主日礼拝

欠乏を補い合う一つの体

「欠乏を補い合う一つの体」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:出エジプト記第16章13-18節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二第8章8-15節
・ 讃美歌:208、51、390

コリントの教会は、エルサレム教会に献金をしようとしていました。 去年から他の教会に先駆けて、その献 金をしようと動き出してもいました。 コリントの教会の人は、エルサレム教会への献金を自ら始めていたので すが、全然それは進んでいなかった。彼らは、経済的に豊かでした。そして経済的な面だけでなく、神様から たくさんの恵みを受けていました。8章7節で「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちか ら受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」とパウ ロは、コリントの教会はすべての面で豊かであったと述べています。そのコリントの人々が、エルサレム教会 へ献金ができていないという現実は、受けた恵みを信仰の兄弟姉妹に、隣人や貧しい人たちに受け渡すことが できておらず、自分たちの内に恵みを溜め込んでしまっていたという事実を表していました。その豊かに受け ている恵みを、自分の内から、流し出し、分け合いなさいと、パウロはコリントの教会の人々に告げていまし た。先週わたしたちも、この恵みを受け流すこと、そして、自分が貧しくなり、貧しくなることで主の恵みを いっそう豊かに味わい、他者に恵みを受け渡し、貧しいようですが、多くの人を富ませ、悲しんでいるようで 、常に喜ぶことができるだということを、御言葉として受けました。
本日の箇所で、パウロは、そのようなコリント教会の人々が、なぜ今、豊かになっているのかということ、 つまり「豊かさの根拠」を再確認させようとしています。本日、神様は、わたしたちにも、なぜ、わたしたち が恵みが与えられたのか、なぜ豊かにされているのか、なぜ、今もなお恵みによって支えられているのか、そ の根拠を、もう一度、この礼拝において伝えようとされています。本日の説教題は8章の10~15節から聞こえて くるメッセージをもとに「欠乏を補い合う一つの体」としました。しかし、正直な所、この説教の準備をして いる上で、どうしても9節の恵みの御言葉が、わたしを捕らえ、それ以外に目を向けさせないほどに、輝いてい たので、本日は9節のみに集中して、説教をさせて頂きます。また次回、10節以下を共に聞いていきたいと思い ます。説教題を付け直すことができませんが、できたとしたら本日の説教題は「わたしのために貧しくなられた 」となっていました。ではその9節をじっくりと、もう一度聞いてみましょう。
「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は豊かであったのに、 あなたがたのために貧しくなられた。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためだったので す。」
パウロは、簡潔に、コリントの人々、そしてわたしたちが、今、豊かにされているのは、「イエス様が貧しく なられたからだ」と言っています。パウロは、「イエス様はもともと豊かであったのに、わたしたちのために 貧しくなられた」と語っています。9節の半ばに「主は豊かであった」とあります。イエス様は無限に富んでお られ、永遠に富んでおられました。わたしたちが「主は豊かであった」という言葉聞いて、神様の豊かさを想 像しますが、人間の想像力では、神であられるイエス様がどれほど富んでおられたかを想像することもでませ ん。すべてを造られた方が、すべてをこの世界、宇宙のすべてを所有されています。わたしたちは、宇宙すら 、その全容をしっておりません。ですから、その宇宙も所有されており、それを超えるものも持たれているイ エス様の豊かさを、わたしたちが確認も、認識も、想像もできません。わたしたちは想像もすることできない ほどに、イエス様は、豊かであられるのです。
