「宣教への祈り」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第51編12-21節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第1章35-39節
・ 讃美歌 ; 352、497
「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出かけて行き、そこで祈っておられた」。本日の箇所には主イエスが祈られたことが記されています。マルコによる福音書は、ここで初めて主イエスの祈る姿を記します。
この時、主イエスは夜が明けていない「まだ暗いうちに」起きて、しかも、人目を避けるように「人里離れた所」へ行かれたのです。なぜ、主イエスはこのようにされたのでしょうか。もちろん、祈る時には、一人になって、静かな場所で神様と向かい合うということが大切です。ですから、主イエスは、ご自身の願いから、そのような場所に行かれたということも言えるでしょう。しかし、主イエスは、そのような積極的な理由からだけそうしたのではありません。この時、そのようにせざるを得ない状況にあったのです。
今日お読みした直前の箇所には、安息日の礼拝の後にカファルナウムにあるペトロの家で起こったことが記されています。熱を出して寝ていたペトロのしゅうとめを主イエスが癒し、癒された、しゅうとめが主イエスをもてなしたのです。それに続いて、夕方になって、人々が病人や悪霊に取りつかれた人を連れてきて、町中の人が戸口に集まって来たということが記されています。主イエスの噂を聞きつけた人々が、安息日が終わるやいなや、自らの病気をいやしてもらおうとして、ペトロの家を取り囲むように、押し寄せてきたのです。それに対して、主イエスは、「いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、悪霊を追い出し」たのです。おそらく、ほとんど眠ることもなく、ご自身を求めてやってくる人々に癒しの手をさしのべていたのだと思います。夜眠りにつく時には、疲労困憊していたことでしょう。祈ることさえままならなかったのです。もし、夜が明けて明るくなったなら、再び、主イエスを求める人々がやって来たことでしょう。ですから、まだ夜も明けていない、暗い内に、一人祈るために出て行かれたのです。
しかし、案の定、この主イエスの祈りは中断されてしまいます。この後、「シモンとその仲間はイエスの後を追い、見つけると『みんな捜しております』と言った」とあります。弟子達が主イエスの後を追ってきたのです。主イエスが祈っておられるのを中断するかのように、弟子達がやってきたのです。「みんな捜しております」。ここで、「みんな」と言われているのは主イエスの弟子達だけではありません。当然、そこには、新たに、主イエスに願いをかなえてもらおうとしてやってきた人々がいたことでしょう。
大きな病、不治の病は私たちの人生の中で大きな苦しみの一つです。病気を得た時から、激しい闘病生活が始まり、人生の目的は病から癒されることになります。病が癒されるために、様々な治療法を試みます。良い医者がいるとなれば、駆けつけて行き、良い薬があると聞けば、何としても、それを手に入れようとするでしょう。そして、何よりも、その病が癒されるように、必死に祈ることでしょう。ここで、主イエスを捜している大勢の人もそのような人々でした。様々な治療法を試し、闘病生活に人生を費やして来たのではないかと思うのです。そして、ある時、自分と同じように病に苦しんでいた人が癒されたということを耳にすることになるのです。そして、それがナザレのイエスという人によってであるということを聞くのです。皆、最後の望みをかけて、藁をもつかむ思いで、主イエスの下にやって来たのではないでしょうか。
しかし、主イエスは、そのような人々の下には戻られないのです。自分を捜す人がいることを知った上で、主イエスが語られるのです。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである」。この町にこれ以上留まることが、自分のするべきことではないというのです。ご自身が、この世に来られたことの目的に従って歩まなければならないと語られるのです。
しかし、私たちは、自らを捜す人を置き去りにするかのようにして、他の町や村に行かれる主イエスに戸惑いを覚えます。昨日、主イエスの下に来た人は癒されて、一日遅れて、そこに来た人は癒されないのです。ここには、一見すると、不公平であるかに見える、主イエスの姿が記されています。 しかし、このようなことは私たちの信仰生活の中で、実際に起こるというのも事実です。私たちはそれぞれの歩みの中で、それぞれに試練が与えられます。皆自分なりの困難を抱え、苦しみを持って歩んでいます。そのような中で、主イエスに祈り求めて、望むような癒しが与えられる人がいる、けれども、一方で、求めても、その求めに応じた結果が得られずに、苦しみの中におられる方もいるのです。そのような時、私たちは神に対して不公平だと感じることがあるのです。
