「柔和な人々は幸いである」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:詩編 第37編7-22節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章5節
・ 讃美歌:
最初の二つの幸いの教え
主イエス・キリストが語られたいわゆる「山上の説教」の最初には、「こういう人々は幸いである」という「幸いの教え」があります。これまでその第一と第二の教えを読んできましたが、分かったことは、主イエスが「幸いである」と言っておられるのは、私たちが幸いとは思えないようなことばかりだ、ということでした。「心の貧しい人々」も、「悲しむ人々」も、決して幸いではありません。むしろ幸いとは言えない現実の中に、主イエス・キリストが、「天の国はその人たちのものである」、「その人たちは慰められる」という幸いを造り出して下さる、ということが、最初の二つの教えには語られていたのです。
柔和な人々は幸いである
本日は第三の教えです。これは、今までの二つとは少し違うように思えます。「柔和な人々は幸いである」。これは私たちが確かにその通りだと納得することができることなのではないでしょうか。「柔和」という言葉に、弱々しく軟弱な、というイメージを感じることがあるかもしれませんが、それは間違いです。柔和の柔は柔道の柔です。「やわら」と読みます。「柔よく剛を制す」と言われるわけで、やわらかさの中にこそ本当の強さがあるのです。ですから柔和は軟弱とは違います。内にしっかりとした力を持つ穏やかさ、やさしさです。日本語においてもそうであるわけですが、「柔和」と訳されている聖書の言葉は「中庸な」という意味です。それは特に怒りに捕えられるような場面で発揮される中庸さです。怒るべき時には必要なだけ怒るが、怒り過ぎることはなく、怒るべきでない時には怒らない、そういう中庸さです。それはつまり、自分の怒りの感情を制御し、言葉や行動をコントロールできる、ということです。怒りに捕えられて我を忘れることなく、冷静に問題を見極め、解決への道を探っていくことができる、それが柔和さです。そのような柔和さを身につけている人は確かに幸いだと思うのです。
けれども、柔和がそういう意味だとすると、私たちは思うのではないでしょうか。「そんなふうに柔和な人は確かに幸いだろうが、私はそうではない。私はそのように柔和にはなれないから、この幸いは私にはあてはまらない」。そしてそのように感じる時に私たちが心の中で思っているのは、「柔和になれるのはその人が基本的に幸いだからだ、幸いで余裕があるから柔和になれるのだ」ということなのではないでしょうか。しかし果たしてどうなのでしょう。柔和な人が幸いなのではなくて、幸いな人が柔和になれるのでしょうか。
詩編37編
この第三の幸いの教えは、本日共に読まれた旧約聖書、詩編第37編の11節からの引用です。そこには「貧しい人は地を継ぎ」とあります。これが「柔和な人々は幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」の出所なのです。「貧しい」と「柔和な」は違うではないかと思いますが、以前の口語訳聖書ではここは「しかし柔和な者は国を継ぎ」と訳されていました。もともとヘブライ語で書かれていた旧約聖書では「貧しい」という言葉だったのが、ギリシャ語に訳された時に「柔和な」と訳されたのです。口語訳はこのギリシャ語訳の影響によって「柔和な者は国を継ぎ」と訳しましたが、もともとのヘブライ語聖書をそのまま訳せば、新共同訳のように「貧しい人は」となるのです。あるいは新しい聖書協会共同訳は「苦しむ人が地を受け継ぐ」と訳しています。主イエスのもともとの教えは「貧しい人々、あるいは苦しむ人々は幸いである」だったのだけれども、新約聖書がギリシャ語で書かれた時に、ギリシャ語訳の旧約聖書の言葉に引きずられて、「柔和な人々は幸いである」という教えとして伝えられた、ということかもしれません。その事情ははっきりしませんが、とにかく、この「柔和な」という言葉の背後には、詩編37編11節の「貧しい」あるいは「苦しむ」という言葉があるのです。
怒りや苛立ちを覚えている者に
そこで詩編37編をもっとよく見てみたいと思います。ここでの「貧しい人」とはどういう人なのでしょうか。経済的に困っている人ということではないようです。9節にこうあります。「悪事を謀る者は断たれ、主に望みをおく人は、地を継ぐ」。ここでは「地を継ぐ」のは「主に望みをおく人」です。つまり「貧しい人」「苦しむ人」とは「主に望みをおく人」なのです。さらに22節にも「神の祝福を受けた人は地を継ぐ。神の呪いを受けた者は断たれる」とあります。ここでは地を継ぐのは「神の祝福を受けた人」です。つまり「貧しい人、苦しむ人」とは、貧乏な人というよりも、貧しさ、苦しみの中で主に望みをおいており、それによって主なる神の祝福を受けている人なのです。そういう人々に、「あなたがたは地を継ぐ」という約束が語られているのです。それは単に土地を相続するということではありません。イスラエルの民にとって、先祖から受け継ぐ土地は神の祝福の印でした。ですから「地を受け継ぐ」とは、物質的な繁栄や富を与えられるというより、神の豊かな恵みによって生かされることです。ですからこの詩編は、貧しく苦しんでいる人、その苦しみの中で主に望みを置いている人に、あなたがたには主なる神の祝福と恵みを与えられ、それによって生かされるのだ、という約束を語ることによって励ましを与えようとしているのです。それは、彼ら貧しく苦しんでいる人々が、苛立ちや怒り、憤りを覚えているからです。