主日礼拝

罪を処断する神

「罪を処断する神」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書第53章1-12節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙第8章1-11節
・ 讃美歌:122、361、474、76

罪に定められることはない
 ローマの信徒への手紙第8章1節は、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」と書き始められています。先週の説教において申しましたように、この1節が、これまでこの手紙において語られてきたキリストの福音、キリストによる救いの知らせのまとめ、要約です。「キリスト・イエスに結ばれている者は、今や、罪に定められることはない」ということをパウロはこれまでこの手紙において語ってきたのです。「キリスト・イエスに結ばれている」というのは直訳すると「キリスト・イエスの中にいる」となると先週申しました。キリストを信じる信仰者とは、キリストの中にいる者たちなのです。どのようにしてキリストの中にいる者となったのか、それがこの手紙の6章3節に語られていました。先週も読みましたがそこには、「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」と語られています。ここも直訳すると「キリスト・イエスの中へと洗礼を受けた」となります。洗礼を受けることによって私たちは、キリストの中に入れられるのです。洗礼を受けた信仰者が、キリストと結ばれ、キリストの中にいる者たちなのです。その者たちは今や「罪に定められることがない」、それが信仰者に与えられている救いです。神の裁きにおいて、罪に定められ、有罪となることはもはやない。それは私たちが元々罪のない者だからではありません。この手紙が、特に1章18節から3章20節にかけて強調してきたことは、私たちは一人残らず神の前に罪人である、ということです。神を神として崇めず、感謝せず、従わず、自分が主人となって生きようとしており、自分に奉仕する偶像の神を造り出している、そういう罪の中に私たちは皆いるのです。その罪は、神を信じて生きようとしている信仰者の中にもなお根強く巣食っており、私たちを支配している、ということをパウロはこれまでの所で見つめてきました。7章でパウロは「わたしは肉の人で、罪に売り渡されている」とか「わたしの五体の内には罪の法則があって、それがわたしをとりこにしている」と語っています。そのような現実のゆえに彼は7章24節で、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか」と叫ばずにはおれなかったのです。キリストを信じ、伝道者となって歩んでいる自分が、なお罪に支配されており、死に定められた罪人でしかないことをパウロは見つめているのです。しかし、そのような自分が、キリスト・イエスに結ばれ、キリストの中に入れられたことによって、もはや罪に定められることはない、自分だけでなく、洗礼を受けてキリスト・イエスに結ばれている者は誰でも、罪に定められることはない、そのように断言しているのが8章1節です。罪人であるのに罪に定められず、有罪なのに無罪を宣言される、そういう救いが、イエス・キリストを信じて洗礼を受け、キリストの中に入れられた者には与えられている、それがパウロの宣べ伝えているキリストの福音なのです。

命をもたらす霊の法則
 そのことをパウロは8章2節で「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」と言い表しています。「法則」というのはこの場合には、自分を支配している力、と考えればよいでしょう。私たちは生まれつき、罪と死との法則の下にあり、罪と死の力に支配されてしまっているのです。罪の中で死に至るしかないのです。しかし今や、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」によって「罪と死の法則」からの解放が与えられています。この「キリスト・イエスによって」も直訳すると「キリスト・イエスの中で」です。キリスト・イエスの中に入れられている信仰者は、命をもたらす霊の法則の下にいるのです。命をもたらす霊の支配によって、罪と死の力から解放されているのです。その霊とは、神の霊、聖霊です。キリスト信者は、聖霊のご支配の下に置かれているがゆえに、罪に定められることはなく、命に至ることができるのです。
 7章を読む中で繰り返し申しましたが、罪と死に支配されている現実は、決して過ぎ去った過去のことではありません。7章でパウロは、以前はこうだった、という回想を語っているのではなくて、今現在の自分の姿として、罪に支配されている惨めさを語っているのです。そのパウロが8章に入るとこのように、私たちは罪と死の力から解放され、もはや罪に定められることはない、と語っています。これは論理的には矛盾することですが、しかしこれこそが信仰によって示されている事実です。自分自身のことを見つめるなら、罪と死に支配されているというのが現実です。信仰者であってもそれは同じです。信仰者になったらもう罪とはきれいさっぱり縁を切って清い者となり、神の前に堂々と立てるようになる、などということはありません。むしろ信仰を持つことによって私たちは、より深く、より深刻に、自分の罪を見つめさせられ、それに気づかされていくのです。つまり自分の惨めさをよりはっきりと知らされるのです。しかし信仰を得るというのは、自分のことばかりを見つめて嘆いている私たちが、主イエス・キリストのことを、キリストによって神が与えて下さった救いの恵みを見つめる目を与えられるということです。主イエス・キリストを見つめる時、私たちはそこに、命をもたらす霊の力が働いていることを知らされるのです。そしてその主イエス・キリストと結ばれ、キリストの中に入れられることによって、命をもたらす霊の力が罪と死の力の支配から自分を解放して下さったことを示されるのです。自分のことだけを見つめるなら、罪と死に支配されている現実しか見えて来ないけれども、主イエス・キリストを見上げ、その救いの恵みの中で自分を見つめるなら、聖霊の力の下にある、もはや罪に定められることのない自分を見出すことができる、信仰とはそういうものなのです。

