主日礼拝

律法を完成するため

5月7日(日)主日礼拝
「律法を完成するため」 牧師 藤掛順一
・申命記第4章1-14節 
・マタイによる福音書第5章17-20節

前の箇所からの繋がり
 主日礼拝において、マタイによる福音書第5章から7章の、いわゆる「山上の説教」からみ言葉に聞いています。この長い説教は、ある時に一度に語られたものではないでしょう。主イエスが、折々に、弟子たちに、そしてみ言葉を聞きに集まってきた群衆たちにお語りになったことが集められ、並べられてこのような説教として残されているのだと思われます。しかし、折々に語られた教えがただ順不同に並べられているのではありません。この山上の説教は、かなりよく考えられた配列になっているのです。ですから山上の説教を読むに当っては、個々の教えの内容だけでなく、前後との関係を意識することが必要です。本日読むのは第5章17~20節ですが、ここは、前後の繋がりがわかりやすい所です。先週読んだ13~16節で主イエスは、「あなたがたは地の塩、世の光である」とお語りになりました。あなたがたはこの世に良い味をつけ、腐敗を防ぐ地の塩だ、またこの世を明るく照らす世の光だ、とおっしゃったのです。そして16節には「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とありました。あなたがたは地の塩、世の光として、人々の前であなたがたの光を輝かし、「立派な行い」をしなさい、と主イエスはおっしゃったのです。それを聞いた人々は、「立派な行い」とは何だろうか、主イエスは何をすることを求めておられるのだろうか、と思ったでしょう。当時のユダヤ人たちにとって、「立派な行い」と言えば、律法の教えを忠実に守って生きることでした。主イエスもそのことを求めておられるのだろうか、それとも、主イエスが言っておられる「立派なこと」というのは、律法を守ることとは別の何かなのだろうか、という問いが生まれただろうと思うのです。そのような人々の疑問を意識して主イエスは17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とお語りになったのです。

律法と預言者
 「律法や預言者」というのは要するに旧約聖書のことです。旧約聖書は、最初の創世記から申命記までの五つの書物が「律法」、そしてイスラエルの歴史や預言者たちの教えを記した部分が「預言者」、それ以外が「その他」という三つの部分から成っています。ですから「律法と預言者」というのは、旧約聖書の主要部分を指しています。そこに語られていること、特に神によって与えられた律法を守って生きることこそ、神の前に正しい、立派な行いである、とユダヤ人たちは誰もが思っていたのです。主イエスは人々のその思いを受け止めて、わたしは、律法や預言者つまり旧約聖書と違うことを語っているのではない。立派な行いとは、あなたがたが思っている通り、律法を守って生きることだ、とおっしゃったのです。しかしそれに続いて主イエスは、人々がびっくりするようなことをお語りになりました。

律法学者やファリサイ派の人々にまさる義
当時、律法をしっかり守って立派な行いをしている人たちの代表と思われていたのが「律法学者やファリサイ派の人々」でした。彼らは旧約聖書の律法を日夜学び、それに従って生きるためにはどうすべきかを考え、自らそれを実践すると共に人々にもそれを教えていたのです。だから「立派な行い」をするというのは、あの律法学者やファリサイ派の人々のようになることだ、と誰もが思っていたのです。そのように思っている人々に主イエスは20節で、「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」とおっしゃいました。「義」とは、正しさ、つまり正しい行いをすることです。あなたがたの正しい行いが、律法学者やファリサイ派の人々よりもまさっていなければ、つまり律法学者やファリサイ派の人々以上の、正しいこと、立派な行いをしなければ、天の国に入ることができない、つまり神の救いにあずかることができない。これは誰もがびっくりするような教えです。主イエスが、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」とお語りになったのは、このことを語るための備えだったのです。主イエスは、あなたがたは地の塩、世の光として、立派な行いをしなさい、とおっしゃいました。その立派な行いとは、律法学者やファリサイ派の人々にまさる行いだったのです。ご自分に従う信仰者たちがそのような立派な行いをする者となるために、主イエスはこの世に来られたのです。それでは、その「律法学者やファリサイ派の人々にまさる立派な行い」と何なのでしょうか。どういうことをすることを主イエスは求めておられるのでしょうか。そのことが、次の21節以下に語られているのです。

