夕礼拝

はっきり見えるように

「はっきり見えるように」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第42章1-7節
・ 新約聖書;マルコによる福音書 第8章22-26節
・ 讃美歌 ; 303、461

 
二つの癒し
 本日の箇所は、主イエスと一行がベトサイダに着いた時の出来事です。ここで主イエスは人々が連れて来た一人の盲人を癒されます。主イエスは、癒される前に、この人を村から連れ出し、目に唾をつけて癒されたのです。この癒しの出来事を読んで思い起こすのは、直前の7章31節に記されていた耳が聞こえず舌が回らない人を癒された出来事です。そこでも主イエスは、耳の不自由な人だけを群衆の中から連れ出します。その上で、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられることによってこの人の耳を開かれたのです。二つの業はどちらも、癒す人を人々から引き離した上で、唾をつけることによって行われています。盲人の癒しと、耳が聞こえず舌の回らない人の癒しの出来事は、どちらもマルコによる福音書だけに記される物語ですが、この二つは明らかに対応しているのです。この二つの出来事の間には四千人の人々を満腹させた主イエスの御業と、しるしを求めて主イエスに議論をしかけるファリサイ派の人々の姿、そして、そこに示されている恵を理解しない弟子たちの姿が記されています。その中の、8章の17節には、主イエスの嘆きの言葉が記されています。「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか」。主イエスは、パンの奇跡に接していながら、そこに示されている神様の恵みを理解しない弟子達に対して、「目があっても見えないのか、耳があっても聞こえないのか」と嘆かれているのです。この嘆きを挟むようにして、耳の不自由な人の耳が開かれ、目が不自由な人の目が開かれるという出来事が記されているのです。ここには、主に従おうとして歩む弟子たちや主を試そうとするファリサイ派の人々が神様の恵を理解しないのに対して、人々に連れてこられて、自分の身を主イエスに委ねることしか出来なかった耳の不自由な人や目の不自由な人の耳や目が開かれたということが示されているのです。イザヤ書53章は5節には「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く」とあります。主イエスの到来というのはこのイザヤの預言の成就なのです。

盲人を連れてくる人々
この盲人は人々によって連れてこられました。目が見えない人は、一人では主イエスの所まで来ることは出来ません。周囲の人に手伝ってもらうのです。私たちは、盲人を連れてきた人々は、目が不自由な人の苦しみを思い、この人の目が開かれることを心から願って主イエスの下に連れて来たのだろうと想像します。しかし、この時、果たしてそのような純粋な願いだけで、人々は主イエスの下にやって来たのでしょうか。そうではないと思います。主イエスは、この人の目を癒される前に、この盲人を連れてきた人々から引き離しています。23節には「イエスは盲人の手を取って、村の外に連れだし」と記されています。目が見えない人を引き連れて歩くということは大変なことです。当時は、今のように道も舗装されていなかったでしょう。手を引いてゆっくりと歩いていかなくてはなりません。しかし、そうまでして、主イエスは、この人を村の外に連れ出されたのです。もちろん、主イエスは人々から離れることによってこの人と真剣に向かい合おうとされたのだと言うことが出来ます。目を開くことに集中しないと癒すことができなかったのだとも考えられます。しかし、マルコによる福音書の10章には盲人バルティマイが癒される記事が記されていますが、そこで主イエスは、人々がいる前で目を開かれています。ですから、人々がいない場所でないと、主イエスは癒しの業をなすことが出来ないということではないのです。むしろ、主イエスが、この人を人々から離されたのは、主イエスや、盲人にそうしなければならない事情があるのではなく、この人を連れてきた人々の方に問題があったのです。主イエスは、ご自身の御業を、この人々に見せることをなさらなかったのです。

主イエスを試す
どうして、主イエスは、人々の前で御業をなさらなかったのでしょうか。はっきりと記されているわけではありませんが、この時、人々の思いの中には、主イエスを試し、しるしを求める思いがあったのです。直前の8章11節には、ファリサイ派の人々がイエスを試そうとして、天からのしるしを求めて議論をしかけたことが記されています。主イエスが本当に救い主であるのかどうか試そうとしたのです。一見して救い主だとわかるような偉大な業を見せてみろというのです。もし、そのようなしるしを見せれば信じてやろうというのです。この時、主イエスは深く嘆きつつ、「どうして今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない」と言われました。主イエスを試す思いで、しるしを求めても、その求めが応えられることはないのです。ファリサイ派の人々は、主イエスが神様の恵を示しておられるにもかかわらず、そのことが分からなかったのです。そのような中で、主イエスを試そうとして議論をしかけるのです。おそらく、ベトサイダで盲人を連れて来た人々も、主イエスが何かしるしを見せるのではないだろうかという思いで、この人を連れてきたのだろうと思います。最後の26節を見ますと、「イエスは『この村に入ってはいけない』と言って、その人を家に帰された」とあります。つまり、この盲人の家はこの村にはないのです。人々は、よその村から、この人を連れてきたのです。もしかしたら、この人々の中には、主イエスを試そうとしたファリサイ派の人も混ざっていたかもしれません。議論を仕掛けたにも関わらず、主イエスに断られて、今度は盲人を連れてきたのです。主イエスは、人々のそのようなご自身を試そうとする思いを見抜かれたのではないでしょうか。そのために、癒しの業をなさる前に、村を出られたのです。しるしを求める人々の手段として扱われている盲人だけを村から出されたのです。

