説教 「変貌の山を降りて」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 マラキ書第3章19-24節
新約聖書 マタイによる福音書第17章1-13節
山上の変貌
先週の礼拝において、本日の箇所と同じ、マタイによる福音書第17章1節以下を読みました。高い山の上で、主イエスのお姿が光り輝く栄光のお姿に変わったのを、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人の弟子たちが見た、という話です。そこには、旧約聖書を代表するモーセとエリヤが現れ、主イエスと語り合っていました。そして光り輝く雲が彼らを覆い、その雲の中から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という神のみ声が響いたのです。この出来事は「山上の変貌」と呼びならわされてきました。
主イエスの栄光と受難
この山上の変貌の出来事において、三人の弟子たちは、主イエスの神の子としての栄光のお姿を見ました。その前の16章には、弟子の筆頭であるペトロが、主イエスこそ生ける神の子、メシアつまり救い主であるという信仰を告白したことが語られていました。するとその直後に主イエスは、ご自分がこれからエルサレムに行って、多くの苦しみを受け、殺されることを予告し始めました。主イエスの神の子、メシアとしての救いのみ業は、苦しみを受け、死ぬことによってこそ実現するのだ、ということが主イエスご自身によって示されたのです。その直後に、この山上の変貌の出来事が語られています。多くの苦しみを受け、十字架につけられて殺されようとしている主イエスが、実は、神の子としての栄光に輝くお方なのだ、ということがこの出来事によって示されたのです。本来は神の子としての栄光に輝くお方である主イエスが、その栄光を放棄して人間となってこの地上を歩み、十字架の苦しみと死への道を歩んで下さることによって、神の救いのみ業が実現しようとしている。山上の変貌の出来事はそのことを明らかにしているのです。
ペトロとヤコブとヨハネの三人の弟子だけに主イエスの栄光のお姿が示されたことは、この後の26章で、主イエスのいわゆる「ゲツセマネの祈り」に伴われたのもこの三人だったことと繋がっている、ということも先週お話ししました。この山の上で主イエスの光り輝く栄光のお姿を見た三人は、ゲツセマネにおいて、同じ主イエスが十字架の死を前にして深く苦しみつつ祈っているお姿をも見たのです。この両方のお姿を見たことによって彼らは、主イエスが神の子、救い主であられることを示されたのです。
主イエスの栄光の誤解
以上のことを先週お話したのですが、本日は、8節以下をも見つめていきたいと思います。変貌の山を下りていく時に、主イエスは三人の弟子たちに、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」とおっしゃいました。これはどういうことなのでしょうか。少なくとも他の弟子たちには、主イエスの栄光のお姿を見たことを伝えた方がよいのではないでしょうか。「私たちが信じ従っている主イエスは実はこのような栄光に輝くお方だったのだ」と聞けば、弟子たちは皆喜び、主イエスに従う決意を新たにするでしょう。けれども主イエスは、この山の上で見たことをだれにも話してはならないとおっしゃるのです。それは、主イエスの栄光が間違った仕方で受け止められてしまうことを恐れてのことでしょう。現にペトロたち三人もそういう間違いを犯しています。その第一は、主イエスとモーセとエリヤが語り合っている光景に感動したペトロが、「ここに小屋を三つ建てましょう」と言い出したことです。彼は主イエスとモーセとエリヤのための小屋を建てて、この山に上って来れば、栄光に輝く主イエスと、モーセとエリヤの姿をいつでも見ることができるようにしようとしたのです。主イエスの神の子としての栄光を自分たちの間に留めておきたい、という思いです。しかし主イエスの栄光はそんなふうに人間が自分の手元にお守りのように持っていることができるものではありません。つまりペトロは主イエスの栄光を間違った仕方で受け止めてしまったのです。
