主日礼拝

わたしたちの造り主

「わたしたちの造り主」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第8編1-10節
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第9章19-26節
・ 讃美歌:

人間への愛のゆえに
 先週から、「使徒信条による教理説教」を開始しました。礼拝において毎週共に告白している使徒信条の言葉に沿って、それと関連する聖書の箇所からみ言葉に聞いていこうという新たな試みです。使徒信条は「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」と始まっています。「天地の造り主」であられる神を信じることが、キリスト教会の信仰の根本であることが先ず語られているのです。先週は、旧約聖書、創世記第1章を中心に、神がこの世界をお造りになったという、いわゆる天地創造の話を読みました。そこから示されたのは、神はこの世界を、私たち人間への愛のみ心によって創造して下さった、ということでした。創世記第1章の天地創造物語のクライマックスは人間の創造です。この世界の創造は人間の創造のための準備だったと言ってもよいのです。しかも人間は、神にかたどって、神に似た者として創造されました。人間は神がお造りになった多くの被造物の中の一つなのではなくて、神の特別な恵みによって創造されたのであり、神にとって特別な意味のある存在なのです。

神に僅かに劣るものとして
 そのことが、先ほど読まれた旧約聖書の箇所、詩編第8編にも語られています。詩編8編の4節以下にこうあります。「あなたの天を、あなたの指の業をわたしは仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの。そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは。神に僅かに劣るものとして人を造り/なお、栄光と威光を冠としていただかせ/御手によって造られたものをすべて治めるように/その足もとに置かれました。羊も牛も、野の獣も/空の鳥、海の魚、海路を渡るものも」。天地の全てを造り、月も星も配置なさった造り主である神が、人間を御心に留めて下さり、特別に顧みて下さって、神に僅かに劣るものとして造って下さったのです。この「神に僅かに劣るものとして」というのが、神にかたどって、神に似せて、ということです。人間は神に僅かに劣るもの、神に似たものとして造られているのです。そのことの意味は、先週も申しましたが、神のみ心を受け止め、それに応えることができる、ということです。つまり、神を信じて、神に従って生きることができる者として人間は造られたのです。そこに、神の特別な恵みがあります。神にとって人間が特別な存在であるのは、人間だけが、神を信じて、神と交わりを持って生きることができる、ということなのです。

被造物を治める使命
 そして神はその人間を、「御手によって造られたものをすべて治める」者として下さいました。神によって造られたもの、つまり被造物を治める使命が人間に与えられたのです。これも先週お話ししたように、人間がこの世界や自然を好き勝手に利用し、破壊してよい、ということではありません。人間は神のみ心に従ってこの世界を管理し、守る者とされているのです。地球環境の危機が自覚される中で今盛んに言われている、いわゆるサステイナブルな、持続可能な社会を築くことは、神が「御手によって造られたものをすべて治める」者とされた人間の本来の使命なのです。環境破壊は人間が引き起こしているものですが、それは人間が、この世界を神のみ心に従って管理せずに自分の豊かさばかりを追求した結果です。人間が神に従わず欲望のままに歩んだために環境が破壊され、滅亡が迫っていることが見えてきたので、今ようやく人類の中に、神のみ心に従ってこの世界を正しく管理しなければ、という思いが生まれてきていると言えるのです。

人間は何ものなのでしょう
 さて詩編第8編の5節には、詩人の驚きが語られています。「そのあなたが御心に留めてくださるとは/人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう/あなたが顧みてくださるとは」。詩人は、人間など何ものでもないのに、まことにちっぽけな、取るに足りないものにすぎないのに、その人間を神がみ心に留め、顧みて下さり、神に僅かに劣る者として造り、み手によって造られたこの世界を治める者として下さったことに驚いているのです。それは、人間には世界を治める力などないのに、という能力の問題ではありません。そもそも人間は神ではない、神に造られた被造物に過ぎないということです。被造物に過ぎない人間が、神に僅かに劣る者、神に似た者として造られ、世界を治める者とされていることに詩人は驚いているのです。天地創造の物語は、この世界の全てと私たち人間とが、神によって造られたもの、被造物であることを告げています。この世界の自然がどのように美しく神秘に満ちているとしても、また人間には底知れぬ能力があって、素晴らしい技術や文化を生み出し、また今オリンピックで繰り広げられているように、スポーツにおいて素晴らしいパフォーマンスを行うことができるとしても、この世界も人間も、神によって造られたものであって神ではないのです。その全てを造った創造者である神がおられるのです。神による天地創造の物語は、創造者と被造物、造った方と造られたものとのはっきりとした区別、違いを語っているのです。だからこの世界の中の、どのように美しく神秘的な自然も、どのような素晴らしい業績を残した人間も、神として拝まれたり、祈りの対象となることはあり得ないのです。天地の造り主であられる神のみが神なのであって、この世界と私たち人間は、自らが神によって造られた被造物であることを常に弁えていなければならないのです。
 しかし、自分が被造物であることを弁えることができるのは、私たちが神に似せて、神に僅かに劣る者として造られた人間だからです。神が私たち人間への愛によってこの世界を創造して下さったことを知ることができるのは人間だけであり、人間だけが神を信じて礼拝し、神と共に生きることができるのです。そこに、他の被造物とは違う人間の特別性があります。それを「人間の尊厳」と言ったりしますが、人間の尊厳は、自らが神の被造物であるという自覚を持って、創造主である神との交わりに生きるところにこそ与えられるのです。天地創造の物語は、人間は被造物に過ぎないと語っています。しかし同時に、神がその被造物である人間を愛して、み心に留め、顧みて下さって、神に似たもの、神に僅かに劣るものとして造り、被造物全体を治める者として下さったことをも語っています。詩編8編の詩人は、その驚くべき恵みに触れて、心から神を賛美しているのです。

