主日礼拝

イエスは主である

「イエスは主である」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 列王記上 第18章16-40節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第12章1-3節
・ 讃美歌; 11、50、341

 
霊的な賜物
 礼拝において、コリントの信徒への手紙一を読み進めてきまして、本日から第12章に入ります。この12章に語られていくのは、最初の小見出しにあるように、「霊的な賜物」についてです。霊的な賜物というと皆さんはどんなことを思い浮べるでしょうか。テレビによく出てくる霊能者を思い出すかもしれません。背後霊を見ることができるとか、物をすかして見る透視能力とか、未来を予言する力のようなものを考えるかもしれません。そういう力はある意味で「霊的な賜物」と言えるかもしれません。しかしそういう賜物は、たとえあるとしても、ごく限られた特別な人にだけ備わっているもので、誰もが持っているわけではありません。しかし、ここで語られている霊的な賜物は、私たちの誰にでも与えられるものなのです。「霊的」の「霊」は、背後霊とか霊能者の「霊」ではなくて、神様の霊、聖霊です。「霊的な賜物」とは聖霊の賜物です。それは私たち一人一人、皆に与えられているのです。

信仰は聖霊の賜物
 聖霊の賜物はどのように与えられているのでしょうか。本日のところの3節の後半でパウロは、「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」と言っています。「イエスは主である」と言う、それは要するにイエス・キリストを信じる信仰を公に言い表すことです。そのようにして、私たちは洗礼を受け、キリスト信者、教会のメンバーとなります。つまりパウロはここで、私たちがイエス・キリストを信じる信仰者になることが、聖霊の働きによること、聖霊の賜物だと言っているのです。このことは、聖書の教える信仰とはどのようなものかを知ることにおいてとても大事なことです。信仰は、私たちが自分で獲得するものではないのです。勉強して、あるいは何らかの修行を積んである境地を得ることではないのです。信仰は、与えられるものです。それを与えてくれるのが聖霊なのです。信仰者となるために私たちのできることは、この聖霊の働きを祈り求めることです。神様、私はあなたを信じる者になりたいのです。だから、聖霊の働きを与えて下さい、聖霊によらなければ誰も語ることができない、「イエスは主である」という告白を私にも与えて下さい、と神様に祈るのです。そのような祈り求めに、神様は必ず応えて下さいます。聖霊を働かせて、聖霊の賜物である信仰を与えて下さるのです。ですから、洗礼を受けた信仰者は一人残らず、聖霊の賜物、霊的な賜物をいただいていると言うことができるのです。
 しかし聖霊の賜物を受けているのは、既に洗礼を受けてクリスチャンになっている人のみではありません。信仰は聖霊の働きによって与えられると申しました。更に言えば、私たちが信仰を求めようという気持ちを与えられるのも、あるいはもっと手前の、聖書のお話を聞いてみようという思いを与えられるのも、あるいはそんな思いすらないけれども、とにかく教会の礼拝というものに行ってみようという思いになるのも、皆聖霊の働きによることなのです。ということは、今この礼拝に集っている人は全員、洗礼を受けている人もそうでない人も、今日初めて礼拝というものに来たという人も含めて、皆、聖霊の導きの中に置かれているのであって、聖霊の賜物をもらっているのです。聖書の言うところの「霊的な賜物」とはそういうものです。それは決して、ある特別な少数の人のみに与えられているものではないのです。

賜物によって歩む教会
 「イエスは主である」という信仰告白は聖霊の賜物であって、聖霊によらなければ誰もそのように告白することはできない、とパウロは3節で語っているわけですが、それは、「イエスは主である」という告白のみが霊的な賜物である、ということではありません。教会の営みの全ては聖霊の働きによって導かれ支えられていると言うことができるのであって、聖霊の賜物は教会の様々な人々に、様々な仕方で与えられているのです。様々な人々に、と申しました。教会とは信仰者たちの群れ、共同体ですから、その営みというのは全て人間の営みです。私たち人間が、聖霊の働きによって様々な賜物を与えられて、それを用いて教会の営みを進めていくのです。礼拝において牧師が説教を語るというのもそういうことです。長老や執事の働きも、教会学校の教師や様々な奉仕の業も皆そうです。教会員に与えられている様々な霊的な賜物が発揮され、用いられることによって教会の活動はなされていくのです。それはコリント教会においても同じでした。教会の日常的な営みにおいて、教会員に与えられている様々な聖霊の賜物が発揮されていたのです。そしてコリント教会の人々は、そのような賜物を特に豊かに与えられていました。豊かな賜物によって、非常に活発な活動がなされていたのです。そのことをパウロはこの手紙の1章5節でこのように言い表しています。「あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」。また7節には「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく」とあります。あらゆる言葉、あらゆる知識において、豊かな賜物を与えられ、賜物に何一つ欠けるところがないとさえ言えるような、コリント教会はそういう活発な教会だったのです。

