夕礼拝

すべての人に仕える者に

「すべての人に仕える者に」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 申命記 第7章6-8節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第9章30-37節
・ 讃美歌 ; 288、505

 
はじめに
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」。主イエスは十二人の弟子たちを呼び寄せて言われました。ただ言われたのではりません。翻訳はされていませんが、ここには「教える」という意味の言葉が用いられています。この「教える」というのは、マルコによる福音書の中で、主イエスだけに使われる言葉です。神の子である主イエス特有の働きなのです。この時、主イエスの十字架の死が徐々に迫って来ていました。そこで、主イエスは、弟子たちだけを集めて、主イエスのみが語りうる、大切な教えを語られたのです。ここには、主イエスに従って歩む者が常に聞くべき教えが語られているのです。

受難予告
マルコによる福音書は、主イエスが十字架に向かって歩む道を記します。主イエスと従う者たちの一行は、主イエスが主に活動されたガリラヤから、十字架につけられるエルサレムへと向かって一歩一歩歩んでいるのです。ガリラヤにいる主イエスは、病を癒したり、悪霊を追放されたりと、多くの御業を行って神様の権威を示されました。主イエスが行くところにはどこでも、群衆が集まっていました。しかし、十字架に架けられるために、エルサレムに向かって行くに従って、主イエスは御業をなさらなくなります。事実、今日の箇所より後で主イエスが病の癒しを行われるのは、エルサレム入城直前に盲人バルティマイを癒された一回だけです。30節には「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」とあります。主イエスは、十字架が近づくにつれて、人々の目を避けるようになるのです。それは、主イエスが世の来られたのが、驚くべき奇跡によって、人々を引きつけることではなかったからです。この時期から主イエスは、群衆の前で神の権威を示すのではなく、ただひたすら教えを語られたのです。教えられる中で、主イエスは繰り返しご自身の死と復活を予告されました。今日お読みした箇所にも、二度目の受難予告が記されています。31節には、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」とあります。第一回目の予告の時には、主イエスは、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺される」と言われました。そこでは十字架の出来事が具体的にどのような形で起こるのかが語られました。しかし、この二度目の予告では、むしろ、この十字架とは、一体どのようなことなのか、何を意味するのかが語られているのです。「人々の手に引き渡され」と言われています。ここで、主イエスを人々の手に渡す主体は、父なる神です。主イエスの十字架は、神が独り子を人々に渡す出来事であるのです。愛する独り子を罪人たちの手に渡し、十字架の死に渡されることによって、人々の罪を贖い、人々を救おうとされているのです。人間の手による業であるように見える、主イエスの十字架の背後には、父なる神の救いの御意志があるのです。十字架の死は、全ての人々の手によって引き起こされたものであると同時に、神様の救いのご計画によるものだというのです。ここでは、一度目の予告の時よりもはっきりと十字架の意味が明確にされているのです。しかし、この予告を聞いても、弟子たちは、その意味を理解することが出来ませんでした。32節には、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とあります。ただ意味が分からないだけでなく、そのことについて怖くて尋ねられなかったのです。

