夕礼拝

神の自由

「神の自由」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第20章7節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第6章9節
・ 讃美歌 : 157、529

主のみ名を唱える
 「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」。これが、本日ご一緒に読む、十戒の第三の戒めです。主なる神様のお名前を唱える、ということについて語られています。神様のみ名を唱えてはならない、と言っているのではありません。「みだりに」つまり不適切に唱えてはならないと言われているのです。逆に言えば、神様のみ名を正しく適切に唱えつつ生きることを教えているのです。しかしこのことは私たちにはあまりピンと来ないのではないでしょうか。私たちは、神様を信じている、という意識はあっても、神様のみ名を唱えつつ生きているという感覚はあまり持っていません。例えば浄土真宗の人たちは、「南無阿弥陀仏」といつも唱えています。それは「阿弥陀仏」の名を唱えつつ生きているということで、その「唱名」つまり阿弥陀仏の名を唱えることが信仰の中心になっているわけです。しかし私たちは、主なる神様のみ名にしても、主イエス・キリストのみ名にしても、そういう意味で唱えることはしません。むしろ私たちは、そのように名前を唱えることよりも、信じて従っていくことの方が大事だ、と思っています。そうなると、「主の名を唱える」ことは私たちの信仰においてあまり重要な位置を持たないことになり、ということはこの第三の戒めも、あまり重要でない戒めとして読み過ごされてしまうことにもなります。けれども聖書において、主のみ名とそれを唱えることには、大変重要な、深い意味があるのです。私たちは先ずそのことを知らなければなりません。そこから始めないと、この第三の戒めを正しく受け止めることができないのです。

神の名こそが礼拝を可能にする
 先ず、この出エジプト記第20章の少し後の所、24節を見ていただきたいと思います。その後半にこうあります。「わたしの名の唱えられるすべての場所において、わたしはあなたに臨み、あなたを祝福する」。前半を読めば分かるように、これはイスラエルの民が犠牲をささげて神様を礼拝することについて語っている所ですが、礼拝とは、人間が神様のみ名を唱え、そこに神様が臨んで下さり、祝福を与えて下さる場だ、ということが語られています。礼拝とは、神様のみ名を唱えることなのです。そしてもう一つの箇所、列王記上第8章29節(542頁)をも見ていただきたいと思います。ここは、ソロモン王がエルサレムの神殿を建設し、それを神様に献げた時の祈りの言葉ですが、その29節にこうあります。「そして、夜も昼もこの神殿に、この所に御目を注いでください。ここはあなたが、『わたしの名をとどめる』と仰せになった所です。この所に向かって僕がささげる祈りを聞き届けてください」。神殿とは、民が神様を礼拝する場所ですが、そこでの礼拝が成り立つのは、神様がそこに「わたしの名をとどめる」と言って下さったからです。神様がそのみ名をとどめて下さるというのは、神様ご自身がそこに臨み、人間と出会い、祈りを聞き、祝福を与えて下さるということです。このように神様のみ名こそが、礼拝を、そして神と共に生きる信仰を可能にしているのです。

