主日礼拝

神にはできる

「神にはできる」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:ヨブ記 第42章1-6節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第10章23-27節
・ 讃美歌:14、442、449

<神の国について>  
 主イエスは、人が「神の国」に入ることについて、次のように話されました。
「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  
らくだが針の穴を通る。想像するまでもなく、らくだが針の穴を通るなんて、絶対に不可能なことです。主イエスの、ユーモアを感じるほどの、極端すぎるたとえです。らくだは体高が2mくらい、体長は3mもありますし、針の穴は1mmほど。そんな誰の目にも明らかに不可能なこと。それよりももっと不可能であり、難しいこと。それが、金持ちが神の国に入ることである、と主イエスは言われるのです。  

<富が示すこと>  
 ところで、主イエスは、「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」。また「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と言われました。  
 それだけ聞くと、「財産のある者」「金持ち」と言われているので、もしここに比較的財産のある方がいらっしゃったら、少しドキッとするかもしれませんし、一方で、自分はそんなに裕福ではないからわたしのことではないな、うちはむしろ貧しいから、神の国に入ることができそうだな、と思う方もあるかも知れません。  
 しかしこれは、財産の多い少ないで、神の国に入れるか、入れないかが決まる、ということを言っているのではありません。  
 ここで「財産」や「金持ち」という言葉が示しているものは、人が「救われる」ために、神以外に頼ろうとするすべてのことを指しているのです。

<金持ちの人の話>  
 主イエスが23節で「財産のある者」、24節で「金持ち」と言われたのは、この直前の17~22節に語られている、「金持ちの男の話」から来ています。  

 この人は、小さい時から神の律法、掟をしっかりと守り、正しく、真面目に生きてきました。そうしてきたのは、神の救いを得るためです。しかし、この人は、どうやらまだ何か足りない、救われるために、まだ自分は不十分なのではないか、と感じていたようなのです。  
 それで、主イエスに「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねました。「永遠の命」というのは、永遠の神と共に生きるということ、つまり「救い」のことです。この人は主イエスに、「救われるには、わたしは何をすればよいでしょうか」と尋ねたのです。

 主イエスは、そんな彼を見つめ、慈しんでこう言われました。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。  

 これは、今までの善い行いにプラスして、「財産を手放して貧しい人に施す」という「善い行いをしなさい」、ということではありません。
 主イエスが仰る「財産」とは、人が、自分の「救い」のために地上に積み上げようとしている、すべてのもののことを言っておられるのです。それは例えば、富もそうですし、自分の正しさや、熱心さ、善い行い、真面目な生活、などもすべてです。
 そういった自分の業による「財産」を積んで、神の救いに近づこうとすること。救いを得ようとすること。そういったものを、すべて手放しなさい。救いを得られると思って、あなたがしてきたこれまでの努力も、成し遂げてきたことも、正しいと思っていることも、すべて捨てなさい、と主イエスは仰っているのです。
 そして、彼に欠けていると言われたことは、ただ一つ。「主イエスに従う」ことです。ただ主イエスのみに依り頼み、主イエスのみに救いを求める、ということです。  

 しかし、彼は、自分が積み上げて来た「財産」を手放すことができませんでした。彼は、小さいころから掟を守り、正しく生き、そのような「自分の救いのための善い行い」という「財産」を積み上げてきました。さらには、そのことで「救いの確信」が欲しかった。もっと完璧にして、自分を安心させたかったのです。しかし、それはむしろ捨てなさいと言われた。それで、この主イエスの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った、とあります。

<誰が救われる?>  
 それで、主イエスは23節にあるように仰ったのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」  
 人が、自分で積み上げた「財産」によって神の国に入るのは、なんと難しいことか。いや、それは決して不可能だ。らくだが針の穴を通ること以上に、明白に、絶対に、出来ないことなのだ、と仰るのです。  

 だから弟子たちも驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言いました。自分たちも含めて、そんなことを言われるなら、この世で誰一人救われる人はいないのではないか、と思ったのです。
 弟子から見ても、先ほどの「金持ちの人」は、真面目に、そつなく、正しく生き、律法をしっかりと守り、敬虔な生活を送っていて、誰の目から見ても、この人こそ救いにふさわしい、この人が救われなければ、誰が救われるんだ、というような人でした。何も悪いことはしていないし、むしろ熱心で真面目な善い人なのです。
 しかし、そういったことでは救われない。それらに頼っているままでは、らくだが針の穴を通るよりも、神の国に入るのは不可能だという。「じゃあ、いったいだれが救われるのだろう?」「どうやって人は救われることができるのだろう?」と驚いたのです。  

 そして、この「金持ちの人」のエピソードは、わたしたちにとっても、「あなたは自分の救いのために、自分では何も出来ないのだ。自分の正しさや、善い業や、立派さによって救いを得ようとするなら、それは全く役に立たないのだ」と言われているのです。