賜物による混乱
 ところが、そのように霊的な賜物を豊かに与えられている中で、この教会には、ある混乱が、無秩序が起っていました。これまで読んできたところに既に語られていたように、この教会にはいくつかの党派、グループが生まれて対立し合っていたのです。それは、それぞれの党派が、自分たちに与えられている賜物を誇り合うようになっていたということです。パウロはこの党派争いの根本に、自分を誇ろうとする思いがあることを見つめて、「誇る者は主を誇れ」と語りました。自分に与えられている賜物を誇り、自分の賜物が発揮され生かされることを求めるところに党派争いが生じている。しかし教会において本当に発揮され生かされるべきなのは主イエス・キリストのみ心ではないか。あなたがたは誇るべきものを間違ってしまっている、とパウロはコリント教会の人々を叱責しているのです。

知らなければならないこと
 コリント教会のそういう状態を見すえつつ、パウロはここで、「霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」と語っています。霊的な賜物、聖霊の賜物について、信仰者が必ず知っておかなければならないことがある。それを知らないでいると、せっかく豊かな賜物が与えられていても、それがかえって教会に混乱や対立をもたらすことになってしまうのです。その必ず知っておかなければならないこととは何なのでしょうか。
 それを語っているのが3節なのです。3節の頭に「ここであなたがたに言っておきたい」とあります。改まった口調で、ぜひ知っておいて欲しいことを語ろうとしているのです。そのようにして語られていくのが、「神の霊によって語る人は、だれも『イエスは神から見捨てられよ』とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」ということです。豊かな賜物を与えられておりながら、自分の賜物を誇る思いによって対立に陥っている教会の人々が、しっかりと知っておかなければならないことがこれなのです。パウロはいったいここで何を語ろうとしているのでしょうか。

霊的興奮状態の中で
 先ほどは後半のところだけを読みましたが、パウロはここで、「イエスは神から見捨てられよ」と、「イエスは主である」という二つの正反対の言葉を並べています。そして、神の霊、聖霊によって与えられる言葉は勿論「イエスは主である」という言葉であって、「イエスは神から見捨てられよ」という言葉は聖霊の賜物ではないと言っているのです。これは口語訳聖書では「イエスはのろわれよ」となっていました。この方がニュアンスがよく表れています。つまりこれは主イエスを呪う言葉です。そのような言葉がどこで語られていたのかについては議論があります。キリスト教迫害の中で、「イエスは呪われよ」と言わない人はキリスト教徒として処罰された、つまり日本での「踏み絵」と同じような使われ方をした言葉だという考えもあります。けれどもそれは少し時代が合いません。パウロがこの手紙を書いた当時は、まだそのような組織的な迫害は始まっていませんでした。またここでの文脈も、迫害を逃れるために「イエスは呪われよ」と言ってしまうことを戒めようとしているのではありません。おそらくこの言葉は、実際に当時のコリント教会において実際に語られていたのだと思われるのです。しかし教会において「イエスは呪われよ」などとどうして語られるのでしょうか。それは、霊的興奮状態の中であらぬことを口走る、という状況においてだと考えられます。コリント教会には、霊にとりつかれた状態になって、無意識の内にあらぬことを口走る人々がいたのです。そのような興奮状態が、聖霊に満たされた状態として尊ばれ、そういうふうになる人が霊的な賜物を与えられていると尊敬され、また本人もそれを自分の賜物として誇るということがあったのです。この後のところに出てくる「異言の賜物」というのはそういうものです。その異言の一種として「イエスは呪われよ」と叫ぶ人がいたのでしょう。しかしそういう言葉は聖霊の賜物ではないとパウロは言っているのです。そのことによって彼は、霊的な賜物として与えられる言葉には自ずと内容の限定がある。霊的興奮状態になってあらぬことを口走る人々がいるが、それを全て聖霊の賜物として認め、尊重するのは間違いだ、と言っているのです。