神の名を知ること
 それゆえに、神様のお名前を知ることは聖書において大変重要な意味を持っています。創世記第32章23節以下(56頁)にそのことを示す代表的な話があります。ここはアブラハムの孫であるヤコブがイスラエルという名前を神様から与えられた所ですが、ヤコブはここで何者かと格闘しています。その相手が神の使いであることを知った彼は30節で「どうか、あなたのお名前を教えてください」と言っています。神様の使い、天使の名を知ることによって、その祝福を手に入れることを願ったのです。それに対して天使は「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、その場でヤコブを祝福した、とあります。名前は知らせなかったけれども祝福を与えてくれたのです。このように、神様の、あるいは天使の名前を知ることと、その祝福を得ることは密接に結びついています。これと似たことを私たちは出エジプト記の第3章13節で読みました。主なる神様がモーセに出会い、イスラエルの民を奴隷の苦しみから救うために彼をエジプトへと遣わす、とおっしゃった時、モーセは神様のお名前を尋ねたのです。それは、自分を遣わした神をイスラエルの民に紹介する時にお名前が分からないと不便だ、ということではありません。イスラエルの民をエジプトの奴隷状態から解放するという重大で困難な使命を行なうために、モーセは神様のお名前を知ることを願ったのです。お名前を知り、それを唱えることによってこそ、神様が共にいて下さり、その力を受けることができるからです。そのモーセの求めに対して神様は14節でこうお答えになりました。「わたしはある。わたしはあるという者だ」。神様がモーセにお示しになった名前は、「わたしはある」だったのです。これはしかしいわゆる「名前」とは違います。むしろこれは神様の宣言のみ言葉です。これをもう少し説明的に訳すと、「わたしは自分があろうとするものとしてある」となります。そこに込められている意味は、神様はご自分のあり方、お働きをあくまでもご自分の意志によってお決めになるのであって、決して人間によって動かされたり、人間の思い通りに利用されたりはしない、ということです。つまりそれは神様の自由の宣言なのです。ヤコブにしてもモーセにしても、神様のお名前を知ることによって、祝福を受け、その力をいただき、それによって自分の歩みを確かにしたいと願いました。しかし神様は、ヤコブに対しては、お名前を示すことを拒み、祝福のみをお与えになりました。モーセに対しては、お名前をお示しになりましたが、それは人間が自分のために利用することを拒否する、神様の自由を宣言するお名前でした。ここに、「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という第三の戒めの意味が最もよく示されていると言うことができます。主の名を「みだりに」唱えるというのは、それを自分のために、自分の願いや思いを実現するために利用しようとすることです。そのようにして、神様ご自身を、人間の道具にしてしまうことです。第三の戒めは、このことを禁じており、神様の自由を守ろうとしているのです。この点において、この戒めは第二の戒めとつながります。第二の戒めは「あなたはいかなる像も造ってはならない」でしたが、先月そこを読んだ時に申しましたように、そこの原文には「自分のために」という言葉があるのです。人間が神の像、偶像を造ろうとするのは、「自分のため」の神を得たいからです。自分の願いを叶えてくれる、自分に都合のよい神、つまり人間の奴隷である神、それが偶像です。「主の名をみだりに唱える」ことも、同じように神様のお名前を、その力を、自分のために利用しようとすることです。第二、第三の戒めは共通して、神様を人間の奴隷にしてしまおうとする人間の思いから、神様の自由を守ろうとしているのです。

主の名をみだりに唱える罪
 このことに気付くならば、この第三の戒めが、私たちの信仰の歩みにおいてあまり重要な位置を持たない、などとはとても言えなくなります。むしろ私たちは日々、主の名をみだりに唱えることへの誘惑の中にある、いや、すでに主の名をみだりに唱えつつ歩んでいると言わなければならないのではないでしょうか。神様を信じていると言い、そういうつもりでいながら、そこで私たちが実際にしていることは、神様のみ心に従うこと、つまりみ言葉によって自分自身を変えられ、正されること、それを「悔い改め」と言うわけですが、そういうことではなくて、自分の気持ちに沿う、自分を応援してくれるようなみ言葉のみを受け入れ、耳障りなことには耳を塞ぎ、つまり悔い改めを拒み、自分の思いを遂げるための手助けをのみ神様に求めていく、つまり神様を自分に従わせ、自分のために利用ようとしていることがいかに多いことでしょうか。そのような思いによって神様のみ名を賛美したり、祈ったりすることは、み名をみだりに唱えることなのです。いや別に神様を利用しようなどとは思っていない、神様に従って生きようとしているのだ、と思うかもしれません。しかし人間はずるいもので、神様のみ心の中の、自分の思いに合う部分だけを受け止め、それにのみ従って他のことは無視する、ということがあります。それは形の上では神様に逆らっているわけではありません。確かにみ心に従っているのです。しかし神様は他のことをも求めておられます。そのみ心には全く従おうとせずに、自分の気に入ったことのみに従うのだとしたら、それはやはり神様のみ心ではなくて自分の思いを主としているのであって、その自分の思いの隠れ蓑として神様を利用していることになります。例えば具体的には、神様は私たちに、礼拝をすることを求めておられます。主の日の礼拝を守ることは、私たちの信仰生活において最も大事なことです。けれども、神様は、その礼拝と共に、そこで共に礼拝している兄弟姉妹との交わりに生きることをも私たちに求めておられるのです。キリストの体である教会の一員となり、他の人々と共にキリストの体を築いていくことも、私たちの信仰生活の大事な要素なのです。ですから、礼拝でみ言葉を聴くことは喜んでするけれども、他の人々との交わりはめんどうくさいからいやだ、というのは、実は神様のみ心よりも自分の思いを主にしているのであって、そのようにしてなされる礼拝は「み名をみだりに唱える」ものとなってしまっているのです。これは一つの例えですが、これと似たことを私たちはいろいろな場面でしているのではないでしょうか。私たちは、主の名をみだりに唱え、神様のみ名を汚してばかりいる罪人なのです。

