主日礼拝

一粒の麦

「一粒の麦」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第91編1-16節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第12章20-26節
・ 讃美歌; 7、407、510

 
過越祭に来たギリシア人たち
本日お読みした箇所にはギリシア人が登場します。「さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた」。この時、過越祭のために多くの人々がエルサレムに上京して来ていたのです。過越祭というのは、かつて神が、イスラエルの民をエジプトの支配から導き出して下さったことを覚える、ユダヤ人の祭の中で最も大きなものの一つです。主イエスと弟子たちも又、エルサレムに上って来ていました。丁度、前回お読みした箇所には、主イエスのエルサレムに入城が記されていました。主イエスは、この祭の中で、十字架につけられることになるのです。
このエルサレムに上る群衆の中にギリシア人もいたのです。当時、ユダヤ人ではない異邦人の中にもユダヤ教に関心をもつ人や、改宗する人がいました。おそらく、この人々も、ギリシア人でありながら、ユダヤ教に対する信仰をもっていた人であったのでしょう。中途半端な気持ちで、お祭り見物に来ていたのではありません。この人々が、エルサレムに上って来た目的は「礼拝するため」でした。しかし、ユダヤ教というのは民族宗教ですから、彼らは幼い頃から、この信仰を持っていたのではありません。ギリシア人である彼らは、自分たちが生まれ育った文化の中に伝わる信仰によって育まれて来たのです。しかし彼らは、そこに留まるのではなく、自分から積極的にユダヤ教に近づいて行ったのです。その過程では、当然、自分たちが生まれ育った文化との緊張を経験することもあったでしょう。しかし、彼らは、先祖伝来の信仰をそのまま受け入れ、そこで行われていることを習慣として受け継ぐのではなく、本当に自分たちを生かす真の神との出会いを求めたのです。彼らは、真剣に神を求める信仰に基づく熱心な思いから、はるばるエルサレムへとやって来たのです。
しかし、ここでギリシア人たちは、ただユダヤ教の祭儀に従って捧げられる礼拝を守りたかっただけではありませんでした。彼らは、主イエスに会いたいという明確な願いをもっていたのです。既に、主イエスのことを聞いていたのでしょう。主イエスがお語りになった御言葉や、力強い御業について聞いていたのです。そして、主イエスにお目にかかることによって、何かに触れられるのではないか、この方に、お目にかかることで、自分自身の歩みが変えられるのではないかと思ったかもしれません。もしかしたら、この方こそ、神の下から来られた救い主なので、自分たちに真の命を与える方ではないかと思っていたのかもしれません。彼らの神への熱心な信仰は主イエスを求める思いにつながって行ったのです。

フィリポとアンデレ
しかし、ギリシア人たちは、直接主イエスのもとに行ったのではありません。弟子であるフィリポのもとに来るのです。そして、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだのです。果たしてユダヤ人ではない自分たちのような者が直接主イエスに声をかけて良いのだろうかという思いだったのかもしれません。彼らは、「お願いです」と懇願するのです。この依頼の言葉の原文を見ますと、このギリシア人は、フィリポに対して「主よ」と呼びかけていることが分かります。主イエスの弟子であるフィリポの前で自らを低くし、謙って願い出るのです。謙る相手を間違っているとも言えますが、ここには、主イエスに会うことを切望する真剣さがあります。とにかく自分たちを低くして、真の主人との出会いを求めるのです。
それにしても、何故、ここでフィリポが登場するのでしょうか。フィリポだけではありません。更に、この後、フィリポは、このことを他の弟子であるアンデレに話します。そして、フィリポとアンデレは、共に主イエスのもとに行くのです。ここに登場するフィリポとアンデレは、ヨハネによる福音書において、最初に主イエスの弟子になった人々です。その時のことを、この福音書は第1章の35節以下で記しています。フィリポは、主イエスに「わたしに従いなさい」と言われた時、すぐに従うのではなく、ナタナエルという別の人を主イエスの下に導きました。又、アンデレも、主イエスに従った後、自分の兄弟であるペトロを主イエスの下に導いたのです。フィリポとアンデレは、主イエスの下に人を導く伝道熱心な弟子たちとして登場するのです。まだ、主イエスを知らない人々を主イエスの下に連れて行く、主イエスと求道者との接点のような役割を担っていたのでしょう。さらに、このフィリポというのは、ギリシア的な名前でありました。ですから、このギリシア人たちもフィリポになら声をかけやすかったのでしょう。
 ここに登場するギリシア人たちの姿には、私たちが、信仰を与えられる時のことが示されていると言って良いでしょう。私たちの多くは、洗礼を受け、キリストに従う者として、教会の枝とされています。しかし、そこに至るまでには、ここでのギリシア人たちと同じように、それまでの自分たちが与えられていた場所、風習、あるいは信仰などをもちつつ、それでも尚、主イエスを求め、是非お目にかかりたいという求道の思いを与えられたのではないでしょうか。そのような中で、聖書が指し示すキリストとの出会いを経験したのではないかと思います。そして、ギリシア人たちが、既に主イエスの弟子とされたフィリポとアンデレの姿を通して、主イエスの下に近づいて行ったように、既にキリスト者とされている人の導きととりなしの中で、キリスト者とされたという方もおられるのではないかと思います。そのような意味で、私たちは誰しも、ここで語られているギリシア人の立場を経験していると言って良いのです。