わたしたちが今この9節の御言葉を聞いて、知らされたのはイエス様がそれほどまでに富んでおられたのに 、「貧しくなられ」たということです。イエス様が貧しくなられたということは、イエス様のこの地での歩み を見てみれば、思い起こされます。イエス様は、神であったのに、人となられ、わたしたちが幼子であったと きと同じように布でくるまれました。イエス様、想像もできないほどに富んでおられたのに、人々が拒絶する ために、馬小屋で生まれなくてはなりませんでした。イエス様は、貧しいナザレの大工の息子となられました 。貧しくなられたことで、公の生涯に入ったときにも、狐には穴があり、空の鳥には巣があったのに、イエス 様には枕する所もありませんでした。イエス様は、シカルの井戸の側に座り、ひとりの貧しい女性に、「わた しに水を飲ませてください」と求めねばならないほどでした。イエス様は、この世を歩む時に、疲れと飢えと 渇きを味わわれました。そして、イエス様が生きれば生きるほど、イエス様の貧しさは厳しくなっていきまし た。そしてついに、イエス様が、最も慰めと励ましを必要とするときに、弟子もなく、友もなく、一人取り残 されました。人々との関係もなくなりました。イエス様が法廷でいわれのない罪を問われているのに、とりな す者はひとりもおりませんでした。自分を助ける人は、誰もいませんでした。その場の全員がイエス様を死刑 にしようと決意していました。その後、イエス様は着る服も奪われ、裸にされて、殺されるために連れ出され ていきました。このようにイエス様の味わわれた貧しさは、わたしたちがこの世で味わう貧しさのどの貧しさ とも比べることができるものではありません。さらに、イエス様は、単に目に見えることだけで貧しくなられ ただけでなく、見えない内的なものも貧しくなられておりました。イエス様は、私たちの罪を負うために、ご 自分の父から与えられた栄光を失わなくてはなりませんでした。お持ちだった一切の名声を無にして、嘲りと 恥辱の見世物となられました。
それは私たちの愚かな罪がイエス様に負わされたからです。だから、わたしたちは、その、貧しくなられた 十字架上の主を見つめなくてはなりません。その多くの傷に注目しなければなりません。その最後の叫びを聞 かなくてはなりません。それはわたしたちのために、わたしたちのせいで起こったからです。その究極のみじ めさの光景を凝視する時、わたしたちは思い出すのです。「主は豊かであったのに、これほど貧しくなられた 」。
「主は豊かであったのに、あなたがたのために貧しくなられた。」「わたしたちのために貧しくなられた」 今こそ、わたしたちひとりひとりが、「私のために、私への愛ゆえに、イエス様は天にある御座を離れ、ゴル ゴダの丘に立てられた十字架上で死んでくださったのだ」ということを思い起こしたいのです。イエス様はわ たしを愛して、わたしのためにご自分をお捨てになったのです。わたしのためにこそ、ゲツセマネでイエス様 の額から血のような汗が流されたのです。わたしのためにこそ、イエス様の両肩はむき出しにされ、残虐な鞭 打ちを受けられたのです。わたしのためにこそ、茨の冠をかぶせられ、兵士たちに殴られ、傷ついた御顔はい やというほど、彼らのつばで覆われたのです。わたしのためにこそ、栄光の主が「さげすまれ、人々からのけ 者にされた」のです。それは、すべてはわたしたちのため、わたしたち一人ひとりのためであったのです。わ たしのために主が貧しくなられたことを思うと、わたしは、十字架の元に立ってこう言いたい思いが溢れ出ま した。「この苦しみはみな私のためだった。また、あれほどの愛と優しさに満ちたお顔が汚され、傷つけられ たのは私のためだった。この尊い両手、また、この残虐に締めつけられた両足から流れ出る血、脇腹から流れ 出る血と水、これらは私のためだった。この喉、何にもまして、イエス様を苦悩させ、『我が神我が神、なぜ わたしをお見捨てなったのですか』と叫ばれたこの喉が渇いているのは、わたしのせいであった」、とわたし は叫びたい。わたしたちは、聖霊なる神様に、「これらはみな私のためだったのだ」ということを、わたした ちの心に書き記してくださるように、またそれを実感できるように祈りたいのです。
