夕礼拝

神のなさること

説 教 「神のなさること」 副牧師 川嶋章弘
旧 約 イザヤ書第14章24-27節
新 約 使徒言行録第11章1-18節

異邦人への伝道を考えていなかった
 使徒言行録はこれまで、ペンテコステにキリスト教会が誕生し、その後、困難や迫害に直面しつつも、教会のメンバーが増えていったことを語ってきました。しかしそこで教会のメンバーとなったのは、ヘブライ語を話していようとギリシア語を話していようとユダヤ人であり、したがって割礼を受けている人たちでした。8章では、サマリアの人たちが福音を信じ、洗礼を受け、教会のメンバーとされたことが語られていましたが、サマリア人は歴史的な事情によってユダヤ人と対立していたとはいえ、もともとは同じ神の民であり、同じ唯一の神を信じ、割礼も受けていました。ですからこれまでキリスト教会のメンバーとなったのは、あのエチオピア人の宦官を除けば、すべてユダヤ人ないしサマリア人であり、要するに割礼を受けている人たちであって、割礼を受けていない異邦人は教会のメンバーとなっていなかったのです。それは、これまでキリスト教会が、異邦人への伝道を考えていなかったということでもあります。ユダヤ人は異邦人が汚れていると考えていました。ユダヤ人でキリスト者となった人たちもその考えを引きずっていたので、異邦人と関わることを避けていたし、異邦人への伝道を考えてもいなかったのです。

キリスト教会にとってのターニングポイント
 10章で見てきたように、使徒ペトロもその例外ではありませんでした。ヤッファにいたペトロも、異邦人への伝道をまったく考えていませんでしたし、異邦人に伝道するなんて、自分には絶対できないと思っていたのです。しかし聖霊が、そのペトロにためらわずに、疑わずに、差別することなく、神様の御心に従い、異邦人コルネリウスの家に向かうよう語りかけました。この聖霊の語りかけによって、また聖霊が神様の御心に従う力をも与えてくださったことによって、ペトロは自分のためらいや疑いから解放され、異邦人に対する差別や偏見を取り除かれて、カイサリアのコルネリウスのところに向かったのです。

 前回見たように、コルネリウスの家でペトロは説教を語りました。その冒頭で、「神は人を分け隔てなさならいことが、よく分かりました」と語っていました。それはペトロが頭で色々考えてよく分かった、ということではありません。これまで体験した出来事を通して、つまり神様の御心を示され、聖霊によってその御心に従うことを通して、ペトロは、このときやっと、神様は本当に人を分け隔てないことが心からよく分かったのです。ペトロが説教を語っている最中に、聖霊がその説教を聞いていたコルネリウスたちの上に降りました。そしてコルネリウスたちは洗礼を受けたのです。このようにしてキリスト教会の異邦人伝道は始まりました。その意味で、この出来事はキリスト教会にとってターニングポイントであったのです。

エルサレム教会の反応
 前回の箇所の最後に、「コルネリウスたちは、ペトロになお数日滞在してくれるように願った」とありました。その数日の間に、異邦人が神様の言葉を受け入れ、洗礼を受けたというニュースが、エルサレム教会にも伝わりました。ですから本日の箇所の冒頭1節でこのように言われています。「さて、使徒たちとユダヤにいるきょうだいたちは、異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした」。「使徒たち」とは、ペトロを除くエルサレム教会にいた使徒たちであり、「ユダヤにいるきょうだいたち」とは、エルサレムとその近辺にいた、エルサレム教会に連なるキリスト者たちのことです。エルサレム教会の人たちは皆、ユダヤ人でキリスト者となった人たちで、割礼を受けていました。ですからその指導者である使徒たちも、連なるメンバーも、異邦人が神様の言葉を受け入れ、洗礼を受けたことを耳にして驚き、ためらい、疑いました。異邦人に洗礼を授けるのは、つまり異邦人を教会のメンバーに加えるのは間違っているのではないか、と考えたのです。それでこの人たちは、ペトロがエルサレムに戻って来たとき、ペトロを非難して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と言ったのです。

