主日礼拝

買い取られた体

「買い取られた体」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第43章1―7節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第6章15-20節
・ 讃美歌 ; 294、140、476

 
体を何のために用いるか
 本日は、コリントの信徒への手紙一の第6章15節からをご一緒に読みます。この15節は、段落の切れ目ではありません。行の途中です。そういう中途半端な所から読まれたので、本日の聖書朗読の時にはとまどわれたかもしれません。本日の箇所はその前の12節からの続きです。この12節以下に語られているのは、みだらな行い、具体的には、娼婦と交わる、ということについてです。コリントの町は、当時のギリシャ世界の中でも、文明の爛熟、退廃が最も進んでいた町でした。その町の風俗の影響が教会の信者たちの中にも入ってきて、教会員の中にも、娼婦のもとに通うような人が出てきていたのです。そのことについて、パウロはコリント教会の人々の信仰を指導するためにこの手紙を書いているのです。
 これは「体」に関することです。主イエス・キリストを信じる信仰者は自分の体をどのように用いるべきであるか、ということが問われているのです。先週読んだ13節の後半には「体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり」と言われていました。信仰者たる者、自分の体をみだらな行いのために用いるのではなく、主のために用いるべきだ、ということです。こういうことは私たちも考えます。私たちも、自分の体を、言い換えれば自分の人生を、なるべく良いことのために、有意義に用いたい、と思っています。「主のため」に用いるかどうかは別として、自分の体を何のために用いるかが人生において大切な問題であるということを私たちは皆知っていると言えるでしょう。

体は誰のものか
 しかしパウロがここで語っていることの筋道はそれとは違います。彼がここで語っているのは、根本的には、自分の体を何のために用いるべきであるか、ということではなくて、自分の体は誰のものなのか、ということなのです。そのことが特にはっきり示されていくのが15節以下です。15節以下に語られているのは、娼婦と交わるようなみだらな行いはよくない、ということであるよりもむしろ、あなたがたは自分の体が誰のものだと思っているのか、ということなのです。それゆえに、ここに語られていることは、「わたしは娼婦のところへ通ったりはしない、そんなみだらな生活はしていないし、するつもりもない」という人にも決して無関係ではありません。娼婦と交わるというのは、当然ながら男性の問題です。男性の犯す罪が見つめられているわけです。その意味ではこれはここにおられる女性の方々には直接関係のないことになりますが、しかし「自分の体は誰のものなのか」という問題は、男性も女性も関係なく、私たち全ての者に大いに関わりのある教えなのです。

倫理と信仰
 今私は、自分の体を何のために用いるべきか、ということと、自分の体は誰のものであるか、ということは違う、と申しました。それが即ち、倫理・道徳の教えと信仰との違いです。倫理・道徳は、自分の体をどのように用いるべきかを教えます。その根本には、自分の体、自分の人生は自分のものであり、自分がその用い方を決める、という考え方があります。しかし信仰は、少なくとも聖書の教えるキリスト教信仰は、そういう教えではありません。信仰は、「あなたの体は、あなたの人生は、あなたの命は、あなたのものではない。あなたの体の、あなたの人生の、あなたの命の、本当の所有者、主人がおられる。自分の体をどう用いるべきかということも、その方との関係において決まる」と教えるのです。私たちはこの違いをはっきりと見極めなければなりません。そうでないと、信仰と言いながらいつまでも倫理・道徳の教えに留まってしまうということが起こります。そこで起っているのは、私たちが、自分の体は自分のものであり、自分がその用い方を決める、自分の主人は自分である、という思いにいつまでも固執しようとしている、ということなのです。

キリストの体の一部として
 さてパウロは15節で先ず、「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」と言っています。「知らないのか」という言い方は、パウロが、信仰において必ず知っておくべき大事な真理を語る時によく用いるものです。「自分の体はキリストの体の一部だ」ということが、信仰において私たちがぜひ知っておかなければならない大切な真理なのです。パウロはこのことをあちこちで繰り返し語っています。この手紙の先の方、12章12節以下にこのようにあります。「体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」。様々な違いを持った多くの者たちが、主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、一つのキリストの体とされている、そのようにキリストの体の一部として生きているのが信仰者であり、そのキリストの体が教会なのです。ローマの信徒への手紙も、やはり12章の4、5節でそのことをこのように語っています。「というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。キリストに結ばれて一つの体を形造り、その一部として生きることこそが、キリスト信者として生きることなのです。