21節以下との繋がり
21節から5章の終わりまでのところには、律法のいろいろな教えがとりあげられて、「律法にはこのように命じられている。しかし、わたしは言っておく…」という形で、主イエスの教えが語られています。そこに、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とはどのようなものかが語られているのです。少し先取りして読んでみると、例えば21節以下には、「殺すな」という律法の教えが取り上げられています。主イエスはそれを受けて、兄弟に対して腹を立てたり、「ばか」とか「愚か者」と人をののしることも、人を殺すことと同じだと言っておられるのです。「殺すな」という律法は、人を殺してはならない、ということだ、というのが律法学者やファリサイ派の人々の教えです。しかしあなたがたは、人殺しをしないというだけでなく、隣人に対する怒りやいらだちの心を制御しなさい、それが、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義なのだ、と主イエスは言われたのです。このように、本日の箇所は先週の16節までを受け止めつつ、この後の21節以下へと繋がっています。ここで見つめられているのは、主イエスを信じ、従っていく信仰者が、地の塩、世の光として、人々の前で示すべき立派な行いとはどのようなものか、ということです。

立派な行いをすることが信仰ではない
ところで、主イエスがここで、ご自分に従っている信仰者たちに、立派な行いをしなさい、と言っておられることを私たちは心して聞かなければなりません。これはなかなか難しい問題です。立派な行いをすることが難しいと言うよりも、立派な行いをして生きることが信仰だ、というのは間違いだからです。世間の人々はそう思っているきらいがあります。だから、自分は立派な人にはなれないからクリスチャンにはなれない、と言う人もいます。他方では、クリスチャンなんて、立派なことをしているふりをしているだけの偽善者だ、と思っている人もいます。それはいずれも、立派な行いをしている人がクリスチャンだ、という間違った理解に基づくことです。世間の人々がそう思っているだけでなく、私たちクリスチャン自身も、クリスチャンになったら立派な行いをしなければならない、と思っていることがあります。立派な行いのできない自分はクリスチャン失格だ、と落ち込んだりします。それも全くの誤解です。立派な行いができるようになることがクリスチャンになることではありません。私たちは誰もが皆、神さまに背いてばかりいる罪人です。立派な行いどころか、毎日罪を重ねている者なのです。その自分のために、神の独り子であるイエス・キリストが十字架にかかって死んで下さったのです。神はこの主イエスの死によって私たちの罪を赦して下さり、立派な行いなど全くできていない私たちをも、主イエスと共に神の子として下さっているのです。クリスチャンとは、神が主イエスによって与えて下さったこの救いに感謝して生きている者です。立派な行いをする正しい人になったら救われる、というのは聖書の教えではありません。使徒パウロが強調したように、人は律法の行いによってではなく、キリストにおける神の恵みによってのみ義とされるのです。それが聖書が語っている福音、良い知らせです。ですから、立派な行いをすることによって救われるのではないし、立派な行いをすることが信仰なのでもないということを、私たちはしっかり確認しておかなければなりません。

信仰者は立派な行いを追い求める
しかしその上で、主イエスがここで、私に従う信仰者であるあなたがたは立派な行いをしなさい、と命じておられることを、私たちは大事にしなければなりません。立派な行い、善い行いをすることによって救われるのではないけれども、主イエス・キリストによる救いにあずかった信仰者は、その救いに感謝して、立派な行い、善い行いを熱心に追い求め、そのために努力していくのです。そのようにして、信仰者としての生活を整えていくことを等閑にしてはならないことを、主イエスのこのみ言葉は語っているのです。

