「人を裁くな」 牧師 藤掛順一
イザヤ書 第53章1~12節
マタイによる福音書 第7章1~6節
人を裁いている私たち
「人を裁くな」。新しい年、主の2024年を迎えて最初の礼拝ににおいて、このみ言葉が私たちに与えられました。過ぎ去った一年の歩みを振り返る時、私たちは、人を裁くことがなんと多かったか、と思わずにはおれないのではないでしょうか。「裁く」という言葉は、「見分ける、判断する」という意味です。「裁く」と言うと「あの人はだめだ」というマイナスの判断をすることのみを考えがちですが、人のことを評価し、判断することの全体をこの言葉は含んでいます。私たちは日々、良きにつけ悪しきにつけ、人のことを評価し、判断しています。でも、よりしばしば行っているのは、人の悪いところを批判することではないでしょうか。それは簡単なことだし、気持ちのよいことです。自分の方があの人より上だ、と思って慰めを得ることができるからです。それは歪んだ、不健康な慰めですが、そういう慰めを求めているのが私たちの現実ではないでしょうか。旧約聖書の箴言第18章8節に「陰口は食べ物のように呑み込まれ、腹の隅々に下って行く」とあります。ここは以前の口語訳聖書では「人のよしあしをいう者の言葉は、おいしい食物のようで、腹の奥にしみこむ」となっていました。私たちは、「人のよしあしを言う言葉」が大好きなのです。それは私たちにとっておいしい食物なのです。しかし新共同訳の訳文にもはっとさせられます。「人のよしあしを言う言葉」が「陰口」と訳されているのです。私たちは、人を裁く言葉を、相手の前で面と向かって言うのではなくて、陰で、他の人に語ることが多いのではないでしょうか。私たちは、陰口やうわさ話が大好きです。そこにおいていつも人を裁いて、喜んでいるのです。
分かりやすい教えではない
そのような私たちに主イエスは、「人を裁くな」とおっしゃいます。それは人のことをあれこれと判断することを一切やめなさい、ということでしょうか。しかし、無人島で一人で生きているのならともかく、社会の中で、人と共に生活している限り、何らかの意味で人を判断したり評価することなしに生きることはできません。親が子どもに対して、良いことを褒め、悪いことを叱るというのも一つの判断です。陰口はいただけないですが、人と共に生きる中で、「あなたのしているこのことはよい、あるいはいけない」とはっきり言わなければならないことがあります。さらには社会の秩序を維持するために裁判所があり、裁きが行われています。入学試験や入社試験、資格試験なども人を評価し、判断することです。それらのことを全てやめてしまったら、この社会は成り立ちません。「悪口や陰口を言うな」なら分かりやすいですが、「人を裁くな」というのはそう分かりやすい教えではないのです。
なぜ人を裁いてはならないのか
そこで先ず、なぜ人を裁いてはならないのかを考えたいと思います。3~5節にこうあります。「あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」。ここでは、人を裁くことが、「兄弟の目にあるおが屑を見つめ、取り除くこと」と喩えられています。「おが屑」は口語訳では「ちり」でした。人の目の中にある小さなちりを見つけ、指摘し、取ってあげようとする、それが人を裁くことだというのです。ところがここには、「自分の目には丸太があるではないか」と言われています。「丸太」は口語訳では「梁」でした。家の屋根を支える太い、立派な材木です。そういうものが自分の目の中にはあることに気づかないのか、と言われているのです。これが、人を裁いてはならないという教えの理由です。自分の目の中に大きな丸太、梁がある者が、人の目のちりを指摘したり、取ってやることなどできるはずはないのです。
あなたに人を裁く資格があるか
そうするとこれは、あなたには自分のことを棚に上げて人を裁く資格があるのか、ということでしょうか。主イエスがそのようにお語りになったことは、ヨハネ福音書の第8章で、姦淫の場で捕えられた女を石で打とうとした人々に対して主イエスが「あなたがたの中で罪のない人が先ずこの女に石を投げなさい」とおっしゃったことに示されています。人の罪を裁いて石を投げる資格があなたにはあるのか、あなたも同じ罪人ではないのか、と主は問われたのです。私たちも、冷静に自分を振り返って見るならば、自分のことを棚に上げて人を裁くことができるような者ではないことに思い当ります。日本の諺にも「人のふり見て我がふり直せ」というのがあります。人の問題や欠点を見たら、その人を裁くよりも、自分にも同じことがないか顧みて自分を正せ、ということです。「人を裁くな」という主イエスの教えはそれと同じ意味なのでしょうか。