もう一つの天地創造物語
 人間に対する神のこの恵みは、もう一つの天地創造物語にも語られています。その話は創世記第2章4節後半から始まるのですが、そこにおいて人間の創造は2章7節にこう語られています。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。これは創世記1章27節の「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された」というところとはいろいろな点で違っています。1章の方では、人間が神にかたどって創造されたことと、男と女に創造されたことが同時に語られています。男と女という性別があることは、同じ人間でありつつ自分とは違う他者がおり、その他者との交わりに生きる者として人間は造られている、ということです。神にかたどって、神との交わりに生きる者として造られた人間は、人間どうしの間でも他者との交わりに生きる者とされている、ということを1章27節は語っているのでしょう。それに対して2章7節では、人(アダム)が造られています。アダムは男です。その後2章18節以下に、アダムが共に生きる相手である女が造られたと語られています。つまり2章の話においては、男が先に造られ、女が後で造られた、となっているのです。これは、男と女の間に序列や上下関係を見ているということではありません。2章は、人間が男と女とであることの根本には、18節の、「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」というみ心がある、ということを語ろうとしているのです。人間が、独りで生きていくのではなくて、「彼に合う助ける者」と共に生きるようにしよう、という神のみ心によって、男と女という性別があるのです。これは、女は男を助ける補助的な存在だ、という意味ではありません。「彼に合う助ける者」とは、向かい合って互いに助け合って生きる者、ということです。つまりどちらかが主で他方は従なのではなくて、両者は対等な関係なのです。男にとって女は、また女にとって男は、向かい合って互いに助け合って生きるパートナーです。一人の男と一人の女がパートナーとなって生涯を共に生きていくことが結婚して夫婦となることであり、創世記第2章はそのことへの神の祝福を語っていますが、しかし「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう」という神の根本的なみ心は、結婚のことだけを言っているのではありません。1章27節と同じようにここにも、神は人間を、他者との交わりに生きる者としてお造りになった、ということが語られているのです。

土の塵から
 創世記1章と2章のもう一つの違いは、2章では人(アダム)が土(アダマ)の塵で形づくられたと語られていることです。土の塵とは、どこにでもある、大して価値のないものです。人間は元々土の塵に過ぎないものだと2章は語っているのです。このことは、人間が神にかたどって、神に似た者として造られたという1章の話とはある意味正反対です。しかし、人間は土の塵に過ぎない無価値なものだ、ということは、先ほどの、人間は被造物であって神ではない、ということと繋がります。自らが被造物であるという自覚をしっかり持って生きることが必要だ、ということが1章の天地創造物語のメッセージでした。2章はそのことを、人間は元は土の塵に過ぎない、ということによって教えているのです。自分は土の塵に過ぎないことを弁えて生きることによってこそ、その自分に与えられている神の大いなる恵みが見えて来るのです。それが「その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」ということです。土の塵に過ぎない無価値な自分を、神が顧みて下さり、愛して下さって、命の息を吹き入れて下さったことによって自分は生きているのです。ここにも、被造物に過ぎない人間が、神に似た者として、神に僅かに劣る者として造られ、被造物全体を治める者とされているという神の大いなる恵みが見つめられているのです。つまり創世記1章と2章とは別の天地創造物語で、人間の創造の語り方も違っていますが、しかし根本的にはどちらも同じことを語っているのです。即ち、人間は神によって造られた被造物であって神ではない、人間自身に元々栄光や尊厳が備わっているわけではない。人間は、自分が被造物であり、土の塵に過ぎない者であることを弁えていなければならない。そのことによってこそ、神が人間を愛して、人間のためにこの世界を創造して下さり、土の塵に過ぎない人間に命を与え、神に似た者、神との交わりに生きる者として下さったという驚くべき恵みを知ることができるのです。そして神がお造りになったこの世界を、み心に従って治め、愛をもって管理するという責任ある務めが人間に与えられていることをも示されるのです。神が「天地の造り主」であると信じることによって私たちは、この神の驚くべき恵みを示され、神をほめたたえつつ、神から与えられている使命を覚えて生きることができるのです。

他人事ではなくこの私を
 さてこのように、「天地の造り主」を信じるとは、神が人間への愛によってこの世界を創造し、人間を特別に顧みて下さり、神に似たもの、神に僅かに劣るものとして造り、命を与えて下さっていることを信じることなのですが、その「人間」とはこの私のことだ、ということが決定的に大事です。「我は天地の造り主を信ず」というのは、神がこの私を愛しておられるがゆえにこの世界を創造し、この私を特別に顧みて下さり、神に似たもの、神に僅かに劣るものとして造り、命を与えて下さっていることを信じることなのです。使徒信条が語っていることは他人事ではありません。「天地の造り主」はこの私を造り、生かして下さっている方なのです。

