主日礼拝

十二弟子を選ぶ

「十二弟子を選ぶ」  伝道師 宍戸ハンナ

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第19章1―6節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第3章13―19節
・ 讃美歌:37、403、57

はじめに
 本日は共にマルコによる福音書第3章13節から19節までの御言葉に聞きたいと思います。本日の聖書の箇所は、主イエスが弟子たちの中から十二人を選ばれた物語です。ある日主イエスが山に登られ、御自分の御心のかなったものたちを呼び寄せられました。弟子たちの中から、これと思う者たちを呼び寄せ、十二人を任命して「使徒」という名を与えられたのです。主の召しによって、新しい神の民、キリストの教会の基礎が据えられました。今から136年前に設立された横浜指路教会もまた、主によって呼び寄せられた群れです。使徒たちの任命から始まった二千年の教会の歴史に、私たちの教会もまた繋がっているのです。

権威を持ったお方
 主イエスが弟子たちをお選びなる物語は、私たちに厳粛な思いを抱かせます。マルコによる福音書を記したマルコ自身もまた、本日の物語の直前の物語と対比するようにして、この出来事をくっきりと描いているように思われます。物語の舞台は、湖の岸辺から山へと移動をしています。湖のほとりでは、群衆が主イエスをめがけて押し寄せて来ました。ところが、この山での出来事は静かに進んで行きます。この場面では主イエスだけが権威をもって働いておられます。主イエスはただお一人の主権者として、権威を持ったお方として、御自分の御心のままに「使徒」をお立てになるのです。群衆は、自分の必要に応じて主イエスの元に押しかけます。けれども使徒と呼ばれる弟子たちは主イエスが、主イエスの御心の中でお決めになり、呼び寄せられたのです。ただお一人の主権者である、主イエスの一方的な召しによって立てられたのです。私たちにとって、この山上において主イエスが弟子たちを選ばれた出来事は決して無関係なことではありません。私たちも、この出来事にしっかりと繋がっているのです。私たちもまた一人ひとり、神に召された、神の民として主御自身の御業のために用いられるのです。主イエスの一方的な召し、招き、主の主権的な召しこそが、教会の原点であります。教会の原点としての主イエスの召しの出来事を改めて見ていきましょう。

