主日礼拝

神の恵みの実り

「神の恵みの実り」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第16編1-11節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第15章1-11節
・ 讃美歌; 296、9、469

 
死者の復活の希望
 コリントの信徒への手紙一の第15章に入っています。この15章でパウロは、死者の復活について語っていきます。主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかって生き、死んだ者が、この世の終わりに、キリストがもう一度来られる再臨の時に復活し、永遠の命を生きる新しい体を与えられるということです。言い換えれば、全ての人間をいつかは必ず捕える死の力が、最後には滅ぼされて、神様の恵みの力が勝利する、ということです。死者の復活は、キリストを信じる者に与えられている究極的な希望なのです。けれども、神ならぬ身である私たちが、どうしてそのような究極的な希望について語れるのでしょうか。世の終わりに復活の体を与えられるなどという、常識的に考えれば荒唐無稽なことを、何を根拠に信じることができるのでしょうか。そのことをはっきりさせるためにパウロは、この復活の信仰を語る前に、イエスをキリスト、即ち救い主と信じる教会の信仰の根本を確認することから始めるのです。教会の信仰は「福音」を信じる信仰です。パウロが宣べ伝え、コリントの人々が信じて教会が生まれたのはこの福音であり、そこにこそ、死者の復活という究極的な希望の根拠があるのです。それゆえに先ずは、その福音の内容をはっきりさせなければなりません。福音が明確にならないと、死者の復活という究極的な希望も見失われてしまうのです。コリント教会の中には、12節にあるように、「死者の復活などない」と言う人が現れてきていました。そういうことが起るのは、福音が見失われているからだとパウロは考えているのです。それゆえに、キリストの福音を先ずしっかりと確認しなければならない、そのことをしているのが、この15章の1~11節なのです。

駅伝の襷のように
 パウロはここで、キリストの福音の根本を、「最も大切なこと」と言い表しています。それは、これなしには全てが無になってしまうような本質的なこと、という意味です。その最も大切なことを私はあなたがたに伝え、あなたがたはそれを信じて信仰者になったのだ、と言っているのです。そして彼は、それは私自身も受けたものだと言っています。つまりパウロ自身も、この最も大切なこと、福音の根本を、もとから知っていたわけではないし、あるいは自分で考えたり発見したのでもなくて、人から受け、伝えられ、聞かされたのです。このことがとても大切だと前回も申しました。福音は、大伝道者パウロでさえも、もとから知っていたり、自分で発見したり、考えて到達できるようなものではないのです。福音は、教会において、信仰の先輩から教えてもらわなければ分からないものです。つまり私たちの信仰は、自分で悟りを開いたり、修行してある境地に到達するという信仰ではなくて、聞いたことを信じ、受け入れる信仰なのです。パウロも、先に信仰を与えられていた人々から聞いたことを信じて信仰者になり、その聞いたことを人々に宣べ伝えたのです。福音はそのように、人から人へ、教会から教会へと受け継がれ、継承されていきます。そのようにして今私たちのところにまで伝えられてきました。私たちはその福音を受け取り、それを他の人々に、次の世代に受け渡していくのです。そういう意味で私たちの信仰の歩みは、駅伝の選手のようなものです。引き継いだ信仰という襷をしっかりと持って、自分の走るべき期間を走り、それを次の選手に渡していくのです。途中で襷を捨ててしまったり、勝手に別のものを手渡してしまったら、駅伝が成り立たなくなるのです。