罪と救い
 7章から8章を読んでいて興味深いことは、パウロは7章において罪と死に支配されていしまっている人間の姿を語る時には「わたしは」という言い方をしているのに対して、8章に入って、キリスト・イエスに結ばれ、命をもたらす霊のご支配の下にいる者はもはや罪に定められることがない、ということを語る時には、「あなた」ないし「あなたがた」と言っていることです。先程読んだ2節に「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです」とありました。また9節には「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」とあります。11節にも「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう」とあります。このような語り方によってパウロは、キリストによる救いの知らせ、即ち福音がどのように伝えられていくのかを示していると言うことができます。つまりキリストによる救いは、既にその救いにあずかって、他の人々よりもより立派な者となり、高い境地に達している人が、まだそれを信じていない低い所にいる人々にそれを教えてあげる、という仕方で伝えられていくのではない、ということです。福音を伝える者は、自分の罪を深く知り、その惨めさを味わっている人、にもかかわらず主イエス・キリストによる救いの恵みによって義とされ、もはや罪に定められることがない、という救いにあずかっている人です。その救いの恵みと喜びにあずかっている人が、私に与えられたこの救いの福音はあなたがたにも与えられている、神はあなたがたをも愛し、救って下さっているのだ、と証ししていくのです。キリストによる救いはそのような証しによってこそ伝えられていくのであって、「あなたがたはこれを知らないだろうから教えてあげよう」というような上から目線での教えによっては伝わっていかないのです。さらにここには、私たちが信仰において罪と救いとをどのように捉えるべきかが示されているとも言えます。つまり、罪は自分自身のこととして捉え、救いは、勿論自分も含めたみんなのこととして捉えることが正しいのです。これを逆にしてしまって、他の人の罪ばかりを見つめ、救いにおいては自分のことしか考えないようなことにならないように気をつけなければなりません。

肉の弱さ
 さてこのように、イエス・キリストの中に入れられることによって私たちは、罪と死の支配から解放され、命をもたらす霊のご支配の下で、もはや罪に定められることない者とされるわけですが、そこで何が起っているのかを3節がさらにこのように語っています。3節には先ず「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです」とあります。「肉の弱さ」とは、罪に支配されている人間の姿です。罪に支配されていなければ、人間は律法を行うことによって、自分の力で、神の前に正しい者、救いを得ることができる者となることが出来たはずなのです。しかし罪が私たちを捕え支配してしまったために、律法を守って善い行いをしようとする私たちの努力そのものが罪の働く機会となってしまっている、ということをパウロは7章で語りました。そういう肉の弱さのために私たちは、律法によって救いを得ることが出来ないのです。その律法が出来なかったことを、神がして下さったのだ、とこの3節は語っています。それは具体的には後半の「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」ということです。これが、イエス・キリストにおいて神がして下さった救いのみ業です。このみ業のゆえに、イエス・キリストに結ばれている者は罪に定められることがない、と言うことが出来るようになったのです。