まだ異教徒だったころ
 このことは2節とも関係してきます。2節には「あなたがたがまだ異教徒だったころ、誘われるままに、ものの言えない偶像のもとに連れて行かれたことを覚えているでしょう」とあります。コリント教会の人々の多くはギリシャ人で、もともとはギリシャの神々を拝む異教徒だったのです。そのギリシャの神々、偶像の神々の前での礼拝、祭儀には、今申しましたような霊的興奮状態がつきものでした。神々の像の前で、興奮状態になって踊ったり、叫び声をあげたりということにおいて、神々と一体となったかのような、神々が自分の中に宿ったような気持ちになったのです。それゆえに、ことさらにそのような興奮状態を煽るような演出もなされていました。コリントには神殿娼婦が沢山いたということを前に申しました。神殿と娼婦とどう結びつくのかと私たちは思いますが、それもこのような背景から来ることです。セックスにおける興奮状態の中に、神々との交流、交わりを感じるのです。コリントの人々は、宗教というのはそういう霊的興奮状態を引き起こすものだと思っていました。そういうものが、キリスト教会の中にも入りこんできて、それが聖霊の賜物として尊重されるようになっていたのです。それゆえにパウロはここで、霊的な賜物のことを語るに際して、偶像のもとにあった以前のことを彼らに思い起こさせ、しかし今あなたがたは神の霊、聖霊の賜物を与えられている、それはあなたがたが以前体験していた、霊的興奮状態になって我を忘れてあらぬことを口走るようなこととは違うはずだ、と言っているのです。聖霊によって与えられるのは、そのような興奮状態ではなくて、「イエスは主である」という告白なのです。その告白を生まないものは、聖霊の賜物とは言えないのです。

ものの言えない偶像
 今述べてきたようなコリント教会の事情は、私たちとはかなりかけ離れたものです。今日もキリスト教会の中には、霊的興奮状態になって異言を語ることを重んじるところがありますが、少なくとも私たちの教会においてはそのようなことはないし、それを聖霊の賜物として尊重したり誇ることもありません。そういう意味では、ここに語られていることは私たちとは関係がないとも言えます。表面的にはそうですが、しかし少し深く掘り下げてみれば、このことと私たちの信仰との関わりが見えてきます。そのきっかけとなるのは、「ものの言えない偶像」という言葉です。偶像の神はものが言えない、語ることができない。パウロはどうしてわざわざそういうことを言うのでしょうか。そこで彼が見つめているのはこういうことではないでしょうか。つまり、偶像はものが言えない、それゆえに、偶像の神の前では、人間が語るしかないのです。ものの言えない偶像の前では、人間は饒舌になります。自分が何かを語っていなければ沈黙が支配してしまうわけで、不安になるのです。偶像の前で興奮状態になってあらぬことを口走るのはその不安の現れなのではないでしょうか。このことは、主イエスが祈りについて教えられたマタイによる福音書6章7節の、「あなたがたが祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる」というみ言葉における異邦人の祈りの姿とも通じるものがあります。ものの言えない偶像に祈る者は、くどくどと言葉数多く祈り願わずにはおれないのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、列王記上18章には、まさにそのような有様が描かれています。ここは、主なる神様の預言者エリヤが、偶像の神バアルの預言者450人と一人きりで対決した時の話です。天から火を下して犠牲の動物を焼いた方がまことの神だ、という設定で、エリヤとバアルの預言者の勝負が行われています。まずバアルの預言者たちが祭壇のまわりでバアルの名を呼んで祈りました。26節以下を読んでみます。「彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えてください』と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを跳び回った。真昼ごろ、エリヤは彼らを嘲って言った。『大声で呼ぶがいい。バアルは神なのだから。神は不満なのか、それとも人目を避けているのか、旅にでも出ているのか。恐らく眠っていて、起こしてもらわなければならないのだろう。』彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げ物をささげる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった」。ものの言えない偶像の前では、人間がこのように興奮して踊ったり叫んだりして、くどくどと祈るしかないのです。
 しかし偶像からは何の答えもありません。そこでエリヤは、犠牲の動物と祭壇とを水びたしにした上で、「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ、あなたがイスラエルにおいて神であられること、またわたしがあなたの僕であって、これらすべてのことをあなたの御言葉によって行ったことが、今日明らかになりますように。わたしに答えてください。主よ、わたしに答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたが神であり、彼らの心を元に返したのは、あなたであることを知るでしょう」と祈りました。すると天から火が下り、全てを焼き尽くしたのです。ここには、興奮状態や、かまびすしい人間の叫びはありません。生けるまことの神様に対しては、この一言の祈りだけで十分だったのです。ものの言えない偶像ではなくて、まことの神のもとに生きる者の祈りの姿がここにあると言えるでしょう。