私たちの体はキリストのもの
 ところで、今読んだ二つの箇所においては、多くの者たちが、洗礼を受けることによって一人のキリストに結ばれ、キリストの体の部分となる、ということに強調点が置かれていましたが、本日のこの箇所では、強調点は少し違います。ここでの強調点は、キリストに結ばれ、キリストの体の一部となった私たちの体は、もはや私たちのものではなくてキリストのものだ、私たちの体の主人は今やキリストである、ということにあるのです。それゆえに15節後半では、「キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない」と語られていくのです。キリストの体の一部となっている私たちの体はもはやキリストのものだ、キリストのものであるその体を、娼婦と交わることによって、娼婦の体の一部としてしまう、つまり娼婦のものとしてしまうようなことがあってよいのか、とパウロは言っているのです。つまり娼婦と交わることがいけないのは、それがみだらな行いであるとか、そういう欲望を持つことが汚らわしい罪だからと言うよりも、そこにおいて私たちが、自分の体を、キリストのものでなくしてしまうからなのです。娼婦と交わる信仰者は、自分の体は誰のものか、ということを決定的に間違えてしまっているのです。

霊と肉
 娼婦と交わる者は自分の体を娼婦の体の一部としてしまう、というのは少し分かりにくい言い方です。その意味は次の16節で説明されていきます。「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。『二人は一体となる』と言われています」。娼婦との交わりにおいて、体の結合が起こる、それによって両者は「一つの体」になるのだ、というのです。自分の体を娼婦の体の一部とするとはそういうことでしょう。そこにパウロは、「二人は一体となる」という、創世記2章24節の、結婚、夫婦の関係についての言葉を引用しています。この「一体となる」は単なる精神的な、心のつながりではありません。体も含めた全体において夫婦は一体となるのです。娼婦と交わる者は、その一体の関係を娼婦との間に持ってしまうのです。この創世記の言葉は、男女が結婚して一体となることへの神様の祝福を語っています。それを娼婦との交わりに当てはめるのは相応しくないのではないか、とも思えます。パウロがここで語ろうとしているのは、夫婦の関係も娼婦との交わりも同じだ、ということでは決してありません。パウロの真意を理解するためには、16節と17節との対比を見つめなければなりません。17節には「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです」とあります。この「結び付く」という言葉と、16節の「娼婦と交わる」の「交わる」という言葉は、原文において実は同じ言葉なのです。つまり16節と17節は、娼婦に結び付くことと、主に結び付くことを対比しているのです。娼婦に結び付く者はその女と一つの体になります。それに対して、主に結び付く者は、「主と一つの霊となる」のです。「一つの『霊』となる」と言われていることが大事です。娼婦と結び付く者はその女と一つの「体」になるが、主に結び付く者は主と一つの「霊」になるのです。つまりここにはもう一つ、体と霊との対比があるのです。「二人は一体となる」という言葉は、体の結びつきを語るために引用されています。そしてこの「一体」という言葉は、文字通り訳せば「一つの肉」となります。つまりこの引用によって、娼婦と結び付く者はその女と一つの肉となる、ということが見つめられているのです。それに対して、主と結び付く者は主と一つの霊となるのです。娼婦と結び付いて一つの肉となるか、主と結び付いて一つの霊となるか、つまり肉と霊とが対比されているのです。霊と肉がこのように対比されている箇所が聖書の中には多くあります。代表的なのはローマの信徒への手紙の8章4~10節です。このようにあります。「それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」。ここからわかるように、霊と肉というのは、「魂と肉体」という意味ではありません。霊とは、神様に従い、喜ばれ、命と平和に至る人間のあり方のことであり、肉とは、神様に敵対する罪ある人間のあり方なのです。パウロは、娼婦に結び付く者はその女と一つの体となり、肉としての罪のあり方に陥っていく、しかし主イエス・キリストに結び付く者は、キリストの体の一部となり、神様の救いにあずかる霊としてのあり方を与えられていく、という対比を見つめているのです。その違いはどこから生じるのでしょうか。それは、自分の体を誰のものとして生きるか、の違いからです。自分の体は自分のものであって、自分の好きなように用いる、という思いからは、娼婦と結び付いて肉へと堕していく歩みが生まれ、自分の体はキリストの体の一部であり、主のものであるという思いからは、主に結び付いて主と一つの霊となる歩みが生まれるのです。つまり私たちの体は、それが誰のものとして用いられるかによって、霊ともなるし肉ともなるのです。