み名のために行動する神
 第三の戒めは、「みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない」と警告しています。神様は、ご自分の名がみだりに唱えられ、汚されることをお怒りになります。昔のイスラエルの民もその神様の怒りによる罰を受けました。十戒を与えられていたにもかかわらず、偶像を拝むようになり、主なる神様のみ名を唱えながらそれを自分の都合に合わせて利用してしまったイスラエルの民は、神様の怒りによって国を滅ぼされ、バビロンに捕囚として連れ去られてしまったのです。しかし事はこの神様の罰としての捕囚で終りではありませんでした。そこで終わってしまったのでは、神様のみ名は汚されたままなのです。神様はご自分のみ名のために新たな行動を起されます。そのことが、エゼキエル書第36章22、23節に語られています(1356頁)。「それゆえ、イスラエルの家に言いなさい。主なる神はこう言われる。イスラエルの家よ、わたしはお前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う。わたしは、お前たちが国々で汚したため、彼らの間で汚されたわが大いなる名を聖なるものとする。わたしが彼らの目の前で、お前たちを通して聖なるものとされるとき、諸国民は、わたしが主であることを知るようになる、と主なる神は言われる」。主なる神様は、イスラエルの人々によって汚されたご自分の名を聖なるものとするために行動を起し、諸国の人々に「わたしが主である」ことをお示しになるのです。その行動とは、イスラエルの人々を、バビロンにおける捕囚から解放し、救い出すということです。主のみ名を汚した彼らの罪を赦し、もう一度神様の民として結集して下さるという恵みによって、神様はご自分のみ名を聖なるものとなさるのです。

救いのみ業がみ名の栄光を現す
 このエゼキエル書に記されているバビロンからの解放のみ業は、神様がご自身のみ名を聖なるものとし、その栄光を現されるためになさるさらに決定的なみ業を指し示しています。今度は新約聖書、ヨハネによる福音書の第12章23節以下(192頁)を読みたいと思います。その23、24節にこのようにあります。「イエスはこうお答えになった。『人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ』」。これは、主イエスがこれから進んで行こうとしておられる十字架の死を意識したお言葉です。主イエスは一粒の麦として、地に落ちて死のうとしておられるのです。そのことによってこそ、神様の救いの実りが生じるのだと言っておられるのです。そのことを意識しつつ、27節以下で主イエスはこう語っておられます。「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください」。地に落ちて死ぬこと、十字架の死は、主イエスにとっても、「父よ、わたしをこの時から救ってください」と言いたくなるような大きな苦しみです。しかし主イエスは、「わたしはまさにこの時のために来たのだ」と言っておられます。人間の罪を全て背負って、身代わりとなって十字架にかかって死ぬことによって神様による赦しを実現し、新しい神の民をご自分のもとに結集するために、主イエスはこの世に来られたのです。そのご自身の使命を自覚しつつ主イエスは、「父よ、御名の栄光を現してください」とおっしゃいました。するとそれに応えて父なる神様が天から、「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう」と言われたのです。その栄光とは御名の栄光です。主イエスの十字架の苦しみと死によって実現する私たちの罪の赦し、その救いのみ業においてこそ、人間の罪によって汚された神様のみ名の栄光が再び現され、み名が聖なるものとされ、神様の民が新しく結集されるのです。私たちは、神様のみ名をみだりに唱え、それを汚す罪を繰り返しています。しかしその私たちの罪の全てが、主イエス・キリストの十字架の死によって赦されているのです。主なる神様はこの主イエスの十字架の死と復活による私たちの救いのみ業によって、ご自身のみ名を聖なるものとし、その栄光を現して下さっているのです。

