主日礼拝

成長させて下さる神

「成長させて下さる神」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第1編1-6節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第3章1-9節
・ 讃美歌 ; 18、113、386、24(聖餐式)

 
新たな思いで
 9月に入りました。かつて日本の教会には、この9月第一の主の日を「振起日」と呼ぶならわしがありました。振るい起こす、という字を書きます。暑い夏が過ぎ、秋を迎えるこの時に当たって、もう一度信仰を新たに振るい起こして、クリスマスに向けて歩んで行こう、ということです。教会学校の生徒たちにとっては、長い夏休みが終わり、また学校の生活が始まるこの時に、生活のリズムをもう一度整え直し、主の日の礼拝を守っていこう、という意味もあったようです。またこの教会にとって9月は意義深い月です。来週私たちは、教会創立132周年の記念の礼拝を守ります。私たちの教会が誕生日を迎え、新たな一年を歩み出すのがこの9月なのです。さらにいささか個人的なことを言わせてもらえば、私は2003年9月にこの教会の牧師として着任しました。この8月で丸三年が経ち、9月から四年目に入ったのです。そのことも含めて、この9月は私たちにとっていろいろな意味で心新たにされる時です。私たちの信仰がより深められ、成長していくことを、新たな思いで祈り求めていきたいのです。

信仰のフィールド
 私たちの信仰は、それぞれが与えられている具体的な生活の場と関係なくあるものではありません。私たちは、具体的な一人の人間として、つまり、この世においてある具体的な生活を営み、ある職業や役割を持ち、様々な具体的人間関係を持ち、家庭においては夫や妻、親や子という立場にあり、ある肉体的条件のもとに歩みつつ、神様を信じて生きているのです。私たちの日々の具体的な生活の場は、そこで神様を信じて生きるようにと神様から与えられているフィールド、現場であると言うことができます。それぞれに違う具体的なフィールドにおいて、神様を信じ、神様と共に生きる生活をいかに確立していくかが、私たちの信仰の課題です。その課題に誠実に取り組んでいくことの中でこそ、信仰は深められ、成長していくのです。

党派争い
 この、信仰の成長ということについて、使徒パウロは、コリントの信徒への手紙一の第3章で語っています。1節で彼は、あなたがたには「キリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように」語ったと言っています。そして2節には、「あなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えなかった。あなたがたはまだ固い物を食べることができなかったからだ。そして、今でもそれができないでいる」と言っています。つまり、コリント教会の人々の信仰は、乳飲み子のような状態に留まっており、そこから成長していない、今でも乳飲み子のままだ、と叱っているのです。それは具体的には4節にあるように「ある人が『わたしはパウロにつく』と言い、他の人が『わたしはアポロに』などと言っている」という、彼らの信仰の現状、信仰生活の実態を指してのことです。コリント教会の中に、いくつかの党派、グループができて、お互いが対立し合っていたのです。一つの党派のボスとしてパウロ自身の名があげられています。パウロは、コリントの町で最初に伝道をし、この教会の礎を据えた人、言わば創立者です。もう一人のアポロは、パウロがコリントを去った後やって来て教会を指導した人でした。そういう、ある指導者個人に傾倒するグループが生まれていたのです。パウロはそういう現状をとらえて、あなたがたはまだ乳飲み子の状態から成長していない、と言っているのです。

