夕礼拝

全能の神による救い

「全能の神による救い」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; ヨブ記第42章1-6節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第10章17-31節
・ 讃美歌 ; 227、510

 
主イエスの前を立ち去る人
マルコによる福音書の10章17節~31節を共にお読みしました。本日は、先週取り上げた、22節までの箇所に続く、23節以下を中心に 御言葉に聞きたいと思います。旅に出ようとした主イエスのもとに、「ある人」が走り寄って、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいのでしょうか」 と尋ねました。神様の救いに与るためにしなくてはいけないことを真剣に問うたのです。主イエスは、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、 奪い取るな、父母を敬え』という掟なら知っているはずだ」とおっしゃいます。それに対して、この人は、「そういうことはみな、子供の時から守っ てきました」と主張するのです。それを聞いた主イエスは、次のように語ります。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っているものを売り払い、 貧しい人々に施しなさい。そうすれば天に富を積むことになる。それからわたしに従いなさい」。主イエスは、ここで、これまで守ってきたことに加えて、 貧しい人々に施さなくてはならないと教えられたのではありません。持っているものを捨て、主イエスに従うことこそ、永遠の命、神様の救いを受け継ぐ ために、決定的に重要なことであると言われたのです。この言葉を聞いて、この人は気を落とし、悲しみながら立ち去ったのです。「たくさんの財産を 持っていたからである」と理由が記されています。この人は、主イエスに対して、何と無茶なことを言うのかと怒りを抱いたのではありません。 「気を落とし、悲しみながら立ち去った」のです。ここには、この人が、主イエスを信頼し、主イエスの教えを真摯に受けとめようとしていたことが 表されています。主イエスこそ救いに至る道を示して下さる人だと思っていたのでしょう。しかし、それでも、主イエスのもとを立ち去ってしまったのです。 ここには、「持っているもの」を捨てることが出来ない人間の姿が示されています。この人が立ち去った後、主イエスは、今度は弟子たちを見回して言われます。 「財産のある者が神の国に入るのは、何と難しいことか」。

自らの行いを積み上げる歩み
この主イエスの言葉を聞いて、私たちはどのようなことを思うのでしょうか。「この人はたくさんの財産を持っていたために主イエスのもとを立ち去って しまったが、私はたくさん財産を持っているわけではないからこの人とは違う」というようなことかもしれません。さらには、自分よりも財産を持っている 人々を思いめぐらし、自分の周りにいる、あの人、この人は、この御言葉をどのように聞くのだろうというようなことを思うのかもしれません。しかし、 そのようなことを思うのであれば、この御言葉を全く誤解してしまうことになります。ここで、主イエスは、お金をたくさん持っている人とそうでない人 を区別して、お金をたくさん持っていない人は神の国に入る可能性があるが、たくさん持っている人は、その可能性がないのだと言われているのではあり ません。ここで主イエスが言う「持っているもの」とは、単純に財産だけを意味するのではありません。「持っているもの」とは、私たち人間が、この世 を歩む中で、自らの力によって獲得し、積み上げ、所有しているものです。それは、財産に限られません。自分の知識、学歴、培ってきた経験、善い行い や敬虔な信仰生活、その他もろもろのものがこれに含まれます。私たちは誰しも、そのような様々なものを獲得しつつ歩んでいるのです。
主イエスのもとを立ち去った人この人は、まさに自分が持っているものを積み上げていくことで、神様の救いに与ることが出来ると考え、自分の業によって、 それをひたすら求め、獲得しようとしていたのです。それは地上に富を積む歩みと言っても良いでしょう。幼い頃から律法をしっかり守り、品行方正な歩み をしてきました。そして、主イエスに走り寄って、永遠の命を受け継ぐために、更に加えて守るべきことを聞こうとしたのです。この人は、実際に、周囲の 人々よりもたくさんの財産を持っていたのだと思います。しかし、それは、この人がこれまで歩んできた、救いを得るために自らの「持っているもの」を 獲得していく歩みを象徴しているのです。主イエスが持っているものを売り払い、私に従うようにと言われたのは、ただ、慈善活動にはげめということで はなく、救われるために自分で何かを獲得し、積み上げていこうとする歩みそのものを止めるようにということなのです。このように考えると、ここで語 られる御言葉は、私たちが自分は決してお金持ちではない等と行って暢気に聞いていられることではないのです。私たちもやはり、この人と同じように、 自分の持っているものにこだわるものの一人なのです。

