クリスマス礼拝

平和の道へと

「平和の道へと」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第40章1-11節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第1章57-80節
・ 讃美歌; 245、182、271

 
ザカリアの賛歌
 本日のクリスマス礼拝において、ルカによる福音書第1章の68節以下をご一緒に味わいたいと思います。ここには「ザカリアの預言」と小見出しがつけられています。67節に、ザカリアが聖霊に満たされてこう預言した、とあるためにこのような小見出しになっているわけですが、68節以下は、「イスラエルの神である主」をほめたたえる賛美の歌です。先週読んだ47~56節の「マリアの賛歌」と並んで、ルカによる福音書第1章には、クリスマスにまつわる二つの賛美の歌が記されているのです。「マリアの賛歌」は、その最初の言葉のラテン語から「マニフィカート」と呼ばれると先週申しましたが、この「ザカリアの賛歌」も、最初の言葉「ほめたたえよ」のラテン語から「ベネディクトゥス」と呼ばれています。

二つの誕生物語
 これを歌ったのはザカリアという人です。彼がどのような事情の中でこれを歌ったのかを知るために、57節以下を朗読していただきました。そこを読めば分かるように、ザカリアの妻エリサベトが男の子を生んだのです。生まれて八日目に、その子に割礼を施すために近所の人々や親族が集まりました。割礼は、子供に名前をつける命名の儀式でもあります。父ザカリアの意志によって、この子には「ヨハネ」という名がつけられました。その時にザカリアが歌ったのがこの賛歌です。つまりこの歌は、一人の子供の誕生において、その喜びの中で歌われたものです。しかしその子供は主イエス・キリストではありません。私たちは今日、主イエス・キリストの誕生を共に祝うためにこの礼拝に集っていますが、本日の聖書の箇所に語られているのは、イエス・キリストの誕生ではなくて、後に洗礼者と呼ばれるようになるヨハネの誕生の話なのです。しかしこれもクリスマスの物語の一環です。ルカによる福音書の第1章には、主イエスの誕生とこのヨハネの誕生とが、織り成されるように交互に語られています。先週読んだ26~56節には、主イエスの母となったマリアに、天使が、「あなたは身ごもって男の子を生む。その子をイエスと名付けなさい」と告げたこと、そしてそのマリアが神様をほめたたえて歌った「マリアの賛歌」が語られていました。その前のところ、6~25節には、天使がザカリアに、「あなたの妻エリサベトは男の子を生む、その子をヨハネと名付けなさい」と告げたことが語られていたのです。つまりルカによる福音書は、まずヨハネの誕生の予告を語り、次に主イエスの誕生の予告、そしてヨハネの誕生の出来事、次に2章に入って主イエスの誕生の出来事を語っているのです。そのように、ヨハネの誕生と主イエスの誕生はしっかりと結び合わされ、一つの話として語られているのです。