洗礼を授けること、一緒に食事をすること
 不思議なことに、ペトロに対する非難は、異邦人に洗礼を授けたことではなく、「割礼を受けていない者たちのところ」、つまり異邦人のところへ行き、一緒に食事をしたことに向けられています。しかしこのことは、異邦人に洗礼を授けたことより、異邦人と一緒に食事をしたことのほうが、エルサレム教会の人たちにとって問題であった、と捉えるべきではないでしょう。そうではなく洗礼を授けることと、一緒に食事をすることは切り離せないことを見つめているのです。律法には食物の規定があり、汚れた物を食べることを禁じていました。10章27節でペトロ自身が言っているように、「ユダヤ人が外国人と交際したり、訪問したりすることは、許されて」いませんでした。異邦人の家を訪ね、その食事を一緒にすることによって、汚れた物を食べてしまうことを禁じていたのです。だからペトロは当初、異邦人への伝道をためらっていました。異邦人に伝道するためには、異邦人と交わりを持ち、一緒に食事をしないわけにはいかないからです。このことは伝道するときだけでなく、異邦人が洗礼を受けた後にも当てはまります。洗礼を受けるとは教会のメンバーとなることであり、ほかのメンバーと交わりを持って歩むようになることです。その交わりにおいて、一緒に食事をすることは欠かせません。ペトロはコルネリウスの家に数日滞在しましたが、その間に一緒に食事をしたに違いないのです。しかしエルサレム教会の人たちにとって、それは汚れた物を食べることになりかねないことであり、律法への違反でした。異邦人に洗礼を授け、異邦人を教会のメンバーに加えることで、異邦人と交わりを持ち、一緒に食事をすることは律法への違反であり、許されるべきことではなかったのです。だからエルサレム教会の人たちはペトロを非難したのです。

交わりを持って歩む
 このことは私たちに大切なことを示しています。それは、神様の言葉を受け入れ、洗礼を受け、主イエス・キリストによる救いにあずかることと、教会のメンバーになることは一つのことだ、ということです。そして教会のメンバーになるとは、ほかのメンバーと交わりを持って歩むということにほかなりません。洗礼を受け、キリスト者になったけれど、一匹狼で生きるということはあり得ないのです。だから教会は、誕生したときから「交わり」を大切にし、一緒に食事をすることも大切にしてきました。私たちの教会でも、ティールームや、色々な会で一緒に食事をすることが大切にされています。それは単に仲が良いから一緒に食事をするのではなく、人間的な仲の良い悪いを超えて、同じ教会に連なる者たちが交わりを持って歩むために一緒に食事をするのです。もちろん色々な事情で今は、礼拝を守るのが精一杯で、交わりを持つことができない方もいらっしゃいます。私たちはその方々のことを尊重しつつ、神様が状況を整えてくださり、その方々が交わりに加わることができるよう祈り求めていきたいのです。私たちキリスト者は共に礼拝を守り、そして交わりを持って歩んでいく者だからです。

順序正しく説明した
 ペトロは、エルサレム教会の人たちの非難をどのように受けとめたのでしょうか。彼らの非難は間違っていると思ったのでしょうか。むしろ彼らの非難は当然のことだと思ったのではないでしょうか。異邦人に洗礼を授け、教会のメンバーに加え、一緒に食事をするなんてとんでもない、許すべきではない、という彼らの思いは、ペトロにもよく分かりました。ペトロ自身がほんの数日前まで、同じように思っていたからです。だからペトロは、エルサレム教会の人たちの非難に対して、「あなたがたの言っていることは間違っている」と批判し、正しさを主張したわけではありませんでした。4節には、「そこで、ペトロが口火を切って、事の次第を順序正しく説明した」とあります。ペトロはエルサレム教会の人たちを論駁したのではなく、「事の次第を順序正しく説明した」のです。その説明が5節以下にあります。そこではこれまで見てきた10章で語られていたことが、コンパクトな形でもう一度語られています。ペトロがヤッファで祈っている時に、四隅でつるされた大きな風呂敷に、四つ足の獣など、律法で食べてはいけないとされた汚れた物が入っている幻を見たこと。そして、「ペトロ、身を起こし、屠って食べなさい」という声が聞こえたので、ペトロが「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は口にしたことがありません」と答えると、再び、「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」という声が聞こえたこと。同じことが三度繰り返されたこと。カイサリアから三人の人がペトロの家に着いたとき、聖霊がペトロに、「ためらわないで一緒に行きなさい」と語りかけたことによって、ペトロたちがコルネリウスの家に向かったこと。コルネリウスの家では、コルネリウスが、天使から「ヤッファに人を送って、ペトロと呼ばれるシモンを招きなさい。あなたと家族の者すべてを救う言葉を話してくれる」と告げられた、と語ったこと。そしてペトロがその家で福音を語っている間に、聖霊がコルネリウスたちの上に降ったこと。そのすべてを、ペトロはエルサレム教会の人たちに、「順序正しく説明した」のです。