「あなたに人を裁く資格があるか」と問われれば、私たちは「ない」と言わざるを得ません。しかしそれは、先ほどの、人のことをある意味で裁き、判断することなしにはこの社会は成り立たない、ということの解決にはなりません。勿論自分にもいろいろと問題や欠けはあるが、与えられた立場や責任において、人のことを評価し、判断しなければならない、ということはあるのです。例えば裁判官が「自分は完璧な人間でないから人を裁く資格はない」と言って判断停止してしまったら、それはかえって無責任というものです。人と人とが共に生きていく中では、人のふり見て我がふりを直しているだけでは済まないことがあるのです。このように考えていくと、おが屑と丸太の話も「人を裁くな」という教えの根拠としては弱いように思うのです。
あなたがたも裁かれないようにするため
さて、これまで意図的にふれないできたみ言葉があります。1節で主イエスは、「人を裁くな」に続いて「あなたがたも裁かれないようにするためである」とおっしゃいました。「人を裁くな」という教えによって主イエスは、「あなたがた自身が裁かれる」ことを見つめさせようとしておられるのです。そのことが2節に、「あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」と言い表わされています。誰に裁かれるのでしょうか。人にでしょうか。自分が人を裁き、判断するように、人も自分のことを裁き、判断するのだから、人のことを厳しく裁いていると、人も自分のことを厳しく裁く、人に対して寛大な心を持てば、人も自分を寛大に扱ってくれる、ということでしょうか。そうではありません。ここで見つめられているのは、人との間で裁いたり裁かれたりすることではなくて、神によって自分が裁かれる、ということです。主イエスは、神の裁きを見つめつつ語っておられるのです。そのことを踏まえることによってこそ、この教えの本当の意味が分かってきます。神による裁きを抜きにして、人と人との間で裁いたり裁かれたりすることばかりを見つめ、人を裁く資格があるかないか、などと考えていると、この教えの意味が分からなくなるのです。
神が私たちをお裁きになる
神が私たちをお裁きになる、そのことこそ、「人を裁くな」という教えの根本的な理由です。それはどういうことでしょうか。「自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」とあります。自分が人を裁くその裁きで神も自分をお裁きになる、だから、人のことを厳しく裁いていると神も自分を厳しくお裁きになる、神に優しくしてもらいたければ自分も人に優しくするべきだ、ということでしょうか。そうなると、これはもう神との間での取り引きです。しかし主イエスは、神と上手に取り引きをすることを教えておられるのではありません。主イエスが私たちに見つめさせようとしておられるのは、神が私たちをお裁きになる、という事実です。私たちが人を裁こうとする時に、特に人の欠点や問題を指摘しようとする時に、それと同じ思いで神があなたをお裁きになったらどうなるかを考えよ、と言っておられるのです。人を裁く私たちの目はまことに厳しいものです。人の小さな過ちや欠点すらも見落とさず、それこそおが屑やちりまで数え上げるようなことをするのです。しかしもしも神がそれと同じ目で私たちのことをご覧になったらどうなるでしょうか。主イエスは、その神の目、神の裁きを私たちに意識させようとしておられるのです。そしてそれによって、「自分の目の中の丸太」に気づかせようとしておられるのです。
自分の目には丸太がある
人を裁いている自分の目の中に丸太がある。このことは、神の裁きを見つめることなしに、人と人との関係だけを見つめている間は分かりません。そこで私たちが感じるのはせいぜい、自分の中にも同じような問題や欠けがあり、だからあんまり人のことは言えないな、ということです。しかし主イエスは、兄弟の目にはおが屑があり、あなたの目には丸太がある、と言っておられます。それは、あなたにも同じような問題があるではないか、ということではありません。おが屑と丸太とではスケールが違うのです。私たちが、人と自分とを見比べることによって分かるのは、せいぜい、自分の目にもおが屑がある、ということです。おが屑の量が少し多かったり少なかったりするのが、人と自分との関係です。しかし主イエスは、あなたの目には丸太があると言われる。それはもはや人と比べてのことではありません。人の罪や過ちと比べて、あなたの罪や過ちは何十倍何百倍も大きい、ということではないのです。そういう人との比較ではなくて、神があなたをお裁きになる時、あなたの目には丸太があることが明らかになるのだと主イエスは言っておられるのです。つまり、おが屑と丸太は、罪や過ちの大きさや量を比較しているのではないのです。比べられているのは、人間の裁きと神の裁きです。人間が人間を裁く時には、お互いに相手の目にあるおが屑を見ているのです。しかし神の前に立ち、神がお裁きになる時、私たちは、自分の目に丸太があることを示されるのです。おが屑やちりならば、少し見えにくいけれども全く見えないことはないでしょう。しかし丸太が目にあったら、それはもう何も見ることはできません。私たちは神との関係においては、神の裁きの前では、見るべきものが何も見えていない、全く目を塞がれた者なのです。
