主日礼拝

来るべき方

説 教 「来るべき方」 牧師 藤掛 順一
旧 約 イザヤ書第61章1-4節
聖餐 新 約 マタイによる福音書第11章1-6節

来るべき方を待ち望む
 本日からアドベント、待降節に入りました。アドベントとは「到来」という意味であり、救い主イエス・キリストの到来を待ち望む信仰を新たにする時です。主イエスは既におよそ2000年前にこの世に来て下さいました。そのことを喜び祝うのがクリスマスです。アドベントはそのクリスマスへの備えをする時でもありますが、そのことによって私たちは、主イエスが将来もう一度来て下さり、救いを完成して下さることに備え、それを待ち望むのです。つまりアドベントに私たちは、主イエスを「来るべき方」として待ち望む信仰を深められていくのです。

来るべき方を待ち、それに備えたヨハネ
 礼拝においてマタイによる福音書を連続して読んできまして、本日から第11章に入ります。11章の2節に、ヨハネが出てきます。それはいわゆる洗礼者ヨハネです。この人のことは第3章に語られていました。主イエスが公に活動を始める前に、ユダヤの荒れ野で人々に悔い改めを求め、悔い改めのしるしである洗礼を授けていました。彼は3章11節で「わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と語り、自分の後に救い主が現れることを予告したのです。つまりヨハネは、来るべき方である救い主の到来を待ち、そのための備えをした人です。このヨハネを通して私たちは、「来るべき方」である主イエスを待つとはどういうことなのかを学ぶことができます。そういう意味で、本日の箇所はアドベントに読むのに相応しいところなのです。
 そのヨハネは今、牢の中にいます。その事情はこの後の14章に語られています。ヨハネは、領主ヘロデの罪を厳しく指摘したためにヘロデの怒りをかい、捕えられたのです。14章には、ヨハネがその獄中で首を切られて殺されたと語られています。つまり彼は今捕えられているこの牢獄からついに出ることはなかったのです。そういう、死に直面したヨハネが、獄中から、自分の弟子たちを主イエスのもとに送って一つの質問をさせたというのが本日のところです。

ヨハネの問い
 「ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた」と2節にあります。4章12節によれば、主イエスが活動を始めたのは、ヨハネが捕えられた後でした。ですから、ヨハネは主イエスの活動を直接見てはいません。弟子たちを通して主イエスの教えやみ業のことを聞いたのです。この2節に、「イエスのなさったことを」ではなくて「キリストのなさったことを」と書かれていることに注目しなければなりません。「キリスト」とは、神によって遣わされる来たるべき救い主のことです。つまりヨハネは、主イエスの教えやみ業のことを聞いた時、この方こそ自分が予告していた来るべき救い主キリストだと思ったのです。しかしここでヨハネは弟子たちを送って主イエスに、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と問わせています。それはどういうことなのでしょうか。「キリストのなさったことを聞いた」というのと、この問いは矛盾しているように思います。一体ヨハネは、主イエスが来るべき救い主キリストであることを信じていたのでしょうか。それとも疑っていたのでしょうか。