信仰の成長とは
 パウロがコリント教会のこのような現状について、「あなたがたはまだ成長していない」と言っていることには深い意味があります。考えてみれば、このような内部対立がある、3節の言葉で言えば「お互いの間にねたみや争いが絶えない」というのは、果して信仰の成長が足りないからなのでしょうか。むしろ、信仰のあり方が根本的に間違ってしまっているということなのではないでしょうか。だから語られるべきことは、信仰の成長ではなくて、信仰の間違いを悔い改めて正しい信仰に立ち帰れ、という勧めではないのでしょうか。しかしパウロはここで、あなたがたはまだ乳飲み子だ、信仰においてもっと成長してほしい、大人になってほしい、と語っています。それは一つには、パウロの、この教会の人々に対する深い愛情の表われであるとも言えるでしょう。パウロにとって彼らは、自分が生んだ子供のようなものです。その子供が過ちに陥っている、それをパウロは、「おまえたちは間違っている」と言うのではなくて、まだ成長が足りない、もっと大人にならなければ、と、愛をもって諭しているのです。しかし、パウロがここで「成長」という言葉を用いている理由はそれだけではありません。それは、コリント教会の人々が、自分たちは既に成長している、一人前の大人になっている、と思っていることと関わりがあるのです。コリントの人々は、パウロやアポロや他の指導者に傾倒するグループの存在を、自分たちの信仰の問題、間違いとは思っていませんでした。むしろ彼らは、例えばパウロ先生と結びつくことで、あるいはアポロ先生と結びつくことで、自分たちの信仰はより成長する、より優れたものになる、と考えていたのです。パウロもアポロも、初代の教会における非常に優れた指導者です。その働きの性格はそれぞれに違っています。6節でパウロ自身が「わたしは植え、アポロは水を注いだ」と言っているように、パウロは、まだ福音の種が蒔かれていない所に初めて伝道し、教会を生み出していった人です。そういう開拓伝道の働きこそパウロに与えられた使命であり、賜物だったのです。それに対してアポロは、当時のギリシャ的教養に富んだ雄弁な人であって、既に生まれた教会を養い育てていくという働きにおいて優れていた人のようです。そのようにこの二人はかなり性格の、あるいは賜物の違う指導者です。当然教会の人々の間にも、それぞれの性格や好みの違いによって、どちらかの指導者により親近感を抱く、ということが起ります。それはある意味で当然のことであると言えるでしょう。しかし問題は、彼らが、この指導者の下でこそ、自分の信仰はより成長する、と思っていることです。パウロ派とかアポロ派という党派はそのようにして生まれてきたものです。つまりそれはもともとは決して教会の中に対立関係を作り出そうとしたわけではなくて、それぞれの人が、自分の信仰の成長を求めて、ある指導者に結びついていったのです。ところがそれが結果としては党派を生み、対立関係を引き起こしてしまったのです。ですから、コリント教会の党派争いの原因は、自分の信仰を成長させようとする思いだったのです。パウロはそのことを鋭く見つめ、問題にしているのです。しかしそれでは、自分の信仰を成長させようとするのはいけないことなのでしょうか、信仰の成長など求めない方がいいのでしょうか。そうではありません。パウロ自身もここで、乳飲み子のままではだめだ、成長しなければならない、と言っています。つまり、信仰の成長を求めること自体が問題なのではなくて、問題は、信仰が成長するとはどういうことなのか、です。パウロはそのことを語るために、「成長」ということを問題にしているのです。

成長させて下さるのは神
 コリント教会の人々は、パウロとか、アポロとか、そういう優れた指導者と結びつくことで信仰を成長させることができると考えました。それに対してパウロは5節でこう言っています「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」。「何者か」という言葉がありますが、これは「誰か」という問いではなくて、「何か」という問いです。つまりパウロやアポロがどのような人物であるか、ということではなくて、彼らとはそもそも何なのか、その本質を問うているのです。その答えは「あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者」です。「仕えた者」の原語はディアコノスという言葉で、奉仕者という意味であり、後に「執事」という教会における一つの職名となった言葉でもあります。あなたがたは、「わたしパウロにつく」「わたしはアポロに」などと言っているが、そのパウロやアポロは「奉仕者」に過ぎない、しかもその奉仕自体が「主がお与えになった分に応じて」なされたものだ、つまり彼らの奉仕は自分の思いで行なったことではなくて、主によってそれぞれに割当てられた働きなのだ、ということです。その割り当てられた働きの違いが6節の「わたしは植え、アポロは水を注いだ」ということです。パウロには植えるという働きが、アポロには水を注ぐという働きが、それぞれ主から与えられ、その与えられた奉仕をしたに過ぎない、そのような奉仕を主が用いて下さって、主ご自身があなたがたを成長させて下さったのだ、だから、奉仕者に結びつくことで信仰が成長するなどということはないのだ、とパウロは言っているのです。これはパウロの謙遜ではありません。「わたしはパウロにつく」などと自分を高く評価してくれる人に対して、私たちがよくするような、内心では満更でもなく思いながら、「いや、私の働きなど大したことではありません」と言っているのとは違うのです。パウロはここで、信仰はどのようにして成長するのかということを深く見つめています。それは、ある指導者、奉仕者と結びつくことによってではなく、その奉仕者を用いて信仰を与え、成長させて下さる主なる神様によってなのです。6、7節に、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」とあります。「成長させてくださったのは神」であるとか、「成長させてくださる神」と繰り返し言われています。信仰を成長させてくださるのは神様ご自身なのだ、ということをパウロは強調しているのです。
 信仰を成長させて下さるのは神である。それは、自分で自分の信仰を成長させていくのではない、ということです。コリント教会の人々の陥った間違いはそこにありました。彼らは、立派な指導者に結びつくことによって、信仰の成長を獲得することができる、より優れた指導者を選んで結びつくことで、自分をより優れた信仰者にすることができると思ったのです。この、「より優れた」という思いから、他の人、他の党派との対立、争いが生まれます。そしてこのような思いの根本には、信仰とは自分がより優れた者となるためのものであって、自分がより優れた者になることが信仰の成長だ、という考えがあります。信仰の成長ということをそのように考え、それを求めていった結果、党派が生まれ、対立、争いが起ったのです。