律法を行うことが求められている
それでは、私たちがなすべき、信仰者としての善い行い、立派な行いとはどのようなものなのでしょうか。立派な行いとは、という時に当時の人々が先ず考えたのは、旧約聖書の律法でした。主なる神がご自分の民イスラエルにお与えになった掟です。本日共に読まれた旧約聖書の箇所である申命記第4章には、その律法がどのようなものとして与えられたのかが語られています。律法は、イスラエルの民が主なる神によってエジプトでの奴隷の苦しみから救われて、荒れ野を歩んでいる時に与えられました。それは、これから神が与えて下さる約束の地に入っていくための備えでもありました。1節に「イスラエルよ。今、わたしが教える掟と法を忠実に行いなさい。そうすればあなたたちは命を得、あなたたちの先祖の神、主が与えられる土地に入って、それを得ることができるであろう」とあります。律法を忠実に守ることによって、イスラエルは、主が与えて下さる土地を得ることができ、そして6節にあるように、諸国の民から「この大いなる国民は確かに知恵があり、賢明な民である」と言われるようになり、また7節に「いつ呼び求めても、近くにおられる我々の神、主のような神を持つ大いなる国民がどこにあるだろうか」とあるように、主なる神が常に共にいて下さる神の民として歩むことができるのです。そしてその律法の中心として与えられたのが、13節に語られているように十戒です。十戒を中心とする律法を守り行うことこそ、神の民としてなすべき立派な行いの基本なのです。主イエスもこのことを受け継いでおられます。本日の箇所の、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない」とか、「天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一角も消え失せることはない」というみ言葉はそれを示しています。律法を、十戒を、生活の指針として生きることを、主イエスも私たちに求めておられるのです。

律法の完成とは
けれども主イエスがここで語っておられるのは、クリスチャンも律法を守り、十戒に従って生きるべきだ、ということではありません。「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」というみ言葉に注目しなければなりません。主イエスは律法を完成する、と言われたのです。「完成する」という言葉には、それまでのものとの連続と非連続の両方の面があります。廃止するのではなく完成する、という点に注目するなら、連続、継承という意味になります。しかし、それまでのものでは不十分、不完全だからそれを完成する、という点に注目するなら、そこには変化、新しさ、つまり非連続という意味があるのです。主イエスは、律法を継承しつつ、それを完成させる方なのです。主イエスによってもたらされた律法の完成、その新しさ、変化とはどのようなことなのでしょうか。
「完成する」と訳されている言葉は、以前の口語訳聖書では「成就する」と訳されていました。「わたしは律法を成就するために来た」とも読めるのです。「完成する」というと、未完成なものに手を加えて完成する、という感じになりますが、「成就する」というと、律法がもともと目指していたことを実現するという意味になります。この言葉はむしろそのように理解した方がよいと思います。主イエスは、より完成された律法をお定めになるためではなくて、それまでの律法が目指していたことを実現するために来られたのです。

律法が目指していたこと
律法が目指していたこととは何でしょうか。それは、先ほどの申命記第4章に語られていたことです。つまりイスラエルの民が、エジプトでの奴隷の苦しみから、主なる神によって救われた、その救いに感謝して、神の民として、「いつ呼び求めても、近くにおられる」神の下で生きていくことです。そのように神と良い関係をもって生きるならば、隣人とも、互いに愛し合う良い関係を築くことができるのです。十戒の前半が、神とどのような関係をもって生きるかを、後半が隣人とどのような関係をもって生きるかを語っていることがそれを表しています。律法に従って生きることによって、神とも、隣人とも、良い関係をもって生きていくことができるのです。それこそが、律法が目指していたことです。

