説教「宴席の主は誰か」 牧師 藤掛順一
旧約聖書 詩編第23編1-6節
新約聖書 マタイによる福音書第14章1-12節
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領主ヘロデ
主日礼拝においてマタイによる福音書を読み進めていて、本日から第14章に入ります。本日の箇所に語られているのは、いわゆる洗礼者ヨハネが殺されたという話です。洗礼者ヨハネは、救い主イエス・キリストが来られるための道備えをした人でした。4章12節に語られていたように、主イエスはこのヨハネが捕えられてから、その活動を始められたのです。そしてヨハネは、しばらくして、獄中で首を切られて殺されました。その時の事情が本日の箇所に語られています。血なまぐさい話ですが、この話は、オスカー・ワイルドの戯曲「サロメ」の元になっており、それがリヒャルト・シュトラウスによってオペラにもなっていて、一般にもよく知られている話です。私たちはこの話から、どのようなみ言葉を聞くことができるのでしょうか。
ヨハネを捕え、殺したのは、1節にある「領主ヘロデ」です。この人は、クリスマスの物語で、幼児イエスを殺してしまおうとしたあのヘロデ大王の息子で、ヘロデ・アンティパスと呼ばれる人です。ヘロデ大王の死後、その領土は三人の息子たちによって分割統治されることになりました。2章22節に名前が出て来る「アルケラオ」と、この「アンティパス」と、ルカ福音書3章1節に出て来る「フィリポ」の三人です。聖書の後ろの付録の「新約時代のパレスチナ」という地図によって彼らの領土を見てみると、ヨルダン川の西のサマリアとユダヤはアルケラオ、ガリラヤ湖の西のガリラヤと、飛び地になりますがヨルダン川の東のペレアはアンティパス、そしてガリラヤ湖の東北のトラコン地方はフィリポです。とは言っても、この地域全体は当時すでにローマ帝国の支配下にありましたから、彼らの支配も皇帝の許可なしにはあり得ませんでした。ですから彼らは父とは違って「王」を名乗ることはできなかったのです。9節ではヘロデが「王」と呼ばれていますが、正しくは1節にあるように「領主」です。領主は皇帝によって支配権を認められた者です。実際、ヘロデの兄弟アルケラオは、じきに皇帝から統治能力なしと判断されて追放されてしまいました。ですから主イエスが活動なさった当時は、ユダヤとサマリヤはローマ帝国の直接統治下に置かれており、その総督として赴任していたのがポンティオ・ピラトだったのです。
ヨハネはなぜ捕えられたか
さて領主ヘロデはそもそも何故ヨハネを監禁したのか、それが3、4節に語られています。「実はヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアのことでヨハネを捕らえて縛り、牢に入れていた。ヨハネが、『あの女と結婚することは律法で許されていない』とヘロデに言ったからである」。ヘロデは自分の兄弟フィリポから妻を奪ったのです。このフィリポは先ほどの三人の一人のフィリポではありません。ヘロデ大王には多くの女性たちとの間に沢山の子供がいました。つまりヘロデ・アンティパスには多くの兄弟がいたわけで、ヘロディアはその中の一人の妻だったわけです。しかしヘロディアの元の夫の名前はフィリポではなかったようで、つまりこの記述には勘違いがあるのですが、とにかく、ヘロデは兄弟の妻を奪ったのです。しかもその時ヘロデは別の女性と結婚していて、その人を離縁してヘロディアを妻にしたのです。離縁された前の妻は死海の南東のナバテアという国の王女だったために、その国と戦争になったという記録もあります。ヘロデはそこまでしてヘロディアを妻にしたわけですが、ヨハネはそのことを批判したのです。ヨハネは、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めていました。ファリサイ派やサドカイ派の人々にすら、「まむしの子らよ」と言っていたのです。何者をも恐れずに罪を指摘するヨハネは、ヘロデのこの結婚についても、これは姦淫の罪に当ると批判したのです。ヘロデはそのことに腹を立てて彼を監禁したのです。そして5節によれば、ヘロデはヨハネを殺そうと思っていたのだが、民衆が彼を預言者と信じ尊敬していたので、手を下すことができずにいたのです。このことについては、マルコ福音書はいささか違った書き方をしています。マルコは、ヘロデはヨハネを憎み、殺そうと思いつつも、また同時にヨハネが正しい聖なる人であることを感じており、その教えに非常に当惑しつつも喜んで耳を傾けていた、と語っています。マルコはそのようにヘロデの複雑な心境を語っているのですが、マルコを土台にして書かれたと言われるマタイは、話をもっと単純にして、ヘロデはヨハネを殺そうとしたがその機会が得られなかっただけだと語っています。
