主日礼拝

収穫のために働く

「収穫のために働く」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: イザヤ書 第52章7-10節
・ 新約聖書: ルカによる福音書 第10章1-16節
・ 讃美歌:128、405、510

ほかに七十二人を
 礼拝においてルカによる福音書を読み進めておりまして、本日から第10章に入ります。その冒頭の1節にこうあります。「その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」。主イエスが、七十二人の弟子たちを派遣されたのです。「ほかに七十二人を」とあります。「ほかに」とは誰のほかになのでしょうか。9章のはじめのところに、主イエスが十二人の弟子を派遣されたことが語られていました。この十二人のほかに、というのが一つの意味です。この十二人は、主イエスがご自分に従って来た人々の中から選んで「使徒」と名付けた人々でした。そのことが6章12節以下に語られていました。ということは、主イエスに従って来た人々はこの十二人の他にもいたわけで、その中から今度は七十二人が選ばれて派遣されたのです。しかしこの「ほかに」は、先週読んだ9章51、52節とのつながりにおいて読むこともできます。そこには、主イエスが、それまで活動していたガリラヤからエルサレムへと向かう決意を固め、そちらに顔を向けて歩み始めたこと、その旅において、これから進んで行こうとしている村に先に使いの者を出されたことが語られていました。その使いの者とは十二人の弟子たちであったことが、その後のところにヤコブとヨハネのことが語られていることから分かります。つまりエルサレムへの旅が始まった時点で、十二人の弟子たちは再び、今度は主イエスがこれから向かおうとしている村々に先に使いとして派遣されたのです。本日の10章1節における七十二人の派遣の目的もそれと同じです。「御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた」のです。ですからここでの「ほかに」は、9章52節で派遣された弟子たちのほかに、という意味でもあります。何のための派遣かを考えれば、むしろこことのつながりが深いのです。

主イエスのための準備
 先週の説教において申しましたように、9章51節から、主イエスの活動の第二段階、エルサレムへの旅が始まっています。天に上げられる時期が近づいたことを自覚された主イエスが、エルサレムへと旅立たれたのです。その旅において、弟子たちが主イエスの先駆けとして派遣されました。先週は保留にしておいたそのことの意味を、本日は先ず考えたいと思います。それによって、本日の箇所を理解する鍵も与えられるのです。
 主イエスの先駆けとしての派遣はエルサレムへの旅において新しく始まったことです。9章のはじめにおける派遣は、神の国を宣べ伝え、病人をいやすためでした。それはつまり主イエスご自身が行なっておられるみ業を弟子たちも行うということであり、そのための力と権能が彼らに授けられたのです。エルサレムへの旅における派遣は、それとは意味が違います。ここでは弟子たちは、エルサレムに向かう主イエスの先駆けとして派遣されたのです。彼らは9章52節にあるように「イエスのために準備」をしました。その準備は、宿の確保とか食料の調達などという物理的なことではないでしょう。彼らは、主イエスが向かおうとしている村々の人々が、エルサレムへの道を歩んでおられる主イエスを、救い主として迎えるための準備をしたのです。そのために彼らが語るべき言葉が9節に示されています。「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とあります。これは内容としては、9章のはじめの派遣において彼らに命じられたこと、「神の国を宣べ伝え、病人をいやす」と同じです。しかしそこには、神の国が「近づいた」という新しい要素が加わっています。それは、主イエスがまもなく来られることを意識した言葉です。主イエスがまもなくこの町に来られる。そのことによって神の国はあなたがたに決定的に近付いている。この主イエスを救い主として受け入れ、お迎えすることによって、神の国、即ち神様の恵みのご支配があなたがたの上に実現するのだ。だから、主イエスをお迎えする準備をしなさい。そのように語るために弟子たちは遣わされたのです。