7、8節にこうあります。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな。怒りを解き、憤りを捨てよ。自分も悪事を謀ろうと、いら立ってはならない」。つまり、この世には、悪事を謀り、悪だくみをしている者たちがむしろ繁栄し、富み栄えており、主なる神に従い、正しいことをして歩もうとしている自分たちはいつまでも貧しく、苦しい生活を強いられている、という現実がある。彼らはそういう現実に苛立ち、怒りや憤りを覚えているのです。37編の1節にも「悪事を謀る者のことでいら立つな。不正を行う者をうらやむな」とあります。神に従わずに不正を行っている連中がかえって富み栄え、正しく生きようとしている自分たちが貧しく苦しみを受けている。そういう現実の中で、悪事を謀る者たちのことをうらやましく思い、いっそのこと自分も彼らと同じように、自分の富や豊かさだけを追及した方がよいのではないか、という思いが起るのです。この詩はそういう人々に対して、苛立ってはならない、その怒りや憤りを捨てて、沈黙して主に向かい、主を待ちこがれよ、主に望みを置け、あなたがたは地を継ぐのだ、主なる神はあなたがたに祝福と恵みを与え、それによって生かして下さるのだ、と語っているのです。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」という教えの背後にはこの詩編37編があります。つまりここで見つめられているのは、もともと幸いで余裕がある人ではありません。むしろ弱く貧しく力のない者が、神に従って生きようと必死になっている、しかしこの世においては、むしろ神を無視している悪い者が富み栄えているという現実がある。そういう現実に苛立ちや怒りを覚え、いっそのこと神なんか忘れて、自分の好き勝手に生きていった方がよいのではないか、と感じてしまう、そういう人々のことが見つめられているのです。それは私たち一人ひとりのことです。私たちも自分の弱さ、乏しさを嘆き、置かれている境遇に不満を持ち、自分より恵まれている人をうらやみ、苛立ちや怒りを覚えます。何故神は自分に幸せを与えてくれないのか、こんな苦しみが起るなら神など信じていても何の役にも立たないではないか、とうらみつらみを言いたくなるのです。主イエスはそのように感じている私たちに、「柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」と語りかけておられるのです。
柔和さとは自分をコントロールすること
そもそも詩編37編が教え、勧めているのは、「柔和に生きなさい」ということです。悪事を謀る者が繁栄している、その現実の中でも苛立つな、とこの詩は教えています。苛立ちや怒りや憤りに身を委ねてしまうことなく、主に従う道にしっかりと踏み止まれと言っているのです。それは自分の心をしっかり制御しなさい、ということです。苛立ちまぎれに神を否定するような不信仰に走らず、自分自身をしっかりコントロールしなさい、ということです。それが即ち柔和に生きることです。そこに、神からの祝福、恵みが与えられるのです。ですからヘブライ語の「貧しい」ないし「苦しむ」という言葉が、ギリシャ語訳旧約聖書で「柔和な」と訳されたのは理由のないことではありません。貧しく苦しんでいる者が、自分は苦しみの中にいるから、つまり余裕がないから柔和に生きることはできないと言っていたら、その人は神の恵みの下で生きることはできないのです。つまりそこには救いはないのです。余裕があるから柔和になれるのではありません。力も余裕もない、この世の様々な事柄にふりまわされ、苦しみや悲しみに支配され、怒りや苛立ちを覚えずにはいられない中で、その怒りや苛立ちに身を任せるのでなく、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれ、主に望みを置いて生きる、それが柔和さです。そういう柔和さによってこそ、本当の幸いが得られるのです。
幸いは柔和さによってもたらされる
ですからやはり、幸いだから柔和になれるのではなくて、柔和に生きることによってこそ幸いが与えられるのです。柔和になれないということは、怒りや苛立ちを制御できず、それに引きずられてしまう、ということです。その時私たちは、沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれることができなくなるのです。繁栄の道を行く者や、悪だくみをする者のことで苛立ち、沈黙しておれなくなって自分で語り始めるのです。主に望みをおいて待ち焦がれるのではなくて、自分の怒りによって力をふるい、悪事を行っている人を裁き滅ぼして問題を解決しようとするのです。この世には、そして私たちの人生には、そのように悪と戦うことが必要である時も確かにあるでしょう。またそのように正義感にかられて悪と戦うことは、勇ましくてカッコいいことでもあります。しかしその私たちの正義感が、苛立ちや怒りから出たものであるなら、その正義感が幸いをもたらすことはまずありません。たとえ相手を打ち負かすことができたとしても、です。ヤコブの手紙第1章20節に、「人の怒りは神の義を実現しないからです」とあります。このみ言葉を私たちは深く心に留める必要があります。人間の正義感や怒りは、神の義を実現しないのです。つまり本当の幸いをもたらすことはないのです。神の義は、つまり本当の幸いは、怒りにかられて正義感をふりかざして戦うことによってではなくて、その怒りを捨て、苛立ちをおさえて、沈黙して主に向かい、主に望みを置いて歩むことによってこそ、つまり柔和さによってこそもたらされるのです。
わたしは柔和で謙遜な者
