「イエス・キリストの系図」 牧師 藤掛順一
・ 旧約聖書:創世記 第12章1-4節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第1章1-17節
・ 讃美歌:
イエス・キリストの系図
本日から、主日礼拝において、マタイによる福音書を連続して読んでいきます。8月まで約一年間、使徒信条による説教をしてきました。それを終えて、この10月からは再び、一つの書を連続してじっくり読みつつみ言葉に聞いていきたいのです。マタイによる福音書は新約聖書の最初にありますから、新約聖書を最初の頁からを読んでいく、ということになります。新約聖書を読もうと一念発起して、その第一頁を開いて読み始めると、すぐに私たちは試練に直面します。マタイによる福音書の冒頭、本日の箇所にあるのは、イエス・キリストの系図です。誰々は誰々をもうけ、という形で、人の名前が延々と続いています。声に出して読めば滑舌の訓練にはなるであろうこの系図は、新約聖書を読む者が最初に味わう試練だと言えるでしょう。でも、この程度の試練に負けてはなりません。名前の羅列が続くと言ったって17節までです。1頁にもなりません。18節からは、イエス・キリストの誕生の物語になるのです。ですから、生まれて初めて聖書というものを手にした、という人ならともかく、礼拝に集っている私たちは、名前ばかりが並んでいるのでうんざりした、などと言い訳をして読むのを止めてしまってはなりません。むしろ、新約聖書の冒頭にこの系図があることにはどんな意味があるのかを考えていきたいのです。そしてこの系図が私たちに語りかけていることを聞き取っていきたいのです。注意深く読んでみると、この系図はとても面白い、そして重要なものであることが分かってきます。ここには、私たちへの豊かなメッセージがあるのです。なので、この系図について、本日と来週と、二週にわたって説教をしたいと思っています。
何のための系図か?
この系図を読んでうんざりするというのは、そもそも私たちの中に、系図というのはつまらないものだ、という思いがあるからではないでしょうか。皆さんは自分の先祖の名前を何代前まで遡ることができるでしょうか。家系図が代々受け継がれているという家もあるでしょうが、多くの場合は、ひいおじいちゃんぐらいまで辿れればいいほうで、それより前のことは分からないことが多いと思います。私たちはそういうことにはあまり関心がない。自分の人生を生きることで精一杯で、系図など調べる暇も気力もないわけです。しかし世間には、何々家の系図、というものが売られていたりします。それは大体、桓武平氏か清和源氏、つまり桓武天皇か清和天皇に遡るもので、天皇の子孫だとする系図です。そういう系図は明らかに「家柄」の良さを主張するためにあります。そんな系図は意味のない、つまらないものです。イエス・キリストの系図もそういうことのために語られているのでしょうか。1節に「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」とあって、これがこの系図のタイトルとなっていますが、イエス・キリストは、アブラハムとダビデを先祖に持つ由緒正しい家柄なのだ、ということを言おうとしているのでしょうか。もしそうなら、確かに、こんな系図には意味はない、つまらないものだと言えるでしょう。果してこの系図は何のためにあるのでしょうか。
アブラハムから始まる系図
新約聖書には、主イエスの系図がもう一箇所あります。ルカによる福音書の3章23節以下です。マタイとルカの系図を比べてみるといろいろ面白いことが見えてきます。マタイの系図は、アブラハムから始まってダビデを経て主イエスに至るものですが、ルカの系図は、主イエスから遡っていって、ダビデやアブラハムを経て、最初の人間アダムにまで至るものです。つまり語られている方向性が反対だし、系図の始まりをどこに置くかも違っているのです。そこに、マタイにおける系図の特徴が表れています。この系図はアブラハムを始まりとしているのです。このことは、この系図が、単なる血の繋がりを語っているのではないことを意味しています。アブラハムにも先祖たちがいたのに、何故この系図はアブラハムから始まっているのでしょうか。
神の民イスラエルの歴史