主イエスの先駆けとして
 主イエスによって派遣されたこの弟子たちの姿は、私たちの、教会の姿と重なります。私たちは、教会は、主イエス・キリストによって到来した神の国を告げ知らせ、それを信じ受け入れて神様の恵みのご支配の下で生きなさい、と人々に勧める使命を与えられ、この世へと遣わされています。私たちも、「神の国はあなたがたに近づいた」という福音を宣べ伝えているのです。またここで弟子たちが、エルサレムへと向かう旅路にある主イエスによって、その先駆けとして派遣されたことも、私たち教会の姿と重なります。私たちが宣べ伝える福音は、神様の独り子イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活と昇天とによって天に昇り、今や父なる神様の右に座してこの世界を、私たちを支配していて下さる、ということを告げるものです。つまりこの福音の中心は、主イエスがエルサレムにおいて天に上げられたことなのです。エルサレムで天に上げられた主イエスのことを、私たちは宣べ伝えているのです。それゆえに、エルサレムへと向かう主イエスの先駆けとして派遣された弟子たちの姿は、私たちと重なるのです。さらにこの弟子たちと私たちとが重なるもう一つの点は、「主イエスの先駆け」ということ、つまり主イエスご自身が後から来られる、ということです。天に上げられた主イエスは、いつか再びこの世に来られると約束して下さっています。そのキリストの再臨によって、この世は終わり、神の国が、神様の恵みのご支配が完成し、私たちの救いも完成するのです。そのもう一度こられる主イエスを待ち望み、主イエスをお迎えする備えをしているのが信仰者であり、その主イエスを共にお迎えしようと人々に語りかけていくことが私たちの伝道です。信仰者は、教会は、この弟子たちと同じように、後から来られる主イエスの先駆けとしてこの世に派遣されているのです。

伝道の使命
 このように見てくるときに、ルカがこの9章の終わりから10章のはじめにかけて、エルサレムに向けて歩み始めた主イエスの先駆けとして弟子たちが派遣されたことを語っているのは、教会とそこに連なる信仰者に与えられている伝道の使命を覚えるためであると言うことができます。十二人のほかに七十二人が派遣されたというのも、名前の知られたいわゆる十二使徒だけではなくて、主イエスを信じ従っている多くの無名の人々が、主イエスの先駆けとして伝道のために派遣されたのであり、それは私たち一人一人のことなのだということを意味しているのです。それゆえに私たちは本日の箇所を、使徒たちや昔の立派な伝道者たちの話としてではなく、私たち自身に対する教えとして読んでいきたいのです。

救いの恵みの証人として
 その意味で先ず注目したいのは、この七十二人が「二人ずつ」遣わされたということです。一人一人ではなく、二人がチームとして派遣されたのです。主イエスの先駆けとして派遣される私たちは、一人で孤独な戦いをするのではありません。主が与えて下さる仲間と共に、助け合って歩むのです。しかしこの二人ずつということの背景には、裁判における判決は二人または三人の証言によって下される、という旧約聖書以来の教えがあります。その背景から考えるならば、二人ずつの派遣は、彼らが「証人」であり、彼らが語る言葉は「証言」だということを意味しているのです。証言とは、自分が目撃したこと、体験したことを語ることです。伝道の言葉とは、基本的に証言です。伝道において私たちは、思想を語るのでもなければ、評論や解説を語るのでもありません。自分が見聞きした、体験した、主イエス・キリストによる神様の救いの恵みを証言するのです。思想や評論や解説を語ることは誰でも出来るわけではないでしょう。しかし自分が体験した神様の救いを証言することは、誰にでも出来ます。伝道の言葉は、誰にでも語ることができるのです。しかも、共に証言をしてくれる仲間が与えられています。「二人ずつ」ということから私たちは、このような伝道への励ましを読み取ることができるのです。