また6節には、光り輝く雲に覆われて、主なる神のみ声を聞いた弟子たちが「これを聞いてひれ伏し、非常に恐れた」とあります。彼らは、主なる神のみ前で、そのみ言葉を聞いたのです。それは恐れずにはおれないことであって、彼らがひれ伏し、非常に恐れたのは当然のことです。しかしその弟子たちに主イエスは近づいて、彼らに手を触れ、「起きなさい。恐れることはない」とおっしゃいました。このことこそ、この山上の変貌の出来事の目的です。彼らに、神の子としての栄光に輝く主イエスのお姿が示され、主なる神ご自身が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と語りかけて下さったのは、彼らが恐れてひれ伏すのではなくて起き上がって、神の愛する子でありみ心に適う者である主イエスを信じ、主イエスに聞きつつ、主イエスに従っていくためだったのです。だから彼らが「ひれ伏し、非常に恐れた」というのは、当然のことではあるけれども、ご自身の栄光のお姿を見せて下さった主イエスと、み言葉を語りかけて下さった父なる神の思いを間違った仕方で受け止めてしまった、と言わざるを得ないことでもあるのです。
復活の栄光
主イエスの栄光はこのように間違った仕方で受け止められてしまいがちであるために、主イエスは、「今見たことをだれにも話すな」とおっしゃったのです。しかしこの命令は、「人の子が死者の中から復活するまで」という限定つきです。主イエスが復活なさった後は、このことを大いに語り、人々に伝えていってよいのです。それは、主イエスの復活においてこそ、その栄光は正しく、誤解なく受け止められるからです。主イエスの栄光は、十字架の苦しみと死とを経て実現する復活の栄光です。私たちのために十字架の苦しみと死を引き受けて下さった主イエスが、復活して生きておられ、私たちと共にいて下さる、その栄光なのです。その栄光は私たちがお守りのように懐に仕舞い込んでおくことができるようなものではありません。様々な苦しみや悩みの中でうずくまってしまっている私たちに、復活して生きておられる主イエスが近づいて来て、手を触れ、「起きなさい。恐ることはない」と語りかけて下さることによってこそ、この栄光は示されるのです。三人の弟子たちは、主イエスの復活においてこそ示される栄光を、この山の上で、前もってほんの少し、かいま見ることを許されたのです。それゆえに、その栄光がはっきりと示される主イエスの復活までは、ここで見たことを誰にも言うなと命じられたのです。
変貌の山を降りて
先週の礼拝において、私たちにとってのこの山の上は、主の日の礼拝であると申しました。私たちは主の日の礼拝において、復活なさった主イエス・キリストの栄光に触れるのです。主の日、日曜日は主イエスの復活の記念日です。主イエスの復活を覚え、そのことを喜び祝うために私たちはこの礼拝に集っています。そしてこの礼拝で、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受け、復活して下さった主イエスと出会うのです。私たちは日々の生活において、この世の厳しい現実をいやという程体験しており、疲れた心と体をもって礼拝に集ってきます。人それぞれ様々な悩みや苦しみ、悲しみや怒りをかかえており、立ち上がることができないような思いでここに集うことも多いのです。それは単に私たちが無力でこの世の現実をどうすることもできない、ということではありません。私たちにとって一番の問題は、この世の現実の中に神のご支配が見えないということです。主なる神が恵みをもってこの世界と私たちの人生を支配し、導いていて下さるのだと聖書は告げていますが、しかしその神のご支配ははっきりとは見えません。むしろこの世界と私たちの人生には、この世の力、悪の力が支配し、猛威を奮っている、それが私たちの目に見える現実であると感じられるのです。それによって私たちは、心においても体においても、力が萎えてしまって、立ち上がれなくなってしまうのです。そんな思いをかかえて礼拝に集ってくる私たちに、復活して生きておられる主イエスが歩み寄り、み手を触れて、「起きなさい、恐れることはない」と語りかけて下さる。そういうことが起るのがこの礼拝です。私たちはこの礼拝において、私たちの罪と死に勝利して復活して下さった主イエス・キリストの栄光のお姿をかいま見、そして父なる神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」と語りかけて下さるみ言葉を聞くのです。そのようにして私たちは、神のご支配、その救いが、主イエスの十字架と復活において既に実現していることを示され、勇気と力を与えられて、主イエスに従ってこの世の現実へと再び歩み出していくのです。