主日礼拝

今、あるがままで

「今、あるがままで」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 列王記下 第5章15―19a節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第7章17-24節
・ 讃美歌 ; 299、164、525

 
現状に留まれ
 コリントの信徒への手紙一の第七章のテーマは、結婚です。コリント教会から寄せられた質問に答えて、結婚を信仰においてどのように受けとめ、考えたらよいか、ということについてパウロが語っているのです。これまで読んできたところでパウロが教えていたのは、結婚していない、独身である人に対しては、どちらかと言えば独身のままでいる方がよい、しかしそれは、結婚することが罪だとか、信仰者の生き方として相応しくないということでは全くない、ということでした。既に結婚している人に対しては、今の結婚生活、家庭を大事にしなさい、相手との関係において務めを果しなさい、自分だけが信仰者であって、相手は未信者であるという場合であっても、信仰のゆえに相手を遠ざけたり、離婚しようとしてはならない、ということでした。私たちはこのようなパウロの教えを読むと、少し歯切れの悪いものを感じるかもしれません。結婚することはよいことなのかよくないのか、するべきなのかするべきでないのか、明確にしてほしい、という思いをもって読むと、結局どちらなのかよくわからないと感じてしまうのです。しかし実は、先週も申しましたように、このパウロの教えははっきりしています。一本の筋が通っているのです。それは、「現状のままでいるのがよい」ということです。今未婚の人は未婚のままでいるのがよい、今結婚している人は結婚生活を維持するのがよい、信仰者として生きる上で、それを変えなければならないということはない、とパウロは教えているのです。そのことが、本日の17~24節に、まとまった仕方で語られているのです。

神の召しによって
 17節に、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会でわたしが命じていることです」とあります。ここに「身分」という言葉がありますが、これは原文にはない言葉です。直訳するならば、「神がお召しになった、そのように歩め」となります。以前の口語訳聖書はそれを「神に召されたままの状態にしたがって」と訳していました。神に召された、その時のあり方、状態のままで歩むことが勧められているのです。ところで、「神に召される」というのは、信仰を与えられる、ということです。洗礼を受けてキリスト信者になる、ということです。ここに、私たちの信仰の大事なポイントが示されています。私たちは、信仰というのは自分で信じるものだと思っています。自分が神様を受け入れ、イエス・キリストを主と信じて、信仰者になるのだと思っています。それは半分はその通りです。確かに私たちは自分で信じて、自分で決断して、洗礼を受け、教会に加わるのです。中には、私もそうですが、親の信仰によって幼児洗礼を授けられ、気がついて見たら教会の名簿に自分の名前が登録されていた、という人もいます。しかしその場合にも、聖餐にあずかる正式な教会員になるためには、信仰告白において、その洗礼の恵みを自覚的に受け止め直すのです。自分が信じる、という決断はこのように私たちの信仰において不可欠なものです。しかしそのことは信仰において起っている出来事の半分でしかありません。しかも最初の半分ではなくて、後の半分、後半部分なのです。私たちが信じるという決断の前に、前の半分がある。それは、神様の召しということです。神様が私たちの名を呼び、ご自分のもとに招いていて下さるということです。私たちが信じるという後半の部分は、実はこの前半の部分に支えられているのです。神様が私たちを召していて下さらないなら、私たちはこの場にはいないのです。私たちが今日この場で神様を礼拝している、あるいは少なくとも礼拝の場に身を置いている、そのことが起こるためには、一人一人に、それぞれ違う様々なきっかけ、経緯がありました。いろいろな出会いや交わりがありました。それらのことは人間の感覚からすれば「偶然」ということになるでしょうが、私たちはそこに、神様の召し、導きを見るのです。その召し、導きの下で、私たちが信仰の決断を与えられる、そのようにして私たちは信仰者となるのです。ですから、私たちの決断よりも前に神様の召しがあるのです。それが私たちの信仰における大事なポイントです。幼児洗礼が行われるというのは、そのことの一つの現れなのです。