しかしそれは大変なことです。そのような柔和さをもって生きることなど、自分にはとうていできそうもない、と私たちは思うのです。けれども、このような柔和さをもって生きて下さった方がおられるのです。それは主イエス・キリストです。マタイ福音書には、「柔和な」という言葉があと二箇所出てきます。一つは11章29節です。28節からをお読みします。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。主イエス・キリストは柔和で謙遜な方です。それは、苛立ちや怒りに捕えられて、力に任せて事をなさろうとはしない、ということです。むしろ主イエスがなさったことは、私たちの罪を黙って背負って、十字架の死への道を歩いて下さったということでした。主イエスのこの柔和さによって、私たちに罪の赦しが、救いが与えられたのです。そして主イエスは、私たちをも、ご自分と共にこの柔和さに生きる者としようとしておられます。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とはそういうことです。柔和な方である主イエスの軛を負って、主イエスの柔和さを学んで生きることを主イエスは求めておられるのです。それは私たちに負いきれない重い軛を負わせようとしておられる、ということでは決してありません。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」のです。それは主イエスがその軛を共に負って下さるからです。実は主イエスが罪人である私たちという重荷を背負って下さっているのです。その柔和な方である主イエスにつながって、主イエスと共に歩むことによって、私たちも、主イエスの柔和さを少しずつ身につけていくことができるのです。
柔和な方である主イエス
もう一箇所「柔和な」という言葉が出てくるのは、21章5節です。主イエスはそのご生涯の最後に、エルサレムの町に入られました。その時に、ろばの子に乗って来られたのです。そのことは、預言者が語っていたことの実現でした。その預言がこの21章5節に語られています。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。今エルサレムに来られた主イエスは、預言者が告げていたまことの王であられる。その王は、柔和な方であり、その印としてろばの子に乗って来られるのです。人々はこの主イエスの到来を喜び、「ダビデの子にホサナ」とほめたたえて迎えました。しかしそれから一週間しないうちに、主イエスは捕えられ、十字架につけられたのです。群衆は数日の内に手のひらを返したように、主イエスを「十字架につけよ」と叫んだのです。この一週間の主イエスの歩みは、言ってみれば人生の絶頂から奈落の底へとつき落されたようなものでした。その苦しみを主イエスは黙って負われたのです。主イエスが柔和な方であるというのはそういうことです。その柔和さによって主イエスは十字架の死への道を歩み通し、私たちの救いを実現して下さったのです。主イエス・キリストこそ、本当に柔和に生きた方でした。私たちは、柔和な方である主イエス・キリストによって救われたのです。その主イエスに従って、主イエスと共に生きることによって、そのことによってのみ、私たちも、苛立ちや怒りに身を委ねるのでなく、それを捨てて、自分の正義感によって事を成そうとするのでなく、主なる神のみ前に沈黙して、主に望みを置いて、主の恵みのみ業を待ち望んで歩むことができるようになるのです。「柔和な人々は幸いである」というお言葉は、この主イエスと共に歩むところに与えられる幸いを語っているのです。
主イエスは地を受け継いでおられる
本当に柔和な方として、私たちのために、十字架の死に至る道を歩み通して下さった主イエス・キリストを、父なる神は復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。そして神は主イエスを天に昇らせ、ご自分の右の座に着かせました。柔和な方である主イエスが、今や父なる神の右に座しておられ、私たちとこの世界を支配しておられるのです。つまり主イエスは今や地を受け継ぎ、地を支配しておられるのです。「柔和な人々は幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」というみ言葉は、主イエスご自身において実現している。私たちはそのことを信じているのです。
まことの幸いは主イエスと共に生きるところに
主イエスが地を受け継いでおられる、その主イエスのご支配は、今はまだ隠されていて、目に見えるものとはなっていません。この世の目に見える現実においては、悪事を謀る者が栄え、主に従う者がかえって苦しみを受けるようなことがしばしばです。その目に見える現実によって私たちは苛立ちや怒りを覚え、それに捕えられ、引きずられてしまいがちです。しかし、復活して天に昇り、地を受け継いでおられる主イエスのご支配は、世の終わりに、主イエスがもう一度来て下さる時には完成し、誰の目にも明らかなものとなるのです。そのご支配が完成する時、私たちも、復活と永遠の命を与えられて、主イエスと共に地を受け継ぐのです。柔和な方である主イエス・キリストと結び合わされ、主イエスと共に生きる私たちは、そのことを信じて、そこに希望を置いて生きることができます。それによって私たちも、様々な苦しみ悲しみに満ちており、正しい者が苦しみを受け、悪を行う者がむしろ栄えているようなこの世の現実の中で、怒りや苛立ちに振り回されるのでなく、沈黙して主を仰ぎ、主に望みを置く、柔和な者として生きることができます。まことの幸いがそこに与えられるのです。