花の日

神さまの子供

「神さまの子供」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; イザヤ書 第55章6-7節
・ 新約聖書; ルカによる福音書 第15章11-32節
・ 讃美歌 ; 6、194、470

 
神さまの家族
 今日は花の日の総員礼拝といって、大人も子供もみんな一緒に礼拝をしています。教会学校の皆さんは、普段の教会学校の礼拝とは時間も違うし、何よりもたくさんの大人の人たちが周りにいるのでびっくりしたり、緊張しているかもしれません。でも、安心してください。ここに集まっている人たちはみんな家族です。普通の家族とはちょっと違いますが、神さまの家族です。家族には、おじいちゃんおばあちゃん、お父さんお母さん、そして子供たちがいます。普段は別々に暮らしていても、お正月などにみんながそろってお食事をしたりすることがありますね。それと同じようなのが、今日の礼拝です。教会も、神さまの家族だから、ここには皆さんのおじいちゃんおばあちゃん、中にはひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんのような人から、皆さんの弟や妹にあたる赤ちゃんまで、いろいろな人たちがいるのです。私たちには、こんなにたくさんの家族がいるのです。それはすばらしいことだと思います。  神さまの家族と言いました。私たちは、神さまに呼び集められて、イエスさまを信じて家族になったのです。生まれた時から家族だったわけではありません。もともとは全然知らない赤の他人だったのが、イエスさまを信じて、イエス様と手をつないだことによって、イエス様のお父さんである神様の家族になったのです。だから、教会という家族には、ただ一人のお父さんがいます。それはイエスさまのお父さんである神さまです。私たちは皆、神さまというお父さんの子供なのです。ここには、皆さんのお父さんお母さんぐらいの年の人や、おじいちゃんおばあちゃんぐらいの人、ひいおじいちゃんひいおばあちゃんのような人もいますが、その人たちみんなが、神さまの子供なのです。だから、教会では、お年寄りから赤ちゃんまで、みんなを兄弟姉妹と言います。神さまというお父さんの下にたくさんの子供たちがいる、それが神さまの家族である教会なのです。

親はうるさい
 さてみんなのお家にはお父さんお母さんがいると思います。中には、片方しかいない、という人もいるでしょうし、両方ともいない、という人もいるかもしれない。そういう人でも、お父さんお母さんのように皆さんのお世話をしてくれている人がいると思います。皆さんは、お父さんお母さんやそれに当たる人のことをどう思っているでしょうか。お父さんお母さん大好き、という人も多いでしょう。そう思っている人はとても幸せです。今言ったように、片方しかいない人も、両方共いないという人も世の中にはいるのです。お父さんお母さんがいて、大好き、と思えるのは本当に幸せなことなのです。でも、どんなに大好き、と思っていても、時には、うるさいなあ、と思うこともあると思います。「ああしなさい、こうしなさい、あれはだめ、これはだめ」といろいろ言われたりすると、「もっとちゃんと勉強しなきゃだめじゃないか」とか、いろいろなことで怒られると、買って欲しいとおねだりしたものを、「だめ、我慢しなさい」なんて言われると、大好きだったはずのお父さんお母さんのことが大っ嫌いになってしまうことがあります。そしてだんだん中学生や高校生になってくると、親のことがますます疎ましくなってきます。このごろの中高生の言葉で言えば、「うざい」と思うようになります。「うぜーんだよ」などと言うようになります。年配の方々のために通訳しますと、これは「うるさくて疎ましい」という意味です。これはとてもきたない言葉です。こういう言葉を使っていると心が荒れていってしまいますから、皆さんにはぜひ使わないで欲しいと思います。でも、お父さんやお母さんのことがうるさい、ほっといてほしい、という気持ちになることは誰にでもあります。皆さんのお父さんお母さんにだって、ここに集まっている立派そうに見える大人の人たちにだってみんな、そういう時があったのです。みんなそういう時を通って、親とは違う自分という人間になっていくのです。だから、お父さんやお母さんに対してそういう気持ちになることは、決していけないことではありません。それでいろいろ苦しいことやつらいことが起ってきますけれども、大人になるために誰でもが通っていく道なのです。