神の自由と人間の自由
 エゼキエル書が預言し、主イエスの十字架と復活によって実現したように、神様は私たちの罪を赦し、救いを与えて下さることによって、ご自身のみ名を聖なるものとされました。つまり、神様のみ名が聖なるものとされ、崇められ、正しく唱えられることにこそ、私たちの救いがあるのです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めは、従って、神様のための、神様の自由を侵害しないための戒めであると同時に、それは実は私たちが、与えられている救いの中にしっかり留まって生きるための戒めでもあるのです。繰り返しお話ししているように、十戒は2節の神様の宣言から始まっています。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。エジプトの奴隷状態からの解放という救いの恵みが、主なる神様によって既に与えられているのです。その解放、自由を与えて下さった主なる神様をこそ「あなたの神」として、その主の名を正しく唱え、敬い、従っていくことによってこそ、私たちはこの救いの神の恵みの中で生きることができます。そこにこそ、私たちが罪の奴隷状態から解放されて、本当に自由に生きる道があるのです。十戒は、「自由の道しるべ」として与えられているということを前回も申しました。この第三の戒めも同じです。神の自由を守ることを命じているこの戒めに従うことによってこそ、私たちも、本当の自由に生きることができるのです。逆に、主の名をみだりに唱え、つまり神様を自分のために利用し、自分の思いに従わせていこうとするところでは、私たちはいつまでたっても罪の奴隷のままです。そしてそこでは、自分の思いを第一とする人間どうしの争い、戦いが泥沼のように続いていくのです。その典型が、宗教を大義名分とした戦争、宗教紛争です。それらの対立、争いの背景には、様々な問題があって、決して宗教の問題、信仰の違いのみによって起っているわけではないのですが、しかし戦いの大義名分として信仰が、神様が持ち出されます。それは人間が神様の名を自分の主義主張のために利用しているのであって、まさに神様のみ名がみだりに唱えられているのです。「あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない」という戒めを本当に聞き、受け止めるならば、少なくとも殺し合いを信仰によって正当化するようなことはなくなっていくはずなのです。

み名をあがめさせたまえ
 さて本日は共に読まれる新約聖書の箇所として、マタイによる福音書第6章9節を選びました。主イエスが弟子たちに「こう祈りなさい」とお教えになった「主の祈り」の最初の所です。「主の祈り」は、「天におられるわたしたちの父よ」という呼びかけで始まり、それに続く第一の祈り求めは「御名があがめられますように」です。神様のみ名があがめられ、聖なるものとされることを、先ず最初に祈り求めなさいと主イエスは教えて下さったのです。これは、十戒の第三の戒めの裏返しです。つまり、「主の名をみだりに唱えてはならない」というのは、裏返して言えば、「主のみ名があがめられることを祈り求める」ということなのです。ですから、第三の戒めを守って生きるというのは、主の祈りを祈りつつ生きることです。十戒は、「~してはならない」という言い方から、禁止の命令として受け取られがちです。本当は、文法的にもそういう意味ではないのだ、ということを前に申しましたが、そのことはさておき、イメージとしてどうしても、「してはいけないことのリスト」のように受け取られがちです。だから、これを大事にしようとすると、「こういうことはしてもよいのだろうか、これは本当はしてはいけないことなのではないだろうか」などと、違反を恐れてびくびくしながら生きることになるのではないか、と思ってしまいます。けれどもそうではないのです。第三の戒めを大事にして生きる私たちは、「ねがわくば、み名をあがめさせたまえ」と祈りつつ生きるのです。それは、神様ご自身が、み名を聖なるものとし、その栄光を現して下さることを祈り求めていくということです。なぜならそこにこそ、私たちの救いがあるからです。神様は独り子イエス・キリストによって、その十字架と復活によって、私たちの罪を赦し、神の子として下さり、主イエスのもとで生きる新しい神の民として下さいました。この救いのみ業によって、ご自身のみ名の栄光を現して下さったのです。この救いにあずかった私たちは、主イエス・キリストとその父なる神様のみ名を感謝をもって呼び、そのみ名を賛美し、あがめつつ、主イエスによって示された神様の恵みのみ心に従って歩むのです。つまり、主の名を正しく、適切に唱えつつ生きるのです。それは違反を恐れてびくびくしながら生きるような歩みではなくて、心から喜んで神様を礼拝しつつ、自由にのびのびと、神様と隣人とに仕えていく生活です。この第三の戒めも含めて、十戒はそのような積極的な歩みを私たちに与えてくれる神様のみ言葉なのです。

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