福音の変質
 このことは、コリント教会の人々が置かれていた具体的な生活の場、つまり信仰のフィールド、現場との関わりの中で起こったことでもあります。コリントはギリシャの町です。彼らは、ギリシャ、ローマの文化的背景の中で生きていました。そこにおいては、自分を向上させ、より高め、より優れた、知恵ある者となることが何よりも大切にされていたのです。そのような風潮の中で信仰者として生きようと戦っていく中で、彼らは次第に、イエス・キリストを信じる信仰によってこそ、自分を向上させ、より高い、立派な、優れた者になることができる、と思うようになり、またそのように主張するようになっていったのです。然しそれは実は、イエス・キリストを信じる信仰を、自分たちの周囲の状況、社会の風潮に合わせてねじ曲げてしまうことでした。主イエス・キリストを信じる信仰は、本来、それによって自分を向上させ、より立派な者になる、というものではないのです。そのように考えることは、パウロが宣べ伝えた福音の変質に他ならないのです。何故なら、主イエス・キリストの福音とは、私たちが立派な、優れた者となることによって救いを得るのではなくて、立派でも優れてもいない罪人である私たちが、ただ神様の憐れみと恵みによって、具体的には主イエス・キリストの十字架と復活によって罪を赦され、神様の祝福にあずかる神の民とされる、ということだからです。コリントの人々は、パウロが伝えたはずのこのキリストの福音をねじ曲げ、変質させてしまって、自分が立派な者になることが信仰の成長であると考えるようになり、そこからさらに、より優れた指導者と結びつくことによって自分もより優れた信仰者になることができると思うようになり、そのようにして党派を結んで対立するようになったのです。
 私たちもしばしば、このコリント教会の人々と同じ間違いに陥ります。私たちが置かれているフィールドも、コリントの人々のそれと似ていると言えるでしょう。宗教は、人間が立派になるためにある、より良い人になるためにある、という常識が私たちの社会にもあります。そういうフィールド、現場において私たちは信仰者として歩んでいるのです。その中で、私たちの信仰もいつのまにかフィールドに飲み込まれて変質し、イエス・キリストを信じることによって立派な人になるのが信仰の成長だ、という思いに捉えられてしまいがちなのです。

