夕礼拝

パン屑を求める信仰

「パン屑を求める信仰」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第57章14-21節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第7章24-30節
・ 讃美歌 ; 57、462

 
隠れられる主イエス
本日お読みした箇所の冒頭に、「イエスはそこを立ち去ってティルスの地方に行かれた」とあります。ティルスの地方とは、ユダヤ人ではなく、異邦人が住む地方です。何故、主イエスは、異邦人の地に行かれたのでしょうか。続けて記されているところを読みますと、「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」とあります。この箇所は口語訳聖書では、「だれにも知られないように、家の中にはいられたが、隠れていることは出来なかった」と訳されています。主イエスは、この時、人々から隠れようとされたのです。主イエスは、様々な業をなすことによって、神の子としての権威を示されました。しかし、一方で、群衆から身を引いてご自身を隠されました。主イエスが力強く業をなし、神の子としての権威を現されれば現されるほど、ユダヤの人々は、自分の願望をかなえてもらいたい一心で主イエスを求めるようになりました。又、律法学者やファリサイ派の人々は主イエスを試し陥れようとして、問いを投げかけて来ました。弟子達は、繰り返し示される主イエスの御業に触れていても、心が鈍く、その意味を理解することはありませんでした。皆、自分勝手に救い主を思い描いていて、主イエスが示そうとしている福音を受け入れることは出来なかったのです。神の子としての権威を現しても、理解しないばかり、むしろ誤解して、自分勝手な救い主を思い描いてしまう人々を前にして、主イエスは、ご自身を隠されたのです。主イエスは、これまでも何度か群衆から離れられました。人々から離れて、神に祈る時をもたれたこともありました。しかし、その都度、人々は主イエスを捜し出し、主イエスのもとにやって来たのです。主イエスは、ユダヤ人の住む場所で落ち着くことはありませんでした。この時、主イエスは、ユダヤの地を離れて、異邦人の住む地方にやって来て身を隠されたのです。当時、ユダヤ人は、異邦人を軽蔑していて、異邦人と共に食事をすることもありませんでした。ですから、異邦人の地に身を寄せている限りは、ユダヤの人々から逃れることが出来たのです。

シリア・フェニキアの女
しかし、ここでも主イエスは隠れていることは出来ませんでした。「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけてその足もとにひれ伏した」のです。異邦人の住む場所にも主イエスを求める人がいたのです。「ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」とあるように、この女は紛れもない異邦人でした。主イエスとこの女は一緒に食事をしない間柄にありました。しかし、大胆にも主イエスのもとにやってきて、必死になって娘から悪霊を追い出してほしいと頼んだのです。悪霊に取り付かれているこの娘がどのような状態であったのか、詳しいことは記されていないので分かりません。しかし、主イエスは以前にも悪霊に取り付かれた人を癒されたことがありました。マルコによる福音書の第5章にはその時のことが記されています。その時も、やはり群衆を離れて、異邦人の住む土地に行かれた時のことです。主イエスと一行は舟に乗って漕ぎ出し、ゲラサ人の地方に着くのです。そこで汚れた霊に取り付かれた人が墓場からやって来て、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と叫んだのです。主イエスは、汚れた霊を豚に乗り移らせることによって、この霊を追い出したのでした。この時悪霊に取り付かれた人について、「彼は昼も夜も墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と記されています。汚れた霊とは、神様に対抗する力です。私たちに、神様の救いの御業を見えなくさせるのです。この人は、悪霊の力によって、神様から離れ、自分で自分を傷つけるようになっていたのです。神の救いが見いだせないために、自分で自分を罪に定め自分を打ちたたいていたのです。この女の娘が、同じように自分で自分を傷つけていたのかは定かではありませんが、しかし、この娘もキリストの救いを必要としていながらそれを見出すことが出来ずに苦しんでいたのではないでしょうか。そして、この娘の苦しみは、この母親の苦しみでもあったことでしょう。