家を飛び出した弟
 ところが私たちは、天のお父さんである神さまに対しても、同じことを思ってしまうことがあります。神様がお父さんである家族の中にいることが窮屈な、自由のない、自分が生き生きとできないことであるように思って、そこから飛び出したくなってしまうのです。さっき読まれたルカによる福音書の15章で、イエスさまはそういう人のお話をなさいました。二人の息子の弟の方が、「私が頂くことになっている財産の分け前をください」と言って、それをもらうと家を飛び出して好き勝手な生活を始めたのです。「私が頂くことになっている財産の分け前」というのは、お父さんが死んだらもらえるはずのもの、ということです。それを先にくれと言ったのですから、「もうお父さんなんて死んでしまったものと思う」ということです。この息子は、お父さんなんてもういなくていい、僕は自分の思い通りに、好きなようにやりたいのだ、と思って家を出て行ったのです。この世の中には、こうやって家を飛び出して独り立ちして立派にやっている人もいます。人間の親子なら、そういうことだってあるのです。けれどもこのお話は、神さまと私たちのことを言っているのです。このお父さんは神さまなのです。だからこの息子は、神さまというお父さんのもとを飛び出して、好き勝手に自分のやりたいようにしようとする私たちのことなのです。そしてこの息子は結局すべてを失って飢え死にしそうになります。それはこの息子が馬鹿だったからではありません。貰ったお金をもっと上手に使えばよかったのに、ということではないのです。神さまのもとから離れて、自分の好き勝手に歩もうとすると、私たちは必ずこのようになるのです。実際に食べ物がなくなって飢え死にしそうになることはないかもしれません。けっこう豊かにセレブな生活を送ることもできるかもしれません。でも、心が飢え死にしそうになるのです。「食べ物をくれる人はだれもいなかった」と16節にあります。心の空腹を満たしてくれるものがどこにも見つからない、誰もそれを与えてくれないのです。そうなると私たちは、本当に元気に、生き生きと生きることはできないのです。神さまのもとを飛び出してしまうと、私たちはそうなるのです。

不満な兄
 このお話にはもう一人の息子が出てきます。お兄さんです。このお兄さんはずっとお父さんの家にいて、畑の仕事を一生懸命していました。家を飛び出してしまった弟と比べると、とてもまじめな、立派な息子です。でも実はこのお兄さんも、本当に元気に、生き生きと生きてはいません。そのことは29節の、「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか」という言葉から分かります。彼は実は心の中でお父さんに対していつも不満を抱いているのです。表向きは立派な息子のようにしていますが、心の中では、神さまの家族であることを喜んでいないのです。家を飛び出して好きなことをしている弟がうらやましいのです。心の中にそういう不平不満をいつも持っているこのお兄さんも、心が飢え死にしそうになっていると言わなければならないでしょう。このお兄さんも、私たちの姿です。私たちは、この弟のように直接神さまに逆らって飛び出してしまうこともあるし、このお兄さんのように神さまのもとにいながら、心の中には不平不満がうずまいていて、そのために人に八つ当たりしてしまうこともあるのです。そしてどちらにしても、心が飢え死にしそうになるのです。満たされないのです。

父の愛
 イエスさまのこのお話は、この二人の息子たちを、お父さんである神さまが、いつも、心から愛していてくださる、ということを私たちに教えてくれます。飢え死にしそうになって、ぼろぼろの姿で帰ってきた弟を、お父さんは、まだ遠くにいるのに見つけて、走り寄って喜んで迎えます。私たちがこのお父さんだったら、「ちゃんと反省するまで家には入れない」などと叱ったりするでしょうが、そういうことを一言も言わずに、大事な息子として受け入れてくれるのです。お兄さんはお父さんが弟を赦して迎え入れたことで拗ねてしまって家に入ろうとしません。するとお父さんはお兄さんのところにも出てきて、いっしょうけんめいなだめて、せっかく家族が無事に帰って来たのだから、一緒に喜ぼうと言うのです。天の父である神さまはこういう方なのだよ、私たちはこういう天の父である神さまのもとにいる家族なのだよ、とイエスさまはこのお話によって教えて下さっているのです。 イエスさまの十字架によって  私たちは、天のお父さんである神さまのもとにいることを窮屈に感じて、そこから飛び出そうとする者です。実際にそうしてしまうこともあるし、心の中にそういう思いがあって、そのために周りの人たちに八つ当たりしてしまうこともあります。神さまは、そういう私たちのために、ご自分の独り子であるイエスさまを遣わして下さいました。イエスさまが、私たちのために十字架にかかって苦しんで死んでくださったことによって、私たちを赦して下さったのです。お父さんが弟息子を赦して迎え入れたのも、お兄さんをなだめて、弟を受け入れて一緒に喜ぼうと言ったのも、すべてはイエスさまが十字架にかかって私たちのために死んで下さったことによるのです。このイエスさまと結びあうことによって、神さまのもとから飛び出してしまったために心が飢え死にしそうになっている私たちは、もう一度新しく、神さまの愛によって育まれる子供となることができるのです。教会は、独り子イエスさまが十字架にかかって死んで下さるほどに私たちを愛して下さっている、その神さまの愛によって一つとされている家族なのです。

神さまの招き
 私たちはみんな、神さまの家族です。でもそれは、正確に言うなら、神さまの家族へと招かれている、ということです。神さまは今、私たち一人一人に語りかけておられます。あなたは私の愛する子供だ、私があなたのことを命がけで愛していることを分かってほしい、そして、私のもとに、私と共にいることを喜ぶ者になってほしい。そう語りかけつつみ手を差し伸べておられるのです。私たちも、その神さまのみ手を、自分からも手を差し出してつかみたいのです。神さまの愛を受け止めて、神さまと握手をして、神さまと一緒に歩んでいきたいのです。それが、洗礼を受けて教会の一員になる、ということです。そのことによって、私たちは誰でも皆、神さまの子供、神さまの家族となることができるのです。

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