ヘロディアの娘
ヘロデの思いがどうであったかはともかく、彼はヨハネを殺しました。それは彼の誕生日の祝いの宴席でのことでした。ヘロディアの娘、つまりヘロディアが先の夫との間にもうけていた娘ですが、その若い娘が宴席で踊りをおどったのです。聖書には語られていませんが、その娘の名前が「サロメ」であったと伝えられています。若く美しい娘の官能的な舞いに、宴席は大いに盛り上がりました。それに気をよくしたヘロデは、娘に「願うものは何でもやろう」と誓って約束しました。すると娘は母親ヘロディアに唆されて、「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」と言ったのです。ヘロデは「何でもやる」と誓った手前それを断ることができずに、あるいはそれを口実に、ヨハネの首をはね、少女に渡したのです。
サロメは何故ヨハネの首を求めたのか。オスカー・ワイルドの戯曲では、サロメはヨハネに恋をしていて、さかんにモーションをかけたのだが相手にされなかった、その恨みと、愛する男を何としても手に入れたいという屈折した愛情からヨハネの首を求めたという話になっています。戯曲としてはその方が面白いわけですが、聖書が語っているのは、この娘は母親ヘロディアに唆されたのだ、ということです。ヘロディアは、自分がヘロデの妻となることを批判したヨハネを憎み、何が何でも殺してやろうと思っていたのです。そのヘロディアの執念深い憎しみにヘロデが乗っかったことによって、ヨハネは首を切られたのです。
ヘロデの不安と恐れ
このようにヨハネを憎み、殺そうとするヘロデの姿は、クリスマスの物語における父ヘロデ大王と重なります。ユダヤ人の王が生まれた、という知らせを聞いたヘロデ大王は、不安を覚えたのです。自分の王としての地位を脅かす者が現れた、という不安です。そのために彼は主イエスを捜し出して殺そうとします。それに失敗すると、今度はベツレヘム近郊の二歳以下の男の子を皆殺しにしたのです。自分の王としての地位にしがみつき、それを守るためにはどんなに残酷なことも平気でする、というヘロデの姿がそこに描かれていました。その息子アンティパスも、ここで同じことをしています。歯に衣着せずに自分を批判するヨハネはヘロデにとって、自分の支配、自分が欲望を遂げることを妨げる者です。そういう者を捕え、抹殺しようとする彼の心には、彼の父が抱いていたのと同じ不安と恐れが満ちています。ヨハネはこのヘロデの不安と恐れによって殺されたのです。
主イエスはヨハネの再来?
そして見落としてはならないのは、この話は、もう大分前に起こったことだ、ということです。ヨハネはこの時点で殺されたのではありません。ヘロデはかつて自分がヨハネの首を切ったことをここで思い出しているのです。それは彼にとって、忘れてしまいたい嫌な思い出だったでしょう。しかしそれを思い出させるようなことが今起っているのです。それは1節の「領主ヘロデはイエスの評判を聞き」ということです。イエスという男が、自分の領地であるガリラヤのあちこちを巡って教えを宣べ伝え、病人や悪霊につかれた人を癒している、そのうわさを聞いて、彼は2節にあるように「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と思ったのです。殺したはずのヨハネがもう一度現れた。殺された者がその恨みによって生き返ってきて復讐をする、という話はよくあります。つまりヘロデは今、主イエスの出現によって新たな不安と恐れを覚えているのです。この不安、恐れは、ヨハネに対するのと同じように主イエスに対する殺意を生みます。つまりヨハネの運命は明日の主イエスの運命なのです。そういう意味でこのヨハネの死の記事は、主イエスがこれからたどる十字架の死への歩みを暗示しています。ヨハネは、神の国の到来を告げ、悔い改めを求め、そのしるしである洗礼を授けることによって主イエスの先駆けとなりましたが、その死においても、主イエスの先駆けとなったと言うことができるのです。
誕生日の祝宴