最も大切なこと
 パウロが受け継ぎ、コリントの人々に渡した襷、それが3節以下の「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えた」ことです。その内容は、「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと」です。パウロはこの教えを聞いて信じ、それを伝えたのです。注目すべきことは、これは「これこれのことをしなさい、そうすれば救いが得られますよ」といういわゆる教えや戒めではない、ということです。教会が受け継いでいる信仰は、救われるためには、あるいは神様の恵みを受けるためには、こうすればよい、というノウハウの教え、言い換えれば倫理道徳の教えではないのです。ある意味でそこに、キリスト教信仰の難しさがあります。人に親切にしなさいとか、親を敬いなさいとか、あるいは敵をも愛しなさいといった戒めが語られ、そのように努力していけば、神様が守って下さいますよ、恵みを与えて下さいますよ、救われますよ、という教えならば分かりやすいでしょう。ところが教会の教えはそういうものではないのです。教会が「最も大切なこと」として伝えているのは、そのようなノウハウ、倫理道徳ではなくて、キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、三日目に復活したこと、弟子たちに現れたことです。これはつまり、救われるために私たちがどうしたらよいか、ではなくて、神様が、私たちの救いのために何をして下さったか、ということです。教会の信仰において「最も大切なこと」は、私たちが何をするかではなくて、神様が何をして下さったかなのです。それゆえにそれを「福音」即ち「よい知らせ、喜ばしい知らせ」と言うのです。救われるためにこうしなさい、という教えは福音ではありません。福音と倫理道徳は違うのです。私たちが自分の救いのために何かをするよりも前に、神様が、私たちの救いのために必要な全てのことをして下さった、それが福音です。喜ばしい知らせです。パウロは、この福音を聞いて信じ、この福音によって生かされ、この福音を宣べ伝えたのです。

復活の証人
 さて前回、先々週は、5節までを読みました。復活されたキリストが、ケファ即ちペトロに現れ、その後十二人の弟子たちに現れたというところまでを読んだのです。おそらくここまでが、パウロが先輩の信仰者から「受けた」ことだったのだろうと思われます。その後の6節以下に、復活したキリストがさらにこれこれの人々に現れたということが語られていますが、この部分は、パウロ自身が書き加えたものであろうと思われます。そこには先ず、復活したキリストが五百人以上もの兄弟たちに同時に現れたことが語られています。このことは福音書や使徒言行録にそれに当たる記事がありませんから、いつのことだったのかはっきりしませんが、主イエスに従ってきていた人々は12人の弟子たち以外にも沢山いたのですから、弟子たちから主の復活を聞いた人々が大勢集まっている所に主イエスが現れて下さったということはあったのでしょう。そしてパウロがこのコリントの信徒への手紙を書いた頃、その内の何人かは既に眠りについた、つまり死んでしまったけれども、大部分はなお生存していたのです。つまり主イエスの復活の生き証人がなお沢山いたのです。7節には、「次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ」とあります。ヤコブとは、主イエスの弟であったヤコブのことでしょう。彼はペトロと並んでエルサレムの教会の中心人物になっていきます。復活された主イエスは、天に昇られるまでの40日の間いろいろな仕方でご自身を現わされたのですから、このようにヤコブ個人に現れたことも、使徒と呼ばれるようになった弟子たち全員が集まっている所に現れたこともあったでしょう。復活された主イエスを私はこのように見た、という証言を、パウロはこれらの多くの人々から聞いたのです。そのことをこのように、ケファや十二人に現れたことにつけ加えて語っているのです。

この私にも
 パウロがこれらのことをつけ加えているのは、復活した主イエスを見た人は他にもこんなにいる、と証人の数を揃えるためではありません。8節に「そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました」、とあります。彼が語ろうとしているのは、復活されたキリストは多くの人々にご自分を現わして下さったが、その最後に、この私にも現れて下さったのだ、ということなのです。パウロ自身も、復活したキリストに出会った証人の一人なのです。パウロはいつ、どのようにして復活したキリストと出会ったのでしょうか。主イエスは復活から昇天までの40日の間、多くの人々にご自身を現わされましたが、その時パウロは弟子たちの中にはいませんでした。当時はサウロと呼ばれていたパウロが登場するのは、主イエスが天に昇り、それから十日後に弟子たちに聖霊が降って、イエスこそキリスト、救い主であるという福音を宣べ伝える伝道が始まった、つまり教会が誕生した後です。ペンテコステの出来事によって新しく生まれた教会、十字架につけられ、復活したイエスこそキリスト、救い主であられると信じる者の群れである教会に敵対し、この群れをたたきつぶそうとする者としてサウロは登場するのです。サウロは、ユダヤ教ファリサイ派の若きエリートでした。律法を厳格に守り行うことによって神の民として生きようとするファイサイ派の信仰においては、十字架につけられたイエスが救い主であるなどということは、神への許されない冒涜だったのです。ステファノという信仰者が石で打ち殺され、最初の殉教者となった時、サウロは彼を殺す人々の仲間でした。その後サウロはキリスト教撲滅の使命感にますます燃えて、ダマスコという町へと向かいます。その途上で、彼は復活なさったキリストと出会ったのです。そのことは使徒言行録の第9章に書かれています。彼は突然天からの光に打たれ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」という声を聞いたのです。彼が「主よ、あなたはどなたですか」と問うと、その声は、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」と答えました。復活なさった主イエス・キリストが、まことの神、主として彼の前に現れたのです。彼は、自分が神様のみ心に逆らい、神である方を迫害してきたことを知らされ、愕然としました。もうおしまいだ、神に背き逆らった自分は滅ぼされる他ない、と思ったのです。しかし主イエスは彼を滅ぼすのではなくて新しく生かし、彼に使命を与えて下さったのです。十字架につけられ、復活なさったイエス・キリストこそ神様の独り子、救い主であられるという福音を世の人々に宣べ伝える伝道の使命です。そのようにして、迫害者サウロは、人生の180度の転換をとげ、伝道者パウロとなったのです。