主から与えられた分
 神様の召しによって信仰者となった、その時の状態に留まっていることがここで勧められているわけですが、そこにもう一つ「主から分け与えられた分に応じ」とあることに注目しなければなりません。召された時の状態というのは、ただその時たまたまこうだった、という話ではないのです。そこに、神様からそれぞれに分け与えられた分を見つめていく、それが私たちの信仰のもう一つの大切なポイントです。それはこういうことを意味しています。即ち、神様は私たちを召して信仰を与え、教会に連なる者として下さるわけですが、その神様の召しは、抽象的、一般的な人間に向けられているのではないし、みんなまとめて十杷ひとからげにして召されているのでもない、ある具体的な状況の下で、具体的な生活をしている、具体的な家族を持ち、社会の中である具体的な地位や働きを負っている、そういう具体的な「私」に向けられているのだ、ということです。神様は、そのような具体的な生活の中にある私たちを、その具体的な状況の中でお招きになるのです。つまり、召された時の、信仰を与えられた時の私たちの状況、生活の姿、社会的立場、家族の中での立場というものは、単なる偶然ではなくて、神様が私たちに、その中で私を信じる者として生きよと命じておられる、私たちそれぞれに与えられている信仰の馳せ場、フィールドなのです。召された時の状態というものを私たちはそのように受け止めるべきなのです。それゆえに、そこにしっかりと留まって歩めと教えられているのです。  ですからこのことは、単に信仰者になった時結婚しているか、独身であるか、というだけの話ではありません。パウロはここで、召されたときの状態のままで歩めということを、二つの具体的な事柄を通して語っていきます。一つは割礼を受けているか否かということ、もう一つは奴隷であるか自由な身分であるか、ということです。これらのことが、召されたときの状態として見つめられているのです。ですからこの教えは、私たちが信仰者として生きる様々な具体的状況の全体に関わるものです。結婚はその具体的状況の中の一つの事柄に過ぎないのです。

割礼
 さて18節以下の、割礼のことについて見てみたいと思います。割礼とは、ユダヤ人がユダヤ人であることの印として肉体に施していた一つの印ですが、それが、神様の民、神様の救いにあずかる者の印とされていたのです。外国人、いわゆる異邦人もユダヤ人になることができます。それは、主なる神様への信仰に改宗し、割礼を受けることによってです。つまりユダヤ人というのは、民族的、血統的なつながりよりも、信仰と、それに基づく割礼によって結び合っている群れなのです。主イエス・キリストを信じる信仰も、このユダヤ人の信仰を土台として生まれました。主イエスご自身がユダヤ人でしたし、弟子たちも、これを書いているパウロもユダヤ人です。しかしイエス・キリストを信じる信仰は、ユダヤ人だけの救いを説くものではありませんでした。あるいは正確に言えば、神様の民であるユダヤ人、イスラエルの範囲を、全世界の人々にまで広げ、教会という新しいイスラエルを打ち立てていったのです。そこで起こってきた問題は、もともとユダヤ人でない人が、キリストを信じて教会に加えられる時、割礼を受ける必要があるかどうか、ということです。このことは、ガラテヤ人への手紙などでは非常に深刻な問題として取り上げられています。そこでのパウロの主張は、割礼を受ける必要はない、ということです。割礼という目に見える印によってではなく、主イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、私たちは新しいイスラエル、神様の民とされているのだから、異邦人は割礼を受けないままで教会の一員になることができる、とパウロは言っているのです。19節の「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは神の掟を守ることです」という教えはそのことを語っています。この場合の「神の掟を守る」というのは、主イエス・キリストによって明らかにされた神様のみ心に従う、ということでしょう。割礼を受けているかどうかではなくて、この主イエス・キリストとの関係こそが大事なのです。この割礼の問題が、当時の教会を揺るがす大問題でした。この手紙の宛先であるコリントの町の教会にも、ユダヤ人でない、異邦人たちが沢山おりましたから、その問題が当然取り沙汰されていたのです。そして大事なことは、パウロが、この問題において、先程の、「召された時の状態のままで歩め」という勧めを語っているということです。つまりパウロが語っているのは、もともと割礼を受けているユダヤ人が召されて信仰者になったのなら、その割礼を受けているということが、その人に神様から与えられている信仰の馳せ場なのだから、そこに留まって歩め、しかし割礼を受けていない異邦人が召されて信仰者になったのなら、神様はその人に、割礼のないままで信仰者として歩めと命じておられるのだから、割礼のない状態に留まれ、ということです。神様は、割礼のあるユダヤ人をも、割礼のない異邦人をも、その今あるがままの姿で招いておられるのだから、異邦人はユダヤ人になる必要はないし、ユダヤ人も異邦人になる必要はない、そのままで、信仰者として生きることができるのだとパウロは言っているのです。