しるしを求める態度
人間は神様を信じようとする時、しるしを求めたがるものです。自分で分かる神様の御業を見ようとしたり聞こうとしたりするのです。神様に対して直接しるしを求めることはなくても、超自然的な現象に関心を示したり、霊的な力を信じたりすることがあるかもしれません。人々は、何故、主イエスが嘆かれるほどまでにしるしを欲しがるのでしょうか。それは、既に与えられている神様の恵を知ることが出来ないからではないでしょうか。ベトサイダの村にいる人々は肉体的には目が見えています。しかし、彼らは、目があっても見えていませんでした。盲人を連れてきた人々も、神様の恵が分からず、目が見えないのです。目が見えず恵みを知ることが出来ないということと、主イエスを試そうとすることは深く結びついているのです。「天からのしるし」と言われています。これは、人間離れした驚嘆するような業を見せてみろということです。天変地異のようなことを想像しても良いかもしれません。それだけではなく、肉体的に目が見えない人の目が見えるようになるとか不治の病が治るということを想像してもいいでしょう。もちろん病や、困難からの救いを真剣に求めること自体は悪いことではありません。そこにおいて、主を試そうとすることが問題なのです。主なる神に相応しいしるしが見せられないのであれば、私は信じないというような思いに縛られることが問題なのです。そのように主を試そうとする時に、神様の力を自分の思いに従わせることによって神様を支配しようとしているのです。このような思いは、私たちを強く縛っています。そのような思いに捕らわれる中では、他人の苦しみも、神を試すための手段にしかならないのです。人々にとって、この盲人は、主イエスを試するための手段、道具なのです。そこには、本当の意味で、この人のことを思いやる気持ちはないのです。そして、そのような、しるしを求める歩みの中では、決して神の恵を知ることは出来ないのです。そこでは、いつも自分が主人となって、神様の力を自分の思いに従わせようとしているからです。 そこに、目があっても見えない者。見えていないのに見えていると思っている者の罪があるのです。

ベトサイダ
 主イエスは、盲人と人々を引き離そうとしました。しかし、何故、村から連れ出したのでしょうか。耳が聞こえず舌が回らない人を癒された時は、その人だけを「群衆の中から連れ出し」たのです。ただ人々から離れるだけならわざわざ村から出る必要はなかったと思います。しかし、そうしなくてはならなかったのです。主イエスがおられるベトサイダとはどのような村だったのでしょうか。聖書の中にそれほど多く出てくる村ではありません。この村についての記述がマタイによる福音書の第11章に記されています。そこでは主イエスが悔い改めない町を叱ったことが記されています。20節には次のようにあります。「それからイエスは、数多くの奇跡の行われた町々が悔い改めなかったので、叱り始められた。『コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ』おまえ達のところで行われた奇跡が、ティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰をかぶって悔い改めたにちがいない」。ここで主イエスが叱った町の中にベトサイダが出てきます。この箇所は私たちの感覚からすると不自然に聞こえます。村がまるで人格を持った人間のように描かれているのです。村の中には様々な人がいたことでしょう。しかしそのような個人個人を問題にするのではなく、個人の集合体である村全体の持っている特徴が見つめられているのです。その村の名称でそこに住む人々のことが言われているのです。ソドムとゴモラの話しにもあるように、聖書は、そこに住む人々の姿勢から町や村の性格を描くのです。このベトサイダは、主イエスの奇跡に接しているにも関わらず、悔い改めるということをしない村なのです。ここで、奇跡と悔い改めが結びつけられていることにも注目したいと思います。奇跡がなされ、恵みが知らされるということは、本来、悔い改めが起るはずなのです。それは言い換えれば、神様の恵が示される時、そこでは必ず罪が明らかになり、神様に立ち返ることが起こるということです。ベトサイダにおいては、この悔い改めがなされなかったのです。主イエスの恵が示される奇跡がなされているにも関わらず、そのことが見えず、悔い改めがなされない時、自分の望むしるしを求めて主イエスを試し続けるだけなのです。ベトサイダというのはそのような村なのです。そのため、主イエスは、この人の目を開く前に、この人を村から出さなければならなかったのです。ただ出されて癒されただけではなく、その後に村に戻ることなく自分の家に帰るようにと忠告をしているのです。

