花の日

わたしを愛しているか

「わたしを愛しているか」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第44章21-22節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第21章15-19節
・ 讃美歌;205、351、507

 
イエス様の復活の日
 今日は「花の日」で、教会学校の皆さんと、大人の人たちが一緒に礼拝をしています。教会学校のみんなは、たくさんの大人の人たちに囲まれて、緊張しているかもしれません。こんなにたくさんの大人の人たちが、毎週日曜日に、教会に集まって神様を礼拝しているんです。
 どうして日曜日になると、こうしてたくさんの人たちが教会に集まって礼拝をするのでしょう。日曜日っていったい何の日なのでしょう。お休みの日?そうですね。でもどうして日曜日はお休みなのでしょう?それは、この日曜日に、イエス様が復活して下さったからなのです。イエス様は、金曜日に十字架につけられて殺されてしまいました。そしてお墓に葬られました。でも、それから三日目のこの日曜日の朝に、復活なさったのです。もう一度、生きておられる方となられたのです。イエス様を信じた人たちの群れである教会は、このイエス様の復活の日である日曜日に、集まって神様を礼拝するようになりました。教会が日曜日に礼拝をしていったために、後から、日曜日がお休みになったんです。教会は、日曜日ならお休みで集まりやすいからこの日に礼拝をしているのではありません。それは反対です。教会が日曜日に、イエス様の復活を記念して礼拝をしていたから、日曜日がお休みの日になったのです。

復活されたイエス様と出会う
 イエス様の復活を記念して、と言いましたが、それはただ、むかしむかし、およそ二千年前に、イエス様が復活なさいました、という大昔の出来事を覚えておく、ということではありません。私たちは、礼拝で、復活して今も生きておられるイエス様と出会うのです。イエス様にお目にかかるのです。目で見たり、手で触ったりすることはできません。でも、聖霊と呼ばれる神様によって、私たちは確かに、この礼拝で、復活して下さったイエス様にお会いするのです。
 さっき読んでいただいた今日の新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書21章15節からのところは、お弟子さんたちが、復活なさったイエス様と出会った時のお話です。復活なさったイエス様がお弟子さんたちの前に現れたのです。イエス様の幽霊が現れたのではありません。イエス様はこの時、お弟子さんたちと一緒に朝ごはんを食べて下さったのです。幽霊はご飯を食べたりしません。お弟子さんたちはそのお姿を見て、「ああ、この方は本当にイエス様だ、イエス様は本当に復活して下さったんだ」ということが分かったのです。

わたしを愛しているか
 その時イエス様は、弟子のペトロに、「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」とおききになりました。シモンというのはペトロのもう一つの名前です。「ペトロよ、あなたは他の誰よりも私のことを愛しているか」とイエス様はおききになったのです。ペトロはこう答えました。「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。ペトロがこう答えると、イエス様は、「わたしの小羊を飼いなさい」と言われました。そしてもう一度、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」とおききになったのです。ペトロももう一度、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えました。するとイエス様はまた、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われました。同じ問いと答えが二度繰り返されたのです。でもそれで終わりではありませんでした。イエス様はもう一度、「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」とおききになったのです。イエス様はペトロに、同じことを三度繰り返してきかれたのです。皆さんだったらどうでしょうか。同じことを三度繰り返してたずねられたらどう思いますか。たとえばお友だちが、「僕のこと好き?」ってたずねてくる。「ああ、好きだよ」ってこちらは答える。するともう一度「僕のこと好き?」ってきいてくる。「ああ好きだよ」ってもう一度答える。そしたら三度目にまた「僕のこと好き?」、そうしたら私たちは、「なんだ、しつこいな、さっき言ったじゃないか」って怒り出してしまうのではないでしょうか。ペトロはどうだったのでしょう。17節を読むとこうあります。「ペトロは、イエスが三度目も、『わたしを愛しているか』と言われたので、悲しくなった」。ペトロは、「しつこいな」と怒ったのではなくて、悲しくなったのです。