 ここに「割礼の跡を無くそうとするな」とありますが、割礼というのは一旦受けたらその跡を無くすことはできないものですから、これはもっと精神的なこと、自分が割礼を受けたユダヤ人であることを恥じて、もうユダヤ人仲間と付き合うのをやめる、というようなことを指しているのでしょう。そのように自分の出身や今置かれている立場を恥じたり、否定的に見る必要はない、神様はあなたを、あなたの出身や、受け継いでいるものの全てを含めた今あるそのままの姿で召し、あなたがそのような者として信仰に生きることを求めておられるのだ、とパウロは言っているのです。そのことを私たちに当てはめて言うならば、私たちのほとんどは日本人です。私たちは日本人として、人によって差はあっても、日本的なものを受け継ぎ、日本の風土の中を生きています。神様はその私たちを召して下さり、信仰者として生かそうとしておられるのです。私たちは、キリストを信じる者となることによって、日本人でなくなるのではないし、その必要はないのです。日本人であるままで、主イエス・キリストを信じて生きる道を神様は私たちに与えて下さっているのです。

奴隷と自由人
 第二の事例は、21節以下に語られている、奴隷であるか自由な身分であるか、ということです。当時の社会には奴隷制度があり、奴隷の身分の者が信仰者になる、ということが多々あったのです。そのような者たちに対してパウロは、「自分が奴隷であることを気にしてはいけません」と言っています。気にするなというのは、一つには、今も見たようにそのことを恥じるな、ということでしょう。奴隷であるからといって、引け目を感じることはないし、人間として他の人よりも劣っているということではないということです。しかしそれだけではなくて、これは、奴隷である信仰者が、奴隷であるがゆえに十分に信仰に生きることができない、奴隷はいろいろな束縛を受けているわけですから、例えば礼拝にもちゃんと出席することができない、献げ物も十分にできない、あるいはまた、主人が異教徒であれば、主人の参加する他の神々の礼拝に、心ならずも付き合わなければならない、そういったことを全てひっくるめて言っているのだと思われます。そういう束縛、不自由な身であることを気にするな、嘆くな、引け目に思うな、神様は、あなたをそのような者として召し、あなたがそのような者として信仰に生きることを求めておられるのだ、それゆえにあなたはその束縛、不自由の中で、主イエス・キリストの救いにあずかる者として、神様の民として生きることができるのだ、とパウロは言っているのです。