誰が一番偉いのか
何故弟子たちは、主イエスの言葉が分からず、怖くて尋ねることが出来なかったのでしょうか。その一つの原因を理解する鍵が、33節~34節に記されています。主イエスは、御自身の死について理解しない弟子たちに対して、「途中で何を議論していたのか」と尋ねます。カファルナウムの家に着いた時のことでした。このカファルナウムの家は、マルコによる福音書に度々登場しますが、一説によりますと弟子のペトロの家であったようです。この家を拠点にして主イエスは活動されたのです。もしかしたら、一日の業を終えて家に帰って来て、その日の歩みを振り返られたのかもしれません。主イエスは弟子たちに道すがら何を議論していたのかを問われたのです。何かについて議論をするのは、その議論することが自分たちにとって重要な事だからです。どのようなことが議論されているかによって、その議論をしている人々が、何に関心を持ち、どのようなことを考えているのかが分かります。全く関心のない、どうでも良いことを議論するということはあまりありません。つまり、この問は、弟子たちが何に関心を持っているのかという問でもあるのです。しかし、この問かけに対して、弟子たちは黙ってしまいます。「途中で誰が一番偉いかと議論し合っていたから」です。主イエスが、神様の御心に従って十字架に向かって歩んでいるのに対し、弟子たちが関心を抱いていたのは、自分たちの内で「誰が一番偉いか」ということだったのです。ここに、弟子たちが主イエスの言葉を理解出来ない一つの原因があります。主イエスと弟子たちは同じ道を歩んでいながら、全く異なる思いを抱いていたのです。主イエスにとってこの歩みは、人々の罪のために十字架に向かう、人間的に見れば「偉さ」とはほど遠い、自らを低めていく歩みです。それに対し、弟子たちにとってこの歩みは、誰が一番偉いかに関心を持ちつつ、自らの栄誉を求めて、自分自身を高めていこうとする歩みだったのです。同じ歩みをしていても心に思うことが全く異なっていたために、主イエスの言葉が分からなかったのです。更に弟子たちは、主イエスの言葉を聞いた時、そのことについて深く尋ねることが怖かったとあります。主イエスの言葉を聞いて、よく分からないにしても、そこでただならぬことが起ころうとしていることを感じることが出来たのでしょう。しかしそのことについて尋ねることが出来ないのです。心の中で、主イエスがもたらしてくれる栄誉という自分たちが密かに抱いている期待が裏切られることが怖かったのです。その恐れの中で、主イエスに確認することが出来ないのです。
弟子たちの求めた偉さ
ここで、弟子たちの言う「偉さ」とはどのようなことでしょうか。それは単純に、人から賞賛される職業についているかとか、この世の価値観から言ってどれだけ高い地位にいるかとか、どれだけの権力を行使出来るかということではありません。彼らは、かつて営んでいたそれぞれの仕事を捨てて、主イエスに従っているのです。ですから、ここでは、主イエスに従う歩み、信仰の歩みにおける「偉さ」が問題になっていたのです。
私たちは、教会生活の中で、露骨に「誰が一番偉いのだろうか」ということを議論することはありません。又、自分こそ偉さを主張することもありません。この時の弟子たちも議論はしていたものの、「自分こそ一番偉い」ということを主張し合っていたのではないと思います。しかし、たとえ、主張したり、議論したりすることがないにしても、この時の弟子達が抱いていた関心は、私たちが信仰生活や奉仕の業の中で縛られてしまうことはあるのです。それは必ずしも、自らの信仰や奉仕を誇ったり、自らを優れた者として主張するという形で表れるとは限りません。謙りって、奉仕に気を配る中で、この思いに捕らわれてしまうこともあるのです。
又、私たちは教会での歩みの中で、自分に対して劣等感を持つことがあります。どうして、自分は、周囲にいる、あの人や、この人と比べてしっかりとした信仰生活を送れないのだろうかという思いになることがあります。自分は周囲には、様々な賜物を用いて立派に奉仕をしている人、しっかりした信仰生活を送っている人がいる。それに比べて自分は、大した奉仕をしていないと感じる。そこで、自己卑下して、私は何と駄目な信仰者なのだろうという思いになったりする。そのような思いの中にも、弟子たちと同じように、主イエスに仕える中で抱く、人間の栄誉に対する関心があるのです。

「すべての人に仕える者に」
主イエスは、黙っている弟子たちに対して、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕えるものになりまさい」と言われます。ここで、主イエスは、特に十二人の弟子を呼び寄せて語られました。それは、彼らが、自分の生活を捨てて、主イエスに従った人々で、もっとも主イエスの側にいた人々であったために、主イエスに従うということにおいて、人間の栄誉を求める思いに最も強く縛られていたからでしょう。主イエスの後に従って行く歩みにおいても、他者と自らを比較して、より先にいるのは誰なのかが問題となったのです。そのような人々に対して、もし先になりたいのなら、後になりなさいと言われるのです。ここで後になるということと、仕えるということが結びつけられています。つまり、主イエスは仕える者になれと言われるのです。これは、もちろん、仕えることによって人々から一目置かれる者となれば、本当の意味で偉くなることが出来るというようなことを言われているのではありません。「すべての人に仕える」ことによってのみ、主イエスに従うものとされるのだと言われているのです。