神はなぜ自分をこのように造ったのか
 このことはしかし私たちに、重い問いを引き起こします。この世界は神によって創造された、ということがどこか他人事である間は感じなかった問いが、神がこの私を造り、命を与えておられるとなると頭をもたげてくるのです。それは、神はなぜ私をこのように造ったのか、という問いです。私たちはそれぞれ、全く違った人間として、全く違った家庭環境の中に生まれ、全く違った生い立ちをもって生きています。そしてそれぞれに備わっている資質や能力も違っています。神が「人間」を造ったと言っている時には見えて来なかったそれらの違いが、神が「この私」を造ったとなると際立って来るのです。自分がこういう者として、こういう環境の下に、こういう生い立ちをもって、こういう能力をもって生きているのは、神がそのように自分を造ったからです。そのことを感謝できる人は幸いです。しかし私たちは、自分が自分であることを喜び、感謝できないことも多い。自分に与えられている体、能力、環境、生い立ちなどを受け入れて、その中で、精一杯前向きに生きていくことができれば素晴らしいですが、なかなかそうはなれないのが私たちです。人と自分とを見比べて、あの人の方が明らかに自分よりも良いものを与えられている、と妬ましく思うことはいくらでもあります。そしてそれは、神があの人をあのように、自分をこのように造ったからだとしたら、その神のみ業を受け入れることができない、なぜ神は自分をこのように造ったのか、と文句を言いたくなる。つまりそこに神の愛など感じることができない、神は人間を愛して、この世界と人間を創造なさったと聖書は言うけれども、その愛は自分には与えられていない、神は自分のことなど愛して下さっていないのではないか、そういう厳しく重い問いが生まれるのです。

創造主と被造物
 先ほど朗読された新約聖書の箇所、ローマの信徒への手紙第9章19節以下が、この問いに対する一つの答えを語っています。その20、21節にこうあります。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか。焼き物師は同じ粘土から、一つを貴いことに用いる器に、一つを貴くないことに用いる器に造る権限があるのではないか」。これはとても過激なことを言っています。同じ粘土からどんな器を造るかは焼き物師の自由なのだから、造られた器が「どうしてわたしをこのように造ったのか」と文句を言うことなどできない、だから私たちも神に文句を言うべきではない、というのです。ここには、天地の造り主である神と、造られたもの、被造物である私たちの根本的な関係が示されています。創造主である神は、自由なみ心によって私たちをお造りになるのであって、被造物である私たちは、創造主である神のみ心に文句をつけることはできない。自分が被造物であることを、土の塵に過ぎない者であることを弁える、とはそういうことなのです。

神の自由なみ心
 しかしこの手紙を書いたパウロはそれに続いて、「怒りの器」と「憐れみの器」ということを語っています。怒りの器とは、神がその怒りを示して滅ぼすために造られた器であり、具体的にはそれは神の民ユダヤ人ではない、異邦人のことです。「憐れみの器」とは、神が栄光を与えようと準備しておられた神の民ユダヤ人のことです。神はユダヤ人と異邦人をそのように選び、区別して造られたのです。そのままだったら、憐れみの器であるユダヤ人は救われ、怒りの器である異邦人は滅びる、ということになります。ところが今起こっていることは、異邦人が主イエス・キリストを信じて神の救いにあずかっており、逆にユダヤ人たちが主イエスを救い主と受け入れずにその救いを拒んでいる、ということなのです。パウロはそこに、神の不思議な、そして人間には計り知れない恵みのご計画を見ています。神は、本来怒りの器だった異邦人を、寛大な心で耐え忍び、キリストによる救いにあずからせて下さっているのです。そしてそのことによって、本来憐れみの器だったのに神に叛いてしまっているユダヤ人たちに、御自分の豊かな栄光を示し、最終的に彼らをもキリストによる救いへと導こうとしておられるのです。神のそのような救いのみ心を見つめさせるために、パウロはこのように語っているのです。創造主である神は、被造物である私たちを、自由なみ心によって、様々に違った者としてお造りになります。被造物である私たちはその神のみ業に戸惑い、文句を言ったりします。しかし神は、様々に違った者としてお造りになった私たち一人ひとりを、様々に違った仕方で、救いにあずからせようとしておられるのです。そのことは、神が遣わして下さった独り子主イエス・キリストが、私たちの罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによってはっきりと示されています。天地の造り主であり、自由なみ心によって私たちをお造りになった神は、その自由なみ心によって独り子イエス・キリストの十字架と復活による救いを与えて下さっているのです。主イエス・キリストの十字架による救いを見つめることによってこそ私たちは、神が土の塵からみ心のままに造り生かして下さっているこの私を、愛して下さり、顧みて下さり、罪を赦して下さり、み業のために用いて下さる、その恵みを知り、その恵みの中で生きていくことができるのです。

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