 21節の後半は、解釈が分かれるところです。新共同訳は、「自由の身になることができるとしても、むしろそのままでいなさい」となっています。つまり、自由の身になる機会が与えられても、むしろ奴隷のままでいなさい、ということです。以前の口語訳は逆に「もし自由の身になりうるなら、むしろ自由になりなさい」と訳していました。どちらの訳も可能なのです。ここは直訳すると、「自由人になり得るとしても、あるいはなり得るなら、むしろ用いなさい」となります。何を用いるのか、自由になる機会を、と考えれば口語訳のようになるし、奴隷であるという今の立場を、と考えるならば新共同訳のようになるのです。新共同訳が「むしろ奴隷のままでいなさい」と訳したのは、その方が「召された時の状態に留まれ」という勧めと一致するからです。しかし23節には「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです。人の奴隷となってはいけません」とあるので、これは自由になることを勧めているようにも思えます。そういうわけで、どちらとも決め難いところがあるのですが、パウロがここで言おうとしていることは、奴隷であるか自由な身分であるか、ということは、キリストを信じる信仰に生きる上で決定的な事柄ではない、ということですから、そこからすれば、どちらの訳でもよいということになるでしょう。信仰においては、奴隷であるか、自由人であるか、という違いは意味を失うのです。そのことが22節に語られています。「というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです」。信仰者となった奴隷は、主によって自由の身にされている、信仰者となった自由人は、キリストの奴隷とされている、これは、奴隷と自由人との立場の逆転が起こっているということではなくて、主イエス・キリストを信じる信仰に生きることは、キリストの奴隷、僕となることだ、そしてそのことによって私たちは、私たちをいろいろに束縛し、縛りつけているこの世の様々な事柄、出身であるとか、地位や立場とか、そういったものから、そういったものの中に留まりつつ、解放される、自由になる、ということです。その解放は何によってもたらされるか、それが23節の「あなたがたは、身代金を払って買い取られたのです」ということによってです。奴隷を解放するために身代金が払われる。私たちは、そのようにして買い取られ、解放されたのです。誰が買い取ってくれたのか、それは神様です。神様が私たちを買い取るために支払って下さった身代金が、主イエス・キリストの十字架の死です。主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって、私たちは、神様に買い取られ、神様のもの、キリストの奴隷とされているのです。そこにこそ、「人の奴隷とならない」生き方が与えられます。この世を生きる限り私たちは様々なものの束縛を受けていますが、しかしその中でそれに縛られない本当の自由を得て生きることができるのです。それが、奴隷であってもそのことを気にしない、という生き方です。それは、与えられている束縛、拘束の中で、自分を恥じたり、卑屈になったり、引け目を感じたりせずに、むしろ逆に、積極的に主人に仕えていくことができる生き方です。

キリストの苦しみの足跡に従う
 このことについてはどうしても、ペトロの手紙一の第2章18節以下を読んでおかなければなりません。そこには、「召し使い」つまり奴隷の身分で信者になった人々への勧めがこのように語られているのです。「召し使いたち、心からおそれ敬って主人に従いなさい。善良で寛大な主人にだけでなく、無慈悲な主人にもそうしなさい。不当な苦しみを受けることになっても、神がそうお望みだとわきまえて苦痛を耐えるなら、それは御心に適うことなのです」。信仰者である奴隷たちに、「心からおそれ敬って主人に従いなさい」しかも、よい主人にだけではなく、無慈悲な、悪い主人にも従いなさいと勧められているのです。そのことによって、不当な苦しみを受けることになっても、それを耐え忍びなさいと言われているのです。奴隷であってもそのことを気にしないというのは、こういうことです。つまりそれは、奴隷だからってどうってことないよ、ということではなくて、奴隷であるという自分の立場、境遇を、主から分け与えられた分として積極的に受け止め、その境遇の中で、主を信じ、主に従う者として生きていくということなのです。そうすることによって、不当な苦しみを受けることにもなります。しかし、21節「あなたがたが召されたのはこのためです。というのは、キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に続くようにと、模範を残されたからです」。主イエス・キリストが、私たちのために、ご自分は何の罪もないのに、十字架の死を引き受けて下さった、その主イエスの受けて下さった不当な苦しみのゆえに、私たちは罪を赦され、買い取られて神様のものとされたのです。その主イエス・キリストの足跡に続いていくのが、私たち信仰者の歩みです。主イエス・キリストに従っていく、ということによってこそ、私たちは、与えられている立場、境遇から逃げずに、そこにしっかりと留まりつつ、そこで信仰者として生きることができるようになるのです。