<罪の深刻さ>
 わたしたちはここで、自分の罪の深刻さを知ります。わたしたちが神に対して犯している罪は、本来、決して誰も救われない程に深刻で、自分でどんなに頑張っても、努力しても、その罪を償うことが出来ない程のものだ、ということなのです。
 どんなに善い行いを重ねていても、人の目には素晴らしい人でも、神の前では、例外なくみな罪人なのです。

 勝手に人のことを罪人呼ばわりしないで欲しい、と思われる方があるかも知れません。しかし、それは世の法を破るとか、犯罪を犯すという罪ではなく、神との関係において、わたしたちはみな、神に対して罪を犯している、ということです。

 罪というのは、造り主であり、命を与え、生かして下さっている、その神に背くこと。神が愛によってご支配して下さっている、そのことを忘れ、自分が支配者のように、神のように振る舞って歩むことです。
 自分の人生は自分のもの、そして自分がより良く、より幸せに、より充実した平和な人生を歩むために、努力をしたり、競争に勝ち抜いたり、成功を収めようとする…人はそうやって、自分のために、さまざまな地上の「財産」を蓄えようとします。それは、自分の力に依り頼んで、自分を生かそうとしていることです。
 また、それらに失敗して、無力感を覚え、人生に絶望すること。それもやはり、自分の力に頼ろうとしているから起こることです。自分の力で生きなければならないと思っているから、自分の弱さに、無力さに絶望するのです。

 しかし、根本的に命を与え、日々を支え、人生を導いて下さっているのは神です。神はお造りになったわたしたち一人一人を愛し、呼びかけ、恵みを与えて下さいます。この神の呼びかけに応えて、神に頼って生きることが、本来のわたしたち人間の自然な姿なのです。
 罪とは、そのように神が与えて下さった、人と神との関係、神がわたしたちを生かし、わたしたちがその神の恵みに感謝して従う、そうして共に喜んで生きる、その神との正しい関係を、わたしたちが壊してしまうことです。
 それは、自ら神の恵みから離れていくことですから、神との関係の破壊によって、わたしたちは隣人関係の破れや、また多くの苦しみ、そして滅びへと向かっていくのです。

 もし、何か自分の善い行いで、それを償うことが出来る、救いを得ることが出来る、と考えているのなら、自分の罪をそのくらいで免除されるような、軽いものだと思っており、深刻さを受け止められていない、ということでもあります。
 神から離れて、罪に陥った人間は、自分から神の許へ上っていくことはできません。罪の底から、神から離れたところから、救いに手を伸ばして、掴み取ること、善い行いを積み重ねて、自分を高めて救いに達する、なんていうことは、決して出来ないのです。

<神の全能>
 「それでは、だれが救われるのだろうか。」これは、わたしたちすべての問いです。
主イエスは、これにはっきりとお答えになりました。  
「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」  
人間には決してできない。人間の力では、誰も救われない。
しかし、神にはできる。主イエスはそう言われます。神は何でもできるからです。  

 「神は何でもできる」ということを、「神の全能」という言い方をします。
 神が何でもできるというのは、奇跡を起こせるとか、超自然的な力があるとか、そういう意味ではありません。もちろん、わたしたちにとって奇跡のようなことも、神にはお出来になります。嵐を静めたり、病を癒すこともお出来になります。
 しかし、この神の全能の力は、わたしたちを驚かせたり、またわたしたちの願いや希望を何でも叶えるための力ではありません。
 この「神の全能」は、わたしたちを罪から救うために、わたしたちが神と共に生きる者となるために、神がわたしたちのために何でもして下さる。わたしたちの救いのために、神はどんなことでもお出来になる、ということなのです。

 神は、何をして下さったのでしょうか。
 それは、神の方から、もはや何もできないわたしたちのために、底の底まで、降ってきて下さるということ。わたしたちが、もはや何を積み上げても、決して届くことの出来ないところから、神ご自身が降ってこられ、救いを届けて下さったということです。
 そのために、神の御子が、ご自分の神の栄光を捨てて、人の罪を担うために、人と同じになって、弱く小さな赤ん坊の姿で、この世に生まれて下さいました。
 そして、この罪のない、人となられた神の御子が、わたしたちの罪をすべて代わりに担い、ご自分を犠牲にして、十字架に架かって下さったのです。わたしたちの罪を、ご自分の血で贖って下さったのです。わたしたちには一切の何を求められることもなく、主イエスがすべての罪を背負って下さいました。
 そして聖霊が、この救いへとわたしたちを導き、復活の主イエスとわたしたちを結びつけて下さいます。わたしたちに罪の赦しを与え、永遠の命を与え、復活を約束し、神と共に生きる者として下さる、救いに与らせて下さるということです。

 これが、神の全能です。神は、何でもおできになります。わたしたちを愛して下さっているからです。わたしたちのために人となり、わたしたちの罪のために死ぬということがお出来になる。そして、罪人を赦し、神の子にして下さる。死ぬ者を、生きる者にして下さる。愛せない者を、愛することができる者へと、変えて下さる。神には、何でもできるのです。