私たちの問い
 しかしそれはどちらでもよいことだと思います。何故なら、ヨハネのこの問いは、私たち一人一人の問いだからです。マタイは、この福音書を読んでいる私たちの思いを代弁して、この問いを記したのです。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。私たちは、主イエス・キリストを信じる信仰者になるに際して、必ずこの問いを抱くのです。私たちは、礼拝へと導かれ、聖書の説き明かしを聞くようになることを通して、主イエス・キリストの教えやみ業を知っていきます。それによって、主イエスが、愛と憐れみに満ちていると共にすばらしい力を持った方であり、その教えもまた深い慰めに満ちたものであることを知らされていきます。それによって私たちの中には、主イエスを愛する思い、主イエスに対する尊敬やあこがれがふくらんでいきます。しかしそれはまだ信仰ではありません。信仰に至るためには、主イエスを、すばらしい方として尊敬するところから、その主イエスこそが「来るべき方」であり「他の誰かをもう待つ必要はない」という確信への飛躍が必要です。それは主イエスを一人の偉人として見つめることから、神として信じることへの飛躍と言ってもいいでしょう。その飛躍によって私たちは、「他の誰かを待つ必要はない」という確信を与えられるのです。主イエスはすばらしい方だ、しかしひょっとしたら他にもっとすばらしい人が現れるかもしれない、そうしたらそちらに鞍替えする、今のところは、主イエスよりもすばらしい人を知らないから、とりあえず主イエスのもとにいる…、というのは信仰ではないのです。信仰とは、主イエスこそ、神が私たちの救い主として遣わして下さった方だと信じ、その主イエスに従っていくことです。信仰においては、他の救い主の可能性はあり得ないし、「とりあえず今は」ということもあり得ないのです。私たちは、主イエスが自分の救い主であり、他の救い主はあり得ない、と信じる。もっと正確に言えば、主イエス以外の救い主はいらない、と信じるのです。主イエスはすばらしい方だ、と思っているだけではそのような信仰に生きることはできません。そのような思いから信仰へと飛躍することにおいて、私たちは必ずこのヨハネの問いに行き当るのです。「主イエスは、本当に神が自分に与えて下さった救い主なのだろうか。他に救い主がいる可能性はないのだろうか」という問いです。この問いに対して「そうだ、この方こそただ一人の救い主だ。もう他の誰かを待つ必要はない」という確信が与えられた時、私たちは真実な信仰者となるのです。

ヨハネの動揺、迷い
 ヨハネの問いはそういう意味で私たち一人一人に共通する普遍的な問いです。私たちを代表して、ヨハネはこの問いを問うていると言うことができます。しかしヨハネがこの時どのような思いでこの問いを発したのかを想像してみることにもやはり意味があると思います。ヨハネは主イエスこそ来るべき救い主キリストであると信じたのです。しかしその彼がこの問いを問わずにはいられなかった、そこには彼の信仰の動揺、迷いがあったのです。それはどのような動揺、迷いだったのでしょうか。ヨハネは、先ほどの3章11節で、「わたしの後から来る方」が、「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言っていました。「聖霊と火とによる洗礼」とはどういうことでしょうか。次の12節にはこう語られています。「そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」。ここには、麦と殻、即ち価値あるものとないもの、役に立つものと立たないものとが区別されることが語られています。そして役に立たないもみ殻は「消えることのない火で焼き払われる」のです。この火は神の裁きの火です。「わたしの後から来る方」によってこのような裁きが行われる、とヨハネは語っていたのです。従って、「聖霊と火とによる洗礼」も、このような裁きを通して救いが実現することを意味していると考えることができるでしょう。ヨハネは、自分の後から来る救い主を、このような厳しい裁き主と捉えていたのです。それゆえに彼は人々に「悔い改め」を求めたのです。悔い改めて神に立ち返れ、さもないと迫っている神の裁きによって滅ぼされてしまう、それがヨハネの基本的メッセージでした。ところが、彼が獄中で伝え聞いた主イエスの教えやみ業は、彼がイメージし、語り伝えてきた裁きを通しての救い主とはいささか違っていました。主イエスは、ヨハネと同じように「悔い改めよ、天の国は近づいた」と言って伝道を始められましたが、その教えやみ業は、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求めたヨハネとはかなり違ったものでした。主イエスは、罪人を断罪するのではなく、「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」とおっしゃいました。そして実際この福音書を書いたとされるマタイは、罪人の代表格と言われていた徴税人だったのです。そして主イエスは、神が天の父としてあなたがたを愛し、養い、導いて下さることを告げ知らせ、その「福音」、喜ばしい知らせのしるしとして、病に苦しんでいる者、悪霊につかれている者などを癒されたのです。それはヨハネにとっては、自分が思い描いていた救い主のイメージとは違うことです。そこに、ヨハネの動揺、迷いの原因があったと言えるでしょう。それゆえに彼は、「私が宣べ伝えていた『来るべき方』は本当にあなたなのですか」と主イエスに問わずにはおれなかったのです。
 主イエスを来るべき救い主と信じる信仰に生きようとする中で、私たちもこのヨハネの動揺、迷いを体験します。私たちも、神の救いとはこういうものであるはずだ、救い主とはこういう方であるはずだ、という自分のイメージを様々に抱いています。しかし聖書が語る主イエスのお姿は、またその救いは、私たちが思い描いている救い主の姿や救いのイメージとはかなり違っています。そのように自分の思いと聖書の語る主イエスのお姿とが食い違っていることが明らかになった時に、このヨハネの「来るべき方はあなたでしょうか」という問いが私たちの内にも生まれるのです。しかもヨハネにとっては、この問いは非常に深刻です。彼は厳しい裁き主として来られる救い主を予告し、それゆえに人々の罪を厳しく指摘して、悔い改めを求めました。そのことを、領主ヘロデに対してもしたために、今牢に繋がれているのです。つまり彼が今捕えられているのは、来るべき救い主について、自らの信じるところを妥協せずに語ったことの結果なのです。人々を裁き、救われる者と滅びる者とをはっきりと分ける方が来られる、という確信をはっきりと語ったために、彼は牢獄に繋がれ、殺されようとしているのです。ところが、来るべき方であると信じていた主イエスが、自分が語っていたのとは違うことを語り行っておられるように見える。それはヨハネにとってゆゆしき問題です。自分が今まで信念を持って語ってきたことは一体何だったのか、自分が命がけでしてきたことは、全て無駄だったのだろうか、そういう思いがヨハネの心の内にうずまいているのです。