神の恵みによって
 パウロは自分がもともと教会を迫害する者だったということを、本日の箇所の9節で、「わたしは神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と語っています。自分は、神の教会を迫害し、神に激しく敵対していたのだから、滅ぼされて当然な者であり、使徒などと呼ばれる資格はない罪人だ、と言っているのです。そのような自分がしかし今、復活されたキリストとの出会いを与えられ、その証人として立てられ、使徒として遣わされている。それはただひたすら、神様の恵みによることだ、というのが10節です。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」。私たちも時々、「自分が今日あるのは何々のおかげだ」というような言い方をすることがあります。しかしこれは、功成り名遂げた人が過去をなつかしんで、自分もいろいろと努力してきたが、神様も恵みをもって助けてくれたおかげで現在の自分があるのだ、と感慨に耽っているような言葉ではありません。今日の私があるのは、つまり神に敵対していた滅ぼされるしかない罪人である自分が、今生かされて使徒として立てられているのは、徹頭徹尾完全に、百パーセント、神様の恵みのみによることであり、それ以外ではない。自分の力や働きはそこでは何の役割も果たしていない、ということです。つまりパウロは、先程申しましたあの福音によって生かされているのです。福音は、救われるために私たちが何をするかではなくて、神様が私たちの救いのために必要な全てのことをして下さったことを語っている、と申しました。パウロはまさにその福音によって生きている、生かされているのです。自分の力や働き、自分がしてきたことによっては救われないのです。神の教会を迫害してきた彼は、自分の行いにおいては死ぬしかないのです。その自分がなお生かされ、用いられているのは、神様が、恵みによって彼の救いのためのみ業を全てして下さったからです。その神様のみ業が、キリストが私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、そして三日目に復活し、現れて下さったことなのです。神様の独り子であられる主イエスが、私の罪のために十字架にかかって死んで下さったのです。ご自身は何の罪もない神の子が、私の罪を代わって背負い、引き受けて、十字架の死刑を受けて下さったのです。それによって神様が、私の罪を赦して下さったのです。そして神様がその死から復活させて下さった主イエスが私に現れて、新しい命、復活の命の約束を与えて下さったのです。パウロは、この復活の主イエスとの出会いによって、とうてい赦され得ない罪の赦しと、死に勝利する新しい命の恵みを与えられ、その恵みによって新しく生かされているのです。それが、パウロが受け、宣べ伝えているキリストの福音なのです。