 わたしたちは、この神の力に頼るほかは、救われる道はないのです。神によってしか、神の国に入ることはできないのです。わたしたちは、この神の全能の前に、ただただひれ伏し、自分の思いを退け、罪を赦していただく。神の許に立ち帰る。それしか出来ないのです。

 「神の国」とは、神のご支配のことです。神が主人となり、神が恵みに依って支配して下さることです。神の支配を受け入れるのに、自分のものを握りしめて、自分のものに頼っていては、自分が主人でいるままでは、神を主人として迎え、与えて下さるものを受け取ることが出来ないのは当然です。
 わたしたちは、自分で何かを達成したり、立派になったり、救いにふさわしくなるために頑張れと言われるのではありません。「人間にはできない」ことを認め、両手を空にして、神が差し出して下さるものを、ただただ受け取る。神の恵みに、ただただ自分を委ねる。そのことによって、救われるのです。
 わたしたちはただ、「わたしに従いなさい」と言ってくださる十字架と復活の主イエスに、従っていくだけです。この方にのみ頼り、この方にすべてを委ねるのみなのです。  

 自分で積んでいた「財産」は、この世で目には見えて、一見、頼りになり、安心させるように見えるかも知れません。しかし、それは簡単に失われるし、根本的にわたしたちの人生を支えるものとはなりえません。  
 主イエスの許にこそ、決して絶望しない、確かな救いの約束があり、また神によって与えられるまことの平安があるのです。

<神に応える生き方>  
 ただ神に委ねる。神にだけ頼る。しかしその難しさを、わたしたちはみんなよく知っているのではないでしょうか。
 調子の善い時には、どこか自分の力のお陰のように思い、自信や傲慢さが出てきてしまう。調子に乗ってしまう。一方で、調子の悪い時や、心配ごとがある時は、委ねきれずに不安になる。自分の弱さを見つめて落ち込む。明日の事を思い煩う。
 わたしたちはそんな歩みをしながら、そんな歩みしか出来ないからこそ、自分の思いを退けること、神に委ねるということさえも、神に祈り求め、神の力に頼らなければならないのでしょう。  

 ある、洗礼を受けていないけれど教会に来ている青年が、昔こんなことを言うのを聞きました。「教会の人って、神に頼りすぎじゃないですか。だめな人間にならないですか。」  
「神に頼りすぎ」。それはその通りだし、青年にそう思われた教会の人はすごいです。
 でも、そのあとの「だめ人間になりそう」というのは、どういうことでしょうか。確かに、考えようによっては、「神に何でも委ねて、神に頼って、神が何でもして下さる。自分には何の力もない」といって、駄目な人間になってしまうのではないか。「善い業は救いの役に立たない、人間に何もできないなら、何をしたって仕方がない」と、思考停止になり、怠惰になってしまうのではないか、と考える人がいます。  

 しかし、本当に神にすべてを委ねたら、そうはならないでしょう。逆説的ですが、自分の無力さを認め、神にすべて委ね、頼る者こそ、駄目どころか、もっとも強いと思います。
 神の前で、これまでの自分を退けることは、自分が無くなってしまうことではなくて、神に愛されている本当の自分を知ることです。その神の愛を知ったなら、神の愛にしっかりと根差したなら、世のどんな嵐も、その人を倒したり、奪い取ったりはできないでしょう。その人を支える神が、もっとも強い方だからです。
 そのように、神に委ねた人の強さは、相手を弾き飛ばすような、鋼のような強さではありません。どんな嵐も、静かにじっと耐え抜く。そんなしなやかな強さでしょう。  
 人生の凪の時も、大荒れの時も、しかしわたしを根底から支えるところに、神の御手があると知っている。決してすべては絶望に終わらず、神が必ず勝利なさる。神の恵みの支配が完成する。そのことを知っているなら、わたしたちは戦いを神に委ね、神の許に逃れることで、この世の苦難を、忍耐することができるのでしょう。

 また、神に委ねることは、自分で何もしなくなること、怠惰になることではありません。むしろ、すべてを神に委ねる時にこそ、人は神のために、神に与えられたすべての力を注ぐことができるのだと思います。全力を、時間を、自分のすべてを、喜んで神に献げることができるのだと思います。
 これまで自分のために生き、自分のために善い行いを重ねていた者は、神のために生き、神の思いが実現するために、神のため、隣人のために生きる者とされるのです。
 神はわたしたちを、救いのご計画に用いたいと仰る。祈らせて下さる。そして、神の愛と喜びを分かち合って下さる。なんと嬉しいことでしょうか。その喜びを求めて、時間も、力も、思いも、喜んで神にお渡しする者になれたら、どんなに幸いかと思います。

 この恵みに生きる者となること、心から神に委ねて生きる者となることを、祈り求めていきたいのです。しかしこれも、わたしはすぐ不安になってしまうから駄目だとか、自分は結構委ねているぞ、とか、自分の感覚で捉えられるものではありません。
「神にはできる。神は何でもできるからだ」。こう言って下さる方に、わたしたちがひたすら頼っていくことであり、この神が、わたしたちを変えていって下さるのです。

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