「安息日の主」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; サムエル記 第21章1-7節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第2章23-28節
・ 讃美歌 ; 12、361
はじめに
キリスト者の生活において、日曜日の礼拝は、何にもまして、重んじられるべきことです。キリスト者の生活とはどのようなものかと言われれば、日曜日に礼拝を守る生活であると言っても良いほどです。洗礼を受けることを希望されている方に、牧師がまず勧めることは、日曜日の礼拝を重んじるということです。旧約聖書においては安息日というのが記されています。私たちが守る日曜日は、もともと土曜日に守られていた、ユダヤ教の安息日を継承したものでした。私達はこの日を真の休息の日として過ごすことが求められており、そこに、信仰生活の喜びが生まれるのです。しかし、一方で、日曜日は、私達が熱心に重んじようとする日であるからこそ、最も、律法主義的な思いが入ってきやすい日でもあると言ってよいのです。そのような中で、私達が日曜日を安息の日として過ごせなくなってしまうということが起こり得るのです。私達は聖書が語る安息とはどのようなことかを知らされつつ、日曜日を真の安息の日として守るものでありたいと思うのです。
日曜日の疲れ
日曜日をどのような思いで過ごすかということは、信仰者にとって重要なことでしょう。幸いなことに、日本でも西洋の暦に習って、日曜日が休みとなっていますから、ほとんどの人は普段勤めている仕事からは解放されます。比較的多くのキリスト者は自らが望めば教会に通いやすいという環境にあるのです。しかし、教会での生活が実際に安息をもたらすものであるかと言えば、必ずしもそうではありません。様々な奉仕に携わる中で、疲れを感じたり、多くの人との交わりを持つ中で、ストレスを感じるということがあるのではないでしょうか。確かに、日曜日は礼拝の恵みに与り、そこで新たに生かされる経験をするけれども、日曜日が終わると心身共に疲れてしまうという方がおられるかもしれません。
私の祖母は熱心に教会生活をする人で、長いこと教会の長老の務めに当たっていました。長老の任期を終えた時、それまでたまっていた疲れが取れて、体調が良くなったということがありました。教会の奉仕の生活が知らず知らずの内に重荷としてしまっていたのかもしれません。その程度のことなら良いのですが、時に、そのような教会での交わりに疲れ、しばらく、教会に来ることが出来なくなってしまう方もおられるのです。もしかしたら、私達は、日曜日の教会生活において、少なからず安息というよりもむしろ疲労を感じるということを経験するのではないかと思います。その疲労が神様に仕えた喜びの中でのものであればいいのですが、そうではなく、神様を見失ってしまうことでもたらされる疲労であるならば、それは日曜日が安息の日とはなっていないということになるでしょう。
ファリサイ派の問い
本日のお読みしたのは、ある安息日に主イエスの一行が麦畑を歩いていた時の出来事です。本日の箇所の直後には、「イエスはまた会堂にお入りになった」とありますから、おそらく、この時、弟子たちを連れて会堂へと向かわれていたのだと思います。その道すがら麦畑を通ったのです。そして、麦畑を通っている最中、主イエスの弟子たちが歩きながら麦の穂を摘み始めたのです。旧約聖書の申命記には、「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない。」(申23:26)とあります。ユダヤの律法では、他の人の畑を通る時、鎌で大量の麦を刈るのは許されていませんでしたが、通りがかりの人や、貧しい人が手で摘めるだけの少量の麦の穂を摘むことは許されていたのです。ここで弟子達は、歩きながら、ほんの少しの麦を積んだだけで、常識的に考えれば、それは仕事とは言えないほどのことなのです。
しかし、この弟子達の行為に、その場に共に居合わせたファリサイ派の人々が注目します。そして、主イエスに向かって「御覧なさい。なぜ彼らは安息日にしてはならないことをするのか。」と問うたのでした。ファリサイ派の人々は、弟子たちが通りすがりになしたほんのわずかな行いに目を向けて、それをことさら大きなことであるように取り上げて、何故律法違反を犯すのかと問いただすのです。
安息日
そもそも、安息日とはどのような日なのでしょうか。安息日は、モーセの十戒に定められているものです。十戒は旧約聖書の出エジプト記と申命記に出てきます。出エジプト記に記された十戒の記述においてそれは次のように書かれています。「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」。
創世記に記された創造物語には、神様がこの世界を六日間かけて創られたと記されています。神様は、創られた世界を御覧になり「見よ、それは極めて良かった」とおっしゃり、そして第七の日は休まれたのです。 創世記の第2章1節以下は次のように記します。
「天地万物は完成された。第七の日に、神はご自分の仕事を完成され、第七の日に、神は御自分の仕事を離れ、安息なさった。この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」。神様は、創造の御業の後、七日目を安息の日として祝福されたと記されています。その話から十戒では、安息日には、いかなる仕事をしてはならないということが決められていたのです。私達は仕事を中断し、神様が「極めて良かった」と言って世界を祝福しておられる神様の喜びに招かれ、神様の祝福に与るのです。