神の恵みの実り
 この神様の恵みは、彼の罪を赦し、新しく生かしただけではありません。10節の後半にはこうあります。「そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」。神様の恵みは、彼の罪を赦し、新しく生かして下さっただけではなく、彼に豊かな働きを与えたのです。パウロは、使徒たちの中で一番小さな者、使徒と呼ばれる資格などない者です。8節の言い方を用いれば、「月足らずで生まれたような者」です。その意味は、他の使徒たちは、地上を歩まれた主イエスに召されて弟子となり従っていくという準備期間を経て使徒となったのに対して、パウロはそのような準備なしに、早産の子のように突然使徒として生み出された、ということでしょう。しかしその未熟児のようなパウロが、他のすべての使徒よりもずっと多くの、すばらしい働きをしてきたのです。コリントの町に教会が生まれたのもパウロの働きによることでした。新約聖書に入れられることになった多くの手紙をパウロが書いたのです。私たちが今日、キリストの福音を信じて教会に連なることができるのも、パウロの働きのおかげだと言うことができます。そのような豊かなすばらしい働きをパウロはしている。それはしかし、私の働きではなくて、私と共にある神の恵みの働きなのだ、私の罪を赦し、新しく生かして下さったキリストの福音が、キリストによって与えられている神様の恵みが、私にこのような豊かな実りを実らせて下さっているのだ、それがパウロの、誇りでも謙遜でもない、偽らざる思いなのです。

福音の力
 このようにパウロはここで、信仰の先輩から伝えられた福音を「最も大切なこと」として語り伝えていくに際して、そこに、自分に与えられた恵みのことをつけ加えています。神様が主イエス・キリストにおいて私たちの救いのために必要な全てのことをして下さったという福音が伝えられた時、神の教会を迫害する罪人だった自分が赦され、新しく造り変えられて、使徒としての豊かな働きを与えられた、パウロは自分に起ったこの事実をつけ加えて、福音を語り伝えているのです。福音とは、そのような力を持つものです。キリストが私たちの罪のために死んで下さったこと、葬られたこと、三日目に復活し、人々に現れて下さったこと、その福音によって、まさに罪の中に死んでいた、滅びへと向かうしかなかったパウロが、赦され、新しい命を与えられたのです。神様の恵みが、罪と死の力、滅びへと引きずり込もうとする力に勝利して、パウロを新しく生かしたのです。福音が、人から人へ、教会から教会へと伝えられ、受け継がれていく所には、この神様の恵みの力が発揮されるのです。先程、私たちの信仰は襷を受け渡していく駅伝のようなものだと申しました。しかしその喩えでは信仰のことを十分に表現することはできません。私たちが受け継いでいくのは、襷のような命のないものではないのです。あるいは、単なる知識、情報を伝言ゲームのように右から左に伝えて行くのでもありません。私たちが教会において受け取るのは、主イエス・キリストにおいて私たちと共にいて下さる神様の恵みです。その恵みは、キリストの十字架の死と復活において、私たちの罪に打ち勝ち、死の力に勝利する力あるものなのです。その恵みを受け取る私たちは、それによって罪を赦されて新しく生かされ、自分の力や働きによるのではない、神の恵みの実りである様々な働きを与えられていくのです。そして私たちはその神の恵みの証人として、世の人々のもとに遣わされていくのです。

輝かしい嗣業
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所は、詩編の第16編です。その5、6節に、「主はわたしに与えられた分、わたしの杯。主はわたしの運命を支える方。測り縄は麗しい地を示し、わたしは輝かしい嗣業を受けました」とあります。嗣業とは、受け継ぐべきもの、相続財産です。わたしはすばらしい相続財産を得た、という喜びをこの詩人は歌っています。その嗣業、相続財産とは、この詩においては、わたしの運命を支える方として共にいて下さる主なる神様ご自身です。この主が私の右に、つまり傍らに、共にいて下さるから、私は揺らぐことがない、私の心は喜び、魂は踊り、体は安心して憩うことができるのです。さらに、「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく、あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず、命の道を教えてくださいます」とも歌われています。つまり、死の力に勝利する神様の恵みが、受け継ぐべき嗣業として与えられているのです。私たちもこの詩人と同じ、いやそれ以上に輝かしい嗣業、受け継ぐべき相続財産を得ています。それこそが主イエス・キリストの福音であり、そこに示されている、「わたしと共にある神の恵み」です。主イエス・キリストの十字架と復活において、神様が、私たちの救いのために必要な全てのことをして下さったのです。私たちはこの輝かしい嗣業を受け継いでいます。代々の教会を生かしてきたその福音を、私たちも、最も大切なものとしてしっかり受け継いでいきたいのです。この福音は私たちの内に働いて、主イエス・キリストとの出会いを与え、罪と死の力に勝利する神様の恵みによって私たちを新しく生かし、復活と永遠の命の究極的希望を与えてくれるのです。

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