今、わたしたちもう一度、イエス様がわたしたちのために貧しくなられたのは、わたしたちが「豊かにされ るため」だったことを今一度、思い出したい。わたしは、たった今、泣きたい気分になりました。イエス様が わたしのためにいかに貧しくなられたかをわたしは聞いたからです。しかし、神様は、わたしたちは、いかに わたしたちが富んでいるかを思い出せようとなさっておられます。わたしたちは、わたしたちに与えられたも ののゆえに富んでいます。イエス様が持たれていたもの、行なわれたことは、みなわたしたちのもので、そのイ エス様の義はわたしたちに与えられました。信仰者であるわたしたちは、すでにその義をまとっています。わ たしたちは美しい白い衣を着せられています。それは、わたしたちのどのような汚れも、罪をも覆う、真っ白 な愛の衣です。その主の愛の贖罪の衣は今、わたしたちのものなのです。イエス様の尊い血はわたしたちの咎 をすべて洗い流し、今わたしたちは雪よりも白くなり、主の目には、しわもしみのない者に映っています。そ のようなとてつもなく大きな、恵みと富をわたしたちは与えられています。
わたしたちは、わたしたちの内側にも富を与えられました。それはキリストのいのちです。キリストの命が 、わたしたちの内にあります。聖霊なる神様が、わたしたちの中で働いて、キリストのいのちがわたしたちの 内側にあるようにしてくださり、わたしたちは、死んでも生きるものとなっています。わたしたちの内に、死に 勝たれたイエス様が生きておられるので、わたしたちも死に負けることはありません。そのような、永遠の命 の恵み、復活の恵みをわたしたちは、内に頂いています。わたしたちは、日々、平凡な服装をしていて、心も 貧しく、財布の中身も、寂しいものかもしれません。しかし、世界のどの大富豪も、わたしたちほど富んでは いません。わたしたちは、イエス様の義と命、復活、永遠の命の恵みを与えられています。世界の富豪たちが 、自分の命が終わらないように、命が永らえるように、そのすべてをはたいても手に入れたいと思っている、 その永遠の命と復活を、今わたしたちは、すでに与えられているのです。わたしたちは豊かにされています。 今も、わたしたちの髪の毛一本一本をも大切にしてくださる父なる神様が、わたしたちを恵みによって、日々 支えてくださっています。すべてを所有されている方から、支えられています。すべてを惜しみなく与えよう とされている方に支えられています。これはどれほど豊かなことでしょうか。わたしたちは今自分がいかに豊か であるか、また、これから先も、死の先も、いかに豊かであるかを知ったとき、先ほど、後悔と悲しみにくれ ていたわたしたちの心が歌いだすのです。主はわたしたちを愛していてくださり、わたしたちがいつも喜んで いて欲しいと、願ってくださっているのです。だから、主はわたしたちを富ませてくださっているのです。

パウロは9節の最初に書きました。「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っています 。」わたしたちはすでに、イエス様が富んでおられたこと、貧しくなられたこと、わたしをご自分の貧しさに よって豊かにしておられることを聞きました。わたしたちは、イエス様の恵みを知っています。何度も、それ を礼拝においても、日々の生活においても、確かにされてきました。「その恵みにこそ、ただ恵みにこそ信頼 して生きる」ことも、何度も、確認してきました。今わたしたちは、恵みを与えられていて、イエス様を信頼 している。しかし、わたしたちは、恵みを知っているけれども、本当にしっかりと主を信頼しているでしょう か。わたしたちは、日本の経済の先行きを思ったり、自分の財布や通帳を眺めたりして、不安になることはな いでしょうか。わたしたち、家庭内でのいざこざ、人間関係でのいざこざで思い悩んではいないでしょうか。 その不安を、主にゆだねているでしょうか。本当にお任せしているでしょうか。
わたしたちが、イエス様を信頼していない姿というのは、ある夫婦関係の例えによって、示されます。ある 夫婦がいたとしましょう。その妻は、夫といつも共にいるけれども、「私はこのことが怖い、将来を思うと不 安になる」といつも、一人でつぶやいている。そして自分でその不安に対して対策してみたり、怖気づいたり している。その夫は妻にこう言います。「僕に相談しないの?君は僕のことを信頼していないのかい?僕は君 に、十分に僕の愛を示してこなかったかい?」。もし、わたしの家庭で、わたしがこう妻にいったのであれば、 鼻で笑われて、その話しはおしまいになるかもしれませんが、わたしたちの夫であるイエス様が、わたしたち にこのように言ってこられたとしたら、わたしたちは目を覚まされずにはおられません。夫であるイエス様が 、自分の花嫁に対して示してきた愛の証しは、完全ものです。その愛の証しは、私たちが主を完全に、絶えず 、何があろうと動揺することなく信頼するために示されたものです。その愛の証しは、「なにがあっても、あ なたを離しません」ということ、絶えず共にいてくださることを証ししています。わたしたちは、共にいてく ださるイエス様に顔を向け本当に信頼する時、わたしたちは、自分で自分の重荷をかかえこまず、イエス様に 祈り相談し、持って行くことができるのです。そして主を本当信頼する時、思い煩わず、苛立たず、決して希 望を失わないのです。イエス様が私たちのために貧しくなり、私たちを富ませてくださったのですから、最低 限、私たちに行なえるのは、その主を信頼することです。