弟子たちの驚き
主イエスのこの言葉は弟子たちを驚かせました。ここには、神の言葉に触れた人間の驚きが示されています。主イエスが語られる御言葉は、人間が勝手な 解釈を加えることなく御言葉として素直に聞く時、驚きをうむものなのです。弟子たちは、主イエスの語られた言葉を確かに御言葉として聞いたのです。 驚く弟子たちに主イエスは、更に言葉を続けます。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴 を通る方がまだ易しい」。このたとえは、昔から様々な解釈がなされてきました。ギリシャ語の文字を入れ換え「らくだ」を「綱」という意味の言葉に置 き換えて読まれました。又、「針の穴」というのは、エルサレムの町にあった、人間が背を縮めてやっと通ることができるような小さな門のことだと言わ れたりもしたようです。しかし、そのように様々な解釈を加えるのは意味のないことです。むしろ、この荒唐無稽とも言えるたとえを、そのまま受け入れ ることが大切です。このたとえは、当時パレスチナで、身近な動物の内、最大のものである「らくだ」と、日常生活の中で見いだせるものの内、最も小さ いものの一つと言っても過言ではない、針の穴が対照されているのです。そのことによって「不可能である」ということが明確な仕方で言い表しているの です。これを聞いた弟子たちは、ますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言いました。弟子たちは、「そんなことを言ったら 誰も救われないではないか」との思いになったのです。当時の社会において、多くの財産を持つことと、神様の救いにあずかることは対立するとは考えら れていませんでした。むしろ、この世で多くの財産を持っていることは、神様の祝福を受けていることだと考えられていたのです。ですから、弟子たちは、 主イエスの言葉に驚き戸惑ったのです。
又、この時、弟子たちは、後にペトロが語るように、自分たちはすべてを捨てて主イエスに従っているという思いがありました。しかし、心の深い部分に おいて、自らの内にも、主イエスのもとを立ち去った人のように、「持っているもの」にこだわる思いがあることをどこかで感じていたのだと思います。 そのような思いが、弟子たちの驚きや、「それでは誰が救われるのだろうか」という議論に表れているのです。

神には出来る
しかし、主イエスは、ご自身の言葉に驚き戸惑う弟子たちを責めているのではありません。27節の最初には、「イエスは彼らを見つめて言われた」と あります。ここで思い起こしたいのは、主イエスが、財産を捨てられずに、ご自身のもとを去っていった人に向けた眼差しです。21節には次のよう にあります。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」。この慈しむという言葉は愛するという言葉です。主イエスは愛をもって、自分の財産、自 分の所有にこだわるこの人を見つめておられるのです。おそらく、主イエスは、この時の、御自分の語る御言葉を理解出来ず、驚き、議論をする弟子 たちにも同じ愛の眼差しを注がれたのだと思います。その愛の眼差しの中で、主イエスは次のように語ります。「人間にできることではないが、神には できる。神には何でもできるからだ」。ここで、主イエスは、はっきりと、「人間にできることではない」とおっしゃいます。人間が自分で神の国に入 ることは不可能であると言われているのです。つまり、人間が、自らの力で、この世に積み上げるものによっては、救いは得ることが出来ないのです。 その上で、しかし、「神にはできる」と言われているのです。救いは神が成し遂げて下さることによってのみ実現されるのです。そして、このことを受 け入れ、神の可能性にのみ信頼することこそ大切なのです。自分の内に救いの可能性を見出そうとすることをやめて、神のもとにそれを見出すことこそ 、持っているものを捨てることであり、地上ではなく天に富を積むことなのです。