主イエスの返答
 しかし、ここで、主イエスは、この女を引き離すような態度を取ります。そもそも、人々から離れ、ご自身を隠されようとしていたのです。ですから、救いを宣言する言葉を語ったり、力強い御業をなさらないのも当然と言えば当然なのかもしれません。汚れた霊に対する自らの権威を現すのではなく、むしろ自らを隠されるようにして、女の要求を突っぱねるのです。主イエスは女に答えます。「まず、子供たちに十分たべさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」。ここで、「子供たち」と言われているのは、ユダヤ人達のことです。「小犬」と言われているのは、異邦人である女のことです。主イエスは、ここで、「私の救いは、先ずユダヤ人に与えられるべきものであって、それを異邦人であるあなたに与えることは出来ない」という趣旨のことを述べたのです。主イエスは、幼い娘の救いを求めてやって来た女の願いを聞かれないのです。しかも、ただ願いを断ったというのではありません。この女を犬呼ばわりするのです。私たちも人に対して「犬」という言葉を使うことがあります。「権力の犬だ」というような表現がなされます。スパイや、自分の出世のために媚び諂う人に対して使います。「犬」という言葉が人に用いられる時は、決して良い意味ではありません。当時のユダヤ人たちも軽蔑する思いを込めて異邦人達を犬呼ばわりすることがあったようです。 私たちは、このような主イエスのお姿に少なからず困惑するのではないでしょうか。私たちから見れば、あまりに冷たく、不公平にしか見えないのです。もし、私たちが、この女のように、主イエスに願い求めたとして、同じような態度を取られ、求めが聞かれなかったとしたらどうするでしょうか。主イエスの厳しい言葉に落胆しながら、主イエスによって救いを求めることを諦めてしまうのではないでしょうか。あるいは、願いが聞かれなかったことに腹を立てて主イエスに暴言を吐いて立ち去ってしまうかもしれません。しかし、主なる神を求める中で、私たちの価値観からして、不条理だと思うようなことに出くわす時にこそ、立ち止まって考えて見るべきです。神は決して人間が望むような形でご自身を現して、救いの御業をなさる方ではありません。むしろ、私たちの意に反して、ご自身を隠されることもあるのです。そして、そのような時にも、実は、ご自身を隠されることを通して、私たちに語っておられるのです。ご自身を現すだけでは、自分勝手に救い主を思い描いてしまう人間に対して、隠すことによっても福音を示そうとされているのです。このことが分からないで、神に向かって不平や不満を言う時、私たちは、この方を自分自身の主とするのではなく、主なる神を自分の思いに従わせようとしているのです。神が自由な方であることが忘れられているのです。そのような中で、自らの思いと異なる、主イエスの姿に躓き、信仰が揺らいで、主イエスの下を離れてしまうということが起こるのです。

子供のパン屑はいただきます
この女は、突っぱねられても、主イエスの下を離れることはありませんでした。むしろ、主イエスに対して食らいつくように返答するのです。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」と答えるのです。この女は、先ず、自分が「犬」であることを認めます。自分はとうてい主イエスと共に食卓に着くことが出来るような「子供」と言えるような者でない。むしろ、自分は食卓の下にいる小犬と呼ばれて当然であると認めるのです。その上で、食卓から落ちた、パン屑は小犬も食べるということを指摘して、そのおこぼれを私に下さいと願うのです。こぼれ落ちるあなたの恵に与らせて下さいと願ったのです。自分が救いを受けるに値しない者であることを認めつつ、尚この方の恵を求めたのです。
この女の態度にこそ、主イエスを真の主とする姿勢が示されています。ここには、自らを主として振る舞おうとする思いはありません。ここで、女は、「主よ」と呼びかけています。私たちは、信仰生活の中で「主」という呼びかけを用います。ですから、ここで、この女が、「主よ」と呼びかけてもあまり不自然には思わないかもしれません。しかし、マルコによる福音書において、主イエスに対して、「主よ」との呼びかけがなされるのはこの箇所だけです。人々が主イエスを呼ぶときは大抵、「先生」という呼びかけが用いられています。主イエスに向かって「主よ」との呼びかけをなしたのは、自らの願望に答えてくれる救い主を求めていた群衆ではありませんでした。また、主イエスに従っていながら、主イエスのことを理解しない弟子達や、主イエスを試そうとする律法学者やファリサイ派の人々でもありませんでした。自ら、神の救いに与る資格がないことを認め、自らの無力さの中で、主イエスに委ねきった異邦人の一人の女こそ、イエスを「主」と呼んだのです。

謙りの中での大胆さ
この女は、主イエスを救い主と受けつつ、主イエスの救いを求めました。異邦人でありながら、主イエスに願い出て、断られても尚、主イエスの救いを求めたのです。これは、考えてみると大胆なことです。この大胆さは、娘の救いのために必死になっていたということだけから来るものではありません。キリストに自らを委ねきっている故の大胆さです。しかも、この女の求めは、自らの権利を要求する高ぶった態度とはほど遠いものです。この女は、主イエスの下に来て、真っ先に「その足もとにひれ伏し」たとあります。主イエスの前で一切高ぶることなく、謙ったのです。この方以外に救いの根拠はないということを知らされて、全てを委ねていたのです。そして、全てを委ねていたからこそ、大胆に主イエスに求めることが出来たのです。この「謙りの中での大胆さ」に、この女の信仰が示されています。
私たちは、このような信仰に生きているでしょうか。むしろ、それとは反対の自分の姿を見出すことが多いように思います。主に願い求めても、それが答えられない時に、こんな不公平な神なら信じるに値しないと考えてしまうことがあります。そこには、「もし、あなたが御力を示し、私の求めに応じるなら信じても良い」と主イエスを試す思いがあります。そして、自らの願いが突っぱねられると、プライドが傷つけられたことを怒り、神を否定するようになるのです。それは、心から主イエスに委ねて救いを求めていない時に起こります。そこには、心のどこかに、自分は、神様の救いに与ることが出来ると考えている傲慢な思いがあるのです。まるで、自分の持っている権利を主張するようにして、神の救いを求めるのです。そのような時に限って表面的には、神の前に謙っているかのように振る舞いながらも、自らに頼って生きているのです。そこでの謙りは、「傲慢さの中での謙遜」とでも言うべきものなのです。それは、ユダヤの群衆や、律法学者、ファリサイ派の人々と同じ態度なのです。そこでは、はっきりとキリストにひれ伏すことをせず、自らを主として、自らの望む救いを求めて歩んでいるのです。その時、主イエスは「先生」であったとしても、「主」ではないのです。