罪深い肉と同じ姿で
 主イエス・キリストにおいて神がして下さったことは先ず「御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り」ということでした。イエス・キリストは、神がこの世に送って下さった御子、神の子でした。その主イエスが、「罪深い肉と同じ姿で」この世に来て下さったのです。罪に支配されている私たちの「死に定められたこの体」と同じ姿となって下さったのです。「罪深い肉と同じ姿で」というのは、主イエスが私たちと同じように罪を犯した、ということではありません。主イエスは神の独り子、まことの神であられ、ご自身が罪を犯すことはありませんでした。しかし罪に支配されている私たちのところに来て下さって、私たちに深い同情を注いで下さったのです。主イエスのそういうお姿を福音書は繰り返し語っています。徴税人や罪人たちを招く主イエス、汚れた者とされていた病気の人々に手を置いて癒して下さった主イエス、徴税人の頭ザアカイに「今日私はあなたの家に泊まる」と宣言して下さった主イエス、それは、ご自分が罪を犯してはいないけれども、罪人たちの所に来て下さり、その友となって下さったお姿です。主イエスが私たちの罪に支配された肉の弱さにまで降りて来て下さったので、私たちは主イエスと結ばれて、主イエスの中で生きる者となることが出来るのです。

罪を処断する神
 しかし神がして下さったことは、主イエスが罪深い肉と同じ姿で来て下さったことだけではありません。3節にはさらに「その肉において罪を罪として処断されたのです」とあります。「その肉において」とは、主イエスが地上を歩まれた肉におけるご生涯において、ということです。神は御子イエスを罪深い肉と同じ姿で遣わし、その主イエスの肉におけるご生涯において、罪を罪として処断なさったのです。「処断する」というのは、「有罪の宣告を下し、罰して滅ぼす」ということです。神は主イエスの肉において罪を処罰し、その力を奪い、滅ぼして下さったのです。それは言うまでもなく主イエスの十字架の死と復活によることです。神の子であられ、ご自身は罪のない方だった主イエスが、有罪を宣告され、十字架の死刑に処せられたのです。そのことが実は、神によってなされた罪に対する処罰でした。私たち人間の罪に対する神の怒り、審きは、私たちにではなく、御子イエス・キリストに全て向けられ、キリストが私たちに代ってそれを背負って下さったことによって、神は私たちを捉えている罪を処断して下さったのです。主イエスが、私たちの罪に捕えられた肉の弱さにまで降りて来て下さったのはそのためでした。そのような主イエスのご生涯を預言していたのが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第53章です。そこには、主の僕が、人々の罪、咎を背負って苦しみを受け、殺され、自らを償いの献げ物とすること、それによって人々の罪が赦され、救いが与えられることが語られています。それがまさに主イエス・キリストの十字架に至る歩みです。主イエスのこのご生涯によって、とりわけその十字架の苦しみと死によって、罪は処断され、私たちはもはや罪に定められることのない者とされたのです。罪が処断されたのであって、罪人である私たちが処断されたのではありません。主イエス・キリストお一人が十字架の死刑を受けることによって、私たちは赦され、罪から解放されたのです。そしてそれだけでなく、主イエスは父なる神様によって、肉体をもって復活させられました。それは、十字架において主イエスを捕えた死の力が打ち破られ、滅ぼされたということです。主イエスの十字架の死と復活によって、私たちを支配していた罪と死の力は滅ぼされて、永遠の命に至る新しい道が開かれたのです。神は御子イエス・キリストによってこのように、罪を処断して下さり、死をも滅ぼして下さって、私たちを罪と死の支配から解放して下さったのです。洗礼を受けることによって私たちは、このキリストの中へと入れられて、神がキリストによって実現して下さった救いにあずかるのです。それによって私たちは、自分自身をキリストの中で見つめていくことができるようになります。そこに見えてくるのは、目に見える現実においては相変わらず罪と死に支配されている弱さ、惨めさをかかえていながら、もはや罪に定められることがない、と感謝をもって確信して生きることができる新しい自分なのです。

律法の要求が満たされる
 パウロはこの第8章で、この新しい私たち、御子イエス・キリストによって罪を処断して下さった神の救いの恵みにあずかり、もはや罪に定められることのない者とされた私たちの新しい生き方とはどのようなものか、を語ろうとしています。そのことが4節において語られ始めています。4節にこうあります。「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」。神が御子の肉において罪を処断して下さったのは、罪と死の支配から解放された私たちの内に、律法の要求が満たされるためだった、と語られています。もはや罪に定められることのなくなった私たちの新しい生き方において、律法の要求が満たされていくのです。律法の要求とは、神と私たちの間に正しい関係が結ばれることです。具体的には、私たちが神を神として崇め、従い、み心を行なって生きることです。そういう新しい生き方が私たちの間に実現することこそが、律法の要求が満たされることであり、御子イエス・キリストによる救いの目的はそこにあったのです。洗礼によってキリストの中に入れられ、キリストによる救いにあずかって、罪と死の力から解放されて新しく生きる私たちは、神との間に正しい、良い関係を持って、神を崇め、従い、み心を行って生きる者となるのです。