その答えは、アブラハムから、神の民イスラエルの歴史が始まった、ということにあります。アブラハムの物語は創世記第12章から始まります。その冒頭のところが先ほど朗読されました。主なる神はここで、後にアブラハムという名前となるアブラムに、「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように」と語りかけました。そして4節には「アブラムは、主の言葉に従って旅立った」とあります。アブラムは、主なる神の「あなたを大いなる国民にする」という約束を信じて、主が示す地へと、行き先を知らずに旅立ったのです。この旅立ちから、アブラハムの信仰者としての歩みが始まりました。そしてそれは、主なる神がアブラハムの子孫を大いなる国民として下さるという主のみ業の始まりでもありました。その大いなる国民がイスラエルの民です。神の民イスラエルの歴史が、このアブラハムの信仰による旅立ちから始まったのです。マタイはそのことをこの系図の始まりとしています。つまりこの系図は、主イエスの家柄を語っているのではなくて、アブラハムから始まったイスラエルの民の歴史の中に、主イエスの誕生を位置づけているのです。イスラエルの民の歴史は、主なる神がアブラハムとその子孫を祝福して、ご自分の民を築いて下さったという神のみ業の歴史ですが、そのみ業の目的は、イスラエルの民のみがを祝福し、その名だけが高めることではありません。主はアブラハムに、あなたを「祝福の源」とするとおっしゃいました。それは、彼とその子孫であるイスラエルの民が祝福の源となって、そこから神の祝福が湧き出て世界の人々を潤していく、ということです。3節の後半には「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」とあります。主なる神は、アブラハムの子孫をご自分の民イスラエルとして、その歴史を導くことを通して、地上のすべての氏族を、つまり全世界の人々をご自分の祝福へと入れて下さろうとしておられるのです。イスラエルの民の歴史は、神がご自分の祝福を全ての人々に及ぼして下さるという、全ての人々への神の救いのみ業の歴史なのです。その救いの歴史が、創世記12章のアブラハムの旅立ちから始まったのです。
つまり創世記12章は、聖書における大きな転換点です。その前のところ、創世記の11章までに語られているのは、神がこの世界と人間を創造し、祝福して下さったこと、しかし人間は、蛇の誘惑によって、神のもとで生きることを不自由なことと思い、自分が主人となって生きようとする罪に陥ったために、神の祝福を失い、荒れ野のようなこの世を苦しみながら生きなければならなくなったこと、そしてその人間の罪が膨れ上がっていき、この世に様々な悲惨なことが起っていった、ということです。つまり創世記は11章までにおいて、罪によって神の祝福を失っている人間の現実を語っているのです。そして12章から、失われた祝福を回復して下さる神の救いの歴史が始まったのです。その救いの歴史を担う民として立てられたのがイスラエルの民であり、その最初の先祖がアブラハムなのです。つまりアブラハムから始まるこの系図は、主なる神による救いの歴史を語っています。その救いの歴史が、アブラハムからダビデを経て主イエス・キリストに至っていることを語っているのです。アブラハムから始まった、「地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」という神の救いのご計画は、主イエス・キリストにおいて実現したのだ、ということをこの系図は語っているのです。
旧約聖書と新約聖書の連続性
それは、旧約聖書に語られている神のみ業が主イエス・キリストへと繋がっており、主イエスにおいて実現した、ということでもあります。つまりこの系図は、旧約聖書と新約聖書との繋がり、連続性を語っているのです。だから新約聖書の冒頭の第一頁にこの系図があることには大きな意味があるのです。四つの福音書の内、マタイ福音書が最初に置かれているのは、昔はこれが最初に書かれた福音書だと思われていたからです。でも今では、マルコによる福音書の方が先に書かれ、マタイはマルコを参照しながら書かれたというのが、学者たちの間での定説となっています。だったらマタイとマルコの順序を逆にした方がよいかというと、決してそうではありません。マタイの冒頭にあるこの系図によって、旧約聖書に語られている主なる神のみ業と、主イエス・キリストによる救いの知らせ、つまり福音との繋がりが示されているのです。ですからマタイ福音書が最初に置かれ、この系図が新約聖書の冒頭にあることは、とても大切なのです。
アブラハムはイサクを生んだ