選ばれる根拠
 13節「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。そこで十二人を任命し、使徒と名付けられた。」この箇所において、著者マルコは少し不器用とも言える言葉遣いをしております。この箇所は直訳的に申しますと「そして、彼は山に登る。そして、自分の欲する者を呼び寄せる。そして、彼らは彼のところに来た。そして、彼は十二人を造った。そして、彼らを使徒と名付けた。」となります。「そして」という言葉を何回も使っております。そして、そして、と接続詞を挟みながら、事実を淡々とつないでいくのです。その初めは、主イエスが山に登られ、そしてこれと思う人々を呼び寄せられたということです。主が「これと思う人々を呼び寄せられた。」主イエスがお望みに人を呼ばれたのです。この選びには、それ以外の根拠はありません。例えば、スポーツのチームを作ろうとするのであれば、確かに監督が「これ」と目を付けた人を選びます。そこでは、選ばれる人の側にも確かな根拠や理由が当然あります。優れた身体能力が評価されることもあるでしょう。チームであれば、チームワークの中でそれぞれに期待される働きがあるのです。バレーボールであれば上手にトスを上げる人が必要です。強力なスパイクを繰り出せる人を右に左に配置します。選手の能力や性格に基づいて、選別された強いチームが作られます。力のない人、力を十分に発揮できない人、怪我などの故障のある人はどんどん切り捨てられていきます。スポーツのチームはゲームに勝つという目的のために選び抜かれた集団なのです。これはスポーツの世界だけの話ではないでしょう。 十二人の任命  ところが、主イエスが弟子たちをお選びになるとき、その根拠はただ一方的に「主が望まれた」ということだけなのです。選ばれる者の側には何の理由も根拠もありません。何か難しい試験にパスしたとか、雄弁な人たちであったかとか、社会的に影響力の大きい人とか、特に信仰深い人たちであったということでもありません。そればかりか、何の共通点もないような、実に雑多な人たちがここで選ばれているのです。16節以下には、選ばれた者たちの名前が列挙されています。「ペトロ」と「アンデレ」「ヤコブ」と「ヨハネ」の兄弟は、一番初めに召しを受けた、ガリラヤ出身の漁師たちでした。後者には「雷の子」というあだ名がつけられたと言いますから、気性の激しい短気な人たちであったのかもしれません。「フィリポ」はギリシアの名前です。ギリシア語を話したようです。「バルトロマイ」はトロマイの息子、という意味ですが、どのような人物であったのか詳しくは分からないのです。「マタイ」は収税所で召された徴税人レビと同一人物とされます。「トマス」は後に主イエスの復活を疑ったことで知られるようになりました。そして東方に伝道をし、遠くインドまで赴いたという伝説があります。「アルファイの子ヤコブ」と「タダイ」についてはよく知られていません。タダイに至っては、他の福音書では「ヤコブの子ユダ」という別の名で記されています。「熱心党のシモン」は武力でローマ帝国に対抗しょうとした過激なグループの一員です。そして、「イスカリオテのユダ。」この人にはいつも、「イエスを裏切った」という言葉が続きます。しかし、この人もまた主イエスが「これ」と思われた者たちの一人であったのです。こうして、十二人の顔ぶれを見てみますと、仕事も違い、性格も違う人々です。おそらく、考え方、主イエスに対する想いなども違っていたことでしょう。とても一つのチームになり得ないような雑多な人たちです。彼らは、ただ主イエスによって選ばれたという一点において一つとされ、主イエスの元に集められたのです。 造られた共同体  主イエスはまさしく、御自身の御心のままに、「十二人を任命」されました。それぞれの見所や長所によって選ばれたのではなくて、主イエス御自身の権威に基づいて「十二人」が任命されたのです。ここで「任命」と訳されている言葉は元々「造る」という意味の言葉です。お互いに一致点を見つけることが難しいような者たちの集まりを、主イエスが「十二人」としてお造りになったのです。十二人を新しく創造されたということです。それはまさに、新しい創造です。主イエスは旧約の時代の神の民を構成していた十二の部族になぞらえるようにして、十二人をお造りになりました。新しい神の民となる教会の礎として、十二人を造られたのです。それは立てられた教会が全世界の救いの基となることの象徴です。私たちもまた、この神の民に連なる主の教会として、この時代に、この国において神の民に託された使命を担っております。私たち一人ひとりもまた、この教会の中へと招き入れられ、教会のひと枝として召されることによって、教会が受け継いでいる祝福と使命に共にあずかる者とされているのです。 そばに置くため  主イエスが十二人をお召しになったのは何のためだったのでしょうか。ここでは三つの目的が記されています。14節から15節です。「彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。」とあります。3つの事柄が言われております。第一に、主が彼らを御自分のそばに置くためです。第二に、派遣して宣教させるためです。そして、第三に、悪霊を追い出す権能を持たせるためです。この三つの目的の中で私たちが特に注目しなければならないのは、最初に挙げられた目的です。後の二つ、宣教することと、悪霊を追い出すことは、主イエス御自身もなさったことであり、主御自身の御業を引き継いでいくことだと言ってよいと思います。主イエスは弟子たちにご自身の御業を受け継がせるために、召されたということです。しかし、ふさわしい取り柄も能力もない弟子たちの群れが、一体どのようにして、主ご自身の御業を引き継いでいけるというのでしょうか。その秘密が、第一の目的を語る言葉の中にあります。主イエスは、何よりもまず、弟子たちをご自分のそばに置くためにお召しになったのです。私たちは、この世に遣わされるために召された、という時には分かりやすいかもしれません。私たちは宣教するために、伝道するために呼び出されたというのであれば分かりやすいと思います。教会は、神によって造られたものであるにもかかわらず、造り主に背を向け、造り主を無視したことによって、罪と死の力に捕らえられ、傷つき病んでいる世界の一部です。この世界から切り離され、あるいはこの世界を切り捨てて、ただ自分の魂の満足と平安だけを求めるところに留まることはできません。造られた世界全体の救いのため、全世界の救いの基となるために選ばれ、召されているのです。しかし、自分自身も弱さと欠けを身に負っている者たちは、まず何よりも先に、しっかりと主のそばに置いていただかなければならないのです。ある翻訳では「かれらを常に自分のそばに置くため」と訳されています。弟子たちが弟子たちとされた第1の目的は、いつも、どんな時でも、主が共にいて下さるような生活をさせることだったのです。それによって、まことの平安と生きる喜びを得るためです。

イエス・キリストこそ
 主イエスの召しを受けて、教会に連なる者とされている私たちは、主が私たちを、何よりもまずご自分のそばに置くために召されたのだということを、しっかりと心に刻みたいと思います。主のそばに置かれることこそ、私たちが召された召しの全体を支え、また召されて生きる私たちの歩みを決定的に方向付ける大事な原点なのです。主のそばに置かれるということがなければ、遣わされて宣教することも、悪霊を追い出すことも不可能となります。主の召しを受けて、主のそばに置かれる、ということの中で初めて明らかになるのです。私たちが主の召しを受け、遣わされて語るべき言葉は、私たちと社会の必要性によって決定されるのではありません。ただ、主イエス・キリストのそばに置かれ、主イエス・キリストに目を注ぐことの中で、宣べ伝えるべき救いの言葉を与えられるのです。なぜなら、主イエス・キリストこそは、この世界と私たちが抱えているさまざまな問題に対する、神からの根本的な答えだからです。主イエス・キリストこそは、神のもとから迷い出てしまった人間が、再び神のもとに立ち帰り、生きることの意味を取り戻すためのただ一つの救いの道だからです。神の独り子イエス・キリストは私たちの罪のために十字架の上に死なれたこと、私たちが義とされて生きるために復活させられたことです。主のそばに置かれることによって、主の十字架と復活の目撃証人となるのです。この主イエス・キリストの十字架と復活を抜きにして、教会の語るべき言葉はありません。主イエスの弟子とは、何よりも主の復活の証人でありました。そして、今もそうです。主のそばに置かれ、救いの出来事を身近に見て、救いの言葉をしっかりと聞くことによって、遣わされる主の弟子として訓練され整えられるのです。