神様が、わたしたちに願っておられるのは、どこにいようとイエス様を信頼して、その信頼しているイエス 様を他の人々に証しすることです。パウロは、9節の最初で「あなたがたは、わたしたちの主イエス・キリスト の恵みを知っています。」と堂々と語っています。わたしたちは、主の恵みを知っています。しかし、他の人 々はそれを知りません。わたしたちがそれを知らされたのは、それを他の人々に知らせることができるように なるためなのです。わたしたちは、今、この前の一週間の自分の生活を思い出してみたい。わたしたちは、先 週、一週間主イエス・キリストについて思っただろうか?思うだけでなく、だれかと話をしただろうか?どの ような恵みを受けたかということを、喜びをもって誰かに話しただろうか?わたしたちは、自分の中だけで、 その恵みや喜びが完結してしまってはいないでしょうか。わたしたちは恵みを自分たちの内に溜め込んで、メ タボになってはいないでしょうか。わたしたちは、自分が受けた恵みを兄弟姉妹に証しする時、その兄弟姉妹 はその恵みを自分のものとして受け取ることができるのです。逆に、兄弟姉妹から主の恵みの出来事を聞く時に 、わたしたちはその恵みを自分のものとして受けることができるのです。なぜならばわたしたち教会の兄弟姉 妹は、キリストの体として一つにつながっているからです。兄弟姉妹の受けた恵みは、わたしの恵み、わたし の受けた恵みは兄弟姉妹の恵みでもあるからです。だから、それを、自分のものだけにしていてはなりません 。わたしの受けた恵みは、わたしたちの群れの共有の財産だからです。だからこそ、わたしたちは、まずわた したちの群れの内で、自分が今受けている神様からの恵みを分かち合いたい。この説教もひとつの恵みです。 この御言葉を分かち合うことで、わたしたちは、主の深い、高い、広い、壮大な恵みを実感し、味わい、頂く ことができるのです。わたしたちは教会の兄弟姉妹以外に、その恵みの出来事、主の救いを証しするならば、 目の前にいる人が、その恵みを知り、それを受け止め与った時、わたしたちは、主の恵みがさらに多くの人に 拡げられている、ひとつである主の体が大きくなっていることを知ることができるのです。それは主のご支配の 拡がり、御国が近づいてきていることを、わたしたちがこの目で見ることなのです。わたしたちの待ち望んでい る終末が近づいてきていることを、主のみ顔をこの目でみる日が、主と本当に同じ食卓に座って食べ飲むこと のできる喜びの祝宴の時が近づいてきていることを実感できるのです。
本当はわたしたちのまわりには恵みがあふれているのです。それにわたしたちは与っていながら気づいていな かった。いま自分の顔を十字架上のイエス様に向けたとき、自分の顔を貧しくなられたイエス様に向けた時、 わたしたちの内も外も、そして隣人も、恵みで満たされていることをわたしたちは知るのです。わたしたちが これほどまでに豊かになったのは、イエス様が貧しくなってくださったことによってです。わたしたちがこれ ほど価値のあるものと見られているのは、イエス様があれほど低く引きずり降ろされたからです。わたしたち が満たされているのは、イエス様が渇きを覚えるほどに、空にされたからです。わたしたちが生きているのは イエス様が死なれたからです。わたしたちの所有するすべては、愛する父なる神様から、愛するイエス様を通 してわたしたちに与えられたのです。「イエス様は、わたしたちが富む者となるために自ら貧しくなられまし た。」主が、わたしたちのために、貧しくなられたことを知ったわたしたちがいま、ここにいるすべての人が、 この時からとこしえまで、主の恵みをわかちあい、宣べ伝えるものとなりますように。

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