主日礼拝

信仰の訓練

「信仰の訓練」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; レビ記 第20章22―26節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第5章9-13節
・ 讃美歌 ; 8、166、458 聖餐式 77

 
以前の手紙
 私たちは今、使徒パウロがコリントの教会に宛てて書き送った手紙を礼拝において読んでいます。一と二、二つの手紙が聖書に収められていますが、パウロがコリント教会に送った手紙はこの二つだけではなかったようです。そのことが本日の箇所の最初の9節からわかります。「わたしは以前手紙でこう書いた」とパウロは言っています。この手紙の前にも、既に手紙を書いたことがあったのです。その手紙は今は残されていません。聖書に入れられて残されたのは二つの手紙だけだったのです。実は学者の間には、この第一の手紙自体も一つのまとまった手紙ではなくて、いくつかの手紙を寄せ集めたものだ、という考え方もあります。その考え方によれば、今私たちが読んでいるあたりは、第一の手紙の中でも最も後に書かれた部分らしいのです。もっと後ろの部分が、実はここよりも先に書き送られていたのではないか、という議論もあるのです。

みだらな者と交際するな
 さてパウロは以前の手紙で、「みだらな者と交際してはいけない」と書いたと言っています。この第5章は、コリント教会で起っていたみだらな行い、つまり性的な不道徳という罪の問題について述べているのですが、パウロは既に先の手紙においてその問題に触れて、そういうことをしている者とは交際するな、と書いたのです。「その意味は」と10節に続いていきます。つまり、先の手紙に書いた「みだらな者と交際するな」という教えの意味を、この手紙において改めて語ろうとしているのです。それは、先の手紙に書いたことを、誤解ないしは曲解している人々がいたからです。どういう誤解あるいは曲解だったのかが10節からわかります。「その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」。パウロは、みだらな者や強欲な者、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つき合うなと言っている、というのがその誤解です。それに対して、私はそんなことを言っているのではない、とパウロは語っているのです。そんなことを言ったら、私たちはこの世で生きていくことはできなくなってしまう。この世は、みだらな者や強欲な者、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちで満ちている。そういう者と一切交際しないとすれば、この世を捨てて修道院のような所で隠遁生活を送るしかなくなってしまうのです。だから、このような者とは一切つき合うな、と言っているのではない。パウロの真意は11節です。「わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです」。「兄弟と呼ばれる人で」がポイントです。兄弟とは、主にある兄弟姉妹、つまり教会に共に連なる仲間、教会員のことです。世間一般の人々のことではなくて、教会における信仰の仲間たちの中でのことが問題とされているのです。その中に、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいるなら、その者とはつきあうな、一緒に食事もするな、とパウロは言っているのです。

感情的反発
 パウロのこの教えを、コリント教会の人々は誤解しました。いやそれはむしろわざと曲解したのです。その背後にあるのは、パウロの言っていることは厳し過ぎる、という思いでしょう。ここを読んでわかるように、問題はみだらな行い、つまり性的不道徳のことだけではありません。強欲、偶像礼拝、人の悪口を言う、酒におぼれる、人のものを奪うという罪が並べられています。そのような罪の全てから遠ざかれとパウロは教えています。それに対して、そんなことを言っていたらとてもこの世で生きてはいけない、人間誰でもこのような罪を多かれ少なかれかかえて生きているのであって、それを一切いけない、そんなことをする者とはつきあうな、と言われたら、この世から出ていくしかないではないか…、とコリントの人々は思ったのです。それはパウロの教えを正しく受け止めようとしない、ヒステリックな、感情的な反発です。
 これと同じ思いは私たちの中にも起ります。私たちも、このパウロの教えを読むと、「いやパウロさんそれはちょっと厳し過ぎるんじゃないですか」と思うのです。「こんなことを言われたら、誰とも交際できなくなるし、そもそも誰も教会に来れなくなりますよ」と言いたくなるのです。しかしそれはやはり私たちの感情的な、ヒステリックな反発です。私たちはそこでもっと冷静になって、パウロが語ろうとしていることの真意を理解しなければなりません。本当の意味を理解せずに反発しても、そこには何の実りも生まれないのです。