主イエスの答え
 そのようなヨハネに対して、主イエスが与えた答えが4節以下です。「イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている』」。この主イエスのお言葉は、「来るべき方はあなたでしょうか」というヨハネの問いへの直接の答えにはなっていません。主イエスはヨハネの弟子たちに、主イエスがどんなことをしておられるか、それによって何が起こっているか、それをありのままにヨハネに伝えなさいとおっしゃったのです。「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」。これが、主イエスによって行われているみ業です。これらのことを伝えれば、それが答えになると主イエスは言われたのです。これらのことは皆、主イエスの、苦しんでいる者、弱い者に対する深い憐れみのみ心によるみ業です。「貧しい人は福音を告げ知らされている」。その福音とは、主イエスによって神が、罪人をも招き、救いにあずからせて下さるということです。つまり、神の救いにあずかるのに、高い値を払う必要はない、自分の良い行いや立派さという財産を全く持っていない、そういう意味で貧しい者でしかない罪人も、それにあずかることができるという良い知らせです。この、罪人をも招いて救って下さる神の恵みと憐れみのみ業が、主イエスによって今行われているのです。それがヨハネへの答えです。つまり、救い主イエスは、ヨハネが考えているような「厳しい裁き主」ではなくて、愛と憐れみに満ちた方なのだということがはっきりと告げられているのです。しかもこの5節に並べられていることは、本日共に読まれたイザヤ書61章に語られていたことの実現です。このような憐れみ深い救い主が来て福音を告げ知らせることを、神は旧約聖書において既に予告しておられたのです。つまり、来るべき救い主である主イエスは、ヨハネが思い描いていたような、厳しい裁き主ではない、ということが、主イエスのみ業によって明らかになっているのです。そのことをヨハネに伝えよと主イエスは言われたのです。