しかしイスラエルの民は、この律法の本来の目的を見失っていきました。エジプトの奴隷状態から救って下さった主なる神を忘れて、他の神々を拝むようになり、主なる神を愛することを失ってしまったのです。その罪の結果、隣人を愛することも失っていったのです。そのイスラエルの民の罪は私たちの罪でもあります。私たちも、命を与え、人生を導いて下さっている神に感謝せず、神を無視して、自分が主人となって生きています。神を愛することができずにいるのです。その結果、隣人をも愛することができずに、お互いに傷つけ合ってしまっているのです。律法が目指していたことは、イスラエルの民においても、私たちにおいても、人間の罪によって妨げられてしまっているのです。
律法が目指していたことは主イエスによって実現した

主なる神は、そのような罪に陥っている私たちのもとにに、独り子主イエス・キリストを遣わして下さいました。主イエスは、何の罪もない神の独り子であられるのに、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったのです。そして父なる神は、十字架にかかって死んだ主イエスを復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。この主イエスの十字架の死と復活によって、神が私たちの罪を赦して下さり、神の民として新しく生かして下さる、という救いが実現したのです。律法が目指していたこと、私たち人間が、神の救いにあずかって、神の民として、神とも、隣人とも、良い関係をもって生きる者となることが、主イエスの十字架と復活によって実現したのです。

天の父をあがめるようになる
主イエス・キリストを信じる信仰者がなすべき立派な行い、善い行いとは、主イエスの十字架と復活によるこの救いにあずかって生きることに他なりません。私たち信仰者は、世間の人々が善い行いだと思うことをしていくのではないし、自分でこれが善い行いだと思うことをしていくのでもありません。私たちは、主イエス・キリストが、十字架の死と復活によって成し遂げて下さった救いにあずかって、神の民とされて、神の下で、神と共に生きるのです。律法が目指していたことは、そのような歩みの中でこそ成就、実現するのです。
先ほども読んだように16節には、「人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」とありました。私たちの立派な行いを見た人々が、私たちをではなく、天の父なる神をあがめるようになる、そういう行いを主は求めておられるのです。それは私たちが、主イエスの十字架の死と復活による神の救いにあずかって、神の子とされて生きることです。私たちが、様々な罪や弱さをかかえつつも、主イエスの父である神を、天の父よと呼んで、神の愛に信頼して喜んで生きていくなら、その私たちの行い、生活を見た人々が、天の父なる神をあがめるようになるのです。

自分の義ではなく、神が与えて下さる義によって生かされる
「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる義」はそこにあります。律法学者やファリサイ派の人々は、律法を守ることで自分の義、自分の正しさを立てようとしていたのです。しかし主イエス・キリストを信じる信仰者は、自分の義、自分の正しさによってではなく、主イエス・キリストの十字架と復活によって神が与えて下さった義によって生かされているのです。神が与えて下さるこの義によらなければ、天の国に入ることはできません。天の国とは、神の恵みのご支配です。そこに入るとは、その恵みのご支配の下で生きる者となることです。それは、自分の義、自分の善い行いによって実現することではありません。律法学者やファリサイ派の人々の義では天の国に入ることができないというのは、彼らの義が足りないからではなくて、彼らは自分の義を立てようとしており、神が主イエス・キリストによって与えて下さる義を求めていないからなのです。

私たちは、律法、十戒を掟や戒めとして守ることによって自分の義を立てようとしている律法学者、ファリサイ派の人々にまさる、神が与えて下さる義に生きていきます。主イエス・キリストの十字架と復活によって、罪人である私たちを神が赦して下さり、神の子として下さり、神を天の父と呼んで祈ることができるようにして下さった、そこに、神が与えて下さっている義があります。自分の義を立てるのではなく、神が与えて下さるこの義によって生かされて歩むところにこそ、神が律法によって実現しようとしておられた、神の民としての歩みが実現します。その神の民としての歩みは、律法を掟や戒めとして守っているよりもはるかに自由で豊かな歩みなのです。その自由で豊かな歩みを、主イエスはこの後の21節以下において具体的に語っておられます。来週以降、それが示されていくのを楽しみにしたいと思います。

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