神の畑、神の建物
 信仰の本当の成長とはどのようなことなのでしょうか。パウロはここで、「植える」とか「水を注ぐ」という言葉を用いて、信仰を、畑で作物を育てることになぞらえています。種を蒔き、あるいは苗を植えた者はパウロであり、そこに水を注いだのはアポロです。それではコリント教会の人々はそのたとえにおいてはどこに位置しているのでしょうか。9節後半に「あなたがたは神の畑」とあります。教会の人々、信仰者たちは「畑」なのです。このことにしっかり注目しなければなりません。私たちはともすれば、植えられ、育てられている苗、作物が自分たちのことであると考えがちなのではないでしょうか。作物である私たちが、いろいろな指導者によって植えられ、養われ、育てられて、やがて立派な作物として実を実らせていく、それが私たちの信仰の成長だ、そういうことを目指さなければならない、と考えるのです。しかしそれこそが、先ほど申しました福音の変質です。パウロは、あなたがたは作物ではなくて畑だと言っているのです。神の畑である教会、私たちにおいて、植えられ、育てられ、実を結んでいく作物とは何なのでしょうか。それについては、主イエスが語られたいわゆる「種蒔きのたとえ」が思い起されます。マルコによる福音書第4章にあるあのたとえ話は、種がいろいろな地に落ちる、落ちた地が悪いと、それは実を結ばない、よい地に落ちるなら何十倍もの実を結ぶと語っています。このたとえにおいても、土地が私たちのことであり、様々な土地の違いが私たちの違いを意味しています。そしてここで蒔かれる種とは、神様のみ言葉であると主イエスは言っておられるのです。蒔かれる種、植えられる苗はみ言葉であり、それが育っていく畑が私たちです。私たちという畑の中で、み言葉が芽を出し、育ち、実を結んでいくのです。それが信仰者の姿です。つまり、信仰において、育ち、実を結んでいく作物は私たちではないのです。私たちの中で、神様のみ言葉が育ち、豊かな実りを生んで下さるのです。そのみ言葉が私たちに蒔かれ、育てられていくために、奉仕者の働きが用いられますが、彼らは神様に用いられているのであって、私たちの中でみ言葉の種を成長させ、実らせて下さるのは主なる神様なのです。そういう意味では、先ほどから、私たちの具体的な生活の場が信仰のフィールド、現場だと申してきたのはある意味では正しくありません。正確に言うならば、私たち自身が、み言葉の種が蒔かれ、育っていくフィールド、畑なのです。つまり日々の生活の場というフィールドの上で私たちが何かをするのではなくて、私たちというフィールドの上で、神様が、み言葉によって恵みのみ業を行なって下さるのです。
 パウロはさらに「あなたがたは神の建物なのです」とも言っています。建物即ち家というたとえも、教会のこと、信仰者のことを表すのによく用いられるものです。その場合には、建物が次第に建て上げられて立派なものになっていく、ということが見つめられます。しかし大切なことは、この場合の建物は、私たち個人を意味しているのではなくて、「あなたがた」つまり信仰者の群れである教会のことだ、ということです。つまり私たち一人一人が立派な家へと成長していくのではなくて、神様が私たちを召し集め、兄弟姉妹と共に、教会という神の建物へと建て上げて下さるのです。私たち一人一人はその建物においてある部分を、主がお与えになった分に応じて担っていきます。それは人目につく、目立つ部分であることもあれば、目立たない、人目にふれない部分であることもあります。しかしそれぞれが、神様から与えられた自分の働き、役割をしっかりと果していくことによって、立派な建物が立ち上がっていくのです。そしてこのたとえにおいても、家を建てているのは神様であって私たちではありません。畑のたとえも建物のたとえも、神様が、私たちの中で、私たちを用いて、み業を行なって下さるということを語っているのです。

人生は神の働き場
 信仰の成長とは、私たちが向上し、立派な、優れた者になっていくことではありません。またそういう成長を、私たちが何かをすることで、例えば優れた指導者のもとにグループを作ることで獲得するのでもありません。私たちは、神様がみ言葉の種を蒔き、それを養い育て、豊かな実りを生み出そうとしていて下さっている神様の畑です。また神様が召し集めて、救いにあずかる者たちの群れ、キリストの体である教会を建て上げて下さる、その神様の建物です。つまり私たちの人生は、神様の働き場なのです。この言葉は、私たちの教会員である周郷毅さんがこのたび出版された『惨めさからの出発』という本の中に引用されているものです。私も本当にその通りだと思います。そしてこのことを本当に知って、神様の働き場として、恵みのみ業のフィールドとして、神の畑、神の建物として、自分に与えられている日々の生活を生きるようになることこそが、私たちの信仰の成長なのです。言い換えるならば、信仰の成長とは、私たちがする働きが大きく立派になっていくことではなくて、神様が私たちの内でして下さるその働きが大きくなっていくことなのです。

キリストの十字架と復活によって
 そのような信仰の本当の成長はどのようにして与えられるのでしょうか。それは、主イエス・キリストの十字架の苦しみと死、そして復活をしっかりと見つめていくことによってです。神様の独り子が、人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった、その独り子の犠牲によって神様は、少しも立派ではない、むしろ罪と汚れに満ちた私たちを赦して下さったのです。そして私たちをキリストの体である教会へと招き、救いにあずからせて下さったのです。教会において私たちは、キリストの復活、つまり神様の恵みの死の力に対する勝利、にあずかる希望を与えられているのです。神様が、様々な奉仕者を用いてみ言葉を伝え、このキリストの福音を示して下さることによって私たちの信仰は植えられ、養われ、成長していきます。この「成長させて下さる神」の働きに気付くことによって、そしてその下に立ち続けることによって、私たちは、信仰によって自分がより優れた者になるという錯覚から救われます。信仰の成長を自分の力で獲得できるという間違った思いからも解放されます。そこにこそ、争いや対立から解放された、本当に成熟した、霊の人としての歩みが与えられていくのです。これから聖餐にあずかります。聖餐において私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活の恵みを体全体で味わいます。そして、自分の人生が、「成長させて下さる神」の働き場であり、神の畑、神の建物であることを味わい知るのです。そこに、流れのほとりに植えられた木のように、ときが巡り来れば実を結び、その葉もしおれることがない、そういう歩みが与えられていくのです。

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