主日礼拝

揺るがぬ人生

「揺るがぬ人生」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 民数記、第21章 4節-9節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書、第2章 23節-第3章21節

序 ユダヤ人の過越祭が近づく中、主イエスはエルサレムに上り、そこで神殿が商売の場にされていることにお怒りになりました。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」、主はそうおっしゃいました。この神殿で行われていた商売は皆、祭司や律法学者たちやファリサイ派の人々が許可していたものです。彼らはその収入から利益を上げることで人々を支配する仕組みを築きあげていたのです。その神殿を荒らされ、メチャメチャにされた律法学者たちは主イエスを目の敵としたに違いありません。しかも、主イエスの「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」、という言葉は、彼ら律法学者には神殿を真っ向から冒涜する言葉として聞こえたのです。自分たちの民衆を支配するあり方を否定し、加えて神を冒涜するようなことを公然と口にしている、そんな主イエスに彼らは激しい憎しみを抱いたことでしょう。
 けれどもその律法学者たちの中に、他の人たちとは少し違ったことを感じている人がありました。それがニコデモです。

1 このニコデモはファリサイ派に属する、ユダヤ人たちの議員であったと福音書は紹介しています。ファリサイ派の人々は律法を守ること、特に安息日や断食、施しを行うこと、宗教的な清めを強調した人々です。そのようなことを人々に教え、指導する立場にある人々です。神の戒めを守り、それに従って生きていることに誇りを持っていた人々です。その誇りゆえに、律法を守ることのできない人々を自分たちから区別し、分離し、見下げていた人たちです。ファリサイ派の「ファリサイ」という言葉は、この「分離する」という言葉から来ているといわれるゆえんです。しかもこのニコデモは当時、最高法院と呼ばれていた議会のメンバーであったことが伝えられています。人々の宗教生活の監督をし、民事事件や刑事事件を処理し、罰金やむち打ちの刑を行う権限を与えられていた場所です。ローマ帝国の支配の中に組み込まれていたとはいえ、かなりの権力を握っていた人々の一人であったことでしょう。財産があり、名誉があり、プライドも高かったに違いありません。何の不足もないはずの人です。それなのに彼の心は落ち着かなかったのです。周りの同僚は主イエスを憎み、いつかなんとかしてやろうと相談を繰り返しています。けれども彼はその相談の輪に加わることができず、考え悩んでいたのです。「あの男がしている行いは確かに神を冒涜しているようにも見える。けれどもこの数日間、あの男がエルサレムで行っているしるしはいったい何なのだ、あの男には何か特別な力があるようだ。実際のところ、あの男のしるしを見て、多くの人たちがあの男に従っていっているではないか。」このように思ったニコデモは、直接主イエスを訪ねることにしたのでした。もしかしたら何も不自由のない暮らしの中で、ニコデモは何か満たされない思いを抱いていたのかもしれません。安心できず、深いところで不安な思いがあったのかもしれません。主イエスが説いている「永遠の命」、「神の国」とは何であるのか、一度直接会って聞いてみたいと思うようになったのでしょう。
 ニコデモは主イエスに会いに行く時として「夜」を選びました。いったいどうしてでしょう。日中は多くの人々に囲まれて忙しくしているお方だから、ゆっくり過ごせる夜に行って膝と膝をつき合わせて語り合いたい、そう思ったのかもしれません。けれども理由はそれだけではないようです。なにせ彼の同僚は皆、主イエスを訴え、裁判にかけようと機会をうかがっている人たちです。その同僚である自分が、密かに主イエスと接触していたことがばれるなら、彼自身の立場がなくなり、自分の身にも危険が及ぶかもしれません。同僚から裏切り者と呼ばれ、主と一緒に逮捕されることになるやもしれません。そこで彼は人目を忍んで夜に出掛けていくしかなかったのです。
わたしたちの日常生活の中でも、キリスト者であることを知られないように気をつけているようなところはないでしょうか。日本のような国では、クリスチャンであるというと、何か特別な人、ちょっと変わった人であると見られます。私が学生時代の頃、加藤常昭先生が鎌倉雪ノ下教会を退任される際の集会に父親とともに呼ばれる機会がありました。その帰り、ある店に夕食を食べに立ち寄りました。そこでは若い男女がカウンターで食事をしていました。私たちが近くで食事を始め、父親が店の主人と会話していると、そのうちこの二人も気さくに加わってきていろいろ話に花が咲きました。そのうちそのお二人が父にどんな仕事をされているのですか、と尋ねてきました。父は初めすぐに答えませんでしたが、やがて教会の牧師で今日は久しぶりに若い頃働いていた教会で行われる集会のため山形から出てきたのだ、と話しました。すると、彼らはちょっと驚いた表情をした後、何か急に神妙になって口数が少なくなってしまったのです。それまで話していた彼らのサーフィンの話も、父の話していた山形の地酒の話も、その後あまり展開せずに終わってしまいました。私はその時、こういうのが周囲の一般的なクリスチャンの受けとめ方なのだな、と感じました。話がはずまないという程度ならまだよいかもしれません。家族から理解を得られずに独り寂しく、こっそり礼拝に通う人もあるのです。伝道献身者として神学校に進むことを家族に理解されず、聖書を部屋の窓から投げ捨てられることのある神学生もいるのです。私が先般訪ねた中国では、あの文化大革命の最中、教会は閉鎖され、キリスト者たちは公に礼拝を守れず、こっそりと人目を避けて、家庭礼拝を守っていたのです。主のもとに出かけるべきか悩んだ末に、夜こっそりと主を訪ねるニコデモの姿は私たちの姿でもあるのではないでしょうか。
彼は本当に主のもとに行くべきか相当悩んだと思います。自分のこと、人生のことを相談するのは大変勇気のいることです。そこで普段は隠している自分の弱いところ、恥ずかしいところをさらけ出すことになるからです。私自身も悩み多き青年時代を過ごした時、信頼できる人を訪ねて相談に行ったことがたくさんあります。けれども、実際に日時を決めて会う約束をするまででもなかなか大変なのです。声をかけて「相談があるのですが」と言おうと思ったら、他の人がその先生に話しかけたばかりに、機会を逃してしまったり、電話をかけて呼び出し音が鳴っている最中に「やっぱりだめだ、今は相談できない」と思って、途中で電話を切ってしまったりで、なかなか大変なのです。ニコデモがこの晩、主のもとにやってきただけでも大変なことであったろうと思います。

