私たちなのです。信仰というのは、主イエスにいろいろ問うて、その答えが満足のいくものだったら「よし、信じてやる」というものではありません。むしろ私たちは、主イエスから問われているのです。そのことに気づくことから信仰は始まります。主イエスからの問いに答えつつ生きていく、そこにこそ、主イエスと私たちとの交わりが生まれるのです。そしてそこにこそ、神の恵みによって支えられて生きる喜びと慰めある人生が与えられるのです。そのことを知っているのが信仰者です。礼拝において、聖書の説き明かしである説教を聞く中で、自分が主イエスから問われているという経験をしたことのない信仰者はいないでしょう。主イエスから問われ、それに応えつつ生きることが私たちの信仰であり、そこに信仰の喜びがあります。そのように歩んでいくことによって私たちは、世の終わりにもう一度来られる主イエスをお迎えする備えをしていくのです。
ヨハネの洗礼
ここで主イエスが彼らに問うたのは、「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からか、それとも、人からか」ということでした。主イエスが来られる前に、荒れ野で、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求め、悔い改めのしるしとしての洗礼を授けていた洗礼者ヨハネのことです。彼の働きは何の権威によるものだったのか、天から、つまり神の権威によったのか、それとも人から、つまりヨハネが勝手にしていたことで、神の権威によることではなかったのか、そのことについての彼らの見解を主イエスは求めたのです。これは彼らにとって、痛いところを突かれる質問でした。何故なら彼らはヨハネを受け入れず、無視してきたからです。神殿の祭儀を重んじようとせず、民の指導者たちにも従わないヨハネの活動は彼らには目障りなものでした。つまり彼らはヨハネの洗礼を、天からではなくて人から、つまり人間が勝手にしていることだと思っているのです。しかし多くの民衆はそうは思っていませんでした。彼らはヨハネを神から遣わされた真実な預言者と信じて、ぞくぞくとヨハネのもとに行って洗礼を受けたのです。またこのヨハネはヘロデ王を批判して投獄され、獄中で首を切られて死にました。そのヨハネを人々は、権力に屈することなく正しい主張をして殉教した預言者として尊敬していました。その人々の前で、「ヨハネの洗礼など人間の勝手な業で神からではない」と言えば、群衆の怒りをかい、支持を失うことになるのは目に見えているのです。それで彼らは「分からない」と答えました。すると主イエスも、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、私も言うまい」とお答えになったのです。
変えられることを拒む
そもそも祭司長や長老たちが、「何の権威でこんなことをするのか」と主イエスに問うたのは、主イエスがもし「自分は神の権威でこのことをしている」と答えたなら、「ただの人間が、自分は神の権威を持っていると言うのは神への冒涜だ」ということで主イエスを捕えることができるし、それを恐れて主イエスが「神ではなく自分の権威でしている」と答えたなら、主イエスが神からの救い主であると期待している人々は失望して離れていくに違いない、と思ったからです。つまり主イエスの答えがどちらであっても、人々の支持を失わせ、破滅させることができる、そういう罠を仕掛けたのです。つまり彼らの問いは、主イエスの権威など金輪際認めようとしない頑なな思いから出ているのです。主イエスは、あの巧妙な問いを逆に投げかけることによって彼らのこの罠を逃れたわけですが、それは彼らの悪意ある問いをうまくかわした、というだけのことではありません。このことによってあることがはっきりと浮き彫りになったのです。それは、祭司長や長老たちが、自分の地位や立場を守るために、都合の悪い問いには答えず、「分からない」と言って逃げている、ということです。彼らは主イエスの権威を問うていますが、そのように問う者は、自分も問われるのです。神からの権威ならそれにあくまでも従い、そうでないなら断固としてそれを拒む、という姿勢が求められるのです。ところが彼らは、ヨハネの洗礼は神からか人からかと問われると、「わからない」と答えました。それは彼らが、神からの権威に従うつもりもなければ、人からの権威を断固として拒むつもりもない、ということです。彼らは、自分の地位や立場を守ろうとしているだけなのです。それは言い換えれば、彼らは変わること、新しくなることを拒んでいる、ということです。それは他人事ではありません。信仰とは、主イエスからの問いかけを受け、それに応えて生きることだと先ほど申しました。そのようにして私たちは主イエスをお迎えする備えをしていくのだとも申しました。それは言い換えれば、主イエスの問いかけを受け、それに答えていくことによって新しくされること、変えられていくことを受け入れる、ということです。そしてそれこそが、主イエスの権威を受け入れる、ということなのです。権威とは、本当に従っていくに足る力だと申しました。本当に権威ある方に出会う時に、私たちはその方に従う者へと変えられるのです。そういう思いなしに、つまり自分は全く変わるつもりのない中で権威を問うことは無意味です。私たちはこの祭司長たちや長老たちのように、主イエスを罠にかけて陥れようとしているわけではないかもしれません。しかし、自分が変えられることを拒み、本当に権威ある方には従う、という思いなしに、主イエスは本当に従っていくに足る方なのか、と問うているなら、それは結局、彼らと同じことをしていることになるのです。
悔い改めを拒む