なぜ、主イエスは自らのことを求める人々がいる場所に留まらないで、他の町や村へ行かれるのでしょうか。それは、そこに留まることが、決して、苦しむ人々の本当の救いにならないからです。苦しむ人の本当の救いのために、他にもっと歩むべき道があるのです。
私たちは、苦しみの中で神に祈り求めます。もしかしたら、健康な時、楽しい時よりも必死に祈るかもしれません。あらゆる手段を講じて、救い主を捜し求めるのです。新興宗教の人の弱みにつけ込んだ商法が盛んなのは、このような人々の思いの深さを現していると言って良いでしょう。
もちろん、信仰には、捜し求めることが大切です。しかし、私たちが苦しみや弱さの中で必死に求める時に、そこに偶像を生み出す危険があるということも事実です。苦しみから逃れたいがために必死に捜し求める中で、主イエスを自分の願望を叶えてくれるものとして捉えてしまうことがあります。そこで起こることは、神様への信仰も、ただ、自分にとって益があるかないかということによって判断してしまうということです。自分に御利益がある限りは信じるが、もし、自分の願った通りにならなければ、信じるのをやめてしまうということが起こり得るのです。いつの間にか、自分が、この救い主は自分の求めに応じるかどうか、自分の人生を豊かにするかどうかで、判断してしまう。そのようにして、主イエスを自分の思いに従わせようとしてしまう。いつの間にか、自分自身が主になってしまうのです。そして、自分の願望が叶えられないと、神に見捨てられたと不満をもらし、他人が癒されているのを見ると不公平だと嘆くのです。そこに人間の罪があるのです。 しかも、私たちの願いは際限なくふくらんでいくものです。たとえ、ここで、一時的に癒されたとしても、それでその人の悩みや願望から解放されるわけではありません。新たな、人々が、次から次へと、主イエスの下にきりなくやってくることが示しているように、私たちは、新たな、悩みや願望を抱くようになるのです。この後、主イエスは、ご自身を求めて集まって来る人々を深く憐れまれ、癒しを行い、奇跡を行われました。しかし、そのような業を行われる度に周りの人々の期待は高まり、主イエスを自分の願いを叶えてくれる救い主として祭り上げようとしていったのです。ですから、ここで主イエスがカファルナウムに戻られなかったということは、主イエスに自分の願いを押しつけて偶像化してしまう、人々の思いを退けられたということなのです。
もちろん、主イエスは人々の苦しみを理解されなかったのではありません。事実、主イエスの歩みは苦しむ人々を癒し続けられた歩みです。歩む道の先々で、主イエスは様々な業で、人々を癒されたのです。直ぐ後の箇所で、主イエスは重い皮膚病の人を癒す記事が出てきます。そこで、主イエスはその人のことを「深く憐れん」だことが記されています。この言葉は、内臓が痛むという意味合いの言葉です。主イエスは、私たちの苦しむ状況を見て、ご自身の内蔵をえぐられるような思いをされているのです。おそらく、このカファルナウムでも同じ思いであったことでしょう。「みんな捜しています」と言われた時に、真っ先にその場に戻りたいという思いもあったのではないかと思うのです。しかし主イエスはそうなさらないのです。人々の願望に答え、人々の偶像として拝まれることが、主イエスがこの世に来られた目的ではないからです。もし、主イエスが世に来られた目的が病気を癒し、困っている人を助けることだけであったなら、主イエスはカファルナウムに何度も戻っていったはずです。しかし、そうするために主イエスは世に来られたのではないのです。「そこでも私は宣教する。そのためにわたし出て来たのである」とあります。主イエスは「宣教」のために世に出てきたと言われています。「宣教」とは、単純に、私たちの願望に答え続けて、人々を幸福にするということではありません。神の御心を生きつつ、人々に示すことです。ですから、神に祈りつつ、その目的に向けて、歩まれるのです。主イエスは、決して私たちの人生の中での苦しみや、弱さに無関心な方ではありません。しかし、苦しみや弱さの中においても、罪を犯してしまう私たちを、罪から救い出すという神の目的のために歩まれるのです。
私たちが注意したいことは、福音書が主イエスが祈られる姿を記すことはそう多くないということです。マルコによる福音書が祈る主イエスを記すのは、本日の箇所を含めて三回だけです。もちろん、このことは、主イエスは祈ることが少なかったということを意味しません。おそらく、主イエスの歩みは祈り続けられた歩みであったと思います。ですから、福音書は、祈り続けられた主イエスの歩みの中で、特に重要な時の祈りを記しているのです。