主役と脇役
 ルカは何のためにこのような語り方をしているのでしょうか。ザカリアはこの賛歌の76、77節で、自分の子供ヨハネがどのような人になるのかということをこのように語っています。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」。ヨハネはいと高き方の預言者となり、主に先立って行き、その道を整えるのです。そのことは、罪の赦しによる救いを人々に知らせることによってなされるのです。これは、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書第40章に語られている預言の実現です。罪のために苦しみの中にあるイスラエルの民に、慰めが、罪の赦しが告げられ、主の栄光が現れる。そのために荒れ野に道を備え、神のために道を整える者が遣わされるとイザヤ書は語っています。ヨハネはこの、主のために道を備える者となる、とザカリアは語ったのです。ヨハネが道を備える「いと高き方、主」とは、主イエス・キリストです。ヨハネは、主イエスに先立って行き、主のために道を整え、準備する者、言ってみれば主イエスの露払いとなるのです。これはつまり、主イエスが主役であるのに対して、ヨハネは脇役であるということです。脇役は、主役なしにはあり得ません。ヨハネの人生は、主イエスという主役なしにはあり得ないのです。主イエスがおられてこそ、ヨハネの人生には意味が与えられるのです。ルカはこのようなヨハネの誕生を、主イエスの誕生とセットにして語っています。それによってルカは、主イエスの誕生、クリスマスの出来事と、私たちの人生との関係を描こうとしているのではないでしょうか。私たちの人生も、このヨハネと同じように、主イエス・キリストと結び合わされているのです。私たちも、主イエスという主役に対する脇役としての人生を歩むのです。脇役なんていやだ、主役になりたい、と、生まれつきの私たちは思っています。それが、聖書の言うところの罪です。罪というのは、例えて言うならば、脇役である私たちが主役を演じようとすることです。脇役が、みんな主役のつもりで演技をすることによって舞台が混乱し、もめ事が生じ、収拾がつかなくなっている、それが人間の罪のためにこの世界に起っていることだと言えるでしょう。聖書の教える信仰とは、この例えを用いるなら、主役は主イエスであると認め、脇役として生きることです。信仰者になるとは、それまで主役であろうとしていた私たちが、主役の座を主イエスに明け渡して、脇役に回るということなのです。脇役というのは、どうでもよい、なくてもよいものではありません。むしろ、自分の役柄をしっかりとわきまえている、キラリと光る脇役たちによって、舞台はとても締った良いものになるのです。本日の礼拝において、一人の姉妹が洗礼を受け、教会に加えられようとしています。洗礼を受けるとは、旧い自分が死んで、新しく生まれ変わることです。自分が自分の人生の主役であろうとしていた旧い私たちが洗礼において死んで、主イエスの脇役として生きる新しい自分が誕生するのです。主イエスの誕生と結び合わされて、脇役であるヨハネの誕生が語られている、そこに私たちは、自分自身の信仰者としての誕生を重ね合わせることができるのです。

口がきけず、耳も聞こえず
 さてザカリアは、このヨハネの割礼と命名の日まで、口がきけなかったことが63節から分かります。子供の名を彼は板に書いて示したのです。口がきけなかっただけでなく、耳も聞こえなかったことが62節から分かります。「この子に何と名を付けたいか」と「手振りで尋ねた」とあるからです。ザカリアがそのようになった事情は5節以下に語られています。彼はエルサレム神殿の祭司でした。ある日当番で聖所に入って香をたいていた時に、主の天使が彼に現れ、「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」と告げたのです。しかしそれを聞いたザカリアは18節でこう言いました。「何によって、わたしはそれを知ることができるのでしょうか。わたしは老人ですし、妻も年をとっています」。それに対して天使は19節以下でこう言ったのです。「わたしはガブリエル、神の前に立つ者。あなたに話しかけて、この喜ばしい知らせを伝えるために遣わされたのである。あなたは口が利けなくなり、この事の起こる日まで話すことができなくなる。時が来れば実現するわたしの言葉を信じなかったからである」。このようにしてザカリアは、口がきけず、耳も聞こえなくなりました。その彼が、生まれた子供に命名をする時に、周囲の人々の思いに逆らって、天使が告げた通りに「この子の名はヨハネ」と書いたのです。そのとたんに彼の口が開き、舌がほどけて神様を賛美し始めたのです。そこで歌ったのがこの賛歌でした。ザカリアはこのように、妻の妊娠から出産までの間を、口がきけず、耳も聞こえない状態で過ごしたのです。このことが、「ザカリアの賛歌」を味わう上でとても大切な意味を持っています。そのことを考えていきたいと思います。