ペトロの罪
 なぜペトロは悲しくなったんでしょう。それは、ペトロがこの時、自分がしてしまったことを思い出したからだと思います。それはほんの数日前、イエス様が捕まえられて、裁判を受けておられた時のことです。イエス様が捕まえられた時に、お弟子さんたちはみんなその場から逃げてしまいました。イエス様と一緒に捕まった人は一人もいなかったのです。ペトロも逃げ出したので、捕まらずにすみました。でもペトロは、イエス様のことが気になりました。イエス様はこれからどうなってしまうんだろう、それを見届けたいと思いました。それで、イエス様を捕まえて引っ張っていく人たちの後にそっとついていって、大祭司の屋敷の中庭に入って、人々と一緒に何くわぬ顔で火に当たりながら、イエス様の裁判の様子を見守っていたのです。ところが、周りにいた人がペトロを見て、「おや、あなたはあのイエスという人の弟子ではないの」と言いました。そうきかれてペトロは、「違う、そんな人とは関係ない」と言ったのです。しばらくしてまた別の人たちが、「お前もあのイエスの弟子の一人ではないか」と言うと、ペトロはまた「違う、そんな人のことは知らない」と言ったのです。そういうことがさらにもう一度、つまり三度繰り返されました。そのたびにペトロは、「イエスなんていう人は知らない、自分とは関係ない」と言ったのです。捕まえられてしまうのが恐くて、自分を守るために、イエス様と自分は関係ない、と三度言ってしまったのです。
 それまで親しかった人、友達だった人が、「こんな人知らない」と言うのは、相手を一番傷つけることですよね。何かのことで、お友だちと喧嘩になってしまうということはあります。喧嘩ならば、また仲直りすることもできます。でも、「そんな人知らないよ」と言われてしまったら、喧嘩にもなりません。つながりがバッサリと切られてしまうのです。それは切られた人にとっては何よりもつらいことです。今問題になっている「いじめ」の中にもそういうことがあります。「無視する、シカトする」っていうのはそういうことですよね。それは「あなたは私たちと関係ありません」と言われてしまうことです。それは、相手を殺してしまうのと同じぐらいひどいことです。そういうことを、ペトロは、イエス様に対して、しかも三度も、してしまったのです。
 復活なさったイエス様が、三度、「わたしを愛しているか」とお尋ねになった時、ペトロは、このことを思い出したのです。忘れていたわけではありません。そのことは、復活したイエス様にお会いしてからずっとペトロの心に重くのしかかっていました。そしてイエス様のこのお言葉を聞いた時に、「ああ、今イエス様は、自分がイエス様のことを三度『知らない』と言ってしまったことを考えておられるんだ」ということが分かったのです。自分が一番気にしていること、悪いことをしてしまった、申し訳ないことをしてしまったと心の傷になっていること、そのことに、イエス様が触れて来られたのです。ペトロの心は、傷口に触られたように痛んだのです。ペトロが「悲しくなった」というのはそういうことでしょう。

はい、主よ
 イエス様は、このように三度「わたしを愛しているか」とおききになることで、ペトロがイエス様のことを三度「知らない」と言ってしまったことを責めようとしておられるのでしょうか。「お前は私が捕まえられて十字架につけられる時にどんなことをしたか覚えているのか」と言おうとしておられるのでしょうか。そうではありませんね。イエス様は、自分のことを裏切って、「知らない」と言う罪を犯したペトロを、裁いて、罰を与えようとしておられるのではありません。「わたしを愛しているか」と問いかけることによって、ペトロから「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」という言葉を引き出そうとしておられるのです。そのようにしてペトロをもう一度、イエス様のことを本当に愛して、イエス様に従っていく人にしようとしておられるのです。つまりイエス様は、ペトロがしてしまったこと、自分の身を守るためにイエス様を裏切ってしまった罪を、赦して下さっているのです。ペトロは、イエス様の「わたしを愛しているか」という問いかけに、自分のしてしまったことを赦して下さっているイエス様のみ心を感じ取ったのです。だから、「はい、主よ」と答えることができたのです。