目を開かれる主
主イエスは村の外に連れ出した盲人の目に唾をつけ、両手をその上に置かれます。そうした上で、「何か見えるか」とお尋ねになるのです。目が開かれたかどうかを確認されるのです。このことによって盲人は見えるようになります。しかし、はっきりと見えているのではありません。「人が見えます。木のようですが、歩いているのが分かります」。目が開かれてもまだはっきりと見ることは出来ません。木のようなものが見える。それが歩いているために人だと分かるのです。そこで主イエスは、もう一度、目に両手を置かれるのです。そのことによって、よく見えてきて「何でもはっきり見えるようになった」のです。主イエスは今まで、このような形で御業をなされたことはありません。御言葉を語るだけで癒されることがあります。主イエスに触れることによってあっという間に癒されることがあります。聖書が記す、主イエスの御業は、どれも、まさに神さまの偉大さを表すように人間的には信じがたい形で瞬間的に起こっているように記されています。しかし、ここでは違うのです。主イエスは「何か見えるか」と尋ねられる。自分が触れたことによって、見えるようになったか確認しておられるのです。まるで、お医者さんが病で苦しむ人を何とか直そうとして、繰り返し尋ねることによって、その人の苦しみを知ろうとするように、この人が見えるかどうかを尋ねるのです。「天からのしるし」を見せてやろう等という姿はどこにもありません。そして、はっきりと見えていないことが分かると、もう一度両手を置かれるのです。この態度にも、主イエスの愛が示されていると言って良いと思います。愛する人がけがをした時に、その人のけがの上に手を当てて傷を覆いながら、その人の痛みを気遣い、傷を確認して尋ねることを繰り返すように、目の見えない人の目を癒されるのです。

はっきり見えるように
 この人は、もう一度両手をその目に当てられることによって、はっきり見えるようになって癒されたのです。信仰の目は徐々に開かれていくのです。繰り返し、主イエスに手を置いていただくことによって見えるようにされて行くのです。この人は、おそらく、見えるようになった目で、最初に主イエスを見たのではないかと思います。主イエスが手を置いていやしておられるのだから、そこで目が開かれて先ず見るのは、主イエスのはずです。私たちの信仰の目が開かれるということは、最初に他の何者でもなく、主イエスのお姿を見ることです。それは、主イエスの十字架のお姿です。主イエスを試そうとする者たちによって、十字架に付けられた主イエスによって、私たちの罪が赦されているのです。そこに、主イエスの愛による癒しの業が最もはっきりと表されているのです。十字架に付けられ苦しまれる姿というのは人間的に見れば「天からのしるし」というようなものではありません。しかし、その十字架によってこそ、神様の恵が知らされるのです。その恵を知らされる中で、救いを受けつつ、主を試しつつ歩んでしまう自らの罪を悔い改めるものとされるのです。そのように主の恵の中で悔い改め起こる時に、私たちの目は開かれて、はっきりと見えるようにされているのです。

おわりに
 私たちは、ベトサイダの村人になってしまうことが多いように思います。神様の恵みが分からなくなってしまうのです。心のどこかで、主イエスを試そうとしているのです。自分が納得するような「天からのしるし」を見せてほしい。天からのしるしとまでは言わなくても、自分が直面している課題や困難を神の力によって解決してほしい。心のどこかで、そのような思いを抱きながら主イエスと向かい合っているのではないでしょうか。そして、自分のことだけではなくて、隣人までも利用して、主イエスを試すのです。不幸や困難の中にある人に目を向けて、その人を心から思いやるよりも、その人の不幸が取り除かれるかどうかに注目する。そこに神の働き、しるしを見ようとするのです。そして、神様を試す思いの中で、神様を自分で捉えようとしているのです。けれども、主イエスがはっきり言われた通りそのような者には、「決してしるしは与えられない」のです。人間離れした業が起こるのではなく、自分の願った通りの事が起こるのでもないかもしれません。聖書が語る救いの出来事が、今の自分が直面している人生にとって何の意味があるのだろうかとの思いがすることがあるかもしれません。しかし、主は、確かに救おうとして下さるのです。苦しみの中にいる私たちの手を引いてベトサイダから連れ出して下さるのです。たとえ私たちが思い描く「天からのしるし」というようなものは示されなくても、主イェスは、私たちの罪に曇った目に両手を当てて、「何か見えるか」と声をかけて下さっているのです。そして、かすかに見える目で、主イエスの姿を見つめて行く中で、少しずつはっきりと見えるようにして下さっているのです。私たちは、毎週もたれる礼拝において、主イエスと出会います。その中で、主イェスによって罪の闇から連れ出され、主の恵に気づかせていただくのです。この礼拝においても、たとえ、私たちが求めるような「しるし」は示されなくても、主イエスは、闇の中にいる私たちの目を開き、ご自身を示して下さっているのです。その上で、「この村には入ってはいけない」と言っておられる。試すことによって主を知ろうとすることではなく、ただ与えられている恵を見つめつつ歩むようにと言っておられるのです。そのようにして、私たちを家へと帰して下さるのです。この主イェスによって押し出されて、主の恵みに感謝しつつ歩むものでありたいと思います。

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