静けさと沈黙の時
 天使はザカリアに、神様の大きな恵みを告げたのです。子供がないままに年をとってしまっていた彼ら夫婦にとって、子供が与えられることは何よりの喜びです。イスラエルの人々にとっては、子供が与えられることは神様の祝福の印なのです。しかしザカリアはそれを告げられた時、天使の言葉を信じることができませんでした。彼は神様に仕える祭司です。それなのに、自分が仕えている神様の祝福が自分に向けられ、祝福が具体的に与えられることを信じることができなかったのです。これは皮肉な、と言うよりも身につまされることです。私たちは、神様を信じ、主イエス・キリストを信じる信仰者であっても、つまり洗礼を受け教会に連なっている者であっても、神様の恵みが本当に分かっているかというと、そうは言えないのではないでしょうか。神様の恵みが自分の生活の中で、人間の常識を超えて豊かに与えられると聞かされても、私たちはしばしば、「まさかそんなことが」と思ってしまうのです。恵みを素直に信じることができずに疑ってしまうのです。祭司ザカリアの姿はまさに私たちの姿だと言えるでしょう。そのように神様の恵みを疑ったザカリアは、口がきけず、耳も聞こえなくなりました。それは彼の不信仰に対する神様の罰だったのでしょうか。そうではないと思います。彼が、子供が生まれるまでの約十か月の間、口がきけず、耳も聞こえない状態の中で過ごしたのは、人間の思いを超えた神様の恵みの出来事を受け止めるための準備の時だったのではないでしょうか。母親は、妊娠から出産までのいわゆる十月十日の間、自分のおなかに子供を宿し、その成長を実感しながら過ごします。そのようにして母親となる準備をしていくのですから、その間何もしないでブラブラしている父親よりもはるかに強い子供とのつながりが生まれるのは当然です。ザカリアは、口がきけず、耳も聞こえずに過ごした十か月に、ある意味でこの母親と同じような時を過ごしたのではないでしょうか。それは、神様の恵みのみ業をしっかりと受け止めるための準備の時だったのです。その準備のためには、口がきけず、耳も聞こえなくなることが必要だったのです。私たちは、人間の思い、言葉、常識の満ち溢れる世界を生きています。情報化社会と呼ばれる今日は、ザカリアの時代の何十倍、何百倍もの情報、言葉が、日々洪水のように押し寄せてきています。そのように人間の言葉、情報に取り囲まれ、翻弄され、押し流されている中では、私たちは、神様の恵みのみ心を受け止めることができません。ザカリアが天使の言葉を信じることができなかったのも、人間の思いや言葉や常識で心が満たされてしまっていたからです。そのような彼に神様は、人の言葉も聞こえず、自分も語ることができない、つまり人間の言葉や情報から隔離され、その喧騒から解放された静けさをお与えになったのです。その静けさの中で彼は、人間の言葉から離れ、沈黙して、神様のみ言葉に耳を傾け、人と語るのではなく神様と語り合いつつ、神様の大いなる恵みを受け止めるための備えをしたのです。私たちにも、このような時が必要です。神様の前に沈黙し、そのみ言葉とみ業の中に身を置いて、それを受け入れることを学ぶ時です。毎週の礼拝はそのような時として与えられていると言えるでしょう。

新しい言葉
 そのような沈黙の十か月を経て子供が生まれた時、彼は周囲の人々の思いに反してその子にヨハネと名を付けました。それは彼が天使の言葉を受け入れ、神様の恵みを信じて、そのみ心に従う者となったということです。人間の言葉や思いによって生きるのではなくて、神様のみ言葉に聞き従い、神様のなさるみ業を受け入れて歩む信仰を学んだのです。つまりザカリア自身がここで、自分の人生の主役の座を神様に明け渡し、脇役として生きる者となったのです。彼は「この子の名はヨハネ」と書くことによって、その信仰を人々の前で公に告白したのです。言ってみればザカリアも、ここで信仰を告白し、信仰者として新しく生まれ変わったのです。その時、彼は再び聞き、語ることができるようになりました。しかしそこで彼が語ったのは、以前とは違う新しい言葉でした。「まさかそんなことが」と神様の恵みを疑う言葉ではなく、「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を」と神様の恵みをほめたたえる賛美の言葉を、彼は与えられたのです。ザカリアの賛歌は、信仰者として新しく生まれ変わった者の言葉です。洗礼を受けてキリスト信者となった者は、このような新しい言葉を語る者とされるのです。