体験した恵みを証しする
 私たちはこの箇所を読むとき、使徒言行録が同じことを繰り返し語っていることに少々困惑するのではないでしょうか。幾つか表現に違いがあるとはいえ、ほぼ同じ文言を繰り返して語る必要があるのだろうかと思うのです。しかし使徒言行録はあえてそのように語ることで、自分の体験をそのまま語ることの大切さを示しているのではないでしょうか。ペトロはエルサレム教会の人たちに、「神は人を分け隔てなさらない」という真実を突きつけて、「あなたがたは間違っている」と批判することもできたはずです。しかしそうしませんでした。それは、真実を突きつけるだけでは、「神は人を分け隔てなさらない」ことが心から分かるようになるわけではないことを、ペトロ自身が身を持って体験していたからです。ペトロも、10章の出来事の前から、神様は人を分け隔てないことを知らなかったわけではありません。しかしユダヤ人と異邦人との区別は別だと思っていたのです。そのペトロに神様は御心を示されましたが、ただ御心を示されただけではなく、聖霊のお働きによってペトロがその御心に従うことを通して、ためらいや疑い、差別や偏見からの解放を与えてくださいました。ペトロは御心に従うことを通して変えられたのです。その恵みの体験があったからこそ、ペトロは神様が本当に人を分け隔てないことを心から分かるようになりました。だからペトロはここで、真実を突きつけ、相手を論駁するのではなく、自分の恵みの体験をそのまま語ったのです。そのことを通して、ペトロはエルサレム教会の人たちに神様の御心を伝えると共に、彼らを自分が体験した恵みへと招きました。ペトロは論駁するのではなく、自分が体験した恵みを証しすることで、エルサレム教会の人たちをその恵みへと招いたのです。

 私たちも教会において、相手が間違っているときに、相手を論駁して、納得させたいという思いに駆られることがあります。たとえば、教会の使命は伝道と言われます。それは間違いないことです。神様は私たちの教会に伝道という使命を与えてくださっているからです。しかし、「教会の使命は伝道である」という真実を突きつけ、伝道に力を注がないのは間違っていると相手を批判し、論駁しても、その相手は、教会の使命が伝道であることを心から分かるようになるわけではないでしょう。むしろ私たちが、教会の伝道によって、より正確に言えば、神様が教会を用いて行ってくださった伝道によって、教会へと導かれ、信仰を与えられ、洗礼を受けられた方を目の当たりにした恵みの体験を証しするなら、その証を通して、相手もその恵みへと招くことができます。恵みの体験を与えられることによってこそ、「教会の使命は伝道である」ことが心から分かるようになるのです。私たちは正しさを主張するよりも、自分に与えられた恵みの体験を、神様の恵みの御業を証ししていきます。どんなに巧みな論駁よりも、自分が体験した神様の恵みの御業をそのまま証しするほうが、神様の恵みと真実を人々に届けていくことができるのです。

静まり、神を崇める
 まさにペトロは自分が体験した神様の恵みの御業をそのまま証ししました。そしてその証を通して、神様の恵みと真実とが、エルサレム教会の人たちに伝わったのです。だから本日の箇所の最後18節で、このように言われています。「この言葉を聞いて人々は静まり、『それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ』と言って、神を崇めた」。「命を与える」とは、洗礼を受け、復活のキリストに結ばれることによって、復活のキリストの命を、永遠の命を生き始めることであり、つまり救いにあずかることです。これまでエルサレム教会の人たちは、心の中で、あるいは口にも出して、驚き、ためらい、疑い、異邦人に洗礼を授け、教会のメンバーに加えるのは間違っている、一緒に食事をするのは間違っている、と言っていました。しかしペトロの証を聞くことを通して、神様の御心と御業を示されることによって、人々は静まり、沈黙しました。驚きやためらいの言葉、疑いや非難の言葉から解放され、神様を崇めたのです。「崇める」は「賛美する」とも訳せます。エルサレム教会の人たちは、このときやっと、神様が本当に人を分け隔てないことが分かり、異邦人に洗礼を授け、教会のメンバーに加えることを受け入れました。神様が異邦人をも救おうとされていることが、教会のメンバーに加えようとされていることが、やっと心から分かったのです。だから「神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださった」と言って、神様を崇め、神様を賛美したのです。

悔い改めを与えられて
 神様は異邦人にも悔い改めを与えてくださった、と言われていました。「悔い改め」とは反省のことではありません。神様に背を向けていたのに神様の方に向き直ることであり、神様に立ち帰ることです。コルネリウスは「敬虔な人で、一家そろって神を畏れ、民に多くの施しをし」ていたと言われていました。しかしコルネリウスとその家族が救われたのは、敬虔であったからでも、善い行いを積み重ねていたからでもありません。そうであれば、神様は悔い改めを与える必要はなかったことになります。コルネリウスたちも悔い改める必要があり、つまり神様の方に向き直り、神様に立ち帰る必要がありました。そしてその悔い改めは、彼らが神様の言葉を受け入れることを通して、神様が与えてくださったものなのです。