何もかも捨てて
 主イエスは、ここではっきりと、救いに与るのは、神さまによってのみ可能なのだと語りました。しかし、弟子たちは、それを理解しま せんでした。それは、その後に続くペトロの言葉に表されています。ペトロが、すかさず、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあな たに従って参りました」と言い出したのです。「わたしたち」と言うのは、ペトロを含めた主イエスの弟子たちです。ペトロは、弟子を代表し て語ったのです。実際、ペトロ以外の弟子たちも同じような思いだったのだと思います。ここには、主イエスに従う弟子たちの正直な思いが表 されていると言って良いでしょう。財産を持ったまま神の国に入ることが出来ないという教えを聞き、「それでは誰が救われるのだろうか」と議 論をしつつ、すかさず、自分たちは、「何もかも捨てて、あなたに従ってきた」と主張し出したのです。おそらく、ここで弟子たちが考えたことは、 このようなことではないでしょうか。「イエス様は、財産を捨てろとおっしゃった。自分たちは、持っているものを捨てて主イエスに従って来た。 何も捨てずに主イエスの前を立ち去ったあの人と自分たちは違う」。弟子たちは、ここで捨てている自分を誇ったのです。マタイによる福音書では、 この言葉に続けて、「では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」という言葉が続いています。自分が「捨てた」ということの見返りを求め つつ、自分たちは救いに与る資格があると主張しているのです。確かに弟子たちはそれまでの自分の仕事、家族、財産を捨てて、主イエスに従って 来ました。しかし、表面的に、様々なものを手放していても、根本的に、自らの積み上げたものによって救われる資格を得ようとする態度を持ち続 けているのです。「捨てている」という自らの業を財産にしようとしたのです。そのような中で、自らを誇り、隣人を見下していたのです。

 弟子たちは、主イエスが語った「人間には出来ないが、神には出来る」という言葉が分かっていないのです。「人間には出来ない」ということが 受け入れられない。何もかも捨てている自分自身に目を向けて、人間の業を誇る思いから自由にはなれないのです。救いを得ることにおいて、大切な ことは、「人間には出来ない」ということを認めて、何でも出来る神に目を向けていくことなのです。

主イエス・キリストに現された神の可能性
主イエスは、「神は何でも出来るからだ」とおっしゃいます。これは、神は人間の救うことにおいて何でも出来る方であるということです。私たちが、 この神様の可能性に目を向ける時に示されるのが、主イエスの十字架です。ここで、弟子たちを愛の眼差しをもって見つめられた主イエスは、この後、 自らの持っているものにこだわり続ける者たちを救うために、十字架で自らを捧げて下さるのです。神が成し遂げて下さった救いの御業によってのみ、 私たちは救われるのです。
人間の捨てることが先にあって、それによって、神の救いにあずかることが出来るようになるのではありません。救いに与るために、自分の努力に よって捨てるのであれば、弟子たちのように捨てたことを誇るようになるでしょう。自分の業で捨てるのであれば、それは捨てていない時よりも、 更に強く、自分の業を主張するようになるだけです。
主イエスが自らを捧げることによって救いを成し遂げて下さっている。この神様の救いの出来事に目を向け、その救いの恵を受ける中で、自らの財産に 頼って歩む歩みを止めることが出来るのです。「らくだが針の穴を通る」というたとえは、大きいものと小さいものが対照されていると申しました。 私たちが神の国に到達しようとして、持っているものを増やして行こうとする時、私たちの、所有は限りなく大きくなって行きます。しかし、主イエス の十字架を見つめ、その救いの恵に頼る時、自分の持っているものを手放しつつ、小さい者とされるのです。