2 そのニコデモに主はおっしゃいました、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。「新たに生まれる」、それはどういうことでしょうか。ニコデモはどうして人は母親の胎内に戻ってもう一回生まれ直すことができましょうか、というトンチンカンな問い返しをしています。彼はこの数日間、主がなされたさまざまな「しるし」を見て、イエスというお方の中になにものかを感じ、そのもとにやってきたのです。しかし主はここで、「しるし」を見て信じたのではいけない、とおっしゃいます。しるしは主イエスがどなたであるのかを指し示す矢印です。そのしるしに導かれて、私たちは主イエスがこの私たちにとってどなたなのかを見つめなければなりません。主はおっしゃいました、「だれでも水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」(5節)。これはまぎれもなく洗礼を意味しています。水によって罪を洗い清められ、神の霊によって新たに造りかえられる出来事、それが洗礼の出来事にほかなりません。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)。この夜も、きっと静かに、心地よい風が吹いていたのだと思います。主イエスとニコデモは夜の風を肌に感じ取ることのできる家の軒先かベランダのようなところで夜空を見ながら話していたのかもしれません。この「風」という言葉には、「息」とか「霊」という意味も持っています。また「音」という言葉には「声」という意味もあります。それゆえに8節の言葉はこうも訳せるのです、「霊は自由に動く。あなた方はその声を聴くが、それがどこから来て、どこへ行くかは知らない。霊から生まれる者も皆それと同じである」。神の霊は私たちの下に吹き来たって、私たちに神の声を聴かせてくださるのです。その時、弱さや欠けを帯びた「肉」の目が見ることのできない主イエスの真実のお姿に目が開かれ、神の国を仰ぎ見る幸いが与えられるのです。それは私たち人間が支配したり、コントロールしたりできない、神様の自由の霊です。神様が御心に従って、私たちを選び召し出してくださり、御霊と御言葉によって私たちにご自身を現してくださるのです。
 これは伝道師の特権なのかもしれませんが、私は藤掛先生とお食事をご一緒する機会が多くあります。夕食を取りながら、その日の説教について助言をいただくこともあります。かつて私が、教会に初めて来られた方にも本当に伝わる言葉で語るのが難しいともらしたことがありました。その時先生は、「いやー、一人の人が説教を通して信仰を与えられるのは奇蹟以外の何物でもありませんよ」とおっしゃいました。それはまさしく、人が神の霊によって新しく生まれるということは、人が予定したり計画したりすることではなく、神の自由な霊の働きによることなのだ、ということを意味していたのだと、今思うのです。先の主日にも、お二人の方が洗礼を授かり、私たちの教会の肢に加えられました。そこに導かれる道筋の中では、藤掛先生の本当に伝わる言葉による説教、教会員とのよき交わり、またお二人の中に生まれた救いを求める思いと願い、時代や環境の変化など、さまざまな要素があったことと思います。けれども、それらすべてを用いて働かれたのは神の霊であり、神ご自身なのです。神の霊が導いて、説教が分かるようにしてくださり、神の霊が導いて、よき交わりが与えられ、神の霊が導いてよき願いをその心に芽生えさせ、神の霊が働きかけてあらゆる時代と環境の中で、今この時という最もふさわしい時と場を備えてくださったのです。すべては神の自由なる恵みが結んだ実りなのです。こうして自らの手の働きを誇ることのできる人は誰もいなくなります。ただ神様だけがほめたたえられ、讃美されるのです。「誇る者は主を誇れ」という御言葉が具体的に教会の中に形づくられていくのです。