今日の箇所以外の所では、どのような箇所で祈る主イエスが記されているのでしょうか。この後6章において、主イエスが、弟子達を先に舟に乗せて先に行かせた後で、ご自分は一人で祈るために山に行かれたことが記されています。主イエスは、ご自身を求めてやってくる大勢の群衆の「飼い主のいない羊のような有様を見て深く憐れみ」、そこに集まっている5千人もの人々を二匹の魚と五つのパンで満腹にさせたという驚くべき奇跡が記されている直後のことです。ここでも、本日の箇所と同じように、主イエスは、大きな業をなした後で、一人祈られる。そして祈りの後に主イエスの業をも偶像としてしまう人々の人間的な思いを振り払うようにして、その場所を去って行かれるのです。
又、14章には、主イエスが、十字架を前にして、ゲツセマネで祈られたことが記されています。マルコによる福音書で主イエスの祈りの言葉が記されているのはここだけです。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。十字架の苦しみを目前にして、主イエスは祈られるのです。この祈りの後、主イエスが逮捕されることになります。そのような時に、主イエスは、まさに父なる神の御心が行われることを祈っておられるのです。
ここから分かることは、主イエスは、神の御心を妨げようとする人間の思いと戦われる時に祈られたということです。主イエスを偶像としてしまおうとする人間の思いと直面する時、又、十字架の苦しみを前にして、ご自身の中にある人としての願いに直面する時、主イエスは一人祈られたのです。「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。主イエスの祈りはただひたすら神の御心がなされることを求める祈りなのです。
主イエスは、苦しむ人々を憐れむ思いを抱きながら、祈りの中で、真の救いのために、ご自身の道を進まれることを示されたのだと思います。そこには主イエスの祈りの中での闘いというべきものがあったのではないでしょうか。ここで主イエスが祈られた、「人里離れた所」とは「荒れ野」と同じ言葉が使われています。主イエスがサタンの誘惑に合われた所です。一方で、苦しむ人々の下に留まり癒したいという思いと、もう一方で、ご自身を求める人々を罪から救い出すという神によって定められた目的に歩むこととの間で苦しまれたのではないでしょうか。そして、祈りつつ、主イエスは、ご自身のことを理解せずに、自分を捜し求めてくるものの真の救いのために、人々がとどめようとする場所を去られるのです。自らが歩むべき道、神様の御心に従った歩みへと歩まれるのです。
主イエスについて祈りが言われているのは、三カ所だけであると申しました。祈りという言葉は出てきませんが、もう一カ所主イエスが父なる神に向かって祈られる箇所があります。主イエスが十字架に架けられる所です。十字架の上で主イエスは父なる神に叫ばれたというのです。主イエスの歩まれる道の最後のところ、主イエスが世に来られたことの目的地と言っても良いかもしれません。そこで、まさに、世を去る前に主イエスが神に叫ばれているのです。「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。父なる神の御心をひたすらに祈り求めた歩みが、なぜわたしを見捨てたのかとの叫びで終わるのです。皆自分の願望しか祈り求めない中で、誰よりも祈り、だれよりも神の御心を求めて歩まれた主イエスが、私たちのために苦しまれて、叫ばれる。この方の十字架の叫びを聞くとき、私たちは「なぜ主イエスは苦しまれるものを見捨てられたのか」等とは言えなくなる。神は不公平だとは言えなくなる。自分勝手な思いで祈り求める私たちの罪が、主イエスの十字架によって贖われているからです。
私たちは時に、苦しみや弱さの中で、主イエスを捜し求めます。しかし、私たちが捜し求めて祈る時にも、私たちは自分の思いから自由ではありません。そこでも又、偶像を作り上げてしまうものです。そして、私の願いは聞かれない、神に見捨てられたとの嘆きを発することがあるのです。そのような私たちの陰で、主イエスが一人、私たちのために祈っておられる。そのような私たちの救いのために祈りつつ、十字架への道を歩まれているのです。そして十字架の上で私たちの救いをなして下さっているのです。ですから、私たちは決して見捨てられているのではありません。私たちの自らの願望を叶えようとする祈りの背後で主イエスが神の御心を祈られているのです。そして、私たちが苦しみの叫びを上げる背後で、遙かに深い所で、私たちの罪のために、主イエス・キリストが十字架の上で叫ばれているのです。