丸太は罪
神との関係において、私たちの目を塞いでいる丸太、それは私たちの罪です。神こそが私たちに命を与えて下さった、私たちの主人なのに、その神を無視して、自分が主人となって生きている、その罪が私たちの目を塞いでいるのです。人を裁くことも、そこから生じてきます。裁くことは本来、主人である神がなさることなのです。私たちが人を裁こうとするのは、自分が神に成り代わって主人になろうとすることです。人を裁こうとするところには、自分が主人となろうとする私たちの罪が表れているのです。私たちに人を裁く資格がないのは、私たちにも欠けがあり、完璧な人間ではないからではありません。そもそも、人を裁くことができるのは神お一人だからです。そのことを見失って、自分が裁き手になろうとすることが人間の罪なのです。また私たちは、このたびの地震のような災害が起こると、神をも裁こうとすることがあります。神のなさることを評価したり、良いとか悪いとか判断しようとするのです。今私たちがなすべきことは、そういうことではなくて、苦しみの中にある人々への支えと助けを祈ることでしょう。
丸太はどうしたら取り除くことができるのか
主イエスは「まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」と言われました。私たちは、人の目のおが屑を取ろうとする前に、自分の目の丸太を取り除かなければならないのです。それはどうしたら取り除くことができるのでしょうか。私たちは、自分でこの丸太を取り除くことができないし、丸太に気づくことすらなかなかできません。この丸太が私たちの目にあることは、神の裁きにおいて明らかになる、と申しました。そうであるならば、その丸太を取り除くことができるのも神お一人です。そして神はそのことをして下さいました。独り子主イエス・キリストの十字架の死によってです。主イエスの十字架の死は、私たちに対する神の裁きを身代わりとなって受けて下さったということでした。私たちの罪、私たちの目を塞いでいる丸太は主イエスの十字架においてこそ明らかになり、取り除かれたのです。先ほど旧約聖書イザヤ書第53章が共に読まれました。そこには、民の罪を背負って裁かれ、苦しみを受け、死に、それによって民に罪の赦しをもたらす主の僕のことが歌われています。それは主イエス・キリストの十字架の死の預言です。その5節に「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであった。彼の受けた懲らしめによってわたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」とあります。8節には「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか、わたしの民の背きのゆえに、彼が神の手にかかり、命ある者の地から断たれたことを」とあります。11節にも「彼は自らの苦しみの実りを見、それを知って満足する。わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために、彼らの罪を自ら負った」とあります。このように、神の裁きが、この僕の上に、独り子イエス・キリストの上に下されたのです。それによって私たちの罪は赦され、丸太が取り除かれて、神をまっすぐに見つめる目が開かれたのです。本日の個所は、私たちに神の裁きを見つめさせようとしていると先ほど申しました。しかしその神の裁きは、主イエス・キリストが私たちに代って引き受けて、十字架にかかって死んで下さったのです。それによって、私たちの目を塞いでいる丸太が取り除かれ、罪の赦しが与えられたのです。「まず自分の目から丸太を取り除け」というみ言葉によって主イエスは私たちに、あなたの目の丸太は、私があなたに代わって十字架にかかって死んだことで取り除かれた、そのことを受け止めなさい、と語りかけておられるのです。
はっきり見えるようになって何が見えてくるのか