主イエスを見る
 ここで、このギリシア人たちが、「お目にかかりたい」と願ったことに注目したいと思います。この言葉は、原文で、実際に見るというニュアンスがある言葉なのです。つまり、「主イエスにお会いしたい」とか、「直接会って話したい」というのではなく、「主イエスを見たい」と願ったのです。いささか積極性に欠けるようにも思えます。しかし、ヨハネによる福音書において「見る」ということには特別な意味があることを確認しておきたいと思います。これは、ただ視覚的に見るということではありません。真の救い主との出会いを表す時に用いられるのです。
ヨハネによる福音書はその最初に、主イエスが世に誕生されたことの意味を語っています。そこでは、次のようにあります。「言葉は肉となってわたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」。言というのは神の一人子のことです。主イエスが世に来られたクリスマスの出来事に対して、神の「栄光を見た」と告白されているのです。又、洗礼者ヨハネは主イエスが自分の方に来られるのを見た時、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。」と言ったことが記されています。
この福音書において、主イエスを「見る」とは、単に、主イエスと会うというだけのことを意味するのではありません。主イエスを神の下から来た、救い主、キリストとして認めることなのです。地上を歩むイエスという男と会った人すべてが、主イエスを神の下から来たキリストだと受け入れたわけではありません。そのような人々は、主イエスと会っていても、「主を見た」とは言えないのです。又、主イエスと、交流を持つことがなくても、この方こそ、救い主だと受け入れて従う人もいます。そのような人は、確かに、主イエスを見ているのです。
 このようなことは、主イエスの生きていた2000年前の人々だけに該当することではありません。現代においても、地上を歩まれる主イエスの歴史的な姿を知るために、熱心に研究する人々がいます。主イエスとの出会いを求めていると言っても良いでしょう。イエスという男はどのような人だったのだろうかという、所謂史的イエス像を熱心に追い求めるのです。しかし、そのようなイエス像を探求する人々が、すべて、主イエスを神の下から来た、神の一人子であり、自らの救い主、キリストであると受け入れているのではありません。又、一方で、イエス像についての文献的な知識を追い求めていなくても、主イエスこそ自らの救い主であると受け入れている人がいるのです。
私たちの周りでは、歴史を歩んだイエス像に関する様々な研究が発表されたり、イエスに関する文書が発見されたりします。昨年は『ダヴィンチ・コード』という小説で取り上げられたユダ福音書が話題となりました。聖書が伝える信仰を覆すような、ギリシア思想の影響のもとに生み出された偽典と呼ばれる福音書です。しかし、そのような学問や研究をきわめていくことによって、イエス像を探求して行くことが、ヨハネによる福音書が語る意味で、主イエスを見ることにつながるかと言えば、そうではないこともあるのです。イエスを見るとは、主イエスによって、神の栄光が現され、それによって、生かされていることを確信することなのです。そして、それこそ、私たちが、救い主である主イエス、主イエス・キリストとの出会いなのです。