そういう意味では、9節以下の、変貌の山を降りていく弟子たちの姿は、この礼拝から日々の生活へと歩み出していく私たちの姿と重なります。三人の弟子たちが、山の上で、主イエスの栄光のお姿を一時かいま見て、そして山を降りて行ったように、私たちも、主の日の礼拝において、主イエスの復活の栄光を示され、そしてその礼拝から日々の生活へと歩み出していくのです。別の言い方をすれば、この高い山の上での体験は、弟子たちにとって、非日常の世界です。そこから降りていくことによって彼らは、日常の世界に戻るのです。私たちにとっても、主の日の礼拝は、一週間の中で特別な恵みの時です。しかしその恵みをいつまでも自分の手元に持っていることはできないし、この恵みの山の上にずっと留まっていることもできません。私たちはこの山を降りて、日常の生活へと戻って行かなければならないのです。
日常の世界を生きる
この山を下る道において、弟子たちは主イエスに一つのことを問いました。10節の「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」ということです。この問いは、山の上でエリヤの姿を見たことに触発されていますが、その背景にあるのは、律法学者たちが、先ほど共に読まれた旧約聖書の箇所であるマラキ書の言葉を根拠に、救い主メシアが現れる前には預言者エリヤが先ず来るのだ、そのエリヤはまだ来ていないのだから、イエスは救い主メシアではない、あれは偽物だ、と言っているということです。この律法学者たちの主張をどう考えたらよいのか、と弟子たちは尋ねたのです。つまりこれは要するに、主イエスは救い主メシアなのかどうか、ということです。弟子たちはそのことを信じて主イエスに従っているし、ペトロは16章16節でその信仰をはっきりと告白しました。しかし律法学者たちは、イエスは救い主ではないと言っているのです。これが、変貌の山を降りて弟子たちが向う日常の世界の現実です。あの山の上では、主イエスが神の子としての栄光に輝く方であることが示されました。しかしその麓の日常の世界では、主イエスのお姿は普通の人と何ら変わらない、特別に神々しいわけではないし、後光が指しているわけでもないのです。そして人々は、「あれはメシアだ」「いやちがう、偽物だ」と議論している。そういう議論、論争、対立があるということは、主イエスの神の子としての栄光は、この日常の世界では隠されていて目に見えないのです。弟子たちはそういう世界へと降りていく。私たちも、この礼拝という山の上から、そういう日常の世界へと歩み出していくのです。そこでは、主イエスが神の独り子であられ、救い主であられ、復活の栄光に輝く方であられることは、隠されており、誰の目にも明らかではないのです。そんなことは嘘っぱちだと思っている人々がそこには沢山いるのです。
エリヤは既に来た
この弟子たちの問いに主イエスはこうお答えになりました。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる」。救い主が現れる前にエリヤが来ると聖書に語られていることは本当だ。確かにエリヤがまず来て、すべてを元どおりにする。それは、マラキ書3章24節にある、「彼は父の心を子に、子の心を父に向けさせる」ということを指しているのでしょう。父なる神と、その子である民との関係を整え、父が遣わして下さる救い主を迎える備えをさせるために、エリヤが来るのです。そして主イエスは、そのエリヤは既に来たのだ、とおっしゃいました。しかし人々は彼を認めず、好きなようにあしらった。それは、13節で弟子たちが悟ったように、洗礼者ヨハネのことです。領主ヘロデに捕えられ、獄中で首を切られて死んだ洗礼者ヨハネこそ、救い主イエスの道備えをするエリヤの再来だったのです。
神の恵みのしるしが既に与えられている
ここで主イエスが、洗礼者ヨハネこそ来るべきエリヤだった、と語っておられるのは、そのヨハネが道備えをし、そしてヨハネと同じように人々から苦しめられ、十字架の死へと歩んでいる自分こそがメシア、救い主なのだ、ということを示すためです。つまり主イエスはここで、エリヤの再来である洗礼者ヨハネが来たことによって、主イエスこそ来たるべきメシアであることのしるしが既に与えられている、そのしるしをしっかり見つめ、受け止めるなら、主イエスこそが救い主メシアであることが分かるはずだ、と言っておられるのです。山上の変貌の山を降りて弟子たちが歩んでいく麓の世界、即ち礼拝から私たちが遣わされていく日常の生活においては、先ほど申しましたように、主イエスが神の子、救い主であられることは隠されています。