教会の内部と外部
 パウロが語ろうとしている真意は何でしょうか。教会員どうしの間では、罪を犯している者と交際してはならないが、相手が教会の外の、世間の人ならよい、ということでしょうか。そのようにこの教えを読むならば、そこに生まれる結論は、世間では許されることも教会では許されない、教会とは厳しい所だ、ということになります。確かにパウロはここで、教会と世間との区別を語っています。兄弟とそうでない人々とは違うのだ、と言っています。それは12節では、「外部の人々」と「内部の人々」という言葉に表れています。そこには、外部の人々を裁くのは我々のすることではない、内部の人々をこそ裁くのだ、と語られています。教会は、外部の人は裁かないが内部の人は裁く、それは外部の人の罪はどうでもよいが、内部の人の罪は厳しく取り締まる、ということなのでしょうか。パウロのこの言葉には、教会のことをそのような恐ろしい所だと感じさせかねない響きがあります。そして実際私たちは、教会をそういうイメージで見ていることがあるのではないでしょうか。つまり、教会は品行方正な立派な人でないといられない所だ、教会では裃を着てお行儀よくしていないと責められてしまう、つまり教会というのは肩の凝る所で、自分の本当の姿を出せない所だ、という感じです。そういうイメージを持っている人は、本日の箇所を読むと、「ほら、やっぱり教会ってこんな厳しい、恐ろしい所なんだ」と思うでしょう。しかし果してこの手紙を書いたパウロは、教会をそのようなものと理解しているのでしょうか。

過越祭を祝う群れ
 そうではないということを私たちは8節までの所で既に学んできたはずです。そこでパウロは、キリストが私たちの過越の小羊として既に屠られたのだから、私たちも過越祭を祝おう、と言っていました。教会は、過越祭を祝う群れなのです。過越祭は、イスラエルの民の最大の祭りで、その意味を一言で言えば、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルを、神様が救い出して下さった、その救いを喜び祝う祭です。教会も過越祭を祝うのです。教会における過越祭は、神様の独り子イエス・キリストの十字架の死によって、神様が私たちの罪を赦して下さって、罪の支配から解放し、新しく生きる者として下さった、その救いを喜び祝う祭りです。イスラエルの民における過越祭においては、過越の小羊が屠られ、その肉を共に食べる過越の食事がその中心でした。教会の過越祭りの中心にも食事があります。それが本日共にあずかる聖餐です。聖餐のパンと杯にあずかることによって私たちは、主イエス・キリストが私たちの全ての罪を背負って十字架にかかり、肉を裂き、血を流して死んで下さったことを覚え、そこに与えられている罪の赦しの恵みを体で味わい、救い主イエスが共にいて下さる交わりを確かなものとされるのです。教会は、この聖餐を中心とする過越祭を祝う群れなのです。つまり教会は、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みを喜び祝いつつ歩む群れです。私たちは、その罪の赦しの恵みが自分に与えられていることを信じて洗礼を受け、聖餐によってその信仰を確かにされつつ歩んでいるのです。私たちはこのことを、本日の箇所を読む時にも前提として忘れてはならないのです。パウロはこのことを踏まえた上で、教会の内部と外部の区別を語っているのです。

罪の赦しの恵みを知っているか
 そうであるならば、教会の内部と外部、兄弟姉妹とそうでない人々、要するに教会と世間との違いの根本は、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを知っているかどうか、その恵みによって生きているかどうかです。このことが、本日の所でパウロが語っていることを正しく理解するためのポイントなのです。つまり、パウロがここで、教会において起っている罪を真剣に問い、その悔い改めを求めるために、そういうことをしている人とはつきあうな、一緒に食事もするな、という厳しいことを語っているのは、教会の内部と外部を、教会とその外の人々とをはっきりと区別しているからです。そしてそれは、教会に連なる者であるあなたがたは、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを知っており、その恵みを常に喜び祝いつつ生きている者たちなのだ、だから、あなたがたにおいては、罪を真剣に問い、悔い改めを求め、そして主イエスによる赦しにあずかって生きることができるのだ、あなたがたはそういう群れなのだ、ということなのです。先程申しましたように12節には、外部の人々を裁くことは私たちの務めではない、内部の人々をこそ裁くのだ、とあります。内部の人、つまり教会に連なっている人の罪をこそ指摘し、悔い改めを求めていく、それは、外部の人に対してはやさしい顔をしているが、一旦信者になり、教会員になり、内部の人になったら、今度はびしびしと厳しい規律でしめあげる、ということではありません。内部の人、つまり信仰者は、洗礼を受けて主イエス・キリストにつながる者となり、主イエスの十字架による罪の赦しの恵みを喜び祝いつつ生きているのです。だからその人々には、罪を指摘し、悔い改めを求めることができるのです。彼らは、主イエスによる赦しの恵みに立ち返ることができるからです。しかし外部の人々、教会に連なっていない、洗礼を受けておらず、主イエスによる罪の赦しの恵みを信じ受け入れていない人々に対しては、そのように罪を指摘することはできません。彼らは立ち返るべき赦しの恵みをまだ知らないからです。赦しの恵みを知らない人に対して、あくまでもその罪を断罪していくならば、それは相手を追い詰め、滅ぼすことになります。それは、私たち人間の分を越えたこと、人間がしてはいけないこと、神様のみがおできになることです。だから13節にあるように、「外部の人々は神がお裁きになる」のです。外部の人の罪はどうでもよいのではなくて、それに関しては、神様にお任せするしかないのです。