主の貧しさによって豊かにされて
神様の救いの恵に与り、それにのみ救いの根拠を見出していく歩みは、真の豊かさへ導かれて行くことと一つです。コリントの信徒の手紙二の第8章 9節において、使徒パウロは、十字架の出来事を次のように語りました。「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。それは、主 の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったのです」。豊かである主が、私たちのために貧しくなられたのは、主に委ね、その救いに与る ものが真に豊かになるためなのです。
ルカによる福音書が記すザアカイの話を思い起こします。ザアカイは、取税人の頭で、自らの財産に執着し、不当に取り立てて財産を増やすことに しか生き甲斐を見いだせない人でした。お金に縛られ、富に隷属した歩みを続ける中で、人々から嫌われ愛とはほど遠い生活をしていたのです。こ のザアカイは、主イエスと出会い、その愛に触れることによって、自らの財産の半分を貧しい人に施すと約束します。ザアカイにとって、主イエス の救いの恵に触れた時とは、自らの生きる基盤であった財産を捨てる時でした。そして、主の恵にのみ信頼しつつ、持っているものに縛られることなく、 主イエスによって示された愛に生き始める時でもあったのです。ザアカイは、神様の祝福の内を歩む者とされていったのです。そのような歩みの中に、 主イエスの救いに与っている者に与えられる豊かさがあるのです。

百倍のものを受ける
29節で、主イエスは、次のように言われます。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた 者はだれでも、今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける」。主イエスは、何もかも捨 てたと主張する弟子たちに、確かにあなた達はよくやっている。必ずその見返りが受けられるということを語っているのではありません。神様の救いに 与った者がどのようになるかが語られているのです。ここでは、自分が捨てたものを百倍受けると言われています。もちろん、自分の持っている土地や お金が、文字通り百倍に増えるということではありません。神様の恵を受けて、救いに与ったものは、自分の持っているものを救いの根拠として主張す るのではなく、むしろ、それを捧げつつ、更に豊かに用いるものとされると言われているのです。
又、ここで、「兄弟、姉妹、母、父、子供」と言った家族が挙げられています。ここで与えられる家族とは、主にある兄弟、姉妹が見つめられている と言うことが出来ます。キリストの教会に連なることによって与えられる主にある兄弟、姉妹との交わりが見つめられているのです。マルコによる福 音書の3章には、主イエスは、身内のものの呼びかけに応えず、自分の周りにいる人々を見回して、「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟が いる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」と言われたことが記されています。主イエスのもとで、豊かな、主にある家族の交 わりが与えられるのです。
この豊かさが与えられるのは、「後の世」ではありません。福音は、何よりも先ず現実の世において起こることなのです。神さまの救いに委ね、「持って いるもの」を捨てる時、この世において、主イエスのもとで、さらに豊かに捨てたものが与えられるのです。そのような歩みをはじめていくことによって、 後の世まで続く永遠の命に生かされていくのです。

「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。」
最後の箇所に「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と言われていることに注目したいと思います。ここには、この世の秩 序の転換が記されています。地上における先、後の順序は、神の国、神様の救いの御支配においては、そのまま先、後なのではないのです。この 世での功績や、どれだけの財産を得たかということは、神様の救いとは関係ありません。むしろ、「持っているもの」によって、神から離れてい ってしまうのが、私たちの現実です。ただ神の恵みによってのみ私たちの救いは可能となることがここにも表れているのです。この秩序は、私 たちの常識からは考えられないことで、驚きと戸惑いを生みます。しかし、主イエスの救いの御業に示されている、神様の救いに与る時、これは むしろ当然のことなのです。
私たちは、持っているものを捨てることが出来ない者です。主の後に従うことにおいてさえ、持っているものを捨てられない時があります。し かし、私たちには出来ないことを、ただ神が成し遂げて下さることに信頼して、全能である神を讃えつつ歩むものでありたいと思います。そ のような中で、この方に委ねつつ、持っているものを捧げて、真の豊かさに生きる者とされたいと思います。

関連記事

TOP