主による救いの宣言
主イエスは、この女に向かって、「それ程言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」と言われます。この箇所を口語訳聖書は、「その言葉で十分である」と訳しました。直訳すると「この言葉の故に行け」と訳せる言葉です。この、「主よ、パン屑を下さい」との言葉の故に、悪霊からの解放が与えられているというのです。この女の主に委ねきった信仰の故に真の救いが宣言されたのです。このような謙りがない所には、真の意味での救いはありません。主に委ねることをせず、自分が、救いを受けるに値すると考えている時に、ご自身を隠される主イエスに躓き、真の神から離れていってしまうのです。そこでは、悪霊の力によって、キリストの救いを拒み、神を否定し、自分自身をも否定して歩むようになるのです。私たちが、神様に自分を委ねる信仰に生かされているかどうかというのは、神様がご自身を隠された時にどのように振る舞うかということによって明らかになると言って良いでしょう。主イエス・キリストを信じる信仰は、主がご自身を隠される時、自分自身の思うような仕方で主が答えて下さらない時、尚、主イエスに委ねることによって始まります。私たちは、主が隠されている時にこそ、真の主の救いを求め、主に委ねなくてはなりません。

私たちの思いを超えて救いをなさる主
神様は全く自由な方として、私たちの思いをはるかに超えた形で救いをなして下さった方です。主イエスの十字架の死は、人間の理解を超えた出来事でした。誰も、十字架が自らの罪のためであることを知ることはなかったのです。誰にも理解されない中で、主イエスは私たちの救いの業を成し遂げて下さったのです。この十字架での主イエスの贖いによる赦しは決してユダヤ人のためだけになされたものではなく、全てのもののためになされた、神の恵みによる救いです。この主イエスの恵に委ねることによってのみ悪霊からの解放が与えられるのです。主イエスは、全ての人のためにこのような救いの業をなして下さる方だからこそ、パン屑を求めて委ねきったこの女の言葉の故に救いを宣言されるのです。 十字架の主を示される時、御自身を隠された主イエスが、決して、この女を冷たくあしらわれたのではないことが分かります。そもそも、主イエスは、「犬」ではなく「小犬」という表現を用いたのです。ここには、「あいつは犬だ」という軽蔑し見下す響きはありません。むしろ、ペットの小犬をかわいがって「わんちゃん」と呼ぶような愛情があります。主イエスはご自身の足下にひれ伏す女に愛をもって接しておられるのです。この時の、主イエスは、異邦人である女、その娘の救いのためにも、十字架に赴こうとされているのです。この女は、その主イエスの愛を感じ、その愛の中で、「食卓の下の小犬もパン屑はいただきます」と語ることが出来たのです。主イエスは、この女が足下にひれ伏した時に、すでに、この女の信仰を見ておられたのではないでしょうか。そして、この女自身が大胆に求める言葉を語ることによって、悪霊の力から自由にして下さったのです。真の主の救いに生かされつつ家に帰るようにと言われたのです。

主イエスの足下にひれ伏して
私たちは、信仰生活の中で、自らの願い求めが拒まれる時に、主なる神を見失い、不満を漏らすことがあります。そこで尚、主の愛を信頼して生きることが出来ないことがあります。そのような時、私たちはどこかで傲慢になっているのです。主イエスを自らの主としていないのです。主イエスより一段上に立って主イエスを試しているのかもしれません。又、自らの権利を主張し、救いを要求するような思いで主に接しているのかもしれません。私たちは、この女がしたように主の足下にひれ伏すことから始めなくてはなりません。それは、礼拝の場においてなされることです。礼拝において、この方を主として、その救いに全てを委ねるのです。もし、そのことがなされるのであれば、私たちに示される、主の姿が、私たちの思う主の姿とは異なっていても尚、この方に求めることが出来るのです。主がご自身を隠され、自らの求めが拒まれたとしても、この方の救いに信頼することが出来るのです。この方の前でひれ伏し、「主よ」と呼びかけつつ、大胆にパン屑を求めることが出来るのです。この方を主とする時、私たちの思いもつかない仕方で現された愛が私たちにも注がれていることが示されるからです。満ちあふれる、この方の愛の中で、私たちは、主がご自身を隠される時にも、救いを求めるのです。そのような時に、主を否定し、自らをも否定しようとする一切の力からの解放されるのです。この方の救いに与りつつ、自らの家に帰って行きたいと思います。

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