私たちはこの血なまぐさい話から、何を聞き取ればよいのでしょうか。あるいはこの話は、私たちの生活や信仰とどう関わっているのでしょうか。このような話が聖書に語られていることの意味は何なのでしょうか。そのことを考えるために、この出来事が、ヘロデの誕生日の祝宴において起った、ということに注目したいと思います。領主の誕生日の祝いの宴です。それは盛大なものであり、多くの家臣たちも参列していたのでしょう。そして皆が、主役であるヘロデにお祝いを述べ、その健康を喜び、その支配の永からんことを願ったのです。そしてヘロデ自身もこの祝宴において、自分こそこの国の支配者であり、何でも思い通りになる権力を握っており、全ての者は自分に従うのだという思いにひたり、満足し、喜んでいるのです。ヘロディアの美しい娘も、自分のために舞をまって座を盛り上げている。すべてのことが自分を中心にして回っている。それがこの宴席におけるヘロデの思いです。そういう中でヘロデは、「願うものは何でもやろう」と言ったのです。それは、自分は何でも自由に与えることができる、全てのものは自分のものだ、という思いから出る言葉です。酒に酔って気が大きくなっていたこともあるでしょう。しかし何よりも彼は、自分の権力、支配に酔っているのです。自分こそこの宴席の主人であり、この国の主人であり、自分の人生の主人であるという思いに、彼は有頂天になっていたのです。
祝宴の主は誰か
しかしそのように自分の権力に酔いしれているヘロデの祝宴は、彼自身の言葉のゆえに、血塗られたおぞましいものになりました。「洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、この場でください」という娘の言葉によって、喜びに盛り上がっていた祝宴は突然静まり返り、恐ろしく冷たい沈黙が支配したでしょう。喜びの祝いは完全に水をさされたのです。9節に、「王は心を痛めたが」とあります。ここは口語訳聖書では「困った」と訳されていました。それはせっかくの祝宴の喜びを台無しにされたヘロデの困惑と言えるでしょう。いずれにせよ、この年のヘロデの誕生日は、二度と思い出したくない、血塗られた忌まわしいものになったのです。この宴席の主人は自分である、自分が主人であり、支配者であるという喜びに舞い上がっている宴は、このように血塗られた忌まわしいものになるのです。それは、本当の主人、本当の支配者を忘れ、無視しているからです。洗礼者ヨハネは、その本当の主人、本当の支配者である主なる神のみ心を語りました。それが、「あの女と結婚することは律法で許されていない」ということです。ヘロデはその神のみ心を無視し、神の支配を否定して自分が支配者であるために、ヨハネを捕え、そして殺したのです。本当の主人、支配者である神を無視して、自分が主人、支配者となろうとする歩みは、必ずこのように、神を、またそのみ言葉を語り伝える人を抹殺することになるのです。私たちの歩みもそうではないでしょうか。私たちは、ヘロデのように盛大に自分の誕生日を祝うことはないかもしれません。ヘロデのように、「願うものは何でもやろう」などと言うことはできません。でもそれは私たちがたまたまヘロデのような権力を持っていないからであって、私たちの心はヘロデとは違うと言えるでしょうか。私たちも、自分の人生という小さな王国の王であろうとしているのではないでしょうか。ここでは自分が主人であり、この王国には誰も、神ですら介入させない、と思っているのではないでしょうか。そうやって私たちも、神を無視して、自分が主人である王国を築き、自分を中心とする宴を開いているのです。しかしその宴は血塗られたものとなります。そのような私たちの心が、神の独り子イエス・キリストを十字架の死へと追いやっているのです。ヘロデ大王が幼児主イエスに対して抱き、その子ヘロデがヨハネに対して、そしてさらに主イエスに対して抱いた不安と恐れを、私たちも抱くのです。
礼拝においてこそ
私たちはそういう不安や恐れを普段は意識していないかもしれません。しかし、生けるまことの神が私たちの人生に介入して来られる時、つまり神が、あなたの人生の主人はあなたではなくて私だ、私に従いなさい、と求めて来られる時、つまり信仰の決断を求められる時に、この不安と恐れは一気に現実実を帯びてきます。ということは、こうして礼拝に集っている私たちこそ、このヘロデの不安と恐れを感じる場にいるのです。礼拝において主なる神は、私たちに、あなたの人生の主人はあなたではなくて私だ、と語りかけて来られるのです。その語りかけを聞いた私たちは、神こそが人生の主人であることを受け入れ、神を信じ従う者になるか、それともヘロデのように、神とそのみ言葉を拒んで抹殺する者になるか、その分かれ道に立たされるのです。