主イエスこそ栄光に輝く神の子であられることは、あの山の上で、つまり礼拝においてしか、はっきりと示されてはいないのです。けれども、その山の麓、私たちの日常の生活の中にも、主イエスが神の子、救い主であられることを指し示しているしるしは、実は既に与えられているのです。「エリヤは既に来たのだ」ということによって主イエスはそのことを語っておられます。だからしっかり目を開いて見れば、そのしるしを見出すことができるはずなのです。日々の生活の中にそのしるしを見出していくことが、私たちに求められているのです。
日常の生活の中にしるしを捜し求める
そのしるしは、誰の目にもすぐにはっきりと分かるものとして与えられてはいません。洗礼者ヨハネがエリヤの再来であることに、多くの人は気づきませんでした。だから人々は彼を好きなようにあしらったのです。私たちの日常の生活の中に与えられているしるしもそのようなものです。それは信仰の目で注意深く捜し求めなければ分からないのです。またそのしるしは、全ての人に共通するしるしとして与えられているわけではありません。私たちは、それぞれの日々の生活の中で、自分に与えられているしるしを注意深く見つけ出していかなければならないのです。そしてそれこそが、信仰を持って生きるということです。信仰者として生きるために必要なのは、勿論第一には、主の日の礼拝を守ることです。礼拝という、日常の場を離れた山の上でこそ私たちは、主イエス・キリストの復活の栄光に触れ、その主イエスがみ手を差し伸べて私たちに触れ、「起き上がりなさい、恐れるな」と語りかけて下さるみ言葉を聞くのです。しかし礼拝を守ることだけが信仰を持って生きることではありません。私たちは礼拝という山の上から、日々の、日常の生活へと降りて行って、そこで信仰者として生きるのです。そこで何をするのか。神が、それぞれの生活の中に与えて下さっているしるしを注意深く捜し求めていくのです。礼拝において示された、主イエス・キリストの十字架と復活による神の恵みの勝利とご支配を指し示しているしるしを、日々の生活の中で捜し求めていくのです。言い替えれば、日々の生活の中で、神が主イエスによって与えて下さっている救いの恵みを一つ一つ見出し、数えていくのです。日々の生活の中で信仰者として生きるためになすべきことはそれです。ところが私たちはしばしば、一週間を、何のしるしも見出すことができずに、一つの恵みも数えることができずに過ごしてしまって、日曜日になると思い出したように礼拝に来て、そこで神の恵みを求める、という生活に陥りがちです。それは、私たちの生活の中に恵みのしるしがなかったということではありません。私たちがそれを捜し求めなかったので、それに気づくことができなかったのです。信仰の目を開いて捜し求めていけば、私たちの日々の生活の中にも、主イエス・キリストの恵みのしるしは必ず見つかるのです。それを見出していくために、日々聖書を読み祈ることはとても大事です。神のみ言葉に触れ、主イエス・キリストの恵みにあずかりつつ、日々の生活を振り返ることによって、隠されている恵みのしるしを見出して、恵みを数えつつ歩むことができるのです。そうすることによって、山の上での主の日の礼拝と、麓での日常の生活とが結びついていきます。そのようにして私たちの信仰は、日曜日だけの信仰から、日々神の恵みに生かされる信仰へと変わっていくのです。
苦しみや悲しみの中にも
そしてもう一つ、神の恵みのしるしは、私たちの生活に何か良いことがある、感謝すべきことがある、というところにのみ見出されるものではありません。洗礼者ヨハネは人々に好きなようにあしらわれました。主イエスご自身も、人々から苦しみを受け、殺されたのです。それはいずれも、「こんな良いことがあった」と言えるようなことではありません。しかしまさにそこに、主イエスによる救いの恵みが示されているのです。信仰の目をもって注意深く見つめていく時に、私たちは、このようなしるしを見出すことができます。即ち、苦しみや悲しみの中にすら、神の恵みを見出し、それを数えていくことができるのです。それが出来るのは、礼拝という山の上で、主イエスの神の子としての栄光を示され、救いのみ言葉を聞いているからです。私たちはこれから、その恵みの山を降りて、日常の生活へと歩み出して行きます。そこで、主イエスによる救いの恵みのしるしを一つひとつ見出し、それを数えていきたいのです。