ナアマンの願い
 パウロがここで教えていることはこのように、私たちが、それぞれ自分に与えられている具体的な生活、社会的立場、家庭、仕事、人間関係を、神様によって与えられた馳せ場として積極的に受け止め、そこで主イエスを信じる者として生きなさい、ということです。それは別の言い方をすれば、自分の立場が、境遇が、生活が、もっとこうであったら信仰者として生きていけるのに、と思ってはならない、ということです。私たちは、今置かれているこの場で、この生活において、神様に召され、主イエスを信じて生きることへと招かれているのです。信仰は、ある条件が整ったら得ることができる、信仰者として生き始めることができる、というものではありません。今与えられているこの条件のもとで、私たちは信仰を与えられて生きるのだし、生きることができるのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、列王記下5章15節以下は、アラムの軍司令官ナアマンが、重い皮膚病をイスラエルの預言者エリシャに直してもらった時の話です。ナアマンはこの癒しの奇跡によって、「イスラエルのほか、この世界のどこにも神はおられないことが分かりました」と言っています。エリシャの仕えているイスラエルの主なる神様こそが、生けるまことの神であることを彼は知り、その主を信じる者となったのです。彼はエリシャにこう言いました。17節「それなら、らば二頭に負わせることができるほどの土をこの僕にください。僕は今後、主以外の他の神々に焼き尽くす献げ物やその他のいけにえをささげることはしません」。自分は今後、このまことの神である主以外の神々に犠牲をささげることはやめる、と言ったのです。しかし18節「ただし、この事については主が僕を赦してくださいますように。わたしの主君がリモンの神殿に行ってひれ伏すとき、わたしは介添えをさせられます。そのとき、わたしもリモンの神殿でひれ伏さねばなりません。わたしがリモンの神殿でひれ伏すとき、主がその事についてこの僕を赦してくださいますように」。彼はアラムの軍司令官です。アラムの王に仕える身です。王がアラムの神リモンの祭儀を行う時、彼もそれに従ってリモンの神殿でひれ伏さなければならないのです。それをしないというなら、彼はもうアラムの軍司令官をやめなければなりません。その地位に留まりつつ、主なる神様を信じ、主を礼拝する者として生きることを許してほしい、と彼は言っているのです。このことは、取りようによっては、自分の地位を守るために偶像礼拝に加わることを許してほしいなどという日和見な信仰はけしからん、とも言えるかもしれません。しかしエリシャは「安心して行きなさい」と言いました。主なる神はそれを許して下さる、というのです。これは決して、時と場合によって信仰を使い分けるようなことを許しているということではありません。私たちがここから読み取るべきことは、主なる神様を信じ、主を礼拝して生きる生活は、どのような立場、境遇、条件の中でも与えられるのだし、必ずその道は開かれるということです。それゆえに私たちは、今与えられている条件、置かれている立場が変われば信仰に生きることができる、と考えてはならないのです。神様は私たちを、今あるがままで、主イエス・キリストの僕として生かそうとしておられるのだし、その道は必ず開かれていくのです。

今与えられている条件のもとで
 そういうわけですから、パウロがここで語っているのは、信仰者は、信仰を与えられた時の自分の生活の姿や立場を一切変えてはならない、ということではありません。結婚についても、信仰者になった時に独身であった者は生涯結婚してはいけない、と言っているのではないし、結婚している者はどのような事情があっても決して別れてはならない、と言っているのでもありません。結婚することもよいし、やむを得ない場合には離婚することもあり得るのです。それは、奴隷が自由人になってもよいし、奴隷のままに留まっていてもよいのと同じです。いずれにしても大事なことは、今与えられている自分の生活、立場、条件を、主から与えられた自分の分として受け止め、自分はその中で、主イエス・キリストを信じ、従って生きることへと召されているのだ、ということをしっかりわきまえることです。信仰は、もう少し生活がこうなったらとか、もっと自分がしっかりした人間になったらとか、境遇がもっと安定したら、忙しくなくなったら、余裕ができたら、得られるというものではありません。神様の恵みと召しは、今この時、このような者として、このような状況の中を生きているこの自分に与えられているのです。

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