又、申命記に記された十戒には、このことと別の理由を記しています、「あなたはかつて奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさなければならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るように命じられたのである。」とあります。安息日はイスラエルを奴隷の状態から救い出して下さった神様の恵みを思い起こし、感謝しつつ主を讃える日なのです。
ですから、この日は、神様の祝福の眼差しの中で私達も神様と共に憩い、私達に注がれている神様の救いの御業を覚えて、神様を讃える日なのです。
律法に隷属した安息日
この時、ファリサイ派の人々は、安息日の規定を守っている反面、その本来の目的とは異なることに関心を寄せていました。神様に目を向けるよりも、むしろ、安息日の規定を守っている自分自身、又、安息日の規定を守っていない周囲の人々にばかり目を向けていたのです。
旧約聖書の民、イスラエルの人々が安息日を厳格に守るようになったのは、国を失ってバビロンに連れ去られてしまうというバビロン捕囚を経験してからでした。捕囚期に創世記や出エジプト記などがまとめられたのです。国を失い、エルサレム神殿が崩壊された後に、イスラエルの民に残された唯一の祭儀は安息日であったのです。彼らは、その時以来安息日を深く心に留めて、信仰に基づく生活を築き上げたのです。エルサレム復帰した後も、この日はより厳格に守られるようになっていったのです。そのような中で、商売をすることや、荷物を運ぶこと、火をたくこと等、安息日の禁止行為が綿密に定められるようになっていったのです。
使徒言行録の1章12節には次のような記述があります。「使徒たちは、『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある」。当時は、「安息日に許されている距離」ということまで定められていたようです。これは、大体九百メートル程度であったようですが、それ位の距離なら歩いてもいいが、それ以上歩くと、それは仕事をしたことになり許されないというのです。
このように綿密に安息日の掟を定めていく中で、それを厳格に守っていくようになります。最初は、神様への熱心な思いがあったかもしれませんが、その内、この規定に縛られて、規定を守っている自分の信仰的正しさを主張するようになるのです。そして、それを守っていない隣人を裁くようになっていったのです。いつの間にか、人々は安息日の規定、律法に支配されるようになってしまったのです。
聖別されたパンを食べたダビデ
律法に縛られている人々に対して主イエスは、旧約聖書のサムエル記に記されたダビデの話を語られます。神の家に入り、祭司の他にはだれも食べてはならない供えのパンを食べたという話です。
この出来事はダビデがまだ王になる前のことでした。ダビデは、民の心がダビデに移ってしまうことを恐れて、彼を捕らえようとしていたサウル王から逃げまどう日々を送っていました。ある日、ダビデは、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だった時に祭司の下に行き、パンを与えてくれるように要求します。しかし、その時普通のパンがなかったのです。祭司は、備えてあった聖別されたパンを取り替える時期であったので、そのパンをダビデに与えたのです。パンは一週間ごとに取り替えられていました。主の前から取り下げたパンは本来、祭司のほかはだれも食べてはならないものだったのです。しかし、ダビデはそれを受け取ったのです。このことは、確かに律法違反です。しかし、聖書はそれを咎められるべきこととしては記していません。例えば、このパンを食べたことによって神の怒りを招いたとか、何か悪いことが起こったということを記してはいないのです。神様のために聖別されたパンが、食べ物がなくて困っていたダビデとその一行を助けて、生かし、支えたということを伝えているのです。つまりここには、神様の恵によって、掟を破ってでも人々のためにパンが備えられたということが示しされているのです。
この備えのパンは、「十二のパン」と言われていますが、実際は、「神が見ておられるパン」という意味合いの言葉だそうです。十二のパンというのは、イスラエルの十二部族を意味しています。主がイスラエルの十二部族を見つめておられるということを示しているのです。このパンが律法を破ってダビデに与えられたということは、天地創造の七日目に祝福のまなざしで創られた世界を見つめられた主が、今も同じ祝福のまなざしで人々を見つめて下さっていることを示していると言って良いでしょう。
主イエスは、この旧約聖書の物語を語りつつ、安息日を形式的に守ることで、律法としての安息日に縛られてしまっている人を非難しているのです。本来の安息日の目的を見出せなくなってしまっている人の誤りを指摘しておられるのです。
安息日における本末転倒
この時のファリサイ派の人々は、安息日とはこうあるべきだと言う人間の作った掟に縛られる中で、本来の安息日のあるべき守り方から離れてしまっています。このような態度でいるものに対して、主イエスは言われるのです。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」。安息日のために人があるかのように、安息日を律法として絶対化している人々に向かって、安息日は人のためにあると語られるのです。