教会生活を通して
 主の召しにおいて、この世の知識や能力が問われることはありません。しかし、主イエス・キリストを知ることおいては、決していい加減であってはならないのです。ペトロもヨハネも、ガリラヤの漁師でした。しかし、主のそばに置かれ、主と共に過ごし、十字架と復活の主を知ったのです。それが証人としての弟子の姿であります。他のことは何も出来ないかもしれません。けれども、主のそばに置かれるという恵みだけは、決して、私たちから奪い取られてはならないのです。聖書の御言葉を通して、また聖餐の恵みを通して、主イエス・キリストを味わい知るのです。そのために、私たちは召され、主のそばに置かれ、主の恵みに養われて、遣わされます。主もまた私たちと共に働いてくださることを信じ、主の召しに応えたいと願います。
 キリストと共にいるということには、重要な意味があります。主イエスが、この人たちを御自分のみもとに置こうと、となさったのは教会をつくろうとされたのであります。キリストと共にいるということは、例えば、清い生活をするとか、いつも聖書を読むとか、愛の生活をするということよりも、もっと基本的で、具体的なものであります。それは、教会生活をする、ということです。具体的に言えば、礼拝に出ることです。私たちどもは、自分一人で祈って聖書を読めば、それで主と共なる生活が出来るわけではありません。主イエスがここで十二人を選ばれた。信仰生活が、常に教会生活の中で、神の民の一員となって営まれるようにと定められたことなのです。聖書は、「教会はキリストの体である」、と教えています。生涯共に礼拝生活をするということが、非常に具体的に言って、主と共なる人生を生きることなのです。

リストに加えられ
 何度も申しましたように、ここで選ばれた者たちは、何も特別な人々ではありません。ユダヤ中の学者を集めたわけでも、金持ちだけ集めたわけでも、人生経験の豊かな人たちばかりを集めたわけでもありません。ガリラヤの漁師たちです。或いは、人々から忌み嫌われていた徴税人です。そのただ一つの基準は、主イエス「御自身が」、彼ら一人一人をお望みになられた、ということです。それ以外に、選ばれた理由は何もないのです。 同じことは、わたしどもがクリスチャンとして選ばれる場合にも当てはまります。分かり易く言えば、自分にはそんな資格がないと思うのに、ダメな人間であると思うのに、選ばれた、ということなのです。逆に言えば、主が選ばれたのであれば、ダメであっても、何も心配する必要はないことになります。主が選んでくださったからです。 この十二人のリストの中には、後に主イエスのことを「知らない」と、3度も裏切ったペトロの名前が筆頭に挙げられています。主はペトロの性格的な欠点を、十分によくご存じでありながら、彼を選ばれたに違いありません。このリストの最後には、主を裏切ったイスカリオテのユダも入っています。ユダの名前が入っていたということは、それが父なる神の御意志であったのです。神様の人知を超えた選びとは、本当に不思議です。ともかく、そのユダのためにも、主は懸命に祈られたでありましょう。主はこの男がどこでどのように失敗し、御自分を裏切ることになるかを、よくよくご存じであられたはずです。このようにして、十二人の者が選ばれました。ただ一つのその基準は、イエス・キリストが「これと思う人々」を選ばれた。主イエスの御心にかなった者を召されたということです。キリストがお望みになったということだけです。宣教に遣わされることも、その人の力ではなく、キリストに押し出されるということです。この人を用いて、このような伝道の業にあたらせようと、お望みになったのは私たちではなく、キリストであるということです。主はその「使徒」たちのリストの中に、更にわたしども一人一人をもお加えくださいました。私たちが自分で考えて、自分にその資格があるとかないとかということを決めるのではないのです。そのような私たちが主の福音を宣べ伝え、ここに教会を建てるようにと召されたのです。私たちは二千年の教会の歴史の先端に立ち、新しい時代を切り開いていくのです。志を高く挙げ、主の弟子として、また遣わされた者として、主と共に、主の道を歩んでいくのです。

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