さてこの系図は2節から、「アブラハムはイサクをもうけ」と始まっています。「もうけ」という言葉に違和感を抱くのは私だけでしょうか。以前の口語訳聖書ではここは「アブラハムはイサクの父であり」となっていました。日本語としてはこちらの方がすんなりと受け止められます。しかし聖書の原文においては、ここは「父であり」という言い方ではありません。直訳すれば「アブラハムはイサクを生み」です。「生んだ」という言葉が使われています。しかしこの系図に並べられているのは基本的には男性の名前です。つまり父親が息子を生んだ、と言われているのです。それは違和感があると考えたので口語訳は「アブラハムはイサクの父であり」としたのでしょう。新共同訳はそれを原文になるべく近づけようとして、「生んだ」という言葉を「もうけ」と訳したのでしょう。しかし原文においてはこの後「イサクはヤコブを生み、ヤコブはユダとその兄弟たちを生み」というふうに、それぞれの人のところに「生んだ」という言葉があります。その全てを「もうけ」と訳すと、「もうけ」が連発されることになって、何だかすごく儲かった話のように聞こえてしまうので、新共同訳は、「アブラハムはイサクをもうけ」と訳した後は、「イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを」と「もうけ」を省略しています。この系図は後で述べるように三つの部分に区切られていますが、それぞれの最初と最後のところにだけ「もうけ」とあるのです。でもそれでは、原文に沢山並んでいる「生んだ」という言葉のほとんどを省略しているということになります。それはよくない、ということで、新しく出た「聖書協会共同訳」では、「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブをもうけ、ヤコブはユダとその兄弟たちをもうけ、ユダはタマルによってペレツとゼラをもうけ」と「もうけ」を全部入れて訳しています。より原文に忠実になったと言えます。しかし最も原文に忠実だったのは、口語訳の前のいわゆる「文語訳聖書」です。そこでは「生む」という言葉が使われています。出産の産ではなくて、生きるという字の「生む」です。「アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟たちとを生み」となっています。こういう翻訳の変遷を見るのも面白いのですが、そこに現れているある混乱の原因は、父が子を生む、という表現が日本語では違和感がある、ということでしょう。しかし聖書は平気で、父が息子を生んだ、と語っています。そしてそこにも大事なことが示されています。つまり聖書において「生む」という言葉は、物理的に出産するというだけの意味ではなくて、主なる神が子を与えて下さり、祝福を受け継がせて下さるという、神の恵みのみ業、祝福の出来事を語っているのです。創世記12章以降のアブラハムの物語を読むと、「アブラハムはイサクを生んだ」という一言の背後には、アブラハムとその妻サラとの長い、複雑な経緯があったことが分かります。そこには信仰と不信仰の間で揺れ動く人間の弱さや罪が渦巻いており、そのために生じたいくつもの悲惨な出来事があったのです。しかしそれらの全てを通して神のみ心が実現し、アブラハムに与えられた祝福の約束がその子イサクに受け継がれていった。「アブラハムはイサクを生んだ」という短い言葉には、それら全てのことが込められています。アブラハムとサラの人生が神によって導かれ、その罪や弱さ、失敗にもかかわらず神の祝福のみ心が実現したことが見つめられているのです。それはこの系図に名前がある全ての人においてそうです。その人がどんな人生を送ったかが聖書に記されていて、私たちがそれを知ることができる人は僅かです。しかし私たちが知ることはできなくても、神がそれぞれの人の人生をみ手によって導いて下さって、アブラハムに約束された祝福を受け継ぐ子を与えて下さったのです。そして、サラと同じように、この系図に名前が記されてはいないけれども、祝福を受け継ぐ子の母となった多くの女性たちの人生をも、神はみ手によって導いて下さっていたのです。そのような神の恵みのみ業の連なりをこの系図は見つめており、主なる神に導かれたそれら全ての人々の人生が、救い主イエス・キリストの誕生へと繋がっていることを語っているのです。
三つの時代区分