霊に従って新しく生きる私たち
 しかしこのことは、私たちの努力によって、つまり私たちの力によって実現することではありません。洗礼を受けて信仰者となったら、律法の要求を満たす者となり、神を正しく崇め、従い、み心を行う者とならなければならない、それが出来なければ信仰者として失格だ、という話ではないのです。4節は、「肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」と言っています。律法の要求が満たされるのは、「肉ではなく霊に従って歩むわたしたち」においてです。それは言い換えれば、私たちの力や努力によってではなく、霊の力、聖霊の働きによってこそこれは実現する、ということです。肉において、つまり人間の努力や力において歩んでいた私たちは律法の要求を満たすことができなかったのです。だから神は独り子イエス・キリストを遣わして、その肉において罪を処断し、私たちを罪と死から解放して下さったのです。それが、「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はして下さったのです」ということです。私たちが自分で努力することによって律法の要求を満たすことが出来るならば、神は御子イエス・キリストをこの世にお遣わしになる必要はなかったのです。「律法を守って生きなさい」と命令するだけでよかったのです。しかし、私たちが肉の弱さのためにそれをなし得ないので、神は御子イエス・キリストの十字架の死と復活による救いを与えて下さったのです。そして私たちがその救いにあずかって新しく生きるために、ご自分の霊を、聖霊を注ぎ与えて下さり、私たちを、霊に従って歩む者として下さったのです。そのことは先程の2節の「命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放した」ということと結びついています。生まれつきの、肉において生きている私たちは、罪と死に支配されており、そこから抜け出すことが出来ません。自分の力によって命に至ることができないのです。その私たちのために神は、「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則」を打ち立てて下さいました。キリストの十字架の死と復活によって、罪を処断し、罪と死の支配から私たちを解放して下さったのです。それが「霊の法則」と言われているのは、聖霊の力、働きによって私たちはこの救いにあずかり、新しく生きる者とされるからです。つまり私たちは、肉ではなく霊に従って歩む者となるのです。自分の力や努力によって生きるのではなく、聖霊のお働きを受け、神の力によって生かされる者となるのです。それによってこそ私たちは、罪と死の力から解放され、キリストによってもたらされた新しい命に生きる者となり、もはや罪に定められることはない、という確信を与えられ、喜びと感謝の内に、神を崇め、従い、み心を行っていく者となることができるのです。

聖餐の恵み
 肉ではなく霊に従って歩む私たちの新しい生き方において、神との間に正しく良い関係を与えられ、律法の要求が満たされていくことをこの第8章は語っており、私たちはそれを読み進めていくわけですが、本日これからあずかる聖餐においても私たちは、肉ではなく霊に従って歩むことを体験していきます。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが十字架の死によって私たちを罪と死の力から解放して下さった、その救いの恵みを味わいます。自分の力で罪に打ち勝つことができず、死の力から抜け出すことができない私たちに神が、御子イエス・キリストの十字架と復活による救いを与え、もはや罪に定められることのない者、キリストの復活にあずかって永遠の命を生きる者として下さっていることを味わうのです。しかしそれは、聖餐のパンやぶどう液が何か特別な力を持っていたり、ありがたい御利益がそこにあるからではありません。私たちは聖霊なる神のお働き、その力によって、このパンと杯を通してキリストの救いにあずかるのです。つまり聖餐は、肉ではなく霊に従って歩む者とされた信仰者を、聖霊なる神が養い、潤し、恵みで満たして下さるために備えられている食卓なのです。第8章においてこれから読み、学んでいく、聖霊によって生かされていく私たちの新しい生き方を、私たちは聖餐において味わい、体験することができます。逆に言えば、聖餐において私たちが既に味わい体験している豊かな恵みの内容が、第8章に言葉として教えられているのです。

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