栄光を受ける時
 ギリシア人たちのことを話したフィリポとアンデレに対する主イエスの返答が、23節以下に記されています。ここでの返答は、意表をつくものであると言って良いでしょう。アンデレとフィリポは、主イエスに何と言ったのかを聖書は記していません。おそらく、「先生、あなたに会いたいと言っているギリシア人たちがいます。会っていただけないでしょうか」というようなことを言ったのでしょう。しかし、ここでの、主イエスの答えは、あまりに唐突です。答えになっていないとさえ思うのです。もしかすると、主イエスは、この願いに耳を貸さずに、願いとは関係ない全く別の自分の語りたいことを語り始めているのではないかとさえ思わされます。
主イエスは先ず、「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」とお語りになります。「人の子が栄光を受ける時が来た」とはどういうことでしょうか。ヨハネによる福音書において、主イエスは、これまで、わたしの時、栄光を受ける時はまだ来ていないと語り続けて来ました。しかし、ここで、初めて、ご自身が十字架につけられるのを前に、その時が来たとお語りになるのです。ヨハネによる福音書は、主イエスの十字架におつきになる時を、栄光の時としています。それは、主イエスが十字架で死に、そして、復活することによって、真の救いの御業が成就するからです。十字架という苦しみの極みとしか言いようのない出来事が、主イエスにとっては栄光の時と言われる。それは、そこでこそ、人間の罪が贖われ、神の救いの御業が成し遂げられるからです。

一粒の麦
 更に主イエスは、その十字架の意味を「一粒の麦」のたとえによってお語りになられます。麦の種は、蒔かれると、その種自体の形はなくなり死ぬことになるけれども、それによって多くの実を結びます。同じように主イエスご自身も、十字架で死ぬことによって多くの実を結ぶのだと仰るのです。この麦のたとえによって、主イエスは、ご自身が栄光を受ける十字架によって何が起こるかをはっきりとお示しになっているのです。
 では、ここで語られる多くの実りとは何でしょうか。それは、この主イエスの十字架の死の犠牲によって、罪赦された者たちが、真の命を与えられて、キリストにある新しい命を生き始めるということです。私たちが、主イエスを救い主として受け入れ、洗礼を受け、教会の枝とされて、共に新しい命に与って歩んでいる、そのことが、この一粒の麦の死によって与えられる豊かな実りなのです。つまり、主イエスの死によって与えられる新しい命に生かされる人々の群れが生まれることこそ、ここで言われる多くの実りなのです。私たちは、私たちが今、主によって新しい命に生かされ、主にある交わりの中で歩んでいるのは、一粒の麦として死なれた主イエスによってもたらされた実りであることを繰り返し思い起こさなくてはならないでしょう。

自分の命を憎む
このキリストの死による豊かな実りとして私たちが生かされるとは、どういうことかが続く25節に記されています。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」。ここで、自分の命を愛するならば、命を失うこと、そして、むしろ、自分の命を憎むべきことが語られています。自分の命を憎むというのは激しい言葉です。しかし、これは、何も自殺を勧めているのではありません。ここで、自分の命を愛すると言うのは、自分を人生の主として生きることです。そのような時、主イエスに従うことによって与えられる真の命に与って生きることを拒んでいるのです。主イエスが死んだことによって与えられる実りに生かされる恵を無視して生きてしまうのです。そのような自己愛に生きるよりもむしろ、自分の命を憎まなくてはならない。つまり、自分を人生の主人として自分で自分を生かす自分中心の歩みを心から悔い改めて、キリストの内にある真の救いに生かされることをこそ求めていかなくてはならないのです。そのようにして、主イエスを見つめつつ、主イエスに従って歩むのです。26節では次のように言われています。「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる」。
主イエスに従い、主イエスの十字架の死によって実る多くの実りに与って、歩むのであれば、主イエス・キリストがいつも共にいて下さるというのです。地上を歩む主イエスと実際に出会ったかどうか、歴史的資料から詳しいイエス像を思い描いているかどうかということは全く問題ではありません。主イエスを救い主として受け入れ、この方を自らの主とするのであれば、私たちが、いつの時代を生きようとも、又、この地上のどこにいようとも、私たちは主イエスのいるところにいるのです。たとえば、主イエスとお目にかかれなくても、体をこわして、教会に通うことが出来なくなってしまったとしても、主イエスを自らの救い主として仰ぎ、従うのであれば、そして、自分勝手に振る舞い、自己愛に生き続ける自らの命を憎みつつ、キリストの十字架の前で悔い改めるのであれば、その人は主イエスの傍にいるのです。今、この世にあって、主イエスのいるところに共にいるのです。そして、その人のことを、父なる神は大切にして下さるというのです。