誕生日をどう祝うか
信仰とは、自分の人生の、自分の祝宴の主人は自分ではなくて主なる神だと認めることです。その信仰によって、例えば私たちの誕生日の祝い方が変ってきます。ヘロデの誕生日の祝いは、自分が中心であり、自分に祝いを述べるために人々が集まって来るというものでした。しかし信仰者の誕生日の祝いはそうではありません。誕生日は、神が私たちに命を与えて下さった日です。つまり私たちの誕生日の主役は私たちではなく神なのです。私たちは、誕生日に、神の恵みのみ心を思って感謝し、神をほめたたえるのです。それだけではありません。この世を生きる人生は喜ばしいことばかりではありません。むしろそれは神から私たちに与えられた苦しい課題でもあります。私たちは誕生日に、神が自分にお与えになった課題を覚え、み心に従ってそれを果していく決意を新たにするのです。それが信仰者の誕生日の祝いです。ですから、「もう子供でもなし、誕生日ごとに一つずつ老けていくだけなんだから、誕生日なんてどうでもよい」というのは間違いです。パーティーを開いたり、ケーキを食べなくてもよいけれども、自分の命を、この人生を、神が自分に与えて下さった、そのみ心を覚え、それに従っていく思いを新たにする日として誕生日を祝うことが大事なのです。
神が備えて下さる祝宴
例えば誕生日をそのように祝いつつ歩む時に、私たちの人生全体が、神が私たちのために備えて下さった宴となります。まことの主人であり支配者である神が、私たちに命を与え、導いていて下さっている、それが私たちの人生です。私たちは、主なる神が備えて下さった祝宴へと招かれているのです。その祝宴は、ヘロデのあの血塗られた祝宴とは違って、本当の平安と慰めに満ちたものです。そのことを象徴的に表しているのが、本日共にあずかる聖餐です。礼拝の中で聖餐が祝われ、主イエスと結び合わされその救いにあずかる洗礼を受けた者がパンと杯をいただく、それは、神が私たちのために祝宴を整えて下さり、そこに私たちを招いて下さっていることを示しています。しかもそこで振舞われるパンと杯は、主イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さった、そこで引き裂かれた体と流された血を表しています。主イエスが私たちの罪の赦しと救いのために命を捧げて下さった、その命を私たちはそこで味わい、いただくのです。私たちが、自分が主人となって神を無視して開く宴は、主イエスを十字架の死へと追いやるものです。しかし主イエスはその十字架の死をご自分から引き受けて下さいました。神を無視して自分が主人となろうとしている私たちの罪を背負って、肉を裂き、血を流して死んで下さることによって、私たちの罪を赦して下さり、そして今度はご自分の体と血とを恵みの食物として振舞う新しい祝宴を開いて、私たちを招いて下さっているのです。
詩編23編
本日共に読まれる旧約聖書の箇所として、詩編第23編を選びました。主なる神が私たちの羊飼いとして、私たちを養い、導き、守って下さることを歌っている詩です。その中に、「わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる」とあります。神が整えて下さる食卓にあずかり、その杯を飲むことができる幸い、しかもそれが、「わたしを苦しめる者を前にしても」とあるように、人生の苦難、悲しみ、敵に取り囲まれている現実の中でも与えられることがここに歌われているのです。それは、自分の人生の宴席の主は自分ではなく神であることを知っている者にこそ与えられる平安であり喜びです。自分が宴席の主であろうとしている限り、ここに歌われている喜びや平安にあずかることはできないのです。
神のもとに集う人生を
私たちの人生の宴席の主は誰でしょうか。ヘロデの誕生日の祝いのような、自分が主人であり、何でも自分の思い通りになり、人はみな自分に従う、そんな人生を願い求めている限り、私たちの人生は血塗られたものになります。そのような人生ではなく、私たちのまことの主人である神のもとに集い、救い主イエス・キリストが肉を裂き血を流して私たちのために整え、招いて下さっている聖餐にあずかりつつ生きる、そのまことの平安と喜びに満ちた人生をこそ、求めていきたいのです。