主イエスの脇役として
 ザカリアが主なる神様をほめたたえて歌った新しい言葉を味わっていきたいと思います。68節後半から69節にこうあります。「主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」。主がイスラエルの民を訪れ、解放して下さる、救いの角をダビデの家から起して下さる、それは主イエス・キリストの誕生、クリスマスの出来事のことです。70節以下には、その救い主イエスの誕生によって、昔の預言者たちが語った神様のみ言葉が実現したのだ、神様がイスラエルの先祖たちと結んで下さった契約を覚えていて下さり、父祖アブラハムに立てて下さった誓いを果して下さったのだ、と語られています。さらに73節後半から75節にかけては、この主イエスによって私たちは、敵の手から救われ、生涯、恐れなく主に仕えることができる、と歌っています。このように、ザカリアが息子ヨハネの誕生において先ずほめたたえて歌っているのは、主イエス・キリストによって実現する神様の救いの恵みなのです。そして76節以下において初めて、先程読んだように息子ヨハネのことが語られています。「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである」。ヨハネは、救い主イエス・キリストの預言者となり、主に先立ってその道を整える者となるのです。そのようにヨハネは、救い主イエス・キリストという主役のもとでの脇役としての生涯を送るのです。ザカリアはそのことを喜び、感謝して、神様をほめたたえているのです。ここに、信仰者に与えられる新しい言葉の基本的特徴が示されています。主イエス・キリストによる救いをほめたたえ、その主イエスと結び合わされた自分のことを感謝をもって語っていく、主イエスという主役のもとでの脇役としての自分を喜びをもって見つめる、それが、信仰者に与えられる新しい言葉の基本なのです。

ヨハネの使命
 しかし、先ほども申しましたが、脇役はどうでもよい存在ではありません。ヨハネは、とても大事な役割を果たすのです。その役割とは77節にある「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」ということです。これは、主イエス・キリストがその十字架と復活によって実現して下さることと一致しています。ヨハネは悔い改めの洗礼による罪の赦しを宣べ伝え、主イエスはその罪の赦しを、ご自分の十字架の死と復活とによって実現して下さるのです。この罪の赦しによる救いは、78節にあるように、「我らの神の憐れみの心による」ことです。ということは、人間の力や正しさによるのではないし、人間の信仰心によるのでもありません。神様は、私たち罪人を憐れんで下さって、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、その十字架の死と復活によって罪の赦しを実現して下さったのです。ヨハネは、その神様の憐れみのみ心の中で、「主の民に罪の赦しによる救いを知らせる」ために用いられていくのです。

キラリと光る人生
 78節後半から79節にかけて、「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」と語られています。神様の憐れみによって、救い主イエス・キリストというまことの光が私たちを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らして下さるのです。人間の罪による暗闇は、二千年前に比べて薄らぐどころかむしろ深まっていることを私たちは感じています。その闇を追い払って朝をもたらすあけぼのの光は、主イエス・キリストによってしか、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さる神様の独り子によってしか輝くことはないのです。その主イエスのための道備えをしたヨハネは、夜明けを告げる明けの明星のような働きをしたのです。彼は主イエスの露払い、脇役としての歩みに徹することによって、まさに、闇の中でキラリと光る者となることができたのです。主イエスという主役のもとでの脇役として生きる信仰者は、暗闇に閉ざされたこの世界において、死の陰に座している人々の中で、このようにキラリと光る人生を送ることができるのです。

平和の道へと
 「我らの歩みを平和の道に導く」とこの賛歌はしめくくられています。今年も私たちは、「クリスマスに平和の祈りを」というバナーを教会の正面に掲げました。争いや戦いによって人々が傷ついていく現実がある限り、平和を祈り求める思いは変わることはありません。しかし、平和は、私たちの祈りに答えて神様が奇跡によって与えて下さるものではないでしょう。平和の反対の争いや戦いを引き起こしているのは私たち人間です。だから平和を築くのもまた人間の責任なのです。つまり私たちが、世界の人々が、国々の指導者たちが、「平和の道」を歩むことが大切なのです。私たちが、世界の国々が、戦いの道ではなく平和の道へと導かれ、その道をこそ選び取り歩んでいくことができるように、それが私たちの祈りです。その平和の道を私たちに示し、そこへと導いてくれる光として、主イエス・キリストはこの世に来られました。私たちは主イエスを人生の主役に迎え、脇役として、主イエスの光に照らされながら、ヨハネのようにまことの光である主イエスを指し示しつつ生きる者となるのです。そのことによって私たちは、暗闇と死の陰の中にあるこの世界に、ここにこそ平和の道があると指し示し、その道を率先して歩んでいく、キラリと光る者となることができるのです。

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