私たちへの問い
 もう一度繰り返します。教会は、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みを喜び祝いつつ生きる群れです。それゆえにこそ、教会においては、罪をはっきりと見つめ、それを指摘し、悔い改めを求め、そしてその赦しに生きることができるのです。主イエスによる罪の赦しを知らない、それを信じ受け入れていない人々の間では、それはできないのです。そこに、教会の内部と外部、兄弟とそうでない人々との違いがあるのです。パウロはそのことをここで見つめ、語っているのです。このことは直ちに、私たちに対する、私たちの教会、この群れに対する問いかけです。私たちは、私たちのこの群れは、本当に主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを喜び祝いつつ生きているでしょうか。そしてその恵みによって、お互いの罪をきちんと指摘し、悔い改めを求め、赦しに生きることができているでしょうか。むしろ私たちも、コリント教会の人々と同じように、このあたりのパウロの言葉に、罪を断罪する厳しさしか聞くことができず、こんな厳しいことを言っていたらこの世から出ていかなければならなくなるではないか、こんなことを言っていたら誰も教会に来なくなる、などとヒステリックに、感情的に反発することの方が多いのではないでしょうか。しかしパウロがこのように教会の中の罪を厳しく指摘しているのは、彼が厳しい人だったからではありません。パウロは、教会は主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みに生きる群れである、ということを本当に真剣に受け止めていたのです。そしてそうであるならば、教会では、罪が問われ、悔い改めが起り、その赦しに生きることができるはずだ、それが本当に出来るのが教会ではないか、と言っているのです。厳しいことを言っていたら誰も教会に来なくなると恐れ、お互いの罪を指摘し、悔い改めを求めることをせずに、罪をうやむやにしてしまおうとするのは、パウロに言わせれば、本当に主イエスによる赦しに生きていないからです。罪の赦しの恵みが口では語られていても、ただのお題目になっているのです。主イエスによる罪の赦しに本当にあずかり、それによって生かされているならば、自分たちの間にある罪をもっと大胆に、真剣に問うことができるはずなのです。逆に、それがただのお題目、あるいはいわゆる「建前」になっている所では、表面上はやさしく罪を見逃し、曖昧にしていながら、陰では悪口を言い、冷たく批判し、公の場ではとても言えないような、びっくりするような心ない言葉が飛び交う、ということが起るのです。

恨みや怒りや自己主張によってではなく
 それでは私たちは、教会において、人の罪を遠慮なくどんどん指摘し、それを責めていった方がよいのでしょうか。パウロが語っていることの真意を汲み取っていくならば、そんな単純な話にはなりません。それもまた、感情的な、ヒステリックな反応というものです。むしろここから私たちが学ぶべきことは、人の罪を指摘し、責めることはとても難しいことだということです。その難しさとは、自分も罪を犯しているから人の罪を責めるなどおこがましい、ということではありません。そうではなくて、自分自身が主イエスによる罪の赦しの恵みを本当に喜び祝いつつ生きている者でなければ、正しく人の罪を責めることはできない、ということです。私たちが人の罪を指摘し、責めようとする時、それはしばしば、自分の怒りによることだったり、仕返しをして恨みをはらすためだったりします。あるいは、人を責めることによって自分の正しさを主張するためだったりします。つまり、自分の罪が主イエスによって赦されたことを感謝し、人の罪も同じ赦しの下にあることを信じ、それゆえに、相手と共に主イエスの赦しにあずかろう、というのとは全く違う思いで、相手をどこまでも追いつめていくような仕方でそれがなされてしまうことが多いのです。それは先ほどの、表面では罪をあいまいにしながら、陰で悪口を言い、冷たく批判しているのと思いにおいては同じことであり、それを陰でではなく表で、公の場でしているだけのことです。罪の指摘が、そのように恨みや怒りや自己主張からなされるところには、主イエスによる赦しの恵みを喜び祝う信仰はありません。パウロがここでコリント教会における罪を厳しく指摘しているのは、罪を犯した人に対する怒りや、自分の正しさを主張するためではなくて、その人も悔い改めて主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みを受け、兄弟として回復されることを願いつつなのです。つまりパウロは、教会が主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを本当に喜び祝い、共にその恵みに生きる群れとなることを願っているのです。