この主イエスの恵みによってこそ私たちは、「はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができ」ます。それは、人の目の中のどんな小さなおが屑をも見落とさずに裁くことができるようになる、ということではありません。はっきり見えるようになって、まず第一に見えてくるのは、自分の目にあった丸太の大きさです。神の独り子主イエスが十字架にかかって死んで下さらなければ取り除かれない程大きな丸太が、自分の目を塞いでいたことが見えてくるのです。そして同時に、主イエスの十字架の死によってその丸太を取り除き、罪を赦して下さった神の恵みの大きさが見えてくるのです。そしてこれらが見えてくると、私たちの、兄弟を見る目も変っていくのです。相手の欠点を指摘して裁く目から、相手と共に神の赦しの恵みにあずかろうとする目へとです。自分の目の丸太を取り除いて下さった神が、相手の目の丸太をも取り除いて下さることを信じて、相手と共にその恵みにあずかることを祈り願う目です。それは要するに人を赦そうとする目です。神が私たちを裁くのではなく赦して下さったのだから、私たちも、裁きではなく赦しに生きるのです。「人を裁くな」という教えは、そこに実現していきます。私たちが裁かなければ神も裁かないで下さる、というような取り引きではなくて、神が私たちを裁くのではなくて、主イエス・キリストによって赦して下さったから、私たちも裁くのではなく赦しに生きる者となるのです。
主イエスは、人に対する判断を全て停止せよと言っておられるのではありません。私たちはそれぞれの置かれた立場や場面に応じて、人を判断しなければならないこともあるし、時には厳しいことを言わなければならないこともあります。しかしそこにおいて私たちが、主イエスによって与えられた神の赦しの恵みに相手と共にあずかることを願い求めているならば、私たちの言葉は、相手を裁いて殺すのではなく、「兄弟の目からおが屑を取り除く」ものとなるのです。
「豚に真珠」とは
本日の個所にはさらに6節があります。いわゆる「豚に真珠」という諺の出所です。この教えと5節までとの結びつきは分かりにくいかもしれません。この教えの前提は、私たちには神聖なもの、真珠が与えられている、ということです。その神聖なもの、真珠とは、私たちの目から丸太を取り除いて下さった神の恵みです。その神聖なもの、高価な真珠を、私たちは人々と分かち合おうとするのです。しかし私たちがそう願っても、相手はそれを足で踏みにじり、向き直ってかみついてくることもある。この教えはそういうことを言っているのでしょう。つまり丸太がその人の目を塞いでいるので神の恵みを見ることができないのです。そういうことがあってもうろたえるな、と主イエスは言っておられます。主イエスご自身がそのように人々に踏みにじられ、かみつかれて、十字架にかけられたのです。大事なことは、そこで私たちが、与えられている神聖なもの、真珠の価値をしっかりわきまえていることです。なかなか受け入れてもらえないからといって、それを安売りしてはなりません。本日はこの後、私たちに与えられている神聖なもの、主イエスによる救いの目に見えるしるしである聖餐にあずかります。聖餐は、信仰を告白し、洗礼を受けた者のみがあずかることができるものです。この6節は昔から、洗礼を受けていない人は聖餐にあずかることができないことを意味する言葉として読まれてきました。洗礼を受けていない人のことを犬や豚に喩えるのは問題だということで、今はこの言葉が聖餐において読まれることはなくなっています。しかし、主イエスを信じて洗礼を受けることによってこそ聖餐の恵みにあずかることができる、ということを私たちは大切にしなければなりません。洗礼を受けていなくても誰でもそれにあずかることができるとしてしまうのは、聖餐において神が与えて下さる恵みの尊さをわきまえずに軽んじることです。そうしたら私たちこそが、犬や豚同然になってしまうのです。ですから犬や豚という言葉は、自分自身がそうならないように、という戒めとして読むべきです。そしてもう一つ大事なことは、丸太に目を塞がれて、この神聖なもの、真珠の価値を見ることができない人々のことを裁いてはならない、ということです。私たちも、元々は丸太に目を塞がれていたのです。主イエス・キリストがその丸太を取り除いて下さったので、この恵みにあずかることができているのです。そのことに感謝して、今はまだこの恵みが見えていない人々も、いつか共に聖餐にあずかることができる日が来ることを信じて、洗礼へと招き続ける。「はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」というのはそういうことでもあるのです。