収穫のための働き手
 2節には、「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という主イエスのお言葉があります。これは主イエスが私たちを伝道へと派遣するに当って与えて下さっているすばらしい約束の言葉です。主イエスはここで先ず、「収穫は多い」と断言して下さっています。私たちが主イエスの先駆けとして遣わされて神様の救いの恵みを証言する時、そこには豊かな収穫が約束されているのです。伝道には必ず多くの実りがあるのです。そうは思えない、伝道しても伝道しても、実りはほんの少ししか得られないではないか、と私たちは思うかもしれません。しかし、収穫が少ししか得られないのは、「働き手が少ない」からです。畑は豊かに実っているのに、収穫する人が少ないから収穫も少ないのです。「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」と言われています。収穫のための働き手がもっと沢山になれば、収穫は多くなると約束されているのです。この言葉はしばしば、牧師、伝道者が足りない、もっと多くの人々が伝道のために献身するように祈ろう、という意味で読まれます。それも一つの意味ではあるでしょう。しかしそのようにだけ読んでいたのでは、この箇所に語られている約束を見誤ると思います。主イエスはここで私たちに、「あなたがたは収穫のための働き手だ」と言っておられるのです。そのお言葉の最も大事なポイントは、畑を耕して種を蒔くところから始め、その作物を世話して育て、実を結ばせ、そして収穫せよと言われているのではない、ということです。ここに描かれている働き手のイメージは、既に豊かに実っている畑に派遣されて収穫だけをする臨時雇いの労働者です。つまり彼らが収穫するのは、自分で汗水たらして育てた実りではないのです。「収穫のための働き手」は、自分が育てたのではない作物の実りを収穫だけするのです。「収穫は多い」、それは彼らの働きによることではありません。では誰が働いたのか。それは収穫の主です。神様です。神様が、畑を耕して種を蒔くことから全てのことをして下さって、豊かな実りがそこにあるのです。私たちは、収穫のための働き手としてそれをただ刈り入れるだけです。私たちに出来ることはそれだけだし、命じられているのもそのことだけなのです。「収穫が多いなんて嘘だ。伝道してもなかなか実りは得られない」と思っている私たちは、根本的な誤解をしています。自分で畑を耕し、種を蒔き、作物を育てて収穫を得なければならないと思っているのです。それだったら確かに収穫は少ないでしょう。いやほとんどないでしょう。しかしそれは神様がして下さることなのです。神様が、独り子イエス・キリストによって、豊かな実りを既に実らせて下さっているのです。このことこそ、ここに語られている約束の中心です。「働き手が少ない」というのは、この約束をわきまえて働いている者が少ないということです。つまり、「自分は収穫のための働き手だ。神様が実らせて下さったものを収穫するのが自分の使命なのだ」ということをわきまえている者が少なく、むしろ何から何まで自分でして、自分で収穫を多く得なければならない、と思っている者が多いのです。ですから収穫のために働き手が送られるといのは、牧師、伝道者の数が増えることではなくて、神様が恵みによって豊かな実りを既に備えて下さっていることを信じて、自分が育てたのではない実りを感謝しつつ集める、という思いを持っている者の数が増えていくことなのです。そのことによってこそ、「収穫は多い」という約束が実現していくのです。

狼の群れの中の小羊
 3節には「行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」とあります。ここには2節の約束とは打って変わった厳しい現実が語られています。狼の群れの中に送り込まれる小羊は食い殺されるしかありません。主イエスは私たちを、食い殺されるために派遣すると言っておられるのです。そんなのひどいじゃないか、と思います。しかしこのことも、実は2節の約束とつながっているのです。何がつながっているのかというと、「自分ではどうすることもできない」ということです。狼の群れの中の小羊は、自分ではどうすることもできません。羊は狼と戦うことも逃げることもできないのです。「収穫は多い」という2節の祝福も、今見たように、私たちが自分の力でできることではありませんでした。私たちに出来ることは、神様が実らせて下さった実を収穫することのみなのです。そういう意味では、2節と3節は、実は「打って変わった」ことを言っているのではありません。自分の力ではどうにもならない状況の中へと派遣される、という点で話はつながっているのです。4節の「財布も袋も履物も持って行くな」という教えもそのつながりの中にあります。これは、自分の力、自分が持っているもの、自分で用意した備えによってどうにかしようとするな、ということです。私たちはもともと、狼の群れの中に送り込まれた羊のように無力なのであって、自分でどうにかしようとしてどうにかなるものではないのです。自分の財布や袋や履物で何とかしようとするから、いつまでたっても「収穫は少ない」と嘆くことしかできないのです。しかし、収穫の主が、あなたがたの前に既に豊かな実りを用意して下さっている。狼の群れの中に羊であるあなたがたを送り込んだ神様が、あなたがたを守り、支え、主イエスによる救いの証人として用いて下さる。その神様の恵みの力に全てを委ねなさい、と主イエスはここで教えておられるのです。つまりここにも、主イエスの恵み深い約束が与えられているのです。
 主イエスの先駆けとしてこの世に派遣される私たち信仰者は、このように、自分の力ではどうにもならない現実の中で、ただ神様の恵みの力に依り頼み、神様が備えて下さる実りを信じて神の国の福音を宣べ伝えていきます。私たちがそのように「収穫のための働き手」として歩む時、私たちは自分の力ではとうてい考えられないような権威と力を与えられ、またそこには私たちの思いをはるかに越えた恵みの出来事が起っていくのです。そのことが、5節以下に語られています。