 わたしにつまずかない人は幸いである
 そして最後に主イエスは、「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいました。ヨハネは今、主イエスにつまずく危機の中にいます。主イエスにつまずくとは、自分が抱いている救いについての思い、自分が語ってきたこと、それによって生きてきたこと、命をかけてきたこと、それにあくまでも固執して、主イエスご自身がなさっている救いのみ業を受け入れないということです。本当の救い主は、もっと厳しい裁きを行って、善と悪とをはっきりと区別する方のはずだ、そして正しい者は救い、悪い者は永遠の火で焼いて滅ぼす、という方であるはずだ、私はあなたではなく、そういう救い主が現れるのを待つ、ヨハネがそのように言うなら、彼は主イエスにつまずくことになるのです。
 主イエスはヨハネに、あれこれ説明をして、「こういうわけだから私こそ来るべき救い主なのだ」と説得しようとはしておられません。ご自分のみ業を示して、「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃっただけです。つまり、あなたがわたしにつまずくか、それとも私を救い主として受け入れるかは、あなた次第だ、ということです。つまずくかつまずかないか、それは先ほど申しました、主イエスを一人の偉人として尊敬することから、他の誰かを待つ必要はもうない、という信仰への飛躍をするかしないかということでもありますが、それは、私たち一人一人の決断にかかっているのです。
 ヨハネにとって、主イエスを「来るべき方」救い主として受け入れることは、自分がそれまで語ってきたこと、それによって生きてきた信念、そのために命をかけてきたことを手放す、ということでした。それは大変なことです。今捕えられ、殺されそうになっている、そのことが無意味になってしまうようなことです。それはある意味でヘロデに首を切られるよりももっとつらいことだと言えるかもしれません。しかし主イエスは、「わたしにつまずかない人は幸いである」とおっしゃいました。あなたの本当の幸いはここにあるのだと言っておられるのです。自分の考え、信念、それを拠り所にして生きてきたこと、それらの全てを手放しても、主イエス・キリストを受け入れることには幸いがある。それは、主イエスのもとでこそ、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」という救いが与えられるからです。神の恵みが、憐れみが、この主イエス・キリストのもとでこそ、貧しく弱く苦しんでいる私たちに、ただで、何の見返りも求められることなく与えられるからです。私たち人間の信念は、目の見えない人の目を見えるようにすることはできません。歩けない人を歩けるようにすることもできません。重い病を癒し、聞こえない耳を聞こえるようにすることもできません。まして、死者を復活させるような力はないのです。しかし主イエス・キリストは、私たちの閉ざされた目を開いて、本当に見つめるべき、神の恵みを見つめさせて下さる方です。もう一歩も前に進めないと思っている私たちに、力を与えて、新しい一歩を歩み出させて下さる方です。苦しみのどん底にいる者を慰め、本当に聞くべきこと、神の恵みのみ言葉を聞かせて下さる方です。そして、私たちを最終的に支配している死の力に神が勝利して、新しい命、永遠の命を与えて下さるという希望も、主イエス・キリストによって与えられるのです。

主イエスの第二の到来を待ち望みつつ生きる
 そしてもう一つ、ヨハネが語っていた、救われる者と滅びる者とをはっきりと分ける厳しい裁き、それもまた主イエスにおいて実現しています。主イエスによって、私たち人間の罪は明るみに出され、裁かれているのです。しかしその裁きにおいて罪人である私たちが受けなければならない滅びを、主イエスご自身が受けて下さったのです。それが主イエスの十字架の死です。主イエスはご自身が、消えることのない火で焼き払われるもみ殻となって下さったことによって、私たちを、倉に大切に保管される麦にして下さったのです。主イエスは、善と悪の区別をいいかげんにして、「まあ、いいじゃないか」と誰でも救って下さる、という救い主ではありません。罪はあくまでも罪として裁かれなければならないのです。しかしその裁きを、主イエスご自身が代って受けて下ったのです。ですからヨハネが宣べ伝えたことも、決して間違っていたのではないし、無駄にもなっていません。むしろそれらも、主イエスの十字架と復活においてこそ本当に実現するのです。そしてその救いが最終的に完成するのは、十字架にかかって死んで、復活なさり、天に昇られた主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、全ての者をお裁きになる、世の終わりの時です。その時、私たちも、復活と永遠の命にあずかるのです。この主イエスの再臨、つまり第二の到来を、私たちは待ち望んで生きるのです。その歩みには、ヨハネが味わったような試練があります。来るべき方は本当にあなたなのですか、という疑い、動揺に陥ることがあります。主イエスはその私たちに、「わたしにつまずかない人は幸いである」と語りかけておられます。その幸いを味わうために、聖餐が備えられているのです。聖餐にあずかってアドベントを歩み出すことによって、自分が思い描く救いのイメージを捨てて、主イエスが十字架の死と復活によって実現して下さった救いを受け入れ、主イエスの第二の到来によってその救いが完成することを待ち望みつつ生きる幸いを与えられていきたいのです。

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