イエスは主である
 パウロは、ものの言えない偶像のもとにある人間と、「イエスは主である」と告白して生きる人間とを対置させています。イエスは主であるとは、自分はその僕であるということです。僕は、主人の言葉を聞き、その命令を待つのです。主が語り、僕は聞く、それが主と僕の関係です。「イエスは主である」という告白は、この主の前に、自分は黙り、沈黙してそのみ言葉を聞くということなのです。偶像の下にある人間と、生けるまことの神の下にある人間との最も大きな違いがここにあります。偶像の下にあるときには、私たちが語るのです。私たちの語る言葉がそこに満ちていくのです。しかし、生けるまことの神の下にあるときには、神がお語りになるのです。私たちは沈黙して、その語られる言葉を聞くのです。私たちの信仰はどうでしょうか。生ける神の前に沈黙して、その語られる言葉を聞くという信仰になっているでしょうか。私たちの言葉、自分の言葉ばかりがかまびすしく語られ、神は沈黙しておられる、ということになってはいないでしょうか。もしそうであったら、言葉としては「イエスは主である」と唱えているとしても、私たちはイエスを、主ではなく、ものの言えない偶像にしてしまっているのです。そこで私たちが語っている言葉は、たとえどんなに冷静に語られているとしても、霊的興奮状態の中であらぬことを口走っているのと少しも変わらない、「イエスは呪われよ」と言っているのと同じなのです。

主の前に沈黙して
 「イエスは主である」と言うとは、主イエスが生ける神としてお語りになる、私たちは自分の言葉を語ることをやめて、沈黙して、静まってそのみ言葉を聞く、ということが起こることです。それは、聖霊によらなければ実現しないのです。「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えない」というのはそういうことです。生れつきの私たちは、ものの言えない偶像の神しか知りません。だから、自分が語っていなければ、自分が何かしていなければ、不安でならないのです。自分の賜物を誇り、それが発揮され生かされることを求めるというのも、そのために起ることです。自分を誇る思いというのは、自分が主人になり、神様を、主イエスを、ものの言えない偶像にしてしまうことなのです。そのような私たちが、イエスは主である、と告白し、自分が主人であることをやめ、自分が語ること、自分の賜物を発揮して自分が働くことを停止して、主イエスが語られることを沈黙して聞く者となる、それが聖霊の働き、霊的な賜物なのです。霊的な賜物は特定の人だけにではなく、私たちみんなに与えられている、と最初の方で申しました。それは、私たちそれぞれに、神様から何かできること、才能や力が与えられているはずだ、ということではありません。「イエスは主である」と告白すること、主イエス・キリストが語りかけておられるみ言葉を、沈黙して聞く者となること、それこそが、聖霊の与える第一の、そして私たちみんなに与えられる賜物なのです。私たちの心は、自分の思い、自分の願い、自分の悩み苦しみ、自分の不満や怒りやいらだち、自分の心配、そういう自分の言葉に満ちており、それによって自家中毒を起こしてしまっています。その私たちが、礼拝において、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエス・キリストと出会い、聖霊の働きによって、「イエスは主である」と告白して、主イエスの恵みのみ言葉を沈黙して聞く者とされる、その時、自分の言葉、自分の思いで満たされてしまっている私たちの心は開かれ、新しい、新鮮な風が吹き込み、自分を誇るのではなく主をこそ誇る新しい喜びの生活が与えられるのです。

関連記事

TOP