自分の体に対する罪
 このような霊と肉の対比を示した上で、肉としてではなく霊として歩むために、パウロは18節で「みだらな行いを避けなさい」と勧めるのです。その勧めのために彼はさらに、「人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」と言っています。パウロが言おうとしているのは、みだらな行いは、洗礼によってキリストの体の一部とされ、主のものとなった自分の体に対する罪であって、それは霊として生きるべき体を肉としてしまう重大な問題だ、そういう意味でこれは体の外にある罪、外面的、周辺的な、自分の生き方の本質に関わるようなものではない罪とは違う、根本的に大事な問題なのだ、ということでしょう。

あなたがたの体は既に神のもの
 私たちはいつも、自分の体を誰のものとして生きるか、という問いの前に立たされています。自分の体は自分のものだ、という思いから生じるのは、娼婦と交わることだけではありません。男であれ女であれ、若者であれ老人であれ、それぞれの置かれた状況の中で私たちは、自分の体は自分のものだ、だから自分の思い通りにするのだ、という生き方をするのか、それとも、自分の体は神様のものだ、だから神様のみ心に従って生きようとするのか、そういう選択を繰り返し迫られるのです。しかしそこでさらに考えなければなりません。自分の体を誰のものとして生きるか、という思いは、よく考えてみればやはり、自分の体は自分のものであって、それを誰のものとして生きるかを決めるのは自分だ、ということが前提になっています。自分の体を誰のものとして生きるべきか、と考えているということは、自分の体は自分のものだと思っているということなのです。そしてそれは倫理・道徳の教えによって生きているということです。それは先ほど申しましたように信仰ではありません。パウロはここで、自分の体を自分のものだと思うことをやめて、主イエス・キリストのものとなって、そのみ心に従って生きようではないか、と教えているのではありません。もしそうなら、パウロは倫理・道徳の教師です。しかしパウロはそうではなくて、19節「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」と宣言しているのです。「知らないのですか」とここでも言われています。「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではない」、このことを知って生きることこそが信仰です。信仰とは、自分の体を誰のものとして、どのように用いて生きるべきか、と考えることではありません。「あなたの体は既にあなたのものではない、神様のものだ。神様はあなたをご自分のものとし、あなたの中に聖霊を宿らせ、あなたを聖霊の神殿として下さっている」、聖書が告げるこの宣言を信じて、それに基づいて生きることこそが信仰なのです。

聖霊の神殿
 あなたがたは聖霊が宿っている神殿である、という言い方は、この手紙の3章16節にもありました。そこには「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」とありました。この3章で言われていたことは、「あなたがた」つまり信仰者の群れである教会が、聖霊の宿る神殿である、ということです。それに対して本日の箇所は「あなたがたの体は」となっています。つまりこちらは、教会という群れではなくて、信仰者個人のことを語っているのです。信仰者の群れである教会はキリストの体であり、聖霊の宿る神殿です。私たちは主イエス・キリストを信じて洗礼を受け、教会に加えられ、キリストの体の一部とされます。そのことによって私たち一人一人の体も、聖霊の宿る神殿となります。神様が私たちの体に聖霊を宿らせて下さるのです。私たちの体が神様のものとなるのは、この聖霊のお働きによることです。聖霊が私たちの内で働いて、私たちを主イエス・キリストと結び付け、主と一つの霊として下さるのです。具体的には、聖霊が私たちに主イエスを信じる信仰を与え、罪の赦しの恵みの確信を与え、礼拝と祈りを与え、神様に感謝し、み心に従っていこうとする生活を与えて下さるのです。