あなたがご存じです
 でもペトロは、「はい、主よ、わたしはあなたを愛しています」と言ったのではありませんでした。「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言ったのです。三度とも、そのように答えています。ペトロは前は、「わたしはイエス様を愛しています。だからたとえ死んでもイエス様に従っていきます」と勇ましく言っていたのです。でも、いざ、イエス様が捕まえられて十字架につけられてしまう時には、そんな勇気はどこへやら、こそこそと逃げ出し、結局「そんな人は知らない」と言ってしまったのです。だからもう、「わたしはあなたを愛しています」なんて言えません。自分が持っている愛の思いがいかに頼りない、不確かなものかをペトロは思い知ったのです。でも、今、復活して下さったイエス様と出会って、「わたしを愛しているか」と問われた時、彼は、「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と答えることができたのです。私の気持ちはとても不確かで、ふらふらしてしまう、弱いものでしかない、でもイエス様は、その弱い、罪深い私のことをよくご存じで、その私を赦して下さって、愛して下さっている、そのイエス様の愛の中で、私はもう一度、イエス様を愛することができる、イエス様に従っていくことができる、私の力によってではなくて、私のことをすべてご存じであるイエス様によってそれができる、ということにペトロは気付かされたのです。

わたしの羊を飼いなさい
 イエス様はそのペトロに三度「わたしの羊を飼いなさい」と言われました。これは、イエス様がペトロに大切な使命を、役目を与えて下さったということです。ペトロはこの後、イエス様のことを多くの人々に伝えていく伝道の働きをしていきました。最初の教会の中心となる指導者になったのです。そして最後は、信仰を貫いて殉教の死をとげました。イエス様のことを裏切って、「知らない」と三度言ってしまった弱い、罪深いペトロを、イエス様はそれでも愛し続けて下さったのです。ペトロはこのイエス様の愛によって、罪を赦されて、イエス様を心から愛して、死ぬことをも恐れないで、イエス様の与えて下さる使命を力強く果していく人となることができたのです。

主イエスの愛の中で
 この聖書の箇所は、教会学校の今年のカリキュラムで、今日の箇所として定められているところです。今教会学校で用いているカリキュラムは、『明解カテキズム』という信仰問答に基づいて作られています。今日の箇所のもとになっているのは、その問8です。問「わたしたちが神さまに背いたにもかかわらず、神さまはなおわたしたちを愛していてくださるのですか」。答「はい、その通りです」。イエス様の十字架と復活は、私たちが神様に背いたにもかかわらず、神様がなお私たちを愛していてくださる、その愛の現れなのです。私たちは、神様に背いている罪人です。イエス様のことを「知らない」と言ってしまったペトロの姿はそのまま私たちの姿です。その私たちの罪を赦すために、イエス様は十字架にかかって死んで下さいました。そして三日目の日曜日の朝、復活して下さいました。イエス様の復活を記念するこの日曜日の礼拝で、そのイエス様が、私たちに出会って、「あなたは私を愛しているか」と問いかけて下さるのです。それは私たちの罪を厳しく責める言葉ではありません。イエス様に背いてしまうことの多い、罪に満ちた私たちを、イエス様はなお愛して下さって、私たちとの交わりを回復し、私たちがもう一度、イエス様を愛する者となるために、このように問いかけて下さっているのです。この問いかけに、ペトロと一緒に私たちも「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」とお答えしていきたいのです。私たちがイエス様を愛そうとするその決意などはまことに脆いものです。でも、イエス様はいつでも、どんな時でも、私たちのことを愛して下さっています。そのイエス様の愛の中で、私たちもイエス様を心から愛して、従っていくことができるようになるのです。

関連記事

TOP