主日礼拝

神さまの愛

「神さまの愛」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 申命記 第7章6-8節
・ 新約聖書: ヨハネの手紙一 第4章7-12節
・ 讃美歌: 6、194、280

 
宝物
 皆さんには、何か宝物がありますか。教会学校の皆さんの中には、おうちに帰ると、自分の宝物を入れた箱がある、という人がいるかもしれません。私も小さい頃、自分の宝物を箱に入れて持っていました。今思えば中身は大したものではない、ガラクタなのですけど、その時の私には、とても大切なものでした。宝物というのは、自分にとってとても大切なもの、大事にしたいもの、守りたいものです。今日は、花の日の総員礼拝で、普段は別々に礼拝をしている教会学校と大人の人たちが一緒に礼拝をしています。教会学校の皆さんは、沢山の大人の人たちが周りにいるので、ちょっと緊張しているかもしれません。その大人の人たちも、それぞれに、自分の宝物を持っていると思います。大人の人たちの宝物ってどんなものなのでしょう。勿論それは人によっていろいろと違うでしょうが、多くの大人の人が、「あなたの宝物は何ですか」と聞かれたら、「それは家族です」と答えると思います。家族、つまり自分の奥さんや旦那さん、子供たち、孫たち、それこそが、何よりも大切な、大事にしたい、守りたい宝物だと多くの人が思っているし、そのように思える家族を与えられている人は本当に幸せな人です。だから、教会学校の皆さんはよく覚えておいてほしいのです。皆さん一人一人は、皆さんのお父さんお母さんにとって、またおじいちゃん、おばあちゃんにとって、とっても大切な宝物なのですよ。皆さんは、宝物として、家族に愛されているのです。大切にされているのです。守られているのです。皆さんのことを宝物と思っているのは、おうちの家族だけではありません。教会は、神様のもとに集められた神様の家族です。ですからここにいる沢山の大人の人たちはみんな、教会学校の皆さんにとって、神様のもとで、お父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、お兄さんお姉さんなのです。皆さんはこんなに沢山の人たちに、大切な宝物として愛されているのです。

神様の宝の民
 教会の礼拝に集まっている沢山の大人の人たちが、教会学校の皆さんのことを、また子供たちのことだけでなく、お互いどうしのことを、大切な宝物として愛することができるのは、実は自分も、神様によって、大切な宝物として愛されていることを知っているからです。ここに集まっている私たちは、大人も子供もみんな、神様に宝物として愛されているのです。先ほど読まれた旧約聖書、申命記の第7章6節にはこう書かれていました。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、御自分の宝の民とされた」。主なる神様が、多くの人々の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされたと言われています。神様が、「あなたは私の大切な宝物だよ」と言って下さったのです。その「あなた」というのはこの私のことだ、ということを、教会の礼拝に集まっている私たちは知らされているのです。今日ここに集まっている一人一人に、大人にも子供にも、神様は、「あなたは私の宝物ですよ」と言って下さっているのです。すばらしいことです。こんなに嬉しいことはありません。その喜びがあるから私たちも、お互いのことを大切な宝物として愛し合っていくのです。今日の新約聖書の箇所、ヨハネの手紙一の4章11節に、「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」とあります。神様が私たちのことを大切な宝物として愛して下さっているから、私たちも、お互いどうし愛し合うのです。

愛するとは
 人を愛するというのは、その人のことを大切にするということです。その人としっかり向き合って、心からその人と関わることです。喧嘩をしないことが愛していることなのではありません。心から誠実にその人と向き合い、関わっていく時には、喧嘩だって起るのです。それでも誠実に関わり続けることによって、仲直りをすることもできるでしょう。そうして前よりももっとよい関係を結ぶことができるでしょう。人としっかり向き合って関わらなければ、喧嘩も起らない代わりに、本当に信頼して一緒に生きるという関係を築くこともできません。それはその人のことを大切に思っていることにはならないでしょう。愛することの反対は、憎むことではなくて、「どうでもいい、関係ないよ」と思うことです。私たちは、人のことを、どうでもいい、関係ない、と思うのではなくて、お互いのことをしっかり見て、向きあって、心から関わっていく人になりたいのです。私たちがそうすることができるのは、神様が私たちにそうして下さっているからです。神様は、私たち一人一人のことを、どうでもいい、関係ないと思っておられるのではなくて、私たちのことをしっかり見つめて下さり、向き合って下さり、心から私たちと関わって下さっているのです。それがつまり、神様が私たちを宝物として愛して下さっているということなのです。