もう一つ大事なことは、主イエスが、ヨハネの洗礼について彼らに問うたということです。ヨハネは、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と語りました。つまり人々の罪を指摘し、あなたがたは悔い改めて神に立ち帰らなければならない、と告げたのです。彼が授けていた洗礼はその悔い改めのしるしでした。そのヨハネの洗礼が天からか、人からかと主イエスは問うたのです。ということはこれは、「あなたがたは自分が悔い改めなければならない罪人であることを認めるのか、認めないのか」ということです。主イエスが私たちに問うておられるのはまさにこのことです。祭司長や長老たちはその問いに「分からない」と答えました。それは先ほど見たように保身のためで、ヨハネを無視していた彼らは、自分が悔い改めなければならない罪人であるとは全く思っていないのです。彼らは自分が変えられること、新しくされることを拒んでいるのだと申しましたが、それは、自分が罪人であることを認めようとせず、悔い改めを拒んでいる、ということです。私たちはどうでしょうか。自分は悔い改める必要はない、罪人ではない、と思っているなら、私たちは主イエスによって変えられること、新しくされることを拒んでいるのです。そしてそこに生まれて来るのは、変わるべきなのは自分ではなくて周囲の人々だ、という思いです。いや人々だけでなく神が、私が納得できるように変わるべきだ、という思いが生まれます。自分は問う者、答えを要求する者で、その答えを、これなら良いとかこれは納得できないと判定しようとする、という姿勢は、自分が変えられ、新しくされることを拒んでいるところに生じているのです。
主イエスの権威
主イエスの権威を認めるとは、自分が悔い改めなければならない罪人であることを認めることです。主イエスご自身も、ヨハネと同じように、「悔い改めよ。天の国は近づいた」と言って伝道を始められました。人々の罪を指摘し、悔い改めを求めることはヨハネも主イエスも共通していたのです。神殿の境内で主イエスが人々に教えておられたのも、このことだったと言えるでしょう。主イエスは「宮潔め」をなさっただけでなく、人々に、あなたがたには罪がある、そのことを認めて悔い改めなさい、と語っておられたのです。その主イエスのみ言葉を受け入れるか否かが私たちに問われているのです。
主イエス・キリストはこのように、権威ある方として、私たちの罪を指摘し、悔い改めを求めておられます。しかし主イエスは、私たちの罪を指摘し、それを断罪して私たちを滅ぼそうとしておられるのではありません。主イエスはその私たちの罪を、全てご自分の身に背負って下さったのです。そして、その罪の報いとしての死を引き受けて下さったのです。主イエスがエルサレムに来られたのはそのためでした。そこから、主イエスの地上のご生涯の最後の一週間、いわゆる受難週が始まったのです。主イエスはこの週の内に捕えられ、十字架にかけられて殺されます。それは、私たちの身代わりとしての死、私たち全ての者の罪を引き受けて、赦しを与えて下さるための犠牲としての死でした。つまり主イエスは、私たちの罪を指摘し、悔い改めを求めるだけでなく、その罪の赦しのためにご自身の命をささげて下さり、罪人である私たちが赦されて父なる神の子とされ、その恵みの内に新しく生きることができる道を開いて下さったのです。そこに、洗礼者ヨハネと主イエスの違いがあります。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という教えは、主イエスにおいては、十字架の死による罪の赦しによって、天の国、神の恵みのご支配が決定的に近づいている、という救いのみ業の中に置かれているのです。主イエスが本当に権威ある方であられることがそこに示されています。その権威は私たちを力で抑えつける「権力」ではありません。私たちが心から喜んで従っていくことができる、神の恵みの力、救いの力です。「他を追随させるに足るずば抜けた実力」が権威の意味であると申しました。主イエスは、神の恵みによる救いを実現して下さるすば抜けた実力を持っておられる方なのです。
問う者から問われる者へ
私たちは、主イエスに対して、神に対して、問いかけてばかりおり、納得のいく、満足できる答えが得られれば信じることができる、と思いがちです。しかしそのような姿勢で神に、主イエスに問うていっても、納得できる、満足できる答えはいつまでも返って来ません。むしろ私たちは主イエスから逆に問われているのです。私たちは、問う者から、問われる者へと変わらなければならないのです。そこにこそ、神の恵みに本当に触れるチャンスがあります。祭司長、長老たちは、主イエスからの問いを避けて「分からない」と言いました。それは、答えたくない、自分が変えられたくないということです。それではいつまでたっても主イエスの本当の権威と出会うことはできないのです。しかし私たちが、主イエスからの、「あなたは悔い改めなければならない罪人ではないのか」という問いかけを真剣に受け止め、自分の罪を認めてその赦しを神に願い求めていくならば、私たちはそこで、罪の赦しの権威を持っておられる主イエス・キリストと出会い、主イエスにおける神の恵みの実力によって救われるのです。洗礼を受けるというのはそういうことです。そして洗礼を受けた者は、聖餐にあずかりつつ歩みます。聖餐において、主イエス・キリストが十字架にかかって、肉を裂き、血を流して死んで下さったことによって私たちの罪の赦しを実現して下さった、その救いの実力を味わいつつ、それによって生かされていくのです。そのようにして私たちは、主イエスが世の終わりにもう一度来て下さり、救いを完成して下さることを待ち望み、それに備えていくのです。