ギリシア人への答えとして
 主イエスは、このことを、「お目にかかりたい」と願い出た、ギリシア人の願いに対する答えとしてお語りになりました。それは、主イエスの一粒の麦としての死、十字架が、ユダヤ人たちのためだけのものではなく、異邦人をも含めた、すべての人に開かれている救いであることを示しています。十字架の死は、この時、主イエスに会いに来たギリシア人たち、そして現代を生きる私たちに及ぶまで、この地で、主イエスに従うすべての人のために行われたのです。そして、主イエスの十字架の死は、それによって生かされる人々の群れ、この地に立てられた教会として、世界中に実りを実らせているのです。
主イエスはこのことをお語りになった後、ギリシア人たちにお会いになったのでしょうか。ギリシア人たちは、主イエスと面会することが出来たのでしょうか。そのことを、この福音書ははっきりと記しません。もしかしたら会ったのかもしれないし、会うことが出来ずに、弟子たちによって、主イエスがお語りになった言葉を伝えられただけかもしれません。しかし、そのどちらであるかは、重要なことではありません。なぜなら、繰り返し申し上げているように、地上を歩まれた主イエスと出会っているか否かは、大きな問題ではないからです。主イエスとの出会いとは、地上で主イエスのお姿と接するかどうかではなく、栄光をお受けになった主イエスを受け入れるかどうかだからです。この人たちが主イエスと面会することが出来ても、ただ自分勝手な思いで、主イエスと面会し、主イエスの下を去って行ったのでは何の意味もありません。主イエスの十字架によって示されている救いを受け入れて、そこに生かされるのでなければ、全く意味がないのです。主イエスがすべての人の罪のために十字架で死に、復活されたことによって救いを成し遂げて下さった。その救いが自分にも及んでいるということを示されるということこそ、主イエスを見るということなのです。
主イエスは、フィリポとアンデレに対する返答によって、はっきりとギリシア人たちにお答えになっているのです。「あなた達が、本当に私を見るというのは、この後、私が十字架につき、一粒の麦として死ぬことを受け入れることである。そして、そのことによって実る実りとして、自分が生かされていることを受け入れて、私に従いつつ、新しい命に生き始めることなのだ」と。
ギリシア人が地上を歩まれた主イエスと会ったか会っていないかを想像するのは、意味のないことです。しかし、次のように想像することが出来るのではないでしょうか。この人々は、確かに、主イエスが、このすぐ後に捉えられ、十字架に付けられたことを目の当たりにした。そして、弟子たちがその復活の主を見たと言って伝道を始めた時、それを受け入れ、共に主イエスを証しして行ったであろうということです。この人々は、そのようにして、確かに主イエスを見、主イエスに従って行ったのではないでしょうか。

終わりに
 今、私たちが、キリストにあって生かされている。それは、私たちも、キリストを見たということです。私たちは、誰も、地上を歩んだ主イエスと直接会うのではありません。しかし、地上での主イエスと顔を合わせて会うよりもはっきりと、主イエスを見ています。
私たちは時折、自分勝手に主イエスを求めます。自分の願いを聞いてくれる救い主と会いたい。自分が今直面している困難から救い出してくれる方にお会いしたい。そのように自分の期待に応える形で主イエスが出会って下さることを求めます。しかし、そのような願いの通りに、主は出会って下さらないのです。主イエスの反応は、冷たく、そっけない、私たちが思い描くようなものではないかもしれません。しかし、はっきりと、十字架の主は語りかけて下さっているのです。「一粒の麦として、わたしは、あなた達のために死んだ。あなた達はその実りとして生かされているのだ」。「この実りの中で、私に従うなら、わたしは常に、どのような時にもあなた達と共にいるのだ」と。私たちはただ、そのことを受け入れつつ、この方に従って行きたいと思います。そして、この一粒の麦の死が、すべての人のための神の救いの業であることを知らされつつ、フィリポやアンデレと共に、ここで語られた主イエスの御言葉を語り伝える者として歩んでいきたいと思います。それは、キリストによって与えられる新しい命に生かされながら、自分勝手に歩もうとする自己中心的な歩みを憎みつつ、自分の思いではなく、御心がなることを求めて行く歩みです。そのようにして主イエスに倣い、従うことによって、私たち自身も一粒の麦となって、十字架に死なれたキリストを指し示す者とされるのです。そこには、必ず、キリストによって新しい命に生かされる者の豊かな実りが更に豊かに実って行くことになるのです。

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