力ある言葉を語る
 まず、「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい」とあります。「平和があるように」それはシャーロームという、ユダヤ人たちが普通に交わす挨拶の言葉です。しかしその言葉が、もはや単なる挨拶ではない、大きな力を発揮することになるのです。6節に「平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる」とあります。「平和の子」それは信仰者が告げる神の平和、主イエスによって実現した神の国、神様の恵みのご支配の下での平和を信じ受け入れ、その平和に生きる者です。そういう者には、信仰者の告げる平和がそのままとどまるのです。しかしその家に平和の子がいないなら、その平和は告げた者のもとに戻って来る。主イエスの先駆けとして派遣された信仰者の告げる平和が、このように、語られるはしから虚しく消えていく単なる音声ではなく、現実的に力のある、人々の中に留まり、慰め、支え、生かす言葉となるのです。それは、語る私たちの力によることではありません。私たちを派遣して下さる主イエス・キリストが、エルサレムにおいて、私たちの罪を背負って十字架につけられて殺され、復活し、天に昇られた、そのことによって実現した神の国、神様の恵みのご支配の中で、私たちがそのような力ある言葉を語ることができるようになるのです。

働く者は報酬を受ける
 7節には、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである」とあります。これは、主イエスの先駆けとして派遣された者はどのようにして生きていくのか、ということです。自分たちを迎え入れてくれる家に泊まり、そこで出されるものを食べて生きていく、つまりその家の人に養ってもらうのです。それは物乞いのようなみじめな生き方です。しかしそれは財布も袋も履物も持って行かず、つまり自分の力に頼ることをやめてただ神様の養いに身を任せることとつながります。そのように神様に身を委ねて生きる時に、「働く者が報酬を受けるのは当然である」と主イエスはおっしゃるのです。主が約束して下さっている実りを信じてその収穫のための働き手として生きる私たちの歩みは、何の保証もない、その日暮らしの物乞いのような生活です。しかし主はその私たちを人々の手によって養い、それは当然の報酬であると宣言して下さるのです。

無理に伝道するな
 8節以下は今度はどこかの町に入ったらという教えです。家の場合と同じように、自分たちを迎え入れてくれる町において、出される物を食べ、その町の病人をいやし、「神の国はあなたがたに近づいた」と語り、伝道をするのです。しかし、「迎え入れられなければ」と10節にあります。主イエスの先駆けとして生きる伝道者を迎え入れようとしない、受け入れようとしない町もあるのです。その場合には「足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言ってその町を去るのです。これは一つには、受け入れられない所で無理に伝道する必要はない、ということです。それは先ほどの、自分で種を蒔き育てて収穫するのではなくて、神様が備えて下さった実りを収穫するのだ、ということとつながります。伝道は、私たちが無理をして必死になってノルマを果すような思いですることではないし、できることでもありません。私たちは、「収穫のための働き手」なのだということは、ここにもあてはまるのです。

神が語って下さる
 しかしここに語られていることはそれだけではありません。主イエスの先駆けとして派遣された信仰者は、迎え入れようとしない町の人々に対して、足についたその町の埃を払い落とす、という仕方で抗議の思いを現し、「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と宣言して出ていく、そういう権威を与えられているのです。そのことは12節の「かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む」というお言葉にも現されています。そしてそれが13節以下でさらに展開されています。コラジン、ベトサイダ、カファルナウムはいずれもガリラヤの町です。主イエスとその弟子たちによって、これらの町では神の国が宣べ伝えられ、奇跡が行なわれました。しかし悔い改めて主イエスを受け入れることがありませんでした。それらの町は、あのソドムと同じように神様の怒りを受けると宣言されています。そのように、神様の救いにあずかるか、それとも裁きを受けるか、を分けるような働きを、主イエスの先駆けとして派遣される信仰者はするのです。それらをまとめているのが16節です。「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け、あなたがたを拒む者は、わたしを拒むのである。わたしを拒む者は、わたしを遣わされた方を拒むのである」。これは驚くべき言葉です。私たちの語る言葉が、主イエスのお言葉と、さらには主イエスをお遣わしになった父なる神様のお言葉と重ね合わされています。そんな大それたことはあり得ない、私たちにそのような権威ある言葉を語ることなどできるはずがない、と私たちは思います。しかし、神様が豊かな恵みの力を発揮し、主イエスの十字架と復活と昇天による救いを実現して下さり、私たちを、自分で育てたのではない実りを刈り入れる収穫のための働き手として派遣して下さることを信じるなら、私たちは、私たちを通して神様が語って下さり、私たちを通して主イエスの恵みのみ業が行われるという驚くべき出来事を体験していくのです。

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