買い取られた体
 「あなたがたは聖霊の宿る神殿であり、もはや自分自身のものではない。神のもの、キリストのものだ」、とパウロはここで断言しています。しかしそれは本当でしょうか。私たちの体は本当に神様のもの、キリストのもの、聖霊の宿る神殿となっているのでしょうか。自分自身のことを見つめていたら、いつまでたってもそのことは見えてこないし、分かってきません。しかしパウロは20節に、そのことの根拠を一言で語っているのです。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」、これが、私たちが神様のもの、キリストのものであって、もはや自分自身のものではないことの根拠です。私たちは、代価を払って買い取られた者である。誰が、どのような代価を払って私たちを買い取ったのでしょうか。それは、神様が、独り子イエス・キリストの命という代価を払ってです。神様が、私たちをご自分のものとして下さるために、高い代価を、犠牲を払って下さったのです。それが、独り子主イエス・キリストの十字架の死でした。主イエスが、ご自身は何の罪もないのに十字架にかかって死んで下さったことによって、罪人である私たちは神様の恵みの下へと買い戻されたのです。このことを別の言葉で「贖い」と言います。それは身代金を払って奴隷や捕虜となっている人を解放することです。生まれつきの私たちは、罪の支配の下に奴隷となっていました。罪の奴隷だった私たちは、自分の体を、本当に自分の益となるように有意義に用いることができず、罪の命じるままに、益にならないことのためばかりに用いてしまうような者だったのです。その罪の支配から私たちを解放して下さったのが、主イエスの十字架の死なのです。主イエスが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神様が私たちの罪を赦して下さり、「おまえは私のものだ」と言って下さったのです。私たちの体が神様のものとなったのは、私たちが良い人間だからでも、何か立派なことをしたからでもありません。神様が、独り子の命という代価を払って私たちを買い取って下さったからなのです。主イエス・キリストの十字架による贖いを見つめることによってのみ、私たちは、自分の体が神様によって買い取られた、神様のものであることを知ることができるのです。

あなたはわたしのもの
 本日共に読まれた旧約聖書の箇所、イザヤ書43章の1~7節は、神様がイスラエルの民を贖って下さる、その恵みを語っています。「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。このように神様が名を呼んで下さり、「あなたはわたしのもの」と言って下さる、それが贖いです。救いです。3、4節には「わたしは主、あなたの神、イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。わたしはエジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代償とする。わたしの目にあなたは価高く、貴く、わたしはあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」とあります。イスラエルの贖いのために、神様は、エジプトとか、クシュとかセバとか、いろいろな国々、民族を身代金、身代わりとして下さるのです。しかし私たちの贖いのために支払われた身代金はそれ以上のもの、神様の独り子イエス・キリストの命でした。独り子の十字架の死によって、神様は私たちに「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの」と言って下さったのです。この主イエスによる贖いを信じて、自分がもはや主イエスによって神様のものとされ、キリストの体の一部とされていることを信じて私たちは生きるのです。そこに、自分の体で神の栄光を現していく、という生き方が生まれます。それは、みだらな行いを避ける、というだけではなくて、もっと積極的に、自分の体を神様の栄光のために用いていく生き方です。私たちのこの体がどれだけ神様の栄光を現わすのにふさわしいか、自分に何ができるか、そんなことは問題ではありません。大事なことは、この私を、この体を、神様が、主イエス・キリストの十字架の死という代価を払って買い取って下さったということです。神様が「わたしの目にあなたは値高い」と言って下さり、私たちのために代価を支払って下さったのだから、買い取られ、贖われ、救われた私たちは、ただ感謝して、この体で神様の栄光を現わすために精一杯生きるのです。

関連記事

TOP