信仰の訓練
 ですから、罪を犯している者と交際してはならない、一緒に食事もしてはならないというのは、そういう人と付き合うと自分も罪に汚れるから、ではありません。パウロが問題にしているのは、一人一人がどれだけ清い、汚れのない者になるかではなくて、教会がどのような群れとなるかなのです。教会は、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みを喜び祝いつつ生きる群れです。その点で教会は、世間とははっきりと区別された群れであるはずなのです。パウロが、教会における罪を厳しく指摘し、それを取り除こうとしているのはそのためです。罪の赦しの恵みに生きる群れにおいては、その恵みに応えて悔い改めがなされ、共に赦しの恵みにあずかり、その罪が取り除かれ、清められていくことが当然起るはずだからです。私たちは、そのことを目指して、自らの内にある罪と戦い、この群れが、悔い改めと赦しに共に生きる群れとなるための努力をしていきたいのです。それが、私たちにおける信仰の訓練なのです。

信仰の訓練の前提と目的
 そこで忘れてならないのは、私たちの信仰の努力と訓練の前提は、主イエス・キリストの十字架の死による罪の赦しの恵みであるし、その目的は、この罪の赦しの恵みに共に生きる群れとなることだ、ということです。主イエスの十字架による罪の赦しの恵みなしには、私たちがどんなに努力して罪と戦ってもよい実りは得られません。自分の力で罪と戦い、清くなろうとする努力はどこかで挫折するし、そのような努力はかえって人間の思い上がりを生み、互いに裁き合う対立を生むのです。繰り返し罪に陥り、とうてい自分で自分を清めることはできない私たちは、主イエス・キリストがその罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったという恵みに常に立ち戻り続けることによってこそ、自分の中の、また兄弟姉妹の中の罪と戦い、それに打ち勝っていくことができるのです。兄弟姉妹の罪と戦い、勝利するとは、罪を犯した人を責めて滅ぼすことではなくて、その人を、主イエスの十字架による赦しの恵みの中に回復することです。そのような戦いは、主イエスの赦しが自分にも、その人にも、既に与えられているという信仰による前提に立つことによってこそ可能なのです。
 また、私たちが自分の中の、また教会の中の罪と戦っていくことの目的は、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みに共に生きる群れを形作ることです。私たちの努力は、その目的のための手段に他なりません。罪との戦いは、それ自体が目的なのではなくて、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みに、自分も、兄弟姉妹も共にあずかり、その恵みを共に喜び祝うためなのです。その目的が見失われて、手段が一人歩きしてしまうと、自分の努力を誇ったり、人の罪を断罪することで自分の正義感を満足させたりするようなことが起るのです。

神の選びのゆえに
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所であるレビ記20章の26節にこうあります。「あなたたちはわたしのものとなり、聖なる者となりなさい。主なるわたしは聖なる者だからである。わたしはあなたたちをわたしのものとするため諸国の民から区別したのである」。「聖なる者となりなさい」と主は私たちに求めておられます。それは、聖なる方である主が、私たちをご自分のものとするために、諸国の民の中から選び、区別して下さったからです。パウロが教えているのもそういうことです。私たちは洗礼において、主イエス・キリストの十字架による罪の赦しの恵みにあずかりました。そして聖餐において、その恵みを味わい、喜び祝っています。神様が私たちをご自分のものとするために選び、区別して下さったことの目に見えるしるしがそこにあるのです。それゆえに私たちは、自らを、またこの群れを清いものとするために努力していくのです。神様は、今この礼拝に集っておられる、まだ洗礼を受けておられない方々をも、ご自分のものとするために選び、招いて下さっています。神様の招きを信じて洗礼を受け、主イエスによる罪の赦しの恵みにあずかり、聖餐によってその恵みを喜び祝いつつ歩むこの群れに、さらに多くの方々が加えられ、悔い改めと赦しに共に生きる群れとなるために神様が与えて下さる信仰の訓練を受けていきたいと願っています。

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