子供の一人を受け入れる。
 ここで、「すべての人に仕える」と言われているのはどのようなことでしょうか。主イエスは、36節でそのことを具体的に示されます。主イエスは、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われます。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」。主イエスは、仕えなさいと語られて、それを具体的に示すために「子供を受け入れる」ようにと言われたのです。仕える者となるとは、子供を受け入れる者となることなのです。ここで見つめられている子供は、私たちが受け入れやすい、かわいらしく素直な子供の姿ではありません。子供はかわいく素直な反面、時に、非常に我が儘です。自分の願望を通すために駄々をこね、思い通りにいかないことがあると激しく泣き叫びます。公共の場所で、泣き叫んでいる子供を見て、大人たちが思わず顔をしかめるということもあります。そのような子供を受け入れるのは忍耐がいることです。子供ということで、そのように受け入れがたい子供の姿が見つめられているのです。又、この当時は、現代程、子供は大切にされていませんでした。子供は取るに足りない者。値無き者だったのです。つまり、子供とは低い者の代表とされているのです。
この時、弟子たちが、主イエス・キリストに仕える中で求めていたことは、主イエスに仕えることによって、得られる自分の栄誉です。自分に栄誉をもたらす人に仕えることは難しいことではありません。しかし、自分に何の益もたらさない、目下の者に仕えることは簡単なことではありません。ここで、「全ての人に仕える」とは、最も値無き小さな者、もし、私たちが自分たちの栄誉を求めるのであれば、仕えることがないような者を受け入れることなのです。この時、宣教から家に帰って来て疲れていたであろう、弟子たちは、このカファルナウムの家の部屋の隅にいたであろう子供に、ほとんど注意を向けることがなかったのではないでしょうか。このようなことは、現代に生きる私たちにも想像がつきます。家にお客さんが来ると、子供は自分に関心をひこうとして、大人の会話に割り込んで来ることがあります。そのような時、大人たちが、「大人の話だから、邪魔しないで、あっちへ行って遊んでいなさい」というように叱ることがあるのではないかと思います。この当時は、現代以上に子供に注意を向けられることは無かったことでしょう。そのような中、主イエスは、子供を真ん中に立たせて、抱き上げたのです。子供を抱き上げるためには、自分が膝をかがめる必要があります。子供の立場まで謙るのです。主イエスは、ここで、座っていた腰を上げ、子供の下に行き、真ん中に連れてきて、子供の視線までかがんで抱き上げたのです。主イエスは、ご自身がこのように具体的に子供を受け入れるということを通して、「すべての人に仕える」といことを示されたのです。
主イエスに従う歩み、信仰生活において、何に関心を抱き、何について議論しているのか。それは、教会において、子供が受け入れられているかということに表れると言っても良いでしょう。もちろん、聖書の時代と現代は状況が異なります。しかし、それでも、どれだけ子供が本当の意味で受け入れられているかということに、私たちの姿勢が表れると思うのです。もし、教会に集う人々が、弟子たちが関心を払っていたような「偉さ」、自分たちが受ける栄誉に関心を払っているのであれば、教会は子供が受け入れられない場所になるでしょう。又、子供を連れて来ることがためらわれる場所になるでしょう。しかし、もし、主イエスが語られたように「すべての人に仕える」群れとなっているのであれば、一人の小さな子供が受け入れられる群れとなるのです。

主イエスを受け入れる
 ここで、主イエスは、この小さな子供とご自身を重ね合わせていることにも注意したいと思います。「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである」と言われています。キリストの名によって、子供の一人が受け入れられる所では、主イエスが受け入れられているのです。主イエスは、十字架において死なれることによって、最も低い立場に立って下さいました。十字架によって、全ての人に仕えて下さったのです。しかし、弟子たちは、自らの栄誉に関心を抱いていたために、十字架の主イエスを受け入れることが出来ませんでした。そのような中で、主イエスが語る言葉が分からずにいたのです。私たちは、小さな子供を受け入れるようにすべての者に仕えることで、主イエスの十字架と復活に示された愛を深く知らされていくのです。子供を受け入れることと、主イエスが、謙って私たちの下に来て下さったことを知らされ、それを受け入れることは一つのことなのです。そして、子供の一人が受け入れる歩みをしている時、たとえ、主イエスの十字架のお姿が、自らの栄誉を求める人間の思いからすれば、恥じにしか見えないものであっても、そこにこそ罪の赦しがあることを受け入れて、その罪の赦しによる救いに与って歩む者とされているのです。そして、主イエスを受け入れることによって、独り子の死と復活によって人間を救おうとされる父なる神をも受け入れる者とされるのです。 

おわりに
私たちは、主イエスの十字架と復活を知らされて歩んでいます。その恵を受け入れつつ、すべての人に仕えて行きます。その歩みは、もう一方で、すべての人に仕えることによって、主イエスの十字架と復活の意味をより深く知らされていく歩みでもあります。全ての人に仕えることによって、十字架の主イエスを受け入れ、父なる神の愛を受け入れていくのです。そして、そこにこそ私たちの救いがあるのです。
 私たちは、主イエスの進んだ道を共に歩む中でも、「誰が一番偉いのか」がと議論していることがあります。しかし、そのような歩みは、主に仕える歩みとはなりません。むしろ、主イエスが示されたように、最も低い所にいる者を受け入れ、全ての人に仕えることで、主の救いを知らされていくのです。その中で、十字架の主の御言葉を受け入れ、主イエスに従う者とされていくのです。

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