イエス様によって
 でも、神様は本当に私たちのことをちゃんと見つめ、私たちと向き合い、関わって下さっているのでしょうか。どうしてそんなことが分かるのでしょうか。10節にはこう書いてあります。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」。私たちが神様のことを愛したのではなく、とありますが、これは、私たちが先に神様のことを愛したから神様も私たちを愛して下さったのではない、ということです。私たちは、神様のことなんか考えずに、神様と向き合おうとせず、関わろうとせずに生きていたのです。ところが、神様の方から先に、そのような私たちを愛して、私たちと向き合い、関わって下さったのです。どのようにしてでしょうか。それは、「わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました」ということによってです。御子イエス様を神様は私たちのために、一人の人間としてこの世に遣わして下さいました。そのイエス様はただこの世に来て下さっただけではありません。「わたしたちの罪を償ういけにえ」となって下さったのです。それはつまり、イエス様が私たちの身代わりになって十字架にかかって死んで下さったということです。そのことによって、神様は私たちの罪を、つまり神様を無視して、シカトして、向き合わずに、関わろうとせずに自分勝手に、自己中に生きているその罪を赦して下さったのです。ここに神様の愛があります。神様は、独り子イエス様の命を与えて下さるまでして、私たちと向き合い、関わり、愛して下さっているのです。私たちは、神様が私たちを見つめ、向き合い、関わって下さっていることを、イエス様を見つめることによってこそ知ることができるのです。だから教会では、教会学校の礼拝でも、大人の礼拝でも、毎週聖書が読まれ、そこに書かれているイエス様のことが語られているのです。教会の礼拝に集まってくる人たちはみんな、イエス様にお会いしにきているのです。イエス様にお会いすることによって、神様が私たちと向き合い、関わり、愛して下さっていることを、つまり私たちのことを本当に愛して下さっていることを、いつも新しく知らされるのです。この神様の愛によって私たちは、他の人と向き合い、誠実に関わっていくことへと、つまり人を愛することへと励まされ、押し出されていくのです。

ふさわしくない者を
 さっきも言いましたように、神様が私たちのことを愛して下さったことの方が、私たちが神様を愛し、お互いに愛し合うようになることよりも先です。それは順序が先というだけではありません。申命記7章7、8節にはこうあります。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。神様がイスラエルの人たちを選んで御自分の宝の民として愛し、奴隷とされて苦しめられていたエジプトから救い出して下さったのは、イスラエルがそれに相応しい立派な、正しい、清い人たちだったからではないのです。むしろイスラエルは、他のどの民よりも貧弱でした。他の人と比べられたら、何のとりえもない、よい所、誇ることができる所など何一つない民だったのです。つまり神様に愛される資格などどこにもなかったのです。それなのに神様はイスラエルを選んで、ご自分の宝の民として愛して下さいました。私たちが神様を愛するよりも先に神様が私たちを愛して下さったというのもそういうことです。つまり私たちも、神様に愛される資格などないのです。神様に背を向けて、神様なんか知らない、関係ない、自分の思い通りにするのだと思って歩んでいる私たちです。神様に愛されるどころか、神様の敵になってしまっているのです。私たちはそのような者なのに、神様はその私たちのために独り子イエス様を遣わして下さいました。そしてイエス様が、私たちの背きの罪を全てご自分の身に背負って十字架にかかって死んで下さったのです。ここに神様の愛があります。神様の愛というのは、敵になってしまっている、罪人である私たちともしっかりと向き合って下さり、私たちの罪を赦して下さる愛です。この愛によって神様は、独り子イエス様の命をも与えて下さったのです。私たちは毎週の教会の礼拝でイエス様にお目にかかり、神様の愛をいただいています。大人も子供も、イエス様が示して下さったこの神様の愛によって励まされ、力づけられ、押し出されて、他の人としっかり向き合って、誠実に関わっていく者、人を愛する者とされるのです。最後に、「明解カテキズム」の問9を一緒に読みたいと思います。私が問いを読みますから、皆さんで、大人も子供も声を合わせて、答えのところを読んで下さい。

明解カテキズム問9「神さまの愛は、どのようにして明らかになったのですか」。答「それは、主イエス・キリストのご生涯を通してです。つまり、イエスさまは、わたしたちの背きと罪の赦しのためにこの世に来られ、十字架にかかって死なれ、わたしたちに新しい生命を与えるために復活されたことです。」

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