3 「どうしてそんなことがありえましょうか」(9節)と問い返すニコデモに、主は天からのまなざしに目を向けるように促します、「天から降ってきた者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。そしてモーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない」(13-14節)。かつてイスラエルの民は荒れ野の中で神に対してつぶやき、モーセを非難する罪を犯したため、炎の蛇にかまれ、多くの死者を出しました。モーセは主のお命じになったように青銅で炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げました。蛇にかまれても、この青銅の蛇を仰いだ人は命を得たと言われています。イスラエルの人々にとってあの青銅の蛇は、それを見上げることによって裁きの死を免れ、新しく命を得ることができたという恵みのしるしなのです。主のエルサレム滞在中のさまざまなしるし、またあの青銅の蛇のしるしが指し示しているのは、主イエスの十字架と復活、また主が高く上げられることなのです。あの蛇にかまれた者が青銅の蛇を仰いで命を救われたように、信ずる者が皆天に上った人の子を仰いで、主イエスと結ばれて永遠の命を得ることが、神様の望んでおられることなのです。
 前の口語訳の聖書では、主イエスのお言葉は15節で終わっており、16節からは福音書の著者の言葉が続いておりました。けれども新共同訳では、この16節以下21節までも含めて、すべて主イエスのお言葉としてとらえ、同じ鍵括弧の中に入れて訳し出しています。つまりあの有名な16節の御言葉も、福音書の著者の解説ではなく、主ご自身のお言葉だとしているのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。この言葉を御子イエス・キリストご自身の重みを持ったお言葉として、私たちは聴くことができます。主イエスが父なる神の御心を代弁してくださっているのです。この私の十字架と復活、そして天へ上げられることを通してのみ、あなたがたは裁きを免れ、闇から光の中に移されるというのです。
 イラクで捕らわれの身にあった方々が無事解放されました。本当によかったと思います。彼らの行動のあり方が今のイラクの状態において本当に責任的であったかどうかという議論は別として、本人たちはもちろん、ご家族や政府もこの間、本当に闇と光を体験したことだろうと思います。神様がこの世に対してなさろうとしたことも、罪によって捕らわれの身にある私たちを解放することだったのです。しかもそのために「その独り子をお与えになる」ことをさえよしとするくらいの、とてつもない犠牲が払われたのです。外務大臣は今回の事件で救出された方々について、「実にたくさんの労苦のおかげで今の自分があるということを大事にしていただきたい」と語っていました。もし救出された方々が、今回の事件を通してどれだけ周囲の人々が犠牲を払い、労苦を重ねたかを深く理解したなら、彼らのこれからの人生観や生き方が変わってくることでしょう。私たちも同じではないでしょうか。自分が闇の力に捕らえられていた中から救われるために、神様がどれだけの犠牲を払われたのか、私たちはそのことを深く思い、味わい見るべきではないでしょうか。あの御子の犠牲ゆえに今の私たちがあるのです。

結 しかもこの犠牲は私たちキリスト者だけに差し出されているのでなく、この「世」とそこにあるすべての人のために与えられているものだと、主はおっしゃいました。「御子によって世が救われること」が神様の願いなのです。けれども、解放されたことを知らずに闇の力の下に留まり続ける人々もいるのです。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている」(19節)、「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ない」(20節)と言われています。ここで「裁き」と訳されている言葉はまた、「分割する」、「分ける」という意味を持っています。キリストによってもたらされた救いに対して、どのような態度をを取るのか、それによって私たちが光の中を歩み始めるか、それとも闇の中に留まって自ら滅びへの道を歩むのかが、はっきり決まるだろうというのです。せっかく神様からイエス・キリストというラブ・レターが届いても、受け取りを拒否したり、破いて捨てたりするなら、それは神様のこの世に対する片思いに終わってしまうのです。「愛は片道切符では失恋に終わる」のです。この暗闇の世界で、ラブ・レターの受け取りを拒否している人もたくさんいる中で、私たちがイエス・キリストという光に中に招き入れられていることの恵みはなんと大きなものでしょうか。
あのニコデモはこの夜の対話に導かれ、次第に主に従う者へと変えられていきました。主の十字架刑に反対し、最後はアリマタヤのヨセフと共に、主のご遺体を葬りに現れています。もはや闇夜に隠れることなく、ローマの総督の前に主のご遺体の引取りを申し出たのです。私たちもあのニコデモのように、この主の日にさんさんと降り注ぐ上からの光を受けて、光の子として歩み始めるのです。そして闇夜の中で、港町横浜へと船を導く灯台の光のように、まだ闇の中に留まる人々にこう告げ知らせるのです。「闇の夜は既に明け始めているのです、光の下に集まりましょう」と!

祈り 父なる神様、ニコデモのように世のしがらみにとらわれ、あなたのことをなかなか理解できない心の頑なな私たちですが、あなたはそのような私たちと喜んで語り合ってくださり、新しい命へと招き入れてくださいます。どうか主イエス・キリストという光の中に招き入れられている恵みの大きさを思わせてください。あなたの自由な恵みによって選ばれ、招き入れられた幸いを思わせてください。
 世界は深く傷つき、暗闇が世を覆っています。主よ、どうか主に結ばれた光の子として、新しく生まれた者として、歩ませてください。洗礼を受けてあなたのものとされた恵みの確かさ、恵みのはかりしれなさに感謝し、世にあって星のように輝く証しの人生を辿ることができますように。
 御子イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

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