先週は、主イエスと人々が断食について論争したことが記されていました。断食を厳格に守るファリサイ派やヨハネの弟子たちと、断食を守らない、主イエスの弟子たちを比べて、何故、あなたの弟子たちは断食しないのかと問うたのです。断食という信仰を表現する行為が慣習となる中で、律法となって人を縛っていたのです。そこで、起こったことは、断食を守っている人と、守っていない人を比べて、断食をしていない人々に非難の目を向けるということでした。本来、神様との関係において悔い改めを表すはずの断食が、神様への悔い改めではなく、人と比べて、自分を誇り、自分の救いを確かめるためのものとなってしまったということでした。
今日問題になっている、安息日の規定についても同じことが言えるでしょう。安息日は何よりもまず、神様に目を向け、神様の祝福の下でこの世界と隣人に目を向ける日でした。しかし、ここで、人々は、安息日を律法として、自分の正しさに目を向け、裁きの思いをもって隣人に目を向けていたのです。安息日の律法に人が隷属してしまっているのです。そして、安息日を守らない主イエスの弟子達を非難するのです。弟子を非難するに留まらず、主イエスを殺そうとする思いにまで抱くようになるのです。この後、主イエスは会堂で手のなえた人をいやします。そのことによってファリサイ派の人々は、どのように主イエスを殺そうかと相談し始めたのです。ここには、安息とは程遠い安息日の現実があります。自分の正しさ、自分の救いを自らの行いによって主張するために熱心になり、主イエスに対する殺意まで抱くのです。
人間に目を向けてしまう私達
私達は日曜日を安息の日としているでしょうか。むしろ、あくせくと気を使い、気をすり減らしていることはないでしょうか。もちろん、教会における奉仕に励むことは、教会生活において大切なことです。礼拝を守ることがきわめて重要なことであることは言うまでもありません。
しかし、そこで、ファリサイ派の人々のように安息日という律法に縛られているのであれば、それは、真の安息日の守り方ではありません。もちろん、この時のファリサイ派の人々程ではないかもしれません。しかし、意識する、しないに関わらず、心のどこかで律法主義的な思いが芽生え、それに支配されてしまうということがあるのではないでしょうか。自分自身で作った掟で自分自身を縛ってしまったり、他者を裁いてしまったりすることがあるように思います。人々との比較の中で、しっかりとした奉仕をしなければならないという強迫観念から、心のどこかで不安をいだいているということになってしまうこともあるのです。又、教会の奉仕においてさえ、他人の表面的なことを見て、あの人は何故しっかりやってくれないのかとの思いを抱いてしまうこともあるかもしれません。そのような思いの背後には、律法に生きようとする思いがあるのです。実は、そのような時に、この世界を祝福された、神様の存在を見失っているのです。本当に目を向けるべき方に目を向けず、自分自身や周囲の人に目を向けることに疲れ果てて日曜日を過ごしてしまうのです。
安息日の主
主イエスは「だから、人の子は安息日の主でもある。」と言われます。「人の子」と言われているのは、主イエスご自身のことです。主イエスこそ、安息日の主であるといわれているのです。マタイによる福音書には「疲れた者、重荷を負うものは、だれでも私のもとに来なさい、休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」と言われています。この方の下に来る時に、私達は、真の安息を得ることが出来るのです。
律法に支配された人々は、人々を裁くだけでなく、安息日の律法を守らない、主イエスを十字架に架けることになりました。しかし、そのような律法に支配され、神様の祝福の下から離れてしまう私達の罪のために、主イエスが十字架への道を歩まれたのです。この主イエスを通して神がなされた業を知らされる時、神が、私たちをご自身が善いものとして創られた私たちを祝福してくださっていること、そして、私達を律法の隷属から救ってくださる方であることが分かるのです。
この方を見上げるときに、私達も又、この方に赦されたものとして、神様が祝福された世界を喜ぶことが出来ます。神様が愛された隣人を愛することが出来るのです。この世界を極めて良いといって下さった神様の祝福のもとで、自分自身を裁く思い、隣人を裁く思いから自由にされて、本当の安息を与えられるのです。
おわりに
私達は、もしかしたら、ファリサイ派の人々のように、どこかで、自分自身が心の中に作り上げた律法の奴隷になってしまっていることがあるのかもしれません。自分が心の中で定めた「安息日」の掟に縛られて、それに従って、自分自身を裁き、隣人を裁いているのかもしれません。そのような中で、日曜日を真の安息の日としていないことがあるのではないかと思います。
しかし、そのようなことが起こるのは、結局、私達が、自分で自分の救いを確かめるために自分の掟に縛られているに過ぎないのです。そこでは、安息日においてすら、神ではなく人間が主となっているのです。そこでは、主の祝福の下で隣人に目を向けることが出来ないというだけでなく、真の安息日の主とされるべき方もどこかにいってしまっているのです。私達がもし安息日を真の安息の日とすることが出来るとするならば、それは、私たちを律法による罪から開放してくださった、主イエス・キリストに目を向けることによってのみです。この日曜日も、この方を真の安息日の主として讃えたいと思います。