 しかしこの箇所が示していることは、洗礼を受けるときにだけ悔い改めれば良いわけではない、ということです。キリスト教会の異邦人伝道の開始というターニングポイントにおいて、悔い改めなければならなかったのはコルネリウスたちだけでなく、むしろ使徒ペトロであり、エルサレム教会の人たちでした。すでに洗礼を受け、救いにあずかりキリスト者となった人たちが、悔い改めなくてはならなかったのです。そして使徒ペトロもエルサレム教会の人たちも自分の力で悔い改めたのではありません。ペトロは聖霊のお働きによって神様の御心に従うことを通して悔い改めへと導かれ、ためらいや疑い、差別や偏見から解放され、神様は本当に人を分け隔てないことを心から分かることができました。エルサレム教会の人たちも、ペトロが語った神様の恵みの御業の証を聞くことを通して悔い改めへと導かれ、ためらいや疑いや非難の言葉から解放されて、神様を賛美することができたのです。神様が異邦人だけでなく、使徒ペトロとエルサレム教会の人たちに悔い改めを与えてくださったからこそ、キリスト教会の異邦人伝道は始まったのです。

神のなさることを邪魔する
 このことはペトロが、エルサレム教会の人たちが、そしてほかならぬ私たちが神様の御業を、神様のなさることを邪魔してしまう者であることをも見つめています。ペトロは17節でこのように言っています。「こうして、主イエス・キリストを信じた私たちに与えてくださったのと同じ賜物を、神が彼らにもお与えになったのなら、私のような者が、どうして神のなさることを邪魔することができたでしょうか」。「神のなさることを邪魔する」は、直訳すれば「神を妨げる」となります。ペトロもエルサレム教会の人たちも、そして私たちも神様を妨げる者なのです。神様が異邦人をも救おうとされている、その御心は、この出来事において初めて示されたのではありません。あのエチオピアの宦官が洗礼を受けたことにおいて示されていたし、それより以前に、復活の主イエスが弟子たちに、「エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる」と約束されたことに示されていました。「地の果てまで」と言われていますから、そこには当然、異邦人も含まれています。しかしペトロもエルサレム教会の人たちも、すでに示されていた神様の御心を受け止めることができませんでした。自分が割礼を受けていることに自負を持っていた、誇りを持っていたからです。本来、割礼は神様が一方的な恵みによって神様の民として選んでくださったことのしるしであり、感謝すべきものであって、誇るべきものではありません。しかしいつのまにかそれを誇るようになり、割礼を受けていない人を下に見るようになったのです。私たちも他人事ではありません。私たちが洗礼を受け、救いにあずかり、教会のメンバーとされたのは、私たちの手柄によるのではなく、神様の一方的な恵みによります。私たちは自分が救いにあずかったことに感謝して生きるのであって、誇って生きるのではありません。しかしいつのまにかキリスト者であることを誇り、まだ洗礼を受けていない方に上から目線で接することが起こってしまうのです。しかしそれは、求道者の方を教会から遠ざけてしまうことであり、神様のなさることを邪魔することにほかなりません。神様の言葉を受け入れ、主イエスを信じるすべての人を、あの人もこの人も救いたいという神様の御心に背き、その御業を妨げることなのです。

私たちを用いて救いの御業を進める
 それにもかかわらず神様は、ためらい、疑い、差別してしまう私たちを用いて、救いの御業を進められます。私たちの教会や私たちが、どれほどためらっても、神様の御業はなお前進していくのです。共に読まれた旧約聖書イザヤ書14章27節でこのように言われています。「万軍の主は計画された。誰が覆せよう。主は手を伸ばされた。誰が元に戻せよう」。神様は、ユダヤ人も異邦人も救いにあずからせる、救いのご計画を持っておられます。神様の言葉を受け入れ、主イエスを信じる者に悔い改めと命を与えてくださる、救いのご計画を持っておられ、誰もそのご計画を覆すことも、元に戻すこともできないのです。私たちは、その神様のご計画がなかなか分からず、受け止められず、神様の邪魔ばかりをしています。それでも神様は、その私たちが聖霊のお働きによって御心に従うことを通して、私たちを悔い改めへと導き、ためらいや疑い、差別や偏見から解放してくださいます。また神様の恵みの御業の証を通して、私たちを悔い改めへと導き、ためらいや疑いや非難の言葉から解放してくださり、神様を崇め、賛美する者としてくださいます。神様の邪魔ばかりしてしまう、本当に弱く、欠けのある、罪人である私たちを、繰り返し繰り返し悔い改めへと導き、私たちのためらいや疑い、差別や偏見を打ち砕いて、神様の救いの御業のために用いてくださるのです。主イエスを信じた私たちに与えられた聖霊の賜物を、神様は、神様の言葉を受け入れ、主イエスを信じるすべての人たちに与えようとしておられます。私たちは、誰も覆すことも、元に戻すこともできない、この神様の救いのご計画と御業に、聖霊のお働きによって仕えていくのです。

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