さて先ほども申しましたように、この系図は三つの部分から成っています。アブラハムからダビデまでが第一の部分、ダビデからバビロンへ移住させられた時までが第二の部分、バビロン捕囚から主イエスまでが第三の部分です。この三つの部分は、イスラエルの民の歴史における三つの時代区分です。アブラハムからダビデまでは、神の民イスラエルの誕生から、エジプトでの奴隷状態からの救いを経て、約束の地でダビデのもとに王国が確立するまで、第二の区分はダビデ王朝の下でのイスラエルが王国として歩んだ時代、第三の区分は、国が滅ぼされ、バビロンに移住させられた、いわゆるバビロン捕囚から主イエスの誕生までです。それぞれの時代が十四代ずつになっている、と最後の17節にあります。それは、このイスラエルの歴史が単なる偶然によるのではなくて、神のご計画、み心によって導かれていることを示しています。歴史は、人間の様々な思惑や偶然の出来事が複雑に絡み合って思いもよらない方向へと流れていくもので、私たちはその中で翻弄されつつ生きています。しかし大きく見た時には、それらの人間の歩みとそこにおける混乱の全てを貫いて、主なる神が歴史を導いておられ、救いのみ業を行って下さっている。そのことをこの系図は語り示しているのです。
絶望の現実の中で、祝福の約束が継承された
イスラエルの歴史において「バビロンへ移住させられた」こと、つまり「バビロン捕囚」は、国を滅ぼされ、故郷から他国へと移住させられたという大きな苦しみの出来事でした。それと同じようなことが今ウクライナで起きていることに私たちは心を痛めています。イスラエルの人々においてこのバビロン捕囚は、主なる神の民であった自分たちが、主のみ心に従わず、ご利益を与える他の神々、偶像の神々を拝むようになったという罪に対する主の裁きでした。ダビデからバビロン捕囚までの時代は、イスラエルが主なる神の恵みによって最も栄えた時代でしたが、その繁栄の中で神をないがしろにする罪に陥り、その罪が積み重なってついに神の怒りによる滅亡に至った時代でもあったのです。神の民であるはずの自分たちが、罪のゆえに神に裁かれ、見捨てられてしまったという絶望を彼らは体験したのです。しかしその絶望の現実の中でも、主なる神は、アブラハムに与えて下さったあの約束、あなたを大いなる国民とし、祝福の源とし、全ての人々を神の祝福の中に入れて下さるという救いの約束を忘れてはおられませんでした。神の導きによって、その祝福の約束が、父から子へと受け継がれていったのです。その人々自身は、自分が神の祝福の約束を受け継いでいると意識してはいなかったでしょう。昔先祖アブラハムにそんな約束が与えられたことがあった、と知っていたかもしれませんが、今の自分の現実の人生を見たら、神の祝福などどこにもない、あるのは苦しみと絶望ばかりで、祝福の約束など何の意味もない、と思っていたかもしれません。この系図の、特に第三の部分に名前がある人々の多くは、そのような現実の中で生き、死んでいったのだと思います。しかしその人々の人生も、主なる神の恵みのみ手の中にあったのです。彼らが苦しみの中で必死に生き、そして死んでいった、その人生の全てを、主なる神はみ手によって導いて下さっていて、彼らの歩みを通して、主なる神の祝福の約束が継承されていった。そして神の時が満ちて、主イエス・キリストが誕生し、約束されていた救いが実現したのです。
慰めを与える系図
ですから私たちは、この主イエス・キリストの系図から深い慰めを受けることができます。この系図に出てくる人々の生きた時代は様々でした。神の恵みを受けて繁栄していく、いわゆる右肩上がりの時代を生きた人々もいました。反対に衰退、下降線をたどっていく時代を生きた人々もいました。先祖たちも含む自分たちの罪の結果として、国の滅亡や捕囚を具体的に体験した人々もいました。生まれた時からその滅亡、捕囚の苦しみ、絶望の中にあり、その中で人生を歩み、死んでいった人々もいました。どんな人生を歩んだのか、私たちが知ることができる人もいるけれども、そんなことは一切分からない、全く無名の人々も多くいます。一人ひとりの人生だけを見るならば、神の祝福などどこにも見出せないではないかと思うことも多々あります。しかしこの系図は、その人々一人ひとりの人生が、独り子イエス・キリストによって救いを実現して下さる神のご計画の中にあったことを語っているのです。
私たち一人ひとりの人生も、主イエスによって実現したこの救いの中に置かれています。そのことの具体的なしるしとして今日私たちは聖餐にあずかります。洗礼を受けて主イエスと結び合わされ、聖餐によって養われる私たちは、自分自身の人生が、この系図に出てくる人々とその背後にいる家族たちがそうだったように、恵み深い神のみ手の中に置かれていること、人間の営みのあらゆる混乱、苦しみを通して、歴史を支